何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

大鯔 すたん、ぶびょう

2017-06-29 18:30:00 | 
「大鰡」より

本仲間から勧められた「大鮃」(藤原新也)にひっかけ、前回のタイトルを「大鰡(ボラ)」としたのは、本書のはじめに登場する精神科医の御託に反発を覚え、つい「大ぼら」と言いたくなったからだが、勿論それへの言い訳も考えてある。

猫マタギと言われるほど泥臭いことで知られる鰡を、子供の頃に大量に釣ったことがある。
持ち帰っても誰からも喜ばれなかった鰡を、庭のイチジクの根元に埋めたところ、翌年の秋のイチジクは、それまで食べたこともないほど甘く美味しいものとなったので、私にとっての’’ボラ’’は、トドのつまり(笑い)瓢箪から駒 的出世魚なのである。

前置きが長くなったが、このような思いをもって名付けた前回「大鰡」なので、本書の感想は理解の深度は兎も角(トドのつまり)なかなか良いものだった。

「失われた父性を取り戻すために父の故郷を訪ねよ」という精神科医の勧めに従い、スコットランド最北端に位置するオークニー諸島にやってきた主人公・太古は、そこで父性を取り戻させてくれる二人の老人マークとアランに出会う。
その設定と場面展開は、あまりに作為的だが、それを忘れさせるほど生き生きとした情景描写は、詩のようで魅力的だ。また、荒れ狂う嵐の後に美しい虹がかかる天気の移ろいが、太古の心模様の変遷を映しているところなど、露骨に作為的だと思いつつも「巧い」と唸らされるものがある。

ただ、「うまい」に「巧い」という字を当ててしまうところに、今日の題名が「すたん、ぶびょう」となってしまう理由があるが、まずは率直に感動した部分を記しておく。
太古が荒れ狂う嵐のただなかに初めて身を置き、太古自身 一つ成長したと感じるところから、クライマックスの幻想的な虹のもと体長3メートル200キロを超すような大鮃と遭遇し、太古が男性性を取り戻すまでの風景描写と含蓄ある言葉の数々。(『 』「大鮃」より)

初めて自然と対峙し逸る太古にかける木造船大工のアランの言葉は、印象的だ。
『外海に出ていくのもいいだろう。だが何もむやみに荒海に突っ込むだけが男じゃない。
 海が荒れたら引き返すんだ。それが本当の男というものさ。
 強さだけじゃダメだ。海に打ちのめされ、自分の弱さも知ってはじめて男になる。』

いよいよ父との思い出である大鮃’’釣り’’のため沖に船を進めようとしたとき、空にかかる虹を見てのマークの言葉は、ただ自然現象だけを指すのではないと思われ、その美しい描写とともに深く印象に残っている。
『虹は気象に何かが起こった後にできる過去の現象だ。
 虹を見落としちゃならない。
 どのあたりに虹がたつか、それは釣りにも繋がるんだ。
 漁師は前ばかりではなく、三百六十度すべてを見ていなけりゃならない。~中略~
 真昼の虹は希望であり、夜の虹は神の啓示だと。
(神の啓示とは?)・・・・大きな変化の兆し』

何より、「日本百名山」(深田久弥)にある『常念を見よ』という言葉を心に留めている私の印象に残ったのは、 大鮃釣りに悪戦苦闘している太古の耳にふと思い出された父の『海を見ろ』言葉だ。
「海を見ろ」と云う言葉に、『目の前の世界と交われ』の教えを見出す場面は、私自身考えさせられるとともに感動の場面だった。

にもかかわら この文章の題名が「すたん、ぶびょう」であるのは、本書が最後の最後まで「父性こそ神だ」という印象を残そうとしているからだ。
いや、いっそ「父親からのみ伝えられる超自我たる父性は神のごとく貴重で素晴らしい」と書ききっていれば、それは私の信条とは異なるとしても、終始一貫しているとして「すたん、ぶびょう」とはならないと思う。

