何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

心と体と、勝利への執念と

2017-08-31 22:00:00 | 
「何に勝つ事が、勝ちなのか」 「勝つための最短距離」より

甲子園での あるプレーが物議を醸している最中に、甲子園を目指すエースが 手段を選ばず目的を達成しようとする「栄冠を君に」(水原秀策)を読んだために、モヤモヤ感が増幅していたが、それを払ってくれたのも、やはり高校球児だった。

ネットはおろか、日頃は高校球児に疑問を呈しないスポーツ紙にまで問題視されたプレーは、野球小僧が「野球教室で、初期に仕込まれること」と言っていたので、同じチームの先輩に訊いても同様の答えだと思っていたのだが、J君の答えは違っていた。

あの場合には必ずしも当てはまらないと知りながら、それでも見ず知らずの選手を(少し)庇ってあげる優しい君の言葉は、私にある本を思い出させた。
「優駿」(宮本輝)

本書については以前も書いているのだが、それを振り返ると、この話題で本書を思い出した理由がよく分かる。
オラシオンの幕は~つづく
’’祈り’’の言葉が印象的な本を思い返すと、昔読んで記憶に残っているものとしては「優駿」(宮本輝)があり、最近読んだものといえば「祈りの幕が下りる時」(東野圭吾)があるこの二冊を......

一年半以上前の「オラシオンの幕は~続く」の中で私は、二度同じ言葉を繰り返していることに、気付く。
「優駿」は、競馬界を描いているので勿論 綺麗ごと一辺倒の内容ではないのだが、一頭のサラブレッドの誕生から成長が雄大な北海道の自然描写とともに描かれる本書は、清らかで爽やかな読後感を残してくれる貴重な本だ。
そんな「優駿」を読んだのは、もう十年以上も前のことだが、それを思い出して書く文に、私は同じ言葉を二度記している。

『オラシオン自身の意思で勝ちにいく』

オラシオンは<奇蹟の交配>で誕生した牡馬で、天性の素質を持っていたが、オラシオンの勝負強さはそれだけではなかった。
私は競馬をしないので よく分からないが、競馬では、降着・失格などの制裁を科される走りがあるという。
斜行と云われる「馬が体を斜めにして走る」その走りは、それが他馬の走行に悪影響を与えた場合に制裁を科される(悪質ともいえる)際どい走りなのだが、それだけに仕掛ける側にも危険が伴うという。
その斜行を、ゴール前50㍍でオラシオンは自らの意思で仕掛けるのだ。
オラシオンの、自らを危険に晒してでも後続の行く手を阻もうとする走り’’斜行’’を、馬の気質を知り尽くした調教師と騎手は『無茶苦茶の負けん気が、ああいう形で出る』という。
その世界に入り40年になる者をして「あんな負けん気の強い馬は初めてや。ゴール前で、負けるのが嫌で一瞬気が狂ったもたいになりよる」と言わしめるオラシオンの斜行は、人によっては「失格だ、本当は負けだ」と言いたくなるものだが、結局は読者皆がオラシオンの運と勝利を祝いながら物語を読み終えることができるのは、競走馬が背負う過酷な宿命を知っているからだろうか、それとも、オラシオンが多くの人の祈りとともに走っていることを知っているからだろうか。

本書では『馬は心で走る』という言葉が繰り返し書かれているが、「栄冠を君に」(水原秀策)にも「目的達成のために必要なのは、頭の良し悪しではなく、意志だ」という言葉がある。

負けるのが嫌だと狂ったようになるとき、体を突き動かす心は、理性からも規範からも訓練からも遠いところにいってしまうのだとしたら・・・・・勝ちたいという強い意志が、オラシオンの身体を無意識に傾けるのと同様に、一塁ベースを駆け抜ける、ほんの一瞬のタイミングで起った事も、その瞬間の心と体の連動も、実は本人にすら確実には分かっていないのかもしれない。

