何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

かぐや姫の大義

2015-03-31 17:00:00 | 
「異端の大義」を読みながら現実社会を見渡せば、「異端」の定義は国や時代で変わるもので、「時代に即した正しい判断を下せる資質を持たない経営者が君臨する企業は必ずや滅びる。」

「異端の大義」では、同族企業のトップは最後の最後まで、同族だけで経営を牛耳ることを諦めない。経営がいよいよ危なくなってメインバンクにも見放されようかという段になってさえ 「創業以来東洋に君臨してきた一族の血が絶える」とか「東洋は一族の血があってこその会社だ」と言い張り経営陣の刷新を受け入れようとしない。
同族企業の社長にとっての大義とは、偉大な創業者の血をひく者だけで会社をまわすこと。

世界基準では「異端」の創業者一族のせいで東洋解体かという段になり、返り咲くのが東洋(日本)基準で「異端」の主人公高見だ。
高見は追われるように東洋を辞めた後、アメリカ滞在中に出会った友人の会社に引き抜かれる。
その外資企業が日本への足掛かりのために東洋再建を図る、そのトップに高見が就くのだ。
一族で牛耳り経営悪化の元凶であった取締役会を一掃し、2万人にも及ぶ配置転換とリストラを断行し、そうまでしても高見が残したかったのは、東洋という会社の名前。
古い体質を改め、人事を一新し、能力に相応しいポストで残った者が頑張れば、東洋というブランドはまた世界市場で大手を振るって活躍できると信じて再建案を練る。
高見にとっての大義は、「東洋」という大樹を笠に着て経営悪化を招いた一族の血と古い体質を除きながらも、世界と戦える「東洋」という名を残すこと。

創業者一族の湯下が、新生東洋のトップとして高見を受け入れた時に、告白するセリフは印象的だ。(注、月よりの使者「異端」 3/30)
「バナナもな、外見が黄色で中身が真っ白と言うのは若いうちや。熟せば白い実も黄色に染まる。」
「(高見の日本での)社歴が長くなるにつれて、日本人よりもずっと日本人らしいメンタリティーを持ち合わせるようになった」
「(高見が東洋を去り外資企業に行かなければ)東洋は解体され、この世から消滅していたことやろう。~(経営実権は変わろうとも)東洋の名は残る」

湯下は「経営悪化の元凶が血族だけで会社を牛耳る古い体質にある」と、ある時点から気づいていたが、古い体質と一族の掟を打破し改革することは出来なかった。湯下が耳に痛い忠告をする友人をバナナと蔑まず、真摯に意見を交換し、その排他的な姿勢を改めておれば、解体の一歩手前の事態まで悪化することはなかったかもしれない。
冒頭に書いた「時代に即した正しい判断を下せる資質を持たない経営者が君臨する企業は必ずや滅びる。」とは作中からの引用だ。

家具屋の騒動をきっかけに、「異端の大義」を読み返し、もう一度現実社会を見渡せば、ゆっくりだが着実に世の中は変わってきている。

「勇者よ進め」(3/5)で書いたが、豊田社長自らが米議会の公聴会に呼びつけられた原因の一端ともいわれた排他的姿勢をトヨタは改め、外国人副社長と女性役員を誕生させた。

家具屋のお家騒動では、国立大学卒業後は銀行に勤め更には自ら会社を立ち上げたこともある「かぐや姫」が説くコーポレート・ガバナンス(企業統治)やコンプライアンス(法令順守)が、 「久美子は今も反抗期」(3月22日朝日新聞より)と訴える父に勝利する。
「かぐや姫」をいち早く支持したのは海外投資家であり、最終的に支持したのは一般投資家。

楯突き意見を言う者を異端視したり、外国人だ女性だと異端視していたのでは、21世紀に生き残れない。

伝統や格式のあるもの、古い体質が強いもの、組織が大所帯で変化が行き届きにくいもの、事情はそれぞれ異なるが、時代に即した変化を柔軟に取り入れ変わらなければ、本体そのものを失いかねない。

古くから伝わり守られているものには、理屈抜きで伝え守らなければならないものもある。
しかし、守らなければならない真髄を見誤り、時代から乖離した器に固執しておれば、開けてビックリ玉手箱。
守るべき真髄はもとより、器もろとも霧散霧消してしまいかねない。