だが本書には、父性あるいは男性性の一面が間違った方向に利用され、広く長く悲劇を生み出す様も書かれている。
太古はマークとアランにより父性を取り戻していくが、特に大きな役割を果たすことになるマークは、かつて自身も父の存在や関係性に悩んだことがある。
マークの父は第二次世界大戦で、民間人である少女を銃殺してしまった心の疵が、戦後長く癒えず苦しみ、それによる発作で家族は翻弄されることになる。
医師は、マークの父を「戦争の犠牲者だ」と言うが、マークはそうは思えなかったため途惑い苦しむ。
マークは語る。
『犠牲とは自分の身を捨てることによって何かの為になることですが、父の死(自殺)に何か意味があったかというと、何も意味はないのです。
それは戦争に意味がないということと同じです。意味のない世界に巻き込まれた人間は生きる意味を失います。考えてもみてください。ただ国家同士が争っているという、そのことだけで互いに憎しみも怒りもない普通の人間同士が殺し合いをする。これほど馬鹿げたことはありません。国家というものは時に人間以上に狂うのです。その狂ったものに支配された人間も狂わざるをえない』
『昔の漁師はこのように言いました。
海が暴れて人が遭難した時、死んだ者は海の生贄となって海の怒りはおさまり、元の平穏な海に戻るのだと。
しかし戦争というものは、何百万もの人の命を生贄のように食って世界は平穏になるかというとそうではなく、その余波は更に延々と他者の人生を蝕むのです』

かつて我が国も、尊い御存在の尊さを、父系由来の’’有難さ’’に見出し神だと崇め、神国・神風を信じた時代があった。
自国に自信と誇りを持つことは当然のことであるが、一方の性のみを有難がり神格化する思考は排他性につながり 最終的には争いの原因となるように思えてならない、そしてその傾向は今また強くなっている。

そのような時に、その行きつく先の悲劇を知りながら、「神とも云える超自我は父からしか受け継ぐことができない貴重なものだ」と書く目的は何なのか、今一つ釈然としないものが残ったのだ。

とは云うものの、視点を移せば別の味わいも感じられる。
本書は帯に「父性をもとめ」とあるし、物語が父性を求める旅で構成されているため、一見そればかりが強調されるが、隠れたテーマとして「老い」があると思われる。
数ページに一度は出てくる「男性性や父性」というテーマよりも、そこはかとなく漂う「老いの受容」の方が、底が深いと感じられた。
そう思いながら再度、一ページ目をめくると、作者も実はこれこそが伝えたかったのではないかと思われる文章が記されている。

『どうやら人の命には四季という名の血が脈打っているらしい。
 春は生まれてより少年期にいたる萌芽の季節。
 夏は青年期における開花の季節。
 秋は壮年期の季節。
 だがそれに続く冬季は、そののちふたたび春がやってくるわけではない。
 落葉の季節の彼方には死への扉が見える。
 「しかし死の扉の前に立つ老いの季節は絶望の季節ではありません。
 落葉もまた花と同じように美しいものです」』

平均寿命の四等分と、命の春夏秋冬が合致しない超高齢化社会に生きている私は、今どのあたりを彷徨っているのだろうか?

とても高尚なことが芳しい言葉で紡がれている本書だが、私にはそれを心底味わい表現する’’力’’がない。
それ故に、この記事のタイトルを「すたん、ぶびょう」とするものとする。

若さと女性パワーで世界一幸福な国へ

2017-06-27 19:00:55 | ニュース
「大鮃」(藤原新也)について書いていたが、是非とも記録しておきたいニュースが昨日26日にあったので、それを優先させようと思う。

<将棋の藤井聡太四段、29連勝の新記録達成 30年ぶりに塗り替え> 産経新聞2017.6.26 21:26配信より一部引用
将棋の最年少プロ棋士、藤井聡太四段(14)は26日、東京・千駄ケ谷の将棋会館で行われた竜王戦決勝トーナメント1回戦で増田康宏四段(19)に勝ち、公式戦の新記録となる29連勝を達成。神谷広志八段(56)が昭和62年度に樹立した歴代最多の28連勝を30年ぶりに塗り替える快挙を成し遂げた。