誰もが、さまざまな想いを背負って戦っている。
その想いの強さ重さゆえに、危険で際どい行いが許される、というものでは勿論 無い。
だが、正々堂々とした戦いの場で(少なくとも)それを判断する者がいる場合、外野がとやかく言いすぎるのは、間違いなのかもしれない。

J君のおかげで、爽やかな「優駿」の読後感を思い出し、この夏の甲子園も無事に過ぎて行った。

そう思わせてくれた君よ、秋からの練習は精神的にも一層厳しいものとなることだろう。
だからこそ、心をこめて応援をするよ J君

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勝つための最短距離

2017-08-30 12:00:00 | 
「何に勝つ事が、勝ちなのか」より

第99回夏の甲子園も中盤戦を迎えていた頃、それに相応しいタイトルと装幀の本を読んでいた。
「栄冠を君に」(水原秀策)

デザインの著作権が気になりつつも、「高校野球好きとしては、読まずにはおれない」と強く思わせたタイトルと装幀であったため、製作に関わられた方々の御名前とともに記しておきたい。
装画・角田純男 装幀・井上則人井上則人デザイン事務所
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062170888

本書のタイトルが、一夏に何度となく耳にする「く~も~は~わ~き~光あふ~れ~て」の題名と微妙に違うところが’’ミソ’’なのだろう、果たして本書は純粋な野球モノではなく、主人公が甲子園を目指すエースという設定のミステリーだった。
最近あらゆる分野の小説に殺人やテロが持ち込まれ、それが山岳本にまで及んでいるのを少々残念に思っているのだが、殺人などとは最も対極にありそうな高校球児を描いた本書でも、ご多分に漏れず次々と殺人事件が起こっていく。
だが、フォームの改造を試みる場面や男子高校生の日常がリアルに描かれているため、設定に違和感をさほど感じることなく読み進めることができてしまう、それだけに、読み終えた後には’’高校野球をとりまく問題’’を より深刻に考えさせられた。
それは、同様の問題を描いた東野圭吾氏の「魔球」を思い出したせいかもしれない。

本書の帯より引用
『将来を嘱望されたエースピッチャーが殺人事件を目撃したとき、人生は迷走し始める!
彼の行き着く果ては、甲子園か、殺人犯か!?
佐内第一高校のエースピッチャー村椿勇人。勇人が目指すのは、甲子園出場、そして、憧れのメジャーリーガーと全力の勝負すること。しかし、謎の男が死体を遺棄する現場を目撃してから、彼の人生は迷走し始める! 夢のためには、手段を選んでいられない。悪に魅入られた彼の頭上に、栄冠は輝くのか!?』

現在、甲子園を目指すほど熱心に野球をするには、物心ともに部活動の範囲を超えた支えが必要であり、それを得ることが出来ない球児は、野球の技術とは別の問題で、夢や道を諦めなければならないかもしれない。
そんな危機に立たされている主人公が、ふとしたことから悪の道に引きずり込まれていく、というのが本書が描くミステリーだ。

本書はミステリーなので詳細を書くことは控えるが、主人公に悪を指南していく男のアドバイスは、一考に値するので、それだけを記しておきたい。
一、とりあえず親や周囲の奴らにはいい子の演技をしろ。
二、自分の目的達成のために最短距離で行く。
  そのためにどうしたらいいのか、常にそのことだけを考えろ。
三、大事なのは自分のコントロールできる範囲のことをきちんとやることなんだ。
四、すべての前提条件を疑え。
五、他人の物語にいちいち頭を悩ませるな。

いちいち他人の物語に巻き込まれて、しかもそれを絶対の要素だと受け留め二進も三進もいかないくせに、自分のコントロールできる範囲以上のことをしようとする癖がある私なので、このアドバイスは(悪の指南役のものではあるが)しっかと胸に留めておこうと思っている。

