何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

息ある限り ②

2019-07-21 23:58:55 | ひとりごと
「息ある限り①」より

今月のワンコお告げの本は、長寿に相当懐疑的なものを持っている久坂部氏の「祝葬」笹本稜平氏の山岳もの「k2復活のソロ」という一見共通点のないものだったので、最初は???と思いながら読んだのだけど、読み進めて驚くべき共通点に出くわしたんだよ

それが、この写真なんだな
ワンコのお山なんだな

久坂部氏の本はほぼすべて読んでいるつもりだが、山それも穂高について書かれたものを読んだ記憶が、私にはない。
笹本氏は山岳小説を多く手掛けているので、国内外いろいろな山が描かれているが、穂高が印象的に描かれていた記憶が、私にはない。
それが、ワンコが今月お告げしてくれた、この二冊には期せずして穂高が描かれているのだ。
「祝葬」には奥穂が、「k2」には北穂が。

ねぇワンコ
恒例の夏山登山の予定は組んだものの、忙しさにかまけて全く訓練をしていない私を見かね、
本を通じて警告してくれているんだろう?
脚力の低下は勿論だけど、酷くなるばかりの腱鞘炎で岩を掴むことができるのか、
心配してくれているんだろう?

実際のところ、忙しいのもあるけれど、7月になって一度も晴れの日がないという異常事態なので、
夏山への意識が沸きにくいというのもあったのだけど、
ワンコが心配してくれているから、あと三週間体力増強に努めてみるよ
ありがとう ワンコ

もう一つ、
ワンコのおかげで、10連休中訪れた上高地から仰いだ穂高の写真を見ることができて、本当に良かったよ
このところ、忙しさとは違う嫌な疲れが身にたまり、本当にしんどくなっていたんだよ
2月まで支えてくれた有能片腕君のような若者もいるのだから、
「今どきの若者は・・・」なんて言葉は口にしたくなかったけれど、
ひと昔前では信じられないような、能力と責任感の低下欠如に
くたびれ果ててしまっている
話がかみ合わないのは、信頼関係が崩壊しているからなのか、
仕事への向き合い方スタンスが、違いすぎるからなのか、
最近あらゆる分野の人が、同様の愚痴を口にしていることを慰めに、我慢しているけれど、
それでも、もう堪忍袋の緒が切れそうなんだよ
だけど、穂高の写真で一息つけたから、明日からの新しい週は少し気持ちを入れ替え頑張ってみるよ

もう一つ、
これは、とっても重い内容でいくら本を読んでも答えがでるものではないのだけれど、
昨年夏、クモ膜下出血で倒れた知人のお見舞いに出かけたんだよ
夜中にトイレで倒れておられたようだが、朝方ご家族に発見されるまで、かなり時間がたってしまったことが悪かったのか、
クモ膜下出血が起こった場所が悪かったのか、
一命をとりとめられたことをご家族が喜ばれたのも束の間、
その後はかなり厳しい状況におられる
一年たって、両足と片腕はまったく動かすことができず、
ご家族のことは、なんとなく理解されているようだが、という意識状態のようだ
かなり病弱なお子さんを抱えて孤軍奮闘されている、奥さんの日常を思うと、心が痛む

以前から、不治の病への過剰な医療行為に懐疑的で、政策的にピンピンコロリを肯定するかのような作品を描いていた久坂部氏だが、最近では、それに拍車がかかり、予防医学や長寿社会にまで懐疑的になっている様子が伺える。

「祝葬」の主人公である医師は、年老い気力が萎えてなお生き続けることに倦み疲れ、 若くして亡くなった友の「もし、君が僕の葬式に来てくれるようなことになったら、そのときは僕を祝福してくれ」という言葉を事あるごとに思いだす。
そうして物語の最後に、
「人はだれしも、ただ一度だけ、自分の死を死ぬ以外にはない」と自分を納得させるのだ。

こう書くと、希望がまったくないようだけど、
ねぇワンコ
「k2」には、末期がんの治療にQOLの観点から積極的に取り組む人物を描いているんだけれど、
そこで紹介されているネパールの格言も考えさせられるよ