将棋について全くの門外漢だが、この記録が快挙と呼ぶにふさわしいことは、よく分かる。
そして、このニュースが清々しいのは、快挙を成し遂げたのが14歳の少年だっただけでなく、対局相手もまた十代の若手棋士だったことだ。

閉塞感漂う我が国に風穴を開けてくれるような嬉しいニュースがもう一つ、京都から飛び込んできた。

京都
京都は外からは伺い知れぬ文化・風習があるという。
一般には伝統と云われるそれは、時に陋習とも因習ともなり、他ならぬ京都人から疎まれている。
その証拠に、京都で生まれ育ちながら 自分のことを「’’京都人’’と思っていない」と言い切る作者が書いた本まであり、しかもベストセラーになっている。

「京都ぎらい」(井上章一)
本の題名だけでも過激であるのに、帯には「千年の古都のいやらしさ、ぜんぶ書く」とまで書かれている。
だが、「’’京都人’’ではない」という作者も、おそらく御自分のことを''地の人''だとは思っているだろうことは、著者・井上氏の京都以外の土地への優越感からも伺い知れる。
と云うのも、京都の美術界を描いた「異邦人」(原田マハ)には、「京都では地元の人を’’地の人’’、他所から来た人を’’入り人’’と言う」と書かれており、タイトルも「異邦人」と書いて「入り人」と読ませているからだ。

それほどの厭らしさと優越感で以て守り続けてきた伝統・陋習に風穴をあける画期的な動きがあった。

<「エベレスト登頂より難しい」300年の禁制に風穴  ユネスコ無形文化遺産「日田祇園」で初の女性囃子
山鉾で演奏>  西日本新聞 6/26(月) 15:52配信より引用
国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産に登録された「日田祇園の曳山行事」で、300年を超える歴史上初めて女性が山鉾(やまぼこ)に乗る。祇園祭本番(7月22、23日)を前に全山鉾9基が一堂に会する「集団顔見世」(同20日)への参加を保存団体が認めた。女人禁制の伝統に風穴をあけた女性グループは「エベレスト登頂より難しいと思っていたことが実現する」と喜んでいる。
山鉾に乗るのは小3から50代までの女性12人でつくる「日田祇園囃子(ばやし)なでしこ会」。祇園囃子の音色に魅せられたメンバーが5年前に設立。週3回稽古を重ね、年10回ほど市内のイベントなどで演奏を披露してきたが、祇園祭への参加は認められていなかった。
ただ、ユネスコ登録を機に祭りの幅広い発信を目指す日田祇園山鉾振興会(後藤稔夫会長)が今回初めて対応を協議。「全国には女性が参加する祭りもある」と容認の声の一方、「ヤマ(山鉾)に女性を乗せたことはない」と慎重意見もあったが、「女性参加は時代の流れ」として満場一致で決定した。後藤会長は「熱心に稽古する姿を知っている。外に出しても恥ずかしくない」と太鼓判を押す。
参加するのは関連行事だが「集団顔見世」は観光客でにぎわう一大イベント。当日は1990年に完成した平成山鉾に乗って囃子を奏でる。山本友紀代表(42)は「参加を認めてくれた関係者の皆さんの気持ちに応え、祭りへの思いが伝わるいい演奏をしたい」と力を込めた。


26日届いた嬉しいニュース、その若さと女性パワーの勢いを拡大させて欲しいと願う処がある。
日本に次ぐ伝統をもつデンマークは、半世紀前に新たな道を歩みだし、世界一幸福な国となっている。

<【皇太子さまデンマーク同行記】「次の天皇」注目集める 印象は「父と同じ親しみやすさ」「安心感」
 …王位継承、譲位は共通の課題> 産経新聞2017.6.20 01:00配信より一部引用
皇太子さまが15日から、外交関係樹立150周年の記念行事などに臨席するため訪問されているデンマーク。天皇陛下の譲位を可能にする特例法が成立、公布されて以降、初の海外訪問となり、連日、関係先で歓待を受けられている。欧州で最も歴史の古い王室を持つ同国でも、譲位や王位継承をめぐって揺れた経緯があり、陛下の譲位を受けて次の天皇となる日本の「クラウン・プリンス」の存在は、関心事の1つのようだ。
「神の子孫とされる皇太子殿下がご訪問」「国民に愛されている父上(陛下)と同じくらいの親しみやすさ」
今回のご訪問前から、地元紙はこんな言葉で皇太子さまを紹介した。皇太子妃雅子さまと、長女の敬宮愛子さまの3人で収まった過去のお写真を掲載し、皇位継承や譲位をめぐる議論の経緯を説明した上で「来年にも第126代の天皇陛下になられる」と説明した記事も。 ~中略~
皇室への関心の高さの背景には、同国王室を上回る歴史に加え、日本で議論となった皇位継承や譲位の話題が、同国王室でも大きなテーマの1つとなった経緯があるためだ。
デンマークでは日本と同様、長年、皇位継承は男子に限られてきた。だが現在の女王、マルグレーテ2世の両親にあたるフレデリック9世夫妻の子供は3姉妹。このため王位継承問題が浮上し、1953年に国民投票で憲法を改正。女子でも継承できる道が開けた。ただ、女王が即位した72年当時は、王室維持と廃止の世論が二分するなど、史上初の女王は混乱とともに誕生したようだ。
その後、女王は国への献身的な姿勢から高い支持を集める。2009年には「男子優先」から、男女を問わない「長子優先」に変更することが国民投票で承認された。


長く守られてきたものには、守られるだけの価値があるものが多いのは確かであるし、守るべき理由など考えるまでもなく問答無用に守らねばならないものもある、とは思う。
だが、憲法とともにある皇室、国民の象徴としての皇室、人々が心を一つにするための行事である祭(祇園祭)であることを考えれば、それらが繁栄し続くことをまず一番に考えるべきだし、そのためには それに関わる人が排他性や息苦しさを感じるものであってはならないと思うのだ。

若さと女性のパワーが新しい時代の到来を感じさせてくれた6月26日、この勢いが増すことを祈っている。


参照、
「世界一幸福な国から学ぶ」 「扉を開ける雅な文化」

大鰡

2017-06-26 19:32:33 | 
「最近読んだなかで一番の傑作」という言葉とともに勧められた本がある。
忙しさに紛れてなかなか読めないでいると、しつこく(もとい、再々)感想を求められ、困った本がある。
「半分ほど読んだ印象としては、ヘミングウェイ「老人と海」に似ている」と言っただけで、「そうだろう、そうだろう、ノーベル文学賞もんだろう」と言われたために、同じく’’男と釣り’’を題材とする話ならば「投網」(井上靖)の方が好きかも・・・という言葉を呑み込んでしまった本がある。

「大鮃」(藤原新也)
主人公・太古(31歳)はイギリス人の父と日本人の母をもつ男性で ネットを介した翻訳業で生計を立てているが、これまで一度も女性と深く付き合ったことがなくオンラインゲームに依存している。そんな自分に不安を覚えた太古が精神科を受診する場面から、この物語は始まる。
カウンセリングをした精神科医は、「リアルな父性を獲得する必要がある」として、太古に父の故郷であるオークニーを旅することを勧める。

精神科医は、太古の字が幼いのも、女性と深く関わることができないのも、ゲームに依存し実社会と接点を持つことを苦手とするのも、父性が欠如しているせいだと、言う。
太古の父は、太古が6歳のときに自殺しているだけでなく、それまで何度も自殺未遂をはかっていたので、太古には父の背中を見て学ぶ(的な)男のロールモデルがなかったのは確かだと思う。
だが、それに続けて この精神科医が語る「父性についての一般論」が、この領域の専門家に懐疑的な視線を向けている私の気に障り、読み進めるのに時間を要したのだ。