とは云え、いったい最短距離で行きつく目的とは何なのだろうか。
最短距離でつかむ’’ラッキー’’は、人生という長距離走において幸運をもたらすのだろうか。

悪の指南役は、目的達成のために必要なのは、頭の良し悪しではなく「意志」なのだという。
目の前の邪魔者を排除してでも蹴飛してでも目的を達成するという強い「意志」は、最短距離で勝利をつかませることができるだろうが、その目的には夢や憧れといったものは入り込めないし、そのような目的はいずれ綻びが生じ破綻するはずだ・・・・・そう思いたいのは、中途半端にイイ人を演じ微温湯に浸かったような中途半端な人生を歩んでいる私の精一杯の抵抗なのだろうか。

だが、最後に、悪の指南役は、このようなアドバイスもしている。
その十、殺しは一度始めるとやめられない。

殺人などという論外的な’’悪’’は兎も角として、「悪どい手段は一度始めると止められない」と置き替えることが出来る このアドバイスもシッカと心に留めながら、人生も中盤戦を迎えている自分は、最短距離の勝利も考えなければならないと思っている。

さて、本書を読んだ直後には、一層モヤモヤ感が深まった’’打者走者のプレー’’だが、J君の言葉で思い出した本のお蔭で、少し気持ちが晴れたような気がしている、その本については又つづく

追記
ミステリー小説である本書の(私的)一番の謎は、主人公が村椿なら何故に関係者のなかに、坂東の名がないのだろうか?という、この一点であったかもしれない。

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何に勝つ事が、勝ちなのか

2017-08-28 18:00:00 | ひとりごと
今年のお山の天気はサッパリだったので良い写真は撮れなかったのだが、それでもマシなものを探して記録しておこうと思いつつ、お山を下りるなり、それまで見て見ぬふりをしていた問題山積に登らねばならなくなり、写真の整理は滞りがちである。
そんな今日は、夏休み最後の週のはじまりなので、迷いに迷った事を、少し記しておこうと思っている。

近年の甲子園、いや甲子園をめぐる諸々には、モノ申したい事が多すぎるため、そこを目指し直向に頑張る球児を応援する気持ちに変わりはないものの、甲子園が果たす役割には懐疑的になっていた。
そんな気持ちを増幅させるような話が、この夏にはあった。

去年はただ「栄冠は君に輝く」(作詞・加賀大介、作曲・古関裕而)を気持ちよく歌っているだけの野球小僧が、今年は試合を見るたび解説してくれるまでに成長していたので、「打者走者は、左足で一塁ベースを踏むものなのか?」と訊いてみた。

野球小僧は「チビ子リーグの時には(ダイアモンドが)狭いから、歩幅が合わないこともあるけど、それ以後は自然に左で踏むようになる。そんなのは、野球教室で最初の頃に当然仕込まれること、右足で踏むと、左足が一塁手と交錯することになり危ないから」と当然のことのように、言った。

私がこの質問をする意味を、まだ理解しない素直な野球小僧は得意げに指南してくれたのだが、その答えは、高校野球に「さわやか真っ向勝負」を求めてきた私に、かなり苦いものを与えた。

「それほど常識的なものならば(まして同じリトルリーグで仕込まれているのだから)現役高校球児に訊いても仕方あるまい」と思いつつ、二度にわたる合宿から、真っ黒になり帰って来たJ君にも同じ質問をぶつけてみた。
さすがに私の問いが意図するところを理解しているJ君は、すっと表情をゆがめ、一言こう言った。
「だけど、走者とすれば、左足で踏んだ方が二塁へ加速しやすいという面もあるのだから・・・・・」

確かに必死の状況で、左右の歩幅を合せていられないのは確かだろうし、
ほんの一瞬のことを、素人が外野から云々するのは’’違う’’というのも確かだけれど、
君も本当は分かっているのではないかな J君
少なくとも、あの場面でのそれが、必ずしもフェアープレーとは云えないことを、
だけれども、物事や人の 悪い面や思いがけない失態を 悪意だけで受け留めたくない、という君の優しさが、
その言葉を言わせているのではないかな、
なぜなら あの場面は、二塁へ加速する云々は関係なかったのだから
それも分かったうえで、(見ず知らずの選手のために)そう言ってあげるのが、
J君の優しさであり良いところなのだけど、
その優しさと曖昧さが、気の弱さ優柔不断と映り、レギューラーを遠ざけたのではないかな?
そうだとしたら、寂しいことだね
それとも、
夏の大会に向けての猛練習の最中にも''うんこドリル''を手放せないところが、レギュラーを遠ざけたのかな?
そうだとしたら、その世界は そもそも本分をはき違えていると思うんだよ
けれど、おそらく君は、
自分に力がなかっただけ、と言いつつ、これからも頑張るんだろうな
どんな経験も生きる時がくる、生かせる人になる、そう信じて応援しているよ J君

野球小僧の意見を聞いた頃に読んでいた本は、この件について「なんとなくクロ」を裏付けるものだったので、どんよりとしていたのだが、J君の言葉を聞いて、まったく違う分野の本が思い浮び、そのお蔭で少し気持ちが晴れたような気がしている。

そんな二冊については、又つづく
お山の話 「2017 四方山話 その壱」も、おそらく続く


備忘録、「うんこ復活」

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わんこ と 人の物語 ③

2017-08-24 22:00:00 | ひとりごと
「2017 四方山話 ワンコ編」 「わんこ と 人の物語①」 「わんこ と 人の物語②」より

お仏壇の膳引きに、ワンコの写真や愛用の品をおき、
経机の横に置くワンコ愛用のオアシス(水飲み)に花を活け、
朝に夕に、日に何度もワンコを想いながら手をあわせるのが、我家みんなの日課になっているのは、
ワンコも知っているだろう

去年のお盆は、ワンコがお空組になって初めての夏だったから、
ワンコに読経を重ねるのが辛くて、
お盆に住職さんがお参りして下さる直前に、ワンココーナーの位置を一旦変えたんだよ

でも今は、ワンコがそこに居てくれるのは、私達にとって当たり前のことになっているだけに、
仏事として許されるのかという事を、住職さんに訊ねたそうなんだよ
尤もさ、今更それが適切ではない、とか云われても、
ワンコにとっても私達にとっても、そこはもうワンコの定位置ではあるのだけどね

でさ、答えは、
良いですよ、という事だったんだよ ワンコ
お仏壇の中に、ワンコのものをお祀りしてはいけないけれど、
お仏壇の前の膳引きや経机に写真やお供えをするのは、かまわないのだって ワンコ

住職さんは、
犬のためのお葬式を頼まれたこともあるそうで、
犬や猫が家族の一員であることは、よくよく理解されているそうだよ
(人のための)お参りでも、家族は皆ペットの写真ばかり見て、手をあわせている、
なんていう事にも、出くわされるんだってさ、
ちくと耳が痛いね ワンコ

住職さんは、
お仏壇の内と外の区別さえ、きちんとつければ、
ペットを切っ掛けに、お仏壇の前に身を正し静かに手をあわせる習慣をもつようになるのは良いことだ
と仰ったんだそうだよ ワンコ
いいね~御仏の世界

「この宗教のこの宗派しか天国に行けない」とかいう理由をお互い突き付け、戦い、
それを、双方が聖なる戦、なんて言ったりする世界もあるのに、
御仏の世界、いいね~すごくいいね~
八百万の神々というのも、すごく好きなんだけど、
犬も猫も ペットも家族ですね、と受け入れてくれる御仏の世界も
いいね~

そんな場面、
「わんこ と 人の物語②」で紹介した「学校犬 クロ」(藤岡改造)のなかにもあるんだよ
お空組に旅立ったクロのために、お別れの会が開かれるのだけど、
そこでは、僧籍をもつ教師がお経をあげたし、クロは位牌に戒名も刻んでもらったんだよ