「息ある限り希望がある」

ねぇワンコ
何が正しいかなんて分からないよね
その時々、自分にできることを自分らしく精一杯頑張るしかないよね

その頑張る力を内にためるために、
来月は、ワンコのお山で元気をもらってくるよ ワンコ
ありがとうね ワンコ

息ある限り ①

2019-07-20 09:51:25 | ひとりごと
ワンコが天上界の住犬になって3年と半年
何を見ても涙が溢れるという季節はようやっと過ぎ・・・

上手く言えないんだけどさ、
ワンコの気配や想いは、そこかしこに感じて温かい気持ちになれるようになったんだよ
それは今月のお告げの本も表れているね

「祝葬」(久坂部羊)
「k2 復活のソロ」(笹本稜平)

先月 安楽死というか自分の命の始末の仕方を考えさせる本をお告げしてくれたのに続き、今月も長寿社会の憂鬱問題を問いかける「祝葬」をお告げしてくれた意図は少し図りかねるところはあるのだけれど、
もう一冊の「k2」と併せて読むと、「なるほど」と思わされたよ

その「なるほど」の理由を書く前に、それぞれのあらすじを紹介しておくね

「祝葬」本の帯より
『もし、君が僕の葬式にきてくれるようなことになったら、そのときは僕を祝福してくれ」
自分の死を暗示するような謎の言葉を遺し、37歳の若さで死んだ医師。土岐佑介。代々信州を地盤とする医師家系に生まれた佑介は、生前に不思議なことを語っていた。医師である自分たち一族には「早死の呪い」がかけられているというー。
簡単に死ねなくなる時代に突き付けられる、私たちの物語』

あらすじについては、これ以上なにも説明する必要がないという簡潔かつ端的な帯の書評だ。
作者久坂部氏は、財前教授率いる国立ナニワ大学出身の医師で、自伝的エッセイを読むと、正義の味方?里見教授より財前教授にシンパシーを感じていたり、「廃用身」などのグロテスクな作品や、超高齢化社会を憂い政策的にピンピンコロリを肯定するかのような「破裂」など、初期にはショッキングともいえる作品も多いことから、不要なものは切り捨てろという利己的な思考のように思えるのだが、それは医療の矛盾と限界についての氏独特のアイロニーだと分かってくる。
また久坂部氏の作品を長く読んでいると、久坂部氏ご自身が高齢者医療に携わり又同じく医師である父の介護をされた経験を経て、皮肉一辺倒ではなく人情味も感じられるようになるのだが、繰り返されるテーマが究極的に示しているのは、やはり長生きに否定的だということだ。
よって、久坂部氏の行きつくところは、安楽死の6要件を満たさなくとも、しんどいような長生きは避けるべき、のように思われる。

ワンコお勧めの、もう一冊の「k2」本の帯より
『たった一人、8000メートル超えのデスゾーンに挑むトップクライマーの叫び。
 地上へ、仲間が待つ地上へ
 生きて還りたい。
 落石事故で初めてパートナーを失う悲しみをしった奈良原和志
 気力を失った彼の心に再び火を灯したのは、「冬のk2」だったー
 眼前に冬のヒマラヤ高峰群が広がる圧倒的な臨場感で綴る、現代アルピニズムのすべてが詰まった傑作山岳小説!』

笹本稜平氏は、「春を背負って」では山小屋に集う人々の屈託を温かい視点で描いていたり、k2などを舞台にした山岳物を多く書いているが、所謂山ヤさんではないゆえに、登攀行為よりも、夢や人生訓を描くための舞台として「山」を選んでいるという印象を持っていた。
そして、そのような作風で語られる言葉には心に響くものがある。
だが、本書のようにほぼ純粋に登攀にかかわる事を描こうとすれば、なかなか傑作山岳小説は描きにくいと思っている。
なぜなら、山ヤさんにはご自身の山行を書物に認められる人も多く文章も上手い方が多いので、テーマを純粋に山に特化してしまえば、本職の迫力と心情の吐露に敵うはずはないからだ。また、かつて日本に綺羅星のごとく存在した実在の登山家をドキュメンタリーー的に描いたものも多いので、この手の話がこの内容では、傑作山岳小説とはならないような気はしてしまう。

私がそう思うことは分かりきっているのに、ワンコが本書を勧めてくれた理由は、何なのか?
先月につづきQOLを問いかけるような「祝葬」を勧めてくれたのはなぜなのか?

この二冊には思いがけない共通点がある。

それについては又つづく

ねぇワンコ
正直なところ、本書の二冊は作者の力量から言えば中途半端な作品で、テーマも作者に馴染みの(手垢のついた)作品なので、なんでこの二冊を勧めてくれたのか訝しく思ったのだけど、意外な共通点に驚き、それを読むタイミングとしてはピッタリだったから、ワンコの気配を感じたよ
ワンコ
最近は忙しさとは別の辛さに心底参っているから、本書のおかげで思い出した風景に救われたよ
ほんと参っているから、文書が中途半端でごめんよ ワンコ
次回は、「なるほど」と思わせてくれたものを掲げて、心の洗濯をするよ ワンコ
でも、しんどいな ワンコ

新しい時代へ チェスト行け!続篇

2019-07-16 20:10:00 | 
「新しい時代へ チェスト行け!」とほぼ同時に掲載したつもりだったが、掲載しそびれていたようだ。
それに気づいて読み返すと、鹿児島と宮崎の豪雨から日がたち、内容がズレている。
ボツにしようかと思ったが、「ぼーっと生きてんじゃねーよ」「チェスト行け!」と自分に喝を入れるため、恥を忍んで掲載しておく。


~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
見るともなしにプロ野球のヒーローインタビューを見ていると、久々に勝利投手となったらしき外国人投手が、「日本のファンに一言日本語で」と要望されたのに対し、「頑張ります」と答えていた。
このタイミングで、ほとんど日本語を介さない外国人の口からまで、「頑張る」という言葉を聞いてしまったからには、このたびの豪雨を契機に読んだ本の感想を書かずにはおれない。

その本は、先月ワンコがお勧めしてくれた本のうちの一冊だった。
このブログでも「チェスト行け」という薩摩隼人の言葉は、何度も書いてきたので(「ペンと法でチェスト行け!」 「チェスト行け!朝が来る」)、ワンコお勧めの本のタイトルを見た時には、興味をもったのだが、読み始めるなり登場した人物の名前を見て読む気が失せ、放りっぱなしになっていた。私には、登場人物のネーミングにおいて作者の意図を深読みする癖があるのだが、そのアンテナに不快にひっかかり、ワンコお勧めの本だというのに、読まないままになっていたのだ。

だが、記録的な豪雨に見舞われている鹿児島や宮崎の無事を願うのに、この本のタイトルはふさわしように思え、再度手に取って読んでみた。

「チェスト!」(登坂恵里香)

一言でいえば、小学校最後の夏に錦江湾遠泳を通じて成長する子どもたちを描いた、さわやか青春ものというもので、読み始めた瞬間ほぼ結末が予想できるというものなのだが、タイトルにもなっている「チェスト」については、なかなかに考えさせられるものがあった。

タイトルの「チェスト」は、鹿児島弁で「頑張れ」という意味で、数年前に鹿児島で開催された国民文化祭のスローガンが「チェスト行け!」だったように、鹿児島では頻繁に使われ愛されている言葉のようだ。この「チェスト」は、主人公の小6男子・隼人が通う自顕流発祥の言葉で、郷中教育や「薩摩の三つの掟」とともに、本書の根幹をなすものである。

(『 』「チェスト」より)
『敵中突破を前にした薩摩武士達の掛け声』である「チェスト行け」は、明治維新の原動力となった西郷隆盛や大久保利通など多くの偉人たちを世に送り出した郷中教育発祥の由来となるものであり、イギリスで誕生した『ボーイスカウトだって、もとをたどれば、昔、薩摩と戦争をしたイギリス人が、薩摩の郷中教育に感心してそれを真似て作ったもの』だと、本書には誇らしく記されている。

その郷中教育で徹底して仕込まれるのが、「卑怯はいかん」ということなのだという。

このような環境に育った隼人は、小6にして「薩摩の三つの掟」について深い洞察をもっている。

「薩摩の三つの掟」『負けるな、嘘を言うな、弱いものをいじめるな』
~引用始まり~
「負けるなって、誰に負けるななんだろうね?」
「誰って・・・誰かじゃなくて、たぶん、その場の状況とか、自分をとりまく環境とか。えっとつまり・・・自分?」
「『負けるな』と『勝て』は違うよな」『昔の人は『勝て』って言ってないんだ。『負けるな』なんだ。『勝て』と『負けるな』は明らかに違うよな」
「勝て」って言われると、誰か泣く人が出てもいいから、と言われているような気がする。「負けるな」は誰も泣かさないと思う。
~引用終わり~

とにかく、全編「チェスト行け」が繰り返されるのだが、「チェスト行け」を受け入れがたい人も、受け入れがたい時もある。
そんな感情を、本書は謎の転校生を通じてうまく描いている。

小学校最後の遠泳(錦江湾4,2キロ)に向け頑張ろう、という言葉に、謎の転校生は、あっさり言い返す。
『あ、いいです。頑張るの、シュミじゃないんで』

またこの転校生、「卑怯はいかん、嘘はいかん」という言葉には、理屈をもって言い返す。
『自分の身を守るために嘘をつくのは、むしろ健全なんじゃないですか?』『それを禁止するのは、管理する側に都合のいい人間を作り出すためだと思います』
『頑張るのはいいことだと下の人間に信じ込ませれば、管理する側は楽ができる。競争を煽って人と人を競わせれば、上がった利益で上の人間がトクをする。負けるなも嘘を言うなも一見美しく聞こえるけど、全部、下の人間の不平不満を封じ込めるための上の人間の策略だ。そうやって不平不満を押さえ込まれ、負けるな頑張れと煽られ、たくさんの人たちが死へと駆り立てられていったのが戦争なんじゃないんですか?
だから僕は、『負けるな』も『嘘を言うな』も信用しません。下の人間を苦しめるんだけ苦しめておいて、『弱いものをいじめるな』だなんて、本当に欺瞞以外の何ものでもないです』

だが、自顕流の先輩(中学生)も負けてはいない。
転校生の言葉に戸惑う隼人に、第二次世界大戦後伝統的な精神教育が否定されるなかで郷中教育も否定された苦い歴史を例に挙げ『本質を見ろってことだ』と教えたりする。(敵中突破を唱える自顕流だが、「刀を抜いてはならない」のが基本である事から、本質を見ることができれば、その精神が好戦的でないことは明らかだと、先輩は言いたいようだ)

とは云え、転校生でなくとも生粋の薩摩っ子でも、時に皆で元気に頑張りましょう!と声を掛け合うのに息苦しさを覚え、『人は、外から見たんじゃわかんないの!それ口出しするのはおせっかいなの!人は人、自分は自分でもう静かにしてよっ』と叫ぶことがある。

だから、いつもいつも前向きに元気に「チェスト行け!」と声援を送るべきとは思わない。
まして突然の思いがけない災害に困っておられる方々に、「頑張れ!」という言葉を安易に言うべきではないのは分かっているのだが、それでも、記録豪雨に見舞われていると聞けば、「チェスト行け!」と祈りたくなるし、お節介は厄介なことも多いが、『信頼できる誰かの鶴の一声で、「わかった」と仲間をいっぱい引き連れて駆けつけてきてくれるのが鹿児島の人達なんだ。引っ張ると、次から次に続いて出てくるサツマイモみたいだから「薩摩の芋づる」』の精神が今も続いていてほしいと思ってしまう。

天候不順な七月は続きそうだが、被害に遭われた方々が日常生活に戻られるよう心から願っている。

それでも、やはり、「チェスト行け!」

追記、
これだけ書けば、小6の夏を描いた青春ものというより禅問答のようだが、物語の最後には転校生も含め皆が協力して遠泳を成功させるし、随所にみられる洞察と現代の小6の夏らしさにいい塩梅の折り合いをつけているのが、軽妙な会話かもしれない。
なにせ、本書は冒頭『父親が屁を聞かすい家ン子供は非行に走らん」(父親がおならを聞かせる家の子供は非行に走らん)』という一文から始まるのだから。
だが、軽い会話の中に散りばめられている『地上が土砂降りでも、雲の上はいつだって快晴』(隼人の母の口癖)や、『つらいときほど、自分のことより人のこと』(隼人が大切な人から教わった言葉)は、しっかり心にとどめておきたいと思っている。

追記2
敬宮様の遠泳の作文を改めて拝読すると、遠泳後の氷砂糖のおいしさに触れられていた。
本書でも、4,2キロの遠泳の中間地点で、船の上から泳ぐ生徒に氷砂糖が支給される場面がある。
ブドウ糖補給という意味では、どんな飴でも良いはずなのに、遠泳に氷砂糖が付き物なのか、などとふと思ったりしている。

新しい時代へ チェスト行け!

2019-07-07 23:07:07 | ニュース
新聞記事の全文引用が許されるのかは微妙だが、当該記事が所謂 皇室記事ではなく、「あなたの参議院選」と銘打った政治記事であることに鑑み?勝手な判断で、全文引用させていただくことにした。
実は、鹿児島と宮崎の豪雨を受けて、先月ワンコに勧めてもらいながら読まないままになっていた本を読み、その感想を綴っていたのだが、7日夕方この記事を見つけたからには、記録しないわけにはいかない。
しかも、ワンコが勧めてくれた本の舞台となっているのが、小6の夏の海での遠泳とくれば、この記事のしょっぱなの「私たちは、今上陛下の直系の女性天皇を支持します」の思いを補強するのに、これほど心強いものはない。

「チェスト」(登坂恵里香)

本書は、小学校最後の夏 錦江湾の遠泳を通じて心身共に成長する子どもたちをさわやかに描いた青春ものだ。
主人公・隼人の小学校には、錦江湾4,2キロの遠泳という夏の伝統行事があるのだが、日頃は自顕流の道場で鍛え郷中教育「卑怯はいかん、嘘はつくな」を体現する隼人は、海の男を父に持ちながらカナヅチのため、二年連続で遠泳に参加できないでいた。
そんな隼人が、自らの弱さを克服し仲間と助け合い、「チェスト行け」の声も高らかに4,2キロを泳ぎ切り成長する姿を描いた本書を読めば、思い出される少女がいる。

敬宮愛子内親王殿下だ。

その環境からスイミングスクールに通われることも出来ず、水泳が苦手だという報道は度々あった。
それが、初等科三年の夏休みから御用邸のあるう須崎にお出かけになり、水泳の練習を重ねておられた。
その間 雅子妃殿下のご体調はすぐれないことも多く、ご静養そのものが非難の的になることも多かったが、皇太子様は静かに誠実にご自身の公務に取り組みながら、夏にはご家族で須崎に赴き、須崎の海で敬宮様の水泳指導を自らなさっていた。
本書でも書かれているが、海を泳ぐのは、プールでの水泳とは違う難しさがあるという。
それを、そもそも水泳を苦手とされる敬宮様が毎年海に通ってまで体得しようとされたのは、学習院には沼津湾での遠泳という伝統行事があったからだという。
平成の皇太子ご一家は、人々の努力を横目に脇道をすり抜けるようなズルはなさらない。
苦手なものは何年もかけて訓練し、努力によって目標を達成される。
その姿勢は、スポーツでも楽器でも語学習得でも、同じだ。
高貴なお立場であれば、ご本人が望むと望まざるとに関わらず、特別な配慮がなされることは多い。
だが、個人の努力で習得すべき学問やスポーツなどの世界は、公平で公正であるべきだと私は思う。
ましてそれが高貴なお立場だとしても、お子様であれば尚の事、努力することの大切さを知るため、公正と公平は必要だと思う。
人々と同じように必死に努力するからこそ、努力が実った喜びを知ることもできるし、(公務で出会われる人や行事の)成功の裏にある努力と労力に思いを致すことも、努力ではどうにもならぬ悲しみにも思いを寄せることができるのだと、私は思う。

長く患う母のその病の原因が、東宮の一人子でありながら世継ぎとなれない女の子しか産めなかったことにあると知った少女の心の痛みは、どれほどのものだっただろう。
男児への継承の露払いかのごとく、学校生活どころか命までも脅かされるようなバッシングのなか体調を崩されることもあったが、その度しっかり立ち上がり、学問やスポーツや楽器の習得にとまっとうな努力を重ねてこられた敬宮様。

私が敬宮様にと願うのは、安定的な制度という枠組みは勿論だが、そのお人柄と歩みに次の時代への希望を感じさせていただけるからだ。

そんな思いを抱かせてくれるエピソードの一つが、本書と同じく小6夏の遠泳なのだ。

大きな力を与えてくれた沼津の海   敬宮愛子

 不安な気持ちを抱きつつも、きっと楽しい思い出が作れると言われて出かけた沼津でしたが、初日から練習は厳しく、海に入りたくないと思う時も少なくありませんでした。ただ楽しかったのは、友達との生活と食事、お風呂でした。
 しかし、足の着かない海で泳いで、初めて気持ち良いと感じる日が来ました。三日目に行ったプレ距離泳の時でした。プレの日は、波もなく、太陽が照りつける中での距離泳となりました。海に入るまでは、五百メートルも泳げる訳がないと諦めていましたが、泳いでいるうちに、体の力が抜け、楽しく泳げるようになりました。五百メートルを泳ぎ切ると、海が好きになり、海に入るのが楽しみになっていました。
 迎えた本番の五日目は、潮の流れが少しあり、泳ぎにくいと感じましたが、前日に一キロ泳や二キロ泳を終えた人たちの「頑張れー」という応援の声が聞こえる度に、不思議と力が湧いてきました。無事に泳ぎ切り、みんなと喜びながら頂いた氷砂糖の甘い味は格別でした。
 沼津での生活は、私に諦めないことの大切さを教えてくれ、大きな自信を与えてくれました。沼津の海は、私にとって忘れられない記念の海。六年間の中で、私がいちばん成長できたと感じられる素晴らしい思い出になっています。
「海の如く広い愛と想像の翼」

敬宮様は、本書の小6の生徒たちと同じように、遠泳に向け努力を重ね、友と一つの目標に向け頑張ることや諦めないことの大切さを体得され、又まっとうな努力が報われることによってのみ人としての自信が得られるのだということを経験された。

特別な御立場にあり、想像もつかないような困難な状況に遭われながらも、脇道をゆかず、(ありふれた、しかしそれ故に貴重な)青春小説のような道を当たり前に過ごされる敬宮様にこそ、と心から願っている。




『愛子さまは天皇になれないの?「女性の継承」認めぬ理由』毎日新聞7/7(日) 14:00配信より

「次は愛子さまを天皇に」。今年5月の新天皇の即位をきっかけに、天皇、皇后両陛下の長女・愛子さまへの皇位継承を望む声が出ている。ところが今の皇室の制度では、女性が天皇になることは認められていない。過去には女性もいたが、今なぜ「日本の象徴」である天皇になれないのか。

女性天皇誕生が夢
 「私たちは、今上陛下、皇太子殿下直系の女性天皇を支持します」
 2017年7月、複数の地方紙にこんな意見広告が載った。広告を出したのは、年齢も職業も異なる女性たちがつくった「ゴヨウツツジの会」という民間団体だ。
 共同代表を務める40代の女性弁護士は、愛子さまの母・雅子さまに向けられた非難の声を見聞きするたびに、まるで自分が傷つけられているように感じてきたという。自分も雅子さまと同じ東大出身で、子供は女の子が1人。「男の子を生んでいないというだけで、なぜあんなに責められなければいけないのか。愛子さまが天皇になれなければ、雅子さまのように苦しむ人がまた出てくるのではないか」。意見広告はそんな思いを世の中にぶつけようと、仲間と費用を分担して出したものだった。反響は大きく、当初は数人だった会員は約300人まで増えた。現在は女性天皇の実現を呼びかける電子書籍の出版準備を続けている。
 愛子さまが天皇になるには、法改正が必要だ。皇位継承の決まりごとが書かれた法律「皇室典範」は、天皇になれるのは「男系男子」だけだと定めている。男系男子とは父親、父方のおじいさん、父方のひいおじいさん……と男性だけで系図をさかのぼると、どこかで天皇にたどりつく皇族の男性を指す。今の皇室で皇位継承資格のある秋篠宮さま、悠仁さま、常陸宮さまはいずれも「男系男子」。一方、天皇、皇后両陛下の長女である愛子さまは、皇位継承資格のない「男系女子」だ。
 ただ、かつては女性が天皇に即位していた時代もあった。歴代126代の天皇のうち、複数回即位した人を含む10代8人が女性天皇だ。ジャーナリストの田原総一朗氏は「女性天皇が認められなくなったのは明治以降ですよ。当時、天皇は軍のトップの大元帥だったから、軍隊に入れない女性が天皇になるのは問題だ、ということになった。だから、今となっては何の問題もないんです」と話す。
 実際、戦後の日本では天皇が大元帥になる制度は廃止され、性別による差別も憲法で禁止された。
 それでも皇位継承が男系男子に限られているのは、「男性が家を支配し、子は父を敬い、妻は夫に従う」という旧来の価値観が残されているからではないか――。それが、家族のあり方について研究を続けてきた大阪大・牟田和恵教授の見方だ。
 「今の日本社会は『男女平等』が建前だけど、大事な部分はあいかわらず『男性優位』のまま。男性が中心、男性が権威を持つ社会を崩すわけにはいかないと考える人たちが『男系継承』にこだわっているんじゃないでしょうか」
 女性天皇を認めれば、皇位継承資格のある男の子が生まれるかどうかという「お世継ぎ問題」の解決につながるかもしれない。少なくとも、皇族の女性に対する「男児を生まなければいけない」というプレッシャーは和らぐ可能性がある。
 牟田氏は言う。「少子化が進み、跡継ぎが女の子だけという家はすごく増えている。高齢化で働き手も少なくなり、男だけでは立ち行かない社会になっているんです。それなのに『男だけでやっていくんだ』という皇位継承の仕組みは、日本社会の未来を考えるうえでもゆがんでいるように思えるんです」

反対派は「伝統を変えるな」
 女性天皇の誕生を望む人たちがいる一方で、女性への皇位継承を認めるべきではないと訴える人たちもいる。自民党と関係が深く、女性天皇に反対してきた保守派の論客、日本大の百地章名誉教授は「一過性のムード、風潮に流されて伝統を変えるべきではない」と言い切る。
 「これまでに8人の女性天皇がいたのは事実です。でも、皇位を継げる『男系男子』が一時的に見つからなかったので、例外的に天皇になった人ばかり。悠仁さまがいらっしゃる以上、無理に女性天皇を認める必要はないんです」
 百地氏が懸念するのは、女性天皇と民間の男性が結婚し、2人の間に生まれた子供が次の天皇になれば、その子が男でも女でも「女系天皇」になってしまうことだ。「たとえば、女性天皇が民間人の『鈴木さん』と結婚したとします。2人の間にお子さんが生まれたら、その子供は『鈴木さん』の家系に属する方だと見られてしまう。そして、その人が天皇になったら、今とは違う『皇室』になってしまうんです」
 これまでの皇室の歴史で、女性天皇の子供である「女系男子」や「女系女子」が即位した例はない。「男系男子」による皇位継承を原則としてきた理由について、安倍晋三首相のブレーンとして知られる八木秀次・麗沢大教授はこう推測する。「歴代天皇の子孫はたくさんいますが、男系に限ると『一本の細い糸』のように限られてくる。すると『皇位を継ぐのは自分だ』『いや、私だ』と言い出す人は必然的に減り、争いも起きにくくなる。男系継承は、国を安定させるための知恵だったのではないでしょうか」
 だが、男系継承は「お世継ぎ」の男の子が生まれないリスクとも常に背中合わせだ。2006年に悠仁さまが生まれたことで当面の危機は回避されたが、政府内からも「何も手を打たなければ、やがて天皇制はなくなってしまう」という声が上がっている。
 男系継承を維持しながら「お世継ぎ」の問題を解決する方策として、百地氏や八木氏が提唱しているのが「旧宮家の皇族復帰」というアイデアだ。戦後に皇族の身分を離れた「旧宮家」を復帰させ、皇位継承の資格を与えれば、男系男子は現在の3人から「9~10人は増えるはずだ」(自民党の国会議員)という。
 これまでも天皇の直系に後継者がいない場合、別の系統の男系男子が即位した例はあった。百地氏は「皇位継承の危機に備えるために『宮家』があったのです。改めて歴史の知恵に学び、旧宮家の若い人たちを皇族に復帰させるべきではないでしょうか」と話す。
 天皇が「日本国民統合の象徴」であるために
 憲法1条は、天皇の地位について「主権の存する日本国民の総意に基づく」と定めている。田原氏は「戦後、国民が主権を持つようになると、天皇は『国民に受け入れてもらわなければ』と考えるようになった」と指摘し「国民のほとんどは女性天皇・女系天皇に賛成でしょ。女性天皇を認めれば、国民は今以上に皇室を支持するようになると思う」と話す。
 これに対して、女性天皇に消極的な立場からは「男系でつながってきた天皇がいたからこそ、今の日本がある。伝統を守らなかったとき、日本がどんな社会になるのか分からないんです。『男系男子』で皇位を受け継ぐ方法があるなら、続けた方がいい」(八木氏)という声が上がる。
 女性天皇の是非を巡る対立が深まれば、「日本国民統合の象徴」という天皇の地位にも影響しかねない。賛成派、反対派ともに「できるだけ早く議論を本格化させたい」という点では一致している。令和の時代を生きる日本人にとって、女性天皇の問題は避けて通れないテーマとなっている。【中川聡子、青木純】

今年もプチトマト愛子さまは、健やかに育っている

まっとうとは何か

2019-07-02 12:21:47 | 
「我が家のドクター・ワンコ」より

「ぼーっと生きてんじゃ」ないつもりだが、たいして事は進んでいないにも関わらず、絶えず何かに追われているような忙しさで、気の休まることがない日々を過ごしている。
ようやっと一仕事区切りがつき、今週は久々にフリーな時間ができたので、本を読み感想も記しておくぞ、と思ったのだが、疲れがどっとでて扁桃腺は腫れるわ、パソコンの調子も悪いわ、でブログに向かえないでいた。

新たな本の感想どころか、先月ワンコがお勧めしてくれた安楽死を扱った「ドクター・デスの遺産」(中山七里)の感想が中途半端なままになっているのは、忙しさのせいもあるが、自分にとっては当然アリな尊厳死と安楽死であっても、自分の判断で誰かに適用させることができるだろうか、という問いに自分自身答えがでないため、書きあぐねていたのだ。
もちろん、安楽死は名古屋高裁が示した6要件を満たさなければ犯罪なので、自分の判断で誰かに適用させること云々を考えることは、法的には意味がなく、ましてそれをネットで知った安楽死請負人に任せるなどというのは論外なのだが、それでも、耐え難い病苦から逃れたい患者とそれを見かねた家族が安楽死を選びたくなるのは十分すぎるほど理解できる。
だから、安楽死請負人を追う刑事の一人が、安楽死を安楽死の法整備の隙を突いての単純な?連続殺人者だと決めつけるのには違和感を感じるのだが、だからといって、母の介護に疲れ安楽死を依頼した人の「長年税金や保険を払ってきても、国や警察は何もしてくれなかった。安楽死請負人を追ってる警察よりも、安楽死によって介護問題を解決させている犯人の方が有能だ」という言い分にも安易に肯けないものがある。

考えがまとまらないまま、忙しさにかまけて考えることを止めていたのだが、楽しみにしているシリーズものの最新刊を読み、安楽死ではないが、人生の終い方について考えさせられている。

「検事の信義」(柚月裕子)

本書は検事・佐方貞人を主人公とするリーガルミステリーで、累計40万を突破する人気のシリーズものだ。
検事・佐方の信念は、時に検事バッジの秋霜烈日より厳しいが、「罪を裁いて人を裁かず」という有り得ない事を現実のものとする。
そんな佐方の信念が、『罪はまっとうに 裁かれなければならない』というものだ。
四話からなる本書でも、佐方の信念は何度も繰り返し書かれているが、四話の「信義を守る」での佐方の論告は、人生の終い方と罪について深く考えさせるものだった。

認知症の母の介護のため都会から田舎に戻った息子が、介護のために仕事に就けず生活に困窮し介護に疲れ、最後には母を殺し逃亡しようとした事件の公判を、佐方が担当した。
発売から間もないミステリーでもあるし、本書の内容の重みを考えると、こんなところでネタバレしたくないので、ミステリーとしての結論は書かないが、ある事件を思い出させた。
それは確か、長年献身的に妻の介護をしてきた夫が、自らも年を重ね介護が難しくなり、ついに妻を殺してしまったというものだった。
夫の献身的な介護を知っている者たちが募った減刑嘆願は相当な数に上り、殺人(刑199)としては異例の執行猶予がついた判決だった。
夫は、釈放されたその日から減刑嘆願に署名してくれた人々を一軒一軒訪ね、お礼を述べて回った。
そうして、すべての人へのお礼が済んだあと、夫は妻のもとへ行くべく自殺してしまったのだ。

本書の「信義を守る」を読み、この事案を思い出した。(『 』「検事の信義」より)

時に、何が罪なのかわからないことがある。
その罪を、咎めることができないと誰もが感じることもある。

それでも、『罪をまっとうに裁かせる。それが、私の信義です』と言い切る佐方は、何を根拠に「まっとう」を判断するのか。
『人には感情があります。怒り、悲しみ、恨み、慈しみ。それらが、事件を引き起こす。事件を起こした人間の根底にあるものがわからなければ、真の意味で事件を裁いたことにならない』という言葉に続け、佐方は言う。

『なぜ、事件が起きたのかを突き止め、罪をまっとうに裁かせる。
 それが、私の信義です。』

自己弁護をしないままに汚名にまみれて死んだ弁護士の父をもつ佐方は、事件と罪に全身全霊で対峙し、その根っこを見誤ることは決してない。
だが、凡人はそうはいかない。
だから、先のドクター・デスを逮捕した刑事は、『犯人は捕まえたが、罪を捕まえられなかった』(「ドクター・デスの遺産」より引用)と悩み続ける。
また、凡人が何を「まっとう」とするかの判断を少し違れば、それは独善と紙一重のものとなる。
そんな危険を、ドクター・デスを追う刑事の一人は『手前てめえの行いを正義だと信じ込んでヤツは 大抵阿呆あほうだ』と警告しているのだと私は思う。

というわけで、凡人の私は、下手な結論は出さずに、人生の宿題として考え続けるしかないと思っている。
願わくば、心から信頼できる医師に出会い自然の流れに導いてもらいたい、そう思うのは、宿題をし損なった無責任な最期なのだろうか。