本書の精神科医が云うところの「父性の欠如一般論」を私なりに要約すると、こうだ。
人の心は揺れやすく折れやすく本来決して強いものではない。仮にその心を自我と呼ぶと、その揺れやすい自我を支える超自我というもう一つの自我がある。それは見守られているという感覚であり、信仰心のなかで神の存在を信じ心を安定させる神も超自我の一つであるが、それは本来父性から伝達されるものである。
その父親経由の超自我が獲得できていない男子が最近大変多い。それは、父親が男性性を失っているため父親として機能していないからだ。
かつて、第一次産業(漁業・農業・林業)という自己決定権を常に求められる日常が基本であった時代の日本には、強い父性があったが、産業構造の変化によって父性は喪失してしまった。
企業戦士などという勇ましい言葉はあるが、長年企業戦士として大企業で勤めあげリタイアした男性が描く絵は、中性化というよりも女性化してさえいる。
システムの中で自分の足で歩いてこなかった為に定年を迎え不安症に陥いる企業戦士が多くいるが、そんな彼らに流行っている塗り絵は、本来自分で物事を決めることができない子供がすることだ。
男性性とは、塗り絵のように予め与えられた世界の輪郭を色で埋めるという受け身なものではなく、本来そのものの輪郭をつくり出す能動性にあるものだ。
要するに、日本が男性性を失った理由は、自己決定を常に求められる第一次産業が基本であった時代から、システム(企業)に依存し過剰適応するだけで自ら考えないですむ産業が中心になったことにある。
・・・・・と本書の精神科医は規定する。

おそらく、本書の精神科医が云う「父性についての一般論」は正しいのだと思う。
たまに読むその手の本にも、そう書いてはある。
だが、一般論としては正しいと分かっていても、それをマスターキーにして個々の心が十把一絡げに語られるのを見ると、不信しか覚えないのだ。
患者は一人ひとり、異なる背景を持っている。
勿論 社会や時代が人に与える大きさを考えれば、社会や時代の一般的傾向を病の原因や治療に用いる必要はあると思うが、患者一人一人を診る能力の低さを糊塗するために、個々のケースを一般論に引きずり込むという事をしてはいまいか。
それでは本末転倒ではないか。

このように精神医療の専門家に厳しい意見を持つのは、診たわけでもない有名人についてアレコレ訳知り顔でマスコミにしゃべる精神科医に辟易としているからかもしれない。
それでも、特定の有名人を事例にあげ社会に警鐘を促すことで心を病む人が減少しているならば、このような反発も覚えないかもしれないが、精神科医が語れば語るほど、心を病む人が増えていっているような印象を受けるのは、間違っているだろうか?
日頃から、そのような反発を覚えている精神科医が、のっけから一般論を繰り広げる本書ゆえに、なかなか読むスピードがあがらなかったが、矢の催促で感想を求められることに根負けし、週末腰をすえて読んでみた。
中盤以降については又つづく
  
週末、残りのジャガイモと、今年はじめてのピーマンと茄子を収穫した。

第一次産業の真似事をして思うのは、農業において人が決定権を持ちうることは限られているということだ。
お天道様のご機嫌を絶えず伺い、お天道様に謙虚に従ってこその実りと収穫ではないだろうか。
猫の額ほどの庭の野菜作りでも、播種・手入れ・収穫するタイミングに、人の自己決定権が及ぶところは少ないと思い知らされる。その決定権は、野菜(植物)自身とお天道様がほぼ全て握っている。
だが、見えない聞こえない自然の摂理にじっと目と耳を傾ける注意深さと、それに従う従順さを日本人が持っていため、忍耐強さにかけて素晴らしい国民性となったのではないだろうか。しかし、その裏返しとして、圧倒的に強い存在に対して平伏するしかないという国民性をも有してしまったのではないだろうか。
産業構造の変化が父性を失わせた、システムに安穏と浸る企業戦士の弱さが父性を失わせたという説に、改めて違和感を覚えさせた庭いじりであった。

参照、「庭いじりの愉しみ~あいこまち」

球児よ 努力と希望の虹となれ!