こう書いたけれどさ、ワンコ
実は、家族として一緒に暮らした犬を見送る人の心情は万国共通のものかもしれないんだよ
クロのお別れの会で、校長先生が述べた弔事に、そう思わせてくれる詩があるんだよ

犬の墓碑銘
この小道をおとおりの方、もしや
この墓碑を見とめたとしても
どうか お笑いくださいますな
よし犬のお墓にしても
涙でおくられ、御主人の手ずから
灰をかきあつめたもの
そのうえその方が また墓標に
この墓碑を刻んで下さいました
~読み人知らず~


これは、大切にしていた愛犬を葬ったお墓のことをうたったギリシャの詩なのだそうだよ
ギリシャはもともと日本と同じで、神々を戴くお国柄だからかもしれないし、
人間とは本来そうしたものなのかもしれないけれど、
生きとし生けるもの全ての命を大切にする、この気持ち、
いいね~ワンコ

本書にはね、もう一つ詩が紹介されているんだよ 
それは、本書の作者によるものなんだよ

さよなら、クロ 藤岡改造
一、僕が声をかけると
  駈けてきて体すり寄せる
  何を言いたいのか
  つぶらな瞳は
  ただ一匹の犬だったけれど
  クロよ、お前は可愛かった

二、若さゆえのかなしみ
  それがわかったのだろうか
  泪つたう頬を
  ぺろぺろとなめた
  ただ一匹の犬だったけれど
  クロよ、お前はやさしかった

三、振り向くと立ち止まる
  歩き出すとまたついてくる
  まるで赤ん坊が
  母慕うように
  ただ一匹の犬だったけれど
  クロよ、お前は可憐だった

四、粉雪古寒い日
  愛する人らに送られ
  さすらいの旅路を
  旅立っていった
  ただ一匹の犬だったけれど
  クロよ、お前が懐かしい



犬を家族として暮らす人は皆、おんなじ気持ちを持つものなんだね ワンコ
ワンコよ、お前は可愛かった 優しかった、可憐だった
そしてワンコ、お前がどうしようもなく懐かしい

ワンコ 来月はお彼岸だよ ワンコ
空気が澄んで星がきれいに見えはじめるから、
一緒に星をみるため、帰っておいでよ ワンコ

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わんこ と 人の物語 ②

2017-08-23 21:30:30 | ひとりごと
「2017 四方山話 ワンコ編」  「わんこ と 人の物語①」より

ワンコ
「学校犬 クロ」(藤岡改造)については小説にも映画にもなったから、よく知られていると思うのだけど、
クロの一生を記しておくことにするね (『 』「学校犬 クロ」より引用)

クロは、どこからともなく松本深志高校に現れた わんこ なんだよ
躾もできていたし人懐こい性格だったから、元は飼い犬だったんだろうと思われるのだけど、
クロが新聞などに取り上げられても、元の飼い主は現れなかったから、正確なところは分からないんだよ

とにかく当て所なく彷徨い、学校に辿り着いたクロは、
そこにいれば生徒たちがご飯をお裾分けしてくれると理解し、学校に居つくようになるんだよ
遠慮しいしい体育館の隅で、生徒がくれる御飯のおこばれに与りながら暮らしていたクロは、
学園祭の出し物で、西郷どんが連れていた犬の銅像を見事に演じ、一躍スターの座を手に入れ、
それ以後は、校舎のなかを ねぐら にし、遂には校長室のソファーで寛ぐようにさえなるのだけれど、

クロはやっぱり、わんこなんだな
一食一飯の恩を律儀に果たそうとするんだな

夜の校舎は、’’トイレの花子さん’’ではないけれど、何となく怖いものなんだよ ワンコ
それは、大人である教師にとっても同じで、宿直で夜中に校舎を見回るのは不気味なことなのだけど、
いつからかクロが、夜回りの先導をするようになるんだよ
『クロはこれがまるで自分の仕事ででもあるかのように、どの先生やおじさんの夜回りにも一緒に行きました。毎夜欠かさず回ったというのも驚きