ニュース写真を見てはワンコを感じ、偶然手にとった本を読んではワンコを感じる私は、傍からは、甚だ非科学的で迷信や幻想にとらわれた人間に見えるのかもしれないと考えていて、思い出した本がある。
「かのように」(森鴎外)
皇室が国家(神道)の中心として現在とは異なる重みをもっていた明治という時代に、学問としての歴史と(精神的支柱たる)神話との折り合いについて悩む、子爵の親子の葛藤を描いた小説である。
この小説などをもってして、森鴎外を穏健な保守と見做す向きもあれば、危険思想と紙一重だと見做す向きもある。
それは、「現在の教育を受ければ、神話を事実と受け留めることは出来ず、神話(当時としては天孫降臨伝説など)は史実たる歴史とは分けざるをえない」と書きながら、処世術として「(神話がある)かのように」振る舞うことを是とする二面性に起因していると思われる。
皇室の藩屏たらんと息子・秀麿を学習院からドイツ留学に送り出す子爵家の父は、歴史学者の息子の逡巡を深く理解し悩んでいる。
『今の教育を受けて神話と歴史とを一つにして考えていることは出来まい。世界がどうして出来て、どうして発展したか、人類がどうして出来て、どうして発展したかと云うことを、学問に手を出せば、どんな浅い学問の為方をしても、何かの端々で考えさせられる。そしてその考える事は、神話を事実として見させては置かない。神話と歴史とをはっきり考え分けると同時に、先祖その外の神霊の存在は疑問になって来るのである。そうなった前途には恐ろしい危険が横よこたわっていはすまいか。』
だが、学習院で学びドイツに留学した息子は、科学的視点として神話と歴史を分けることを当然のこととすると同時に、科学的例をあげて「かのように」考える効用を説く。
『そこで人間のあらゆる智識、あらゆる学問の根本を調べてみるのだね。一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのと云うものがある。どんなに細かくぽつんと打ったって点にはならない。どんなに細くすうっと引いたって線にはならない。どんなに好く削った板の縁ふちも線にはなっていない。角かども点にはなっていない。点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線があるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シィだね。自然科学はどうだ。物質と云うものでからが存在はしない。物質が元子から組み立てられていると云う。その元子も存在はしない。しかし物質があって、元子から組み立ててあるかのように考えなくては、元子量の勘定が出来ないから、化学は成り立たない。』
更には、客観的事実が極めて明確に示されるはずの数学や自然科学の分野ですら、「かのように」のうえに成立しているのだから、精神学は尚更だと説く。
『精神学の方面はどうだ。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志と云うものの存在しないのも、疾っくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。』
歴史学者の秀麿は、正確に歴史を書くとすれば神話を別にせざるをえないが、「かように」という思考(怪物)を便宜としてではなく、全面的に受け入れることで、心に葛藤はなく世間からも危険視されないと考えているのだ。
『かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。
人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心にしている。
昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈めたように、
僕はかのようにの前に敬虔に頭を屈める。
その尊敬の情は熱烈ではないが、澄み切った、純潔な感情なのだ。』
『道徳だってそうだ。義務が事実として証拠立てられるものでないと云うことだけ分かって、怪物扱い、幽霊扱いにするイブセンの芝居なんぞを見る度に、僕は憤懣に堪えない。破壊は免るべからざる破壊かも知れない。しかしその跡には果してなんにもないのか。手に取られない、微かなような外観のものではあるが、底にはかのようにが儼乎として存立している。人間は飽くまでも義務があるかのように行わなくてはならない。僕はそう行って行く積りだ。人間が猿から出来たと云うのは、あれは事実問題で、事実として証明しようと掛かっているのだから、ヒポテジスであって、かのようにではないが、進化の根本思想はやはりかのようにだ。生類は進化するかのようにしか考えられない。』
『僕は人間の前途に光明を見て進んで行く。祖先の霊があるかのように背後を顧みて、祖先崇拝をして、
義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。』
と主人公は高らかに宣言しながら続く言葉で、冷徹な現実を吐く。
『神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になって認めずにはいられないが、それを認めたのを手柄にして、神を涜けがす。義務を蹂躙する。そこに危険は始て生じる。』と。
「かのように」は著作権が失効しているため、盛大に引用させて頂いたが、明治の国家を理想とする体制が力を増している現在において、皇室の弥栄と皇太子御一家のお幸せを祈る私には、本書は何度でも読み返したい本であり、そのなかでも特に心に留めたい箇所を記しておいた。
ニュース写真を見てはワンコを感じ、偶然手に取った本を読んではワンコの意思が働いていると感じる私は、「ない」ものを「(ある)かのように」信じ込ませて精神の葛藤をなだめるというよりは、元より人智を超えた存在や物語を(神話ともいう)信じてもいる。
西行法師も詠っておられるではないか
何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる
神代の物語や神話を学問的にみて「事実ではない」との認識のもと「(ある)かのように」振る舞い、そのうえに「光明をみて進んでいく」というよりは、お伊勢さんに参れば、学問や神話はどうであれ「かたじけなさに」頭を垂れる自分がいる。
このような私であっても、いやこのような私だからこそ、「かのように」が行き過ぎる危険を感じずにはおれない、そのあたりについては、つづく
「かのように」(森鴎外)
皇室が国家(神道)の中心として現在とは異なる重みをもっていた明治という時代に、学問としての歴史と(精神的支柱たる)神話との折り合いについて悩む、子爵の親子の葛藤を描いた小説である。
この小説などをもってして、森鴎外を穏健な保守と見做す向きもあれば、危険思想と紙一重だと見做す向きもある。
それは、「現在の教育を受ければ、神話を事実と受け留めることは出来ず、神話(当時としては天孫降臨伝説など)は史実たる歴史とは分けざるをえない」と書きながら、処世術として「(神話がある)かのように」振る舞うことを是とする二面性に起因していると思われる。
皇室の藩屏たらんと息子・秀麿を学習院からドイツ留学に送り出す子爵家の父は、歴史学者の息子の逡巡を深く理解し悩んでいる。
『今の教育を受けて神話と歴史とを一つにして考えていることは出来まい。世界がどうして出来て、どうして発展したか、人類がどうして出来て、どうして発展したかと云うことを、学問に手を出せば、どんな浅い学問の為方をしても、何かの端々で考えさせられる。そしてその考える事は、神話を事実として見させては置かない。神話と歴史とをはっきり考え分けると同時に、先祖その外の神霊の存在は疑問になって来るのである。そうなった前途には恐ろしい危険が横よこたわっていはすまいか。』
だが、学習院で学びドイツに留学した息子は、科学的視点として神話と歴史を分けることを当然のこととすると同時に、科学的例をあげて「かのように」考える効用を説く。
『そこで人間のあらゆる智識、あらゆる学問の根本を調べてみるのだね。一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのと云うものがある。どんなに細かくぽつんと打ったって点にはならない。どんなに細くすうっと引いたって線にはならない。どんなに好く削った板の縁ふちも線にはなっていない。角かども点にはなっていない。点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線があるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シィだね。自然科学はどうだ。物質と云うものでからが存在はしない。物質が元子から組み立てられていると云う。その元子も存在はしない。しかし物質があって、元子から組み立ててあるかのように考えなくては、元子量の勘定が出来ないから、化学は成り立たない。』
更には、客観的事実が極めて明確に示されるはずの数学や自然科学の分野ですら、「かのように」のうえに成立しているのだから、精神学は尚更だと説く。
『精神学の方面はどうだ。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志と云うものの存在しないのも、疾っくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。』
歴史学者の秀麿は、正確に歴史を書くとすれば神話を別にせざるをえないが、「かように」という思考(怪物)を便宜としてではなく、全面的に受け入れることで、心に葛藤はなく世間からも危険視されないと考えているのだ。
『かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。
人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心にしている。
昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈めたように、
僕はかのようにの前に敬虔に頭を屈める。
その尊敬の情は熱烈ではないが、澄み切った、純潔な感情なのだ。』
『道徳だってそうだ。義務が事実として証拠立てられるものでないと云うことだけ分かって、怪物扱い、幽霊扱いにするイブセンの芝居なんぞを見る度に、僕は憤懣に堪えない。破壊は免るべからざる破壊かも知れない。しかしその跡には果してなんにもないのか。手に取られない、微かなような外観のものではあるが、底にはかのようにが儼乎として存立している。人間は飽くまでも義務があるかのように行わなくてはならない。僕はそう行って行く積りだ。人間が猿から出来たと云うのは、あれは事実問題で、事実として証明しようと掛かっているのだから、ヒポテジスであって、かのようにではないが、進化の根本思想はやはりかのようにだ。生類は進化するかのようにしか考えられない。』
『僕は人間の前途に光明を見て進んで行く。祖先の霊があるかのように背後を顧みて、祖先崇拝をして、
義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。』
と主人公は高らかに宣言しながら続く言葉で、冷徹な現実を吐く。
『神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になって認めずにはいられないが、それを認めたのを手柄にして、神を涜けがす。義務を蹂躙する。そこに危険は始て生じる。』と。
「かのように」は著作権が失効しているため、盛大に引用させて頂いたが、明治の国家を理想とする体制が力を増している現在において、皇室の弥栄と皇太子御一家のお幸せを祈る私には、本書は何度でも読み返したい本であり、そのなかでも特に心に留めたい箇所を記しておいた。
ニュース写真を見てはワンコを感じ、偶然手に取った本を読んではワンコの意思が働いていると感じる私は、「ない」ものを「(ある)かのように」信じ込ませて精神の葛藤をなだめるというよりは、元より人智を超えた存在や物語を(神話ともいう)信じてもいる。
西行法師も詠っておられるではないか
何事のおわしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる
神代の物語や神話を学問的にみて「事実ではない」との認識のもと「(ある)かのように」振る舞い、そのうえに「光明をみて進んでいく」というよりは、お伊勢さんに参れば、学問や神話はどうであれ「かたじけなさに」頭を垂れる自分がいる。
このような私であっても、いやこのような私だからこそ、「かのように」が行き過ぎる危険を感じずにはおれない、そのあたりについては、つづく