2017-06-24 15:51:51 | ひとりごと
去年の夏は「く~も~は~わ~き~光あふ~れ~て」の歌詞が私の頭をぐるぐる回ってたが、どうも今年の夏は「栄冠は君に輝く」に加えてもう一曲、頭をぐるぐる回りそうな予感がしている。
思い返せば去年の夏、「リトルリーグのメンバーは地方大会の見学がお得にできる」という特典を利用し、時間が許す限り(練習がない時間はすべて)球場に足を運び、帰って来ては気持ちよく「く~も~は~わ~き~」と大声でがなっていた野球小僧。「静かなダンスが生み出す偉業」

そんな野球小僧が21日、「甲子園の歌が’’虹’’に決まったの知っている?」と訊いていたのだが、忙しさに紛れて確認しないでいると、今日もまた「聴いた?いい歌だな」などと言っているので、今頃になっていそいそと聴いている。


「甲子園の歌が、虹に決まった」と聞いた時には、あの名曲「栄冠は君に輝く」が記念すべき100回大会を前に変更されるのかと驚いたが、そうではなく、毎夏高校野球を熱く伝える「熱闘甲子園」の今年のメインテーマ曲の「虹」が完成したということらしい。

<朝日放送の高校野球応援ソング、高橋優さんの「虹」に> 朝日新聞 2017年6月21日05時06分配信より一部引用
朝日放送(ABC)の今夏の高校野球応援ソングが、シンガー・ソングライター高橋優さんの「虹」に決まった。ABC・テレビ朝日系のハイライト番組「熱闘甲子園」や、8月7日に開幕する第99回全国高校野球選手権大会の中継で使用される。高校野球は「テレビで見たことしかなかった」という高橋さんは、楽曲を作るために全国各地の球場で試合を観戦してきた。「一生懸命野球に打ち込むみなさんのことを想像して、精いっぱい言葉を紡いできた」と振り返る。
~中略~
――「虹」というタイトルに込めた思いは
「雨が降っていたり、なかなか自分の思うような状況ではなかったりするときはある。僕は『いいことが起こればいいなぁ』という気持ちになることが多かった。でも高校球児のみなさんは、大差で負けていても自分の理想的なコンディションじゃなくても、勝つためにプレーし続けている。逆転できないときもあるけど、そうやって信じてやってると奇跡が起こることもある。ということは、あの子たちは奇跡が起こるのを待っているんじゃなくて、起こさなきゃと思って試合をしているんだろうなと感じたんです。そう思ったときに、『奇跡を待つな、奇跡を起こせ』というキーワードが浮かんで、歌詞にも入れた。雨が降っているときだって、虹がかかるのを待つんじゃなくて、自分たちが虹みたいにきれいになってやればいい。それがテーマになりました」


甲子園に「虹」が掛かることが決まった21日、夜明けとともに起きだし朝練に励み 授業の後も部活に打ち込んできたJ君の元にも良いニュースが届いた。
文武両道を目指して頑張ってきたその方向性が間違っていないと分かった嬉しい日でもあった。
これからJ君にとっても熱い夏が始まる。

全国の野球小僧と甲子園を目指す球児たちよ 直向な努力と希望という虹となれ!

天地をつなぐ’’きのね’’

2017-06-23 23:57:54 | ニュース
これまで たった一度しか聞いたことがない音(ね)を、今日は耳にしたような気がする。
たった一度しか聞いたことがないにもかかわらず、その音(ね)の響きが正確に記憶されているのは、その後に読んだ本のおかげだと思う。

「きのね」(宮尾登美子)

文庫本 上下巻の裏表紙より
『上野の口入れ屋の周旋だった。行徳の塩焚きの家に生れた光乃は、当代一の誉れ高い歌舞伎役者の大所帯へ奉公にあがった。昭和八年、実科女学校を出たての光乃、十八歳。やがて、世渡り下手の不器用者、病癒えて舞台復帰後間もない当家の長男、雪雄付きとなる。使いに行った歌舞伎座の楽屋で耳にした、幕開けを知らす拍子木の、鋭く冴えた響き。天からの合図を、光乃は聞いた・・・・・
夢み、涙し、耐え、祈る。梨園の御曹司、雪雄に仕える光乃の、献身と忍従の日々。雪雄の愛人の出産や、料亭の娘との結婚・離婚にも深くかかわる光乃。一門宗家へ養子に行く雪雄につき従い、戦中の、文字通り九死に一生の苦難をも共に乗り越えた光乃。続く戦後の混乱期、雪雄の子を宿していると気づいた光乃の、重い困惑と不安…。健気に、そして烈しく生きた、或る女の昭和史。』

同じ本を読むにしても、いつ読むのか、どのような状況で読むのかにより、その印象が違うものになるというのは時々感じることだが、私にとってその傾向が特に強かったのが、宮尾登美子氏の女性の一代記を描いた作品である。

宮尾登美子氏の作品の全てを読んでいるわけではないが、「蔵」にしろ「一弦の琴」にしろ、そして この「きのね」にしろ、強い女性を描いている。
宮尾氏の描く強い女性の’’強さ’’は、分かりやすい強さではない。
家や時代に翻弄されながら、自分が信じるものを守り通すために、あるいは自分が信じる者に添い遂げるために、ひたすら耐え忍ぶ’’強さ’’である。
静かに穏やかに耐え忍ぶ姿こそ 女性のあるべき’’強さ’’だとし 最後にはその隠忍が報われることを以て「めでたし」という見方も勿論あるのだろうが、かなり若い頃にそれらを読んだ時には、主人公の’’強さ’’が’’強かさ’’に思えて反発を覚えたのも確かなことだった。

作中の女性はいずれも自らの不遇な状況を愚痴ることなく、静かに穏やかに身近にいる女性を支えている。
良縁を得た姉・妹や当代一の人気役者の妻(や愛人)を献身的に支える主人公たちの健気さや一途さが、後に報われることには何の異存もないが、その苦労の報われ方が、姉・妹や妻の後釜に座るというものであるため、世の中の酸いも甘いも未だ知らぬ頃の私は反発を覚えたのだ。
そんな反発は年を重ねるうちに薄れ、今では宮尾作品は、「個々の出来事を一生という長さで捉える大切さ」を教えてくれるものとなっている。

ところで今日「きのね」を思い出したのは、歌舞伎界を支える女性の一人が柝の音とともに新たな舞台へ旅立たれたからだ。
重い病と闘いながら彼女が発するブログの言葉には、柝の音にも似た凛とした力強さがあった。

本書「きのね」によると、幕開きの合図で打たれる拍子木の音は、’’きのね’’とは言わないのだそうだ。
(『 』「きのね」より)
『柝は、本当は たく と読むらしいが、芝居では柝を打つ、とか、柝を入れる、柝がなる、とかいうね。強いて言いたかったら柝のおと、ならいいよ』と云われる’’柝の音’’は、芝居の幕開きの合図になるだけでなく、見栄を切るときにも打ち鳴らされ、『役者の演技を殺すも生かすも、このつけ打ちの打ち方一つ』と云われるほどなのだという。
そんな ’’きのね’’を、(後に歌舞伎の名門の長男の後妻におさまる)主人公・光乃は、一番好きだという。
『(あの音は)天からの合図のようでございます』

可愛いさかりの幼子を残し旅立たねばならぬ恐れと闘いながら彼女が綴った’’きのね’’にも似た力強い言葉は、多くの人の心を確かに打った。
何より彼女の ’’きのね’’は、これからも ご家族を生かし続ける天からの合図となり続けることだだろう。

天にとどく’’きのね’’  天からとどく’’きのね’’・・・・・

参照
英BBCが2016年11月21日付で発表した「100 Women(100人の女性)」に選ばれた彼女は、「色どり豊かな人生」という文章を、BBCに寄稿されている。
http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-38073955