変化を促す月からの使者は、何度も足を運んではくれない。


それは皇室も同じだと思う。
現在は御病気のせいで着物の着用が難しく祭祀から離れておられる雅子妃殿下だが、お妃教育の頃、祭祀について英語での資料を所望されてことがバッシングのネタになっている。
しかし、世界がこれだけ緊密化しているなかでの皇室で、宗教が世界の紛争理由となっていることに鑑みれば、外交官だった雅子さんが、祭祀について英語での資料を要求されたのはむしろ当然で、正しく海外に祭祀を伝えるうえで必要なことだったと思われる。
雅子妃殿下の海外親善公務がとかく言われるが、ご成婚までの人生や教育課程の半分の年月を外国で送られている雅子妃殿下は、しかし「根無し草になりたくない、日本の役にたつ仕事がしたい」と願い、高額を提示し就職を求める海外企業に目もくれず、薄給の公務員になられている。
そういったお気持ちや背景も拝察せずに、やみくもに「海外好き」とバッシングしている関係者は、作中で主人公をバナナと蔑んでいるマインドと同レベルだ。その程度の認識で事にあたっている組織や人は、必ずや弱体化する。

幸いなことに、皇太子様は「時代に即した公務」という視点を早くから打ち出しておられる。
皇太子様が正しく「時代に即した方向性」を見極め、守らねばならない真髄を見極められるよう、それが早すぎる時代の流れに間に合うよう、我々は静かにお見守りし、その時には心をつくして応援しなければならないと思っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月よりの使者「異端」

2015-03-30 00:21:55 | 
「異端の大義」を読み返すと、経営方針や恣意的人事に真っ向から反論しにくい理由に、同族企業の体質をあげている。

確かに、創業者一族に連なり人事を握る人間(湯下)が 「誰が、お前の殺生権を握っているのか。それを思い知らせてやる。もはや目障り極まりない存在となったあの男に、企業の掟というものを、たっぷり味わわせてやる」 と言いながら、主人公を左遷する場面などを読み返すと、そんな横暴が許されるのは同族企業だからと思いがちだが、それだけだろうか。

「これほど酷い業績なら、欧米では経営陣が真っ先に責任を問われる」 と指摘する海外の経営者に対して、主人公(高見)は 「創業者一族が経営の実権を握っているので、誰も面と向かって追及しにくい」と答えているが、それだけだろうか。

私情人事はどの組織でも少なからずあるし、無能な経営者は何所にでもいる。

それらの全てが同族企業というわけではない。
同族企業の場合は、日本的体質の悪い面が一層際立つということではないだろうか。

では何が、日本人的な体質かと考えると、我が身を振り返っても思うが、面と向かって意見するのを好まないという国民性が、一つにはある。

「絶対的権力は絶対に腐敗する」を肝に銘じて欧米が権力分立体制を確立させたのは、一所に権力が集中するのを避けることだけが目的ではなく、分散化された権力が相互にチェックしあうという機能こそを重視している。

しかし我々日本人には、見張りあうのはともかくも、チェック内容に基づき面と向かって意見するのを好まない風土があるため、面と向かって意見を言う者は、それが正論であっても、「異端」のレッテルを貼られる傾向がある。
馬鹿の言いたい放題を、鷹揚に構えて見逃す余裕をみせる一方で、耳に痛い正論を真正面から言う者に「異端」のレッテルを貼り冷遇する。
これでは、まっとうな組織や社会は疲弊してくる。

この小説では何度も、「東洋という会社は、人的資源の無駄遣いをする会社だ」というセリフが出てくるが、これは東洋という会社に限らず、「日本というのは、人的資源の無駄遣いをする国だ」という言葉にも置き換えられそうだ。


異端の原因を海外に求める説もある。
創業者一族の友人(湯下)に面と向かって忠告したのを逆恨みされ私情人事の被害に遭う主人公高見は、アメリカの工科大学で学び、企業派遣でシカゴ大学のMBAを取得している。この経歴が「異端」の原因の一つだと思った湯下は、高見のことを「バナナ」と蔑んでいたと告白する。

