「何に勝つ事が、勝ちなのか」 「勝つための最短距離」より
甲子園での あるプレーが物議を醸している最中に、甲子園を目指すエースが 手段を選ばず目的を達成しようとする「栄冠を君に」(水原秀策)を読んだために、モヤモヤ感が増幅していたが、それを払ってくれたのも、やはり高校球児だった。
ネットはおろか、日頃は高校球児に疑問を呈しないスポーツ紙にまで問題視されたプレーは、野球小僧が「野球教室で、初期に仕込まれること」と言っていたので、同じチームの先輩に訊いても同様の答えだと思っていたのだが、J君の答えは違っていた。
あの場合には必ずしも当てはまらないと知りながら、それでも見ず知らずの選手を(少し)庇ってあげる優しい君の言葉は、私にある本を思い出させた。
「優駿」(宮本輝)
本書については以前も書いているのだが、それを振り返ると、この話題で本書を思い出した理由がよく分かる。
一年半以上前の「オラシオンの幕は~続く」の中で私は、二度同じ言葉を繰り返していることに、気付く。
「優駿」は、競馬界を描いているので勿論 綺麗ごと一辺倒の内容ではないのだが、一頭のサラブレッドの誕生から成長が雄大な北海道の自然描写とともに描かれる本書は、清らかで爽やかな読後感を残してくれる貴重な本だ。
そんな「優駿」を読んだのは、もう十年以上も前のことだが、それを思い出して書く文に、私は同じ言葉を二度記している。
『オラシオン自身の意思で勝ちにいく』
オラシオンは<奇蹟の交配>で誕生した牡馬で、天性の素質を持っていたが、オラシオンの勝負強さはそれだけではなかった。
私は競馬をしないので よく分からないが、競馬では、降着・失格などの制裁を科される走りがあるという。
斜行と云われる「馬が体を斜めにして走る」その走りは、それが他馬の走行に悪影響を与えた場合に制裁を科される(悪質ともいえる)際どい走りなのだが、それだけに仕掛ける側にも危険が伴うという。
その斜行を、ゴール前50㍍でオラシオンは自らの意思で仕掛けるのだ。
オラシオンの、自らを危険に晒してでも後続の行く手を阻もうとする走り’’斜行’’を、馬の気質を知り尽くした調教師と騎手は『無茶苦茶の負けん気が、ああいう形で出る』という。
その世界に入り40年になる者をして「あんな負けん気の強い馬は初めてや。ゴール前で、負けるのが嫌で一瞬気が狂ったもたいになりよる」と言わしめるオラシオンの斜行は、人によっては「失格だ、本当は負けだ」と言いたくなるものだが、結局は読者皆がオラシオンの運と勝利を祝いながら物語を読み終えることができるのは、競走馬が背負う過酷な宿命を知っているからだろうか、それとも、オラシオンが多くの人の祈りとともに走っていることを知っているからだろうか。
本書では『馬は心で走る』という言葉が繰り返し書かれているが、「栄冠を君に」(水原秀策)にも「目的達成のために必要なのは、頭の良し悪しではなく、意志だ」という言葉がある。
負けるのが嫌だと狂ったようになるとき、体を突き動かす心は、理性からも規範からも訓練からも遠いところにいってしまうのだとしたら・・・・・勝ちたいという強い意志が、オラシオンの身体を無意識に傾けるのと同様に、一塁ベースを駆け抜ける、ほんの一瞬のタイミングで起った事も、その瞬間の心と体の連動も、実は本人にすら確実には分かっていないのかもしれない。
誰もが、さまざまな想いを背負って戦っている。
その想いの強さ重さゆえに、危険で際どい行いが許される、というものでは勿論 無い。
だが、正々堂々とした戦いの場で(少なくとも)それを判断する者がいる場合、外野がとやかく言いすぎるのは、間違いなのかもしれない。
J君のおかげで、爽やかな「優駿」の読後感を思い出し、この夏の甲子園も無事に過ぎて行った。
そう思わせてくれた君よ、秋からの練習は精神的にも一層厳しいものとなることだろう。
だからこそ、心をこめて応援をするよ J君
甲子園での あるプレーが物議を醸している最中に、甲子園を目指すエースが 手段を選ばず目的を達成しようとする「栄冠を君に」(水原秀策)を読んだために、モヤモヤ感が増幅していたが、それを払ってくれたのも、やはり高校球児だった。
ネットはおろか、日頃は高校球児に疑問を呈しないスポーツ紙にまで問題視されたプレーは、野球小僧が「野球教室で、初期に仕込まれること」と言っていたので、同じチームの先輩に訊いても同様の答えだと思っていたのだが、J君の答えは違っていた。
あの場合には必ずしも当てはまらないと知りながら、それでも見ず知らずの選手を(少し)庇ってあげる優しい君の言葉は、私にある本を思い出させた。
「優駿」(宮本輝)
本書については以前も書いているのだが、それを振り返ると、この話題で本書を思い出した理由がよく分かる。
オラシオンの幕は~つづく’’祈り’’の言葉が印象的な本を思い返すと、昔読んで記憶に残っているものとしては「優駿」(宮本輝)があり、最近読んだものといえば「祈りの幕が下りる時」(東野圭吾)があるこの二冊を......
一年半以上前の「オラシオンの幕は~続く」の中で私は、二度同じ言葉を繰り返していることに、気付く。
「優駿」は、競馬界を描いているので勿論 綺麗ごと一辺倒の内容ではないのだが、一頭のサラブレッドの誕生から成長が雄大な北海道の自然描写とともに描かれる本書は、清らかで爽やかな読後感を残してくれる貴重な本だ。
そんな「優駿」を読んだのは、もう十年以上も前のことだが、それを思い出して書く文に、私は同じ言葉を二度記している。
『オラシオン自身の意思で勝ちにいく』
オラシオンは<奇蹟の交配>で誕生した牡馬で、天性の素質を持っていたが、オラシオンの勝負強さはそれだけではなかった。
私は競馬をしないので よく分からないが、競馬では、降着・失格などの制裁を科される走りがあるという。
斜行と云われる「馬が体を斜めにして走る」その走りは、それが他馬の走行に悪影響を与えた場合に制裁を科される(悪質ともいえる)際どい走りなのだが、それだけに仕掛ける側にも危険が伴うという。
その斜行を、ゴール前50㍍でオラシオンは自らの意思で仕掛けるのだ。
オラシオンの、自らを危険に晒してでも後続の行く手を阻もうとする走り’’斜行’’を、馬の気質を知り尽くした調教師と騎手は『無茶苦茶の負けん気が、ああいう形で出る』という。
その世界に入り40年になる者をして「あんな負けん気の強い馬は初めてや。ゴール前で、負けるのが嫌で一瞬気が狂ったもたいになりよる」と言わしめるオラシオンの斜行は、人によっては「失格だ、本当は負けだ」と言いたくなるものだが、結局は読者皆がオラシオンの運と勝利を祝いながら物語を読み終えることができるのは、競走馬が背負う過酷な宿命を知っているからだろうか、それとも、オラシオンが多くの人の祈りとともに走っていることを知っているからだろうか。
本書では『馬は心で走る』という言葉が繰り返し書かれているが、「栄冠を君に」(水原秀策)にも「目的達成のために必要なのは、頭の良し悪しではなく、意志だ」という言葉がある。
負けるのが嫌だと狂ったようになるとき、体を突き動かす心は、理性からも規範からも訓練からも遠いところにいってしまうのだとしたら・・・・・勝ちたいという強い意志が、オラシオンの身体を無意識に傾けるのと同様に、一塁ベースを駆け抜ける、ほんの一瞬のタイミングで起った事も、その瞬間の心と体の連動も、実は本人にすら確実には分かっていないのかもしれない。
誰もが、さまざまな想いを背負って戦っている。
その想いの強さ重さゆえに、危険で際どい行いが許される、というものでは勿論 無い。
だが、正々堂々とした戦いの場で(少なくとも)それを判断する者がいる場合、外野がとやかく言いすぎるのは、間違いなのかもしれない。
J君のおかげで、爽やかな「優駿」の読後感を思い出し、この夏の甲子園も無事に過ぎて行った。
そう思わせてくれた君よ、秋からの練習は精神的にも一層厳しいものとなることだろう。
だからこそ、心をこめて応援をするよ J君