私の周囲で、これほど時代錯誤な話はさすがに聞かないが、作中 「日本社会において、帰国子女が事あるごとに、差別的な言葉で以て囁かれることは珍しい話ではない。外見は日本人でも、思考や行動原理はアングロサクソンのそれである人間を指して、「バナナ」と呼ぶのはその一例だ」 と書かれていることを見ると、そういう前時代的遺物の石頭が、まだまだ社会や組織の上に漬物石のごとく乗っかって風通しを悪くているのは、確かなのだろう。

しかしながら、バナナと異端視される主人公が、当初転職が上手くいかない理由が、まさしく日本人的理由であるのは、皮肉だ。
死の病に冒された父を気遣い、リストラされる従業員の再就職先の斡旋や対応などに心をくだき、自らのキャリアパスを後回しにしてきた主人公が、子供の学費を捻出するため人材斡旋会社の門をたたいた時に、言い渡される。

「決断力の遅さがマイナス」
「無配・赤字が4年。悪化し始めたときに転職していれば・・・・・しかし、船が沈み始めてからでは遅いのです。
 窮地に陥ってから慌てて次の船を探すような人間に手を差し伸べる企業はありません。
 気配を察して、次の船を探す。それくらいの、したたかさと決断力がなければ、(転職は難しい)」 と。

バナナと蔑まれ異端視されながらも、工場閉鎖と職を失う従業員のために邁進していた主人公。

だが、誰も彼もが機を見るに敏で、沈みかかった船から一目散に逃げたのでは、本来沈まないものさえ、沈んでしまいかねない。

実際に、東洋電器がリストラをするにあたり公募という早期退職金制度を提示すると真っ先に手をあげたのは、将来を嘱望されている社員ばかり。
経営改善のための雇用調整の結果おこった人材の流出が、会社の存亡をますます怪しくする事態につながっていく。

前時代の遺物に固執する者からすれば、真正面から異論や正論を説く者は「異端」でしかなく、まして海外生活が長い者は存在そのものが「異端」なのかもしれないが、一たび海外から見れば、前時代的漬物石こそが「異端」でしかない。

しかし、異端はいつまでも異端ではないし、異端にも大義がある。

「異端の大義」を読み返しながら、トヨタの方針転換「勇者よ進め」(3/5)と家具屋騒動から見る「今を生きる大義」を考えてみる。

つづく

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かぐや姫の勝利、か

2015-03-29 01:16:19 | ニュース
同族企業の家具屋が、会長の父vs社長の娘で揉めていたのだが、そこに母と息子まで加わったので、お家騒動だと世間を賑わせていた。

27日の株主総会を経て一応の決着をみたようだが、それを伝える見出しが、これだ。
<勝利のかぐや姫「一般株主の80%近い賛成に重い責任感じてます…」>
これは産経新聞の見出しなのだが、美人さんとはいえ経営者として奮闘している女性を「かぐや姫」と揶揄するとは、さすがに産経だと思ってしまった。

そう思われる産経も何だが、家具屋の娘だから「かぐや姫」なのだと気付くのに時間がかかる自分のマヌケぶり・・・・もはや「アレの衝撃」(3/27)による思考停止の所為ばかりではないかもしれない。その程度の認識なので、現在進行形のこの騒動については書けないが、同族企業の経営ということから思い出した本がある。

「異端の大義」(楡周平)

上下巻の長編は、主人公高見の勤務する東洋電器が台湾・韓国の攻勢に押されて半導体事業から撤退する場面から始まる。
シリコンバレーから帰国してみれば、何年にもわたる無配に累積している赤字。
それを経営陣は、早期退職や工場閉鎖など負債部門の切り捨てで乗り切ろうとするのだが、同族企業であるゆえに経営方針の決定も人事権を握っているのも創業者一族。主人公は経営方針の歪みと恣意的人事に異議をえたために、創業者一族で人事権を握っている(元)友人に徹底的に疎まれる。
しかし、左遷や降格人事に遭おうが、誠実さと正義感を失わない主人公に最後、一発逆転が起こる。

何年か前に読んだ印象は、こんなものだった。

何時からか「雇用調整」という言葉が簡単に使われ、特に家電業界は決算のたびに、まるで人を備品か何かのように「調整」するのが新聞の見出しになっているので、作中の工場閉鎖に伴うリストラで自殺者が出る場面などは切実に迫ってくるものがあったが、世界の半導体シェアの半分以上を占めていた日本が、撤退するまでに追いやられる理由を、同族企業の古い体質にだけ求めているかのような内容には、安直さを感じていた。

しかし、「勇者よ進め」(3/5)で、「トヨタが社長自らアメリカ議会の公聴会に呼ばれた原因に、排他的姿勢があった」と書いたばかりのところで、上場企業の家具屋が公開お家騒動を繰り広げた様を見ていると、日本社会に根づいた体質を考え直した方が良いと思いのではないかと思い、「異端の大義」を読み返している。


つづく

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アレの衝撃

2015-03-27 12:46:04 | ニュース
<生まれ変わった姫路城、ブルーインパルスも祝福> 2015年03月26日 12時42分読売新聞より一部引用
 平成の大修理を終えた世界遺産・姫路城(兵庫県姫路市)で26日、完成記念式典が行われ、航空自衛隊の曲技飛行隊ブルーインパルスが上空を舞って、真っ白に生まれ変わった大天守を祝福した。

写真 出典ウィキペディア 平成の修理を終えた姫路城

真っ青な空と別名を白鷺城ともいわれる姫路城。それだけでも絵になるが、平成の大修理を終えた記念式典に「青い衝撃」が走った。
ここに、その画像が入れば最高に絵になるが、今は主役の(修理を終えたばかりの)姫路城を飾っておく。

さて、何故に行ったこともない姫路城に親しみを感じるのかと考えると、暴れん坊将軍のタイトルバックだと気が付いた。白馬の新さんが、富士山や桜咲く姫路城とともに映っている、あのタイトルバックだ。
当然のことながら、新さんがいるのは江戸城だし、初代徳川家康はともかく曾孫の新さんは富士山とも縁がなさそうだが、それでもタイトルバックに富士山と満開の桜と姫路城をもってきて、それが製作者の意図通りに視聴者の記憶に残っているのは、青空に映える天守閣と、桜と、富士山は日本人の心に組み込まれた原風景だからかもしれない。
もしかしたら逆も真なりか?


航空自衛隊というと、これまた縁がないのだが、自衛隊機を初めて意識して見たのは4年前の3月13日の日曜日だった。
昨日26日のような青い空、被災地に向けて飛んでいく自衛隊機を「一人でも多くの救出を」という祈りを込めて見上げていた。
「我が軍」とかいう意見もあるが、最近では災害救助隊という認識が一般には強く、それゆえに支持も高まっている気もしないではないが、
この「青い衝撃」の雄姿は新しい認識の形成につながるのか、それが目的か?

自衛隊機というと、「天空の蜂」(東野圭吾)を思い出す。

かなり以上前に一度読んだ作品なのだが、東日本大震災の後に読み直すと、作中に描かれる緊急時の原子力発電所関連の対応や政府も含めた行政の対応が何やら生々しい。
「天空の蜂」の大筋は、航空自衛隊に納入直前のヘリコプターを乗っ取った犯人が、高速増殖炉の真上でホバリングをさせつつ、「直ちに日本中の原発を停止せよ、さもなくば爆弾搭載のヘリを高速増殖炉に落とす」と日本政府を強迫するいうものなのだが、この事件の犯行理由は、未だにエネルギー問題を真正面から考えることを避けている我々に問いかけてくるものがあり、とても20年も前に書かれた作品とは思えない。

津波と原発事故を書いた高嶋哲夫氏は日本原子力研究所出身だが、「天空の蜂」東野圭吾氏は理科系作家ではあっても原子力が専門ではない。にもかかわらず東野氏は20年も前に、3・11原発事故時の行政の対応を彷彿とさせるような生々しい描写を書いている。そう考えると、専門家の高嶋氏ならずとも想定できた事態について、なぜ全ての関係者が準備してこなかったのかと悔まれてならない。

話しはそれるが、緊張感みなぎるストーリー展開のこの小説をさらに迫力あるものにしているのが、作品を通してホバリング音がビートを刻むかのように感じられることにあると思うが、これは作者の力量なのか、それとも大型ヘリのホバリングに何度か遭遇した経験がある自分独特の印象なのだろうか。

そんなことを思いながら真っ青な空に映える白鷺城とブルーインパルスの写真を、眺めていた。



・・・・・・・はっきり言って思考停止。

どんよりと重だるく、何もする気が起こらない。

もしかして、アレか?
ついに来たか。
聞くところによると、雅子妃殿下もアレの気がおありだという。

人様には「ついに今年から皆様のお仲間になってしまいました」と言いつつも、一度なったら完治は難しいアレとは認めたくない。
この鼻水も、絶え間ないくしゃみも、目のかゆみも、きっと寒の戻りで寒いなか睡蓮鉢を洗ったからに違いない、そうだと信じたい。
アレのはずがない。

御婚約が正式に整ったころ、雅子妃さんもアレらしいと何かに書かれていたが、そうであれば今頃は辛い時期であると思う。
知人のリタイアしたご両親などアレの時期は、アレがない沖縄に避難するほどだというから、皇太子御一家がこの時期にスキーにお出かけなのも、アレの襲来を避けて気分転換される必要があるのかもしれない。

奥志賀にもアレはあるだろうが、まだ雪深いため撒き散らされてはいないだろうし、強い味方ゴーグルもある。
年にたった一度のスキー旅行、大いに英気を養っていただきたいと願っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

受け継がれる命を育む御心

2015-03-23 17:00:27 | 自然
9割がた水が抜かれた睡蓮鉢の底のわずかな泥水をたよりに、睡蓮の根に守られるように生きていてくれたメダカが愛おしく、興奮して号外をうった喜びは続いているが、寒の戻りか今日は冷える。

睡蓮鉢を洗ったので、寒さを凌ぐため潜り込む泥が無くなってしまった。
心配して覘いていると、ひょっこり顔を出してくれる。


「一寸の虫にも五分の魂」とはよくいったもので、一年以上も飼っていると、メダカにも金魚にも心があり、気持ちが通じると感じる瞬間がある。

こう書くと、それは勘違いだ、とか、ペットに感情を投影するのは弱者のすることだ、ということを言う人がいる。

確かに、蝶などの昆虫にも心がある、などと思っていては昆虫標本などは出来ないだろう。
昆虫標本作りを題材に、思春期の複雑な少年の心の成長を書いた「少年の日の思い出」(ヘルマン・ヘッセ)は教科書にも載る名作で、そこでは標本作りの是非は、もちろん問題となっていないのだが、自分としては授業で習った時から違和感があった。

生きているものを、飾るために、自慢するために、わざわざ殺して針で固定して、標本にする。

「少年の日の思い出」を習っている時も、授業の主題よりも、標本を作りたくなる心理の方が気になったが、それは冬彦さんの異常さを描くために、蝶の標本収集のシーンを用いたことに通じるものがあると思う。

一寸の虫にも五分の魂

子供が見つけた昆虫やその標本が学術的発見につながることもあるかもしれないが、一般論として子供には、生き物を、殺して標本にする対象として見るのではなく、命を育む仲間として見て欲しい。

雅子妃殿下も、そのようなお気持ちを平成10年の誕生日の会見で述べておられる。

(引用)
今年の夏に,クワガタ,昆虫のクワガタですけれども,クワガタがここの御所の窓の外の所で弱っているのを見付けました。私自身,ここにクワガタがいるということ自体驚きだったんでございますけれども,皇太子殿下がお小さいころには,クワガタや,カブトムシもここにたくさんいたとかということで,殿下も大変久しぶりにご覧になられたということでしたけれども,そのクワガタが弱っておりましたので,保護いたしまして飼育いたしました。そして,その後,雌を加えて一緒に飼育してみましたところ,繁殖いたしまして,卵を産んで,今は幼虫を飼育しております。幼虫の飼育というのは取り掛かってみて分かったのですけれども,クワガタの場合,成虫になるまでは3年ぐら い掛かるということで,割と長い3年掛かりの仕事になるかしらと思っております。子供のころに親しんだ昆虫に,また触れることができて,そのことによって,いろいろな,例えば虫ですとか,そういった小さな命一つ一つが大変いとおしく思えてくるものでございまして,そのようなことから,現代の子供たちにもそういう体験をすることというのはとても大切なことなんではないかしらと感じております。


この雅子妃殿下のお言葉に、哀しみを見た記者がいた。
「飼育カゴの中で繁殖するつがいのクワガタと、<お世継ぎ>を求められる皇太子ご夫妻。雅子様が自らの運命をクワガタに重ね合せているのではないか」 と。
この頃ピッピとマリを飼いはじめられたこともあり、「もしかして子宝に恵まれるのを諦めたのではないか」 と感じたとも、その記者は後に書いている。

人は、昆虫であれ犬であれ、人と生き物が暮らす姿に何かを思わずにはおれないものなのかもしれない。

図書館で借りて読んだ本にあったので曖昧な記憶だが、東大だかどこだかの教授が書いていた。
「犬を家族のように扱い飼うのは、その家族なり人間なりに何か欠けているところがあり、その欠如感を埋めるために、犬をかわいがるのだ。それを弱い心だと思っていた」 と。
しかし、この教授は何かのきっかけで犬を飼うようになり、犬と暮らす素晴らしさに感動し、
「もしかすると以前の自分のように 「ペットと暮らす人間は弱い人間」 と思う人が他にもいるかもしれないが、「そんなものは、かまうものか」と今なら思う。誰にどう見られようが、人と心を通わせることができる犬と暮らす生活は素晴らしい」 といった趣旨の内容を書いていた。

先の記者や教授は、人間の心を昆虫や犬に投影させているが、それは昆虫や犬にも心があることを無意識に感じているからではないだろうか。対象がコピー機や定規ではこうはいかない。
やはり、
一寸の虫にも五分の魂

小さな生物にも心があり人間の生き方を投影しうるとして、それでは、雅子妃殿下は繁殖のために狭い虫かごに閉じ込められたクワガタに自らを重ねて悲しんでおられたり、何かの欠如を埋めるために愛犬を可愛がっておられたのか。

辛く厳しい時、クワガタや愛犬たちが妃殿下のお心を力づけたのは間違いないだろうが、ただ小さな命が慰みの存在であったわけでは決してない。

雅子妃殿下の 「そういった小さな命一つ一つが大変いとおしく思えてくるものでございまして,そのようなことから,現代の子供たちにもそういう体験をすることというのはとても大切なことなんではないかしらと感じております。」
という、生き物の命を愛おしむお気持ちは、受け継がれている。

敬宮愛子様は、犬や猫以外にも何十匹というカメを飼われているそうだが、一匹一匹に名前をつけておられるそうだ。東日本大震災を経験されて以降は、災害時のペットの保護にも関心を持ち災害時のカメの担当について職員と話し合われたと、何かで読んだ。

東宮が飼われる犬も猫も野良ちゃんばかりだが、初等科の卒業文集の課題「夢」に、敬宮様は「動物たちの大切な命」という文章を寄せておられる。

『動物達の大切な命』       敬宮愛子

 道徳の授業で、「ペットの命は誰のもの」という番組を見て、私は、年間27万頭以上もの犬猫が保健所などで殺処分されている現実を知りました。動物達にも命があるのに、なぜ殺されなければならないのか、かわいそうに思いました。
 私の家では犬一頭と猫2頭を飼っています。みんな保護された動物です。前に飼っていた二頭の犬も保護された犬でしたが、どのペットも、可愛がって育てたらとても大切な家族の一員になりました。動物がいることで癒されたり、楽しい会話がうまれたりして、人と動物の絆は素晴らしいものだと実感しています。私が飼っている犬は、病院に入院している子供達を訪問するボランティア活動に参加し、闘病中の子供達にもとても喜ばれているそうです。
 また、耳の不自由な人を助ける聴導犬や、体に障害のある人を助ける介助犬は、保健所に収容された、飼主の見つからない犬達の中から育成されて、障害のある人々の役に立つ素晴らしい仕事をしているそうです。
 私はこのような、人と動物の絆の素晴らしさや、命の大切さを広く伝えていかれたらよいと思います。そして、犬も猫も殺処分されない世の中の実現に向けて、たくさんの人に動物の良さが理解され、人も動物も大切にされるようになることを願っています。



雅子妃殿下の「小さな命一つ一つが大変いとおしく思えてくるもの」というお気持ちは、15年以上の年月を経て、
敬宮様の 「人と動物の絆の素晴らしさや、命の大切さを広く伝えていかれたらよいと思います。そして、犬も猫も殺処分されない世の中の実現に向けて、たくさんの人に動物の良さが理解され、人も動物も大切にされるようになることを願っています。 」 というお心に受け継がれている。

皇太子御一家の、どんな小さな命も愛おしまれる御心を信じている。

皇太子御一家のお心が反映された世の中が実現するのを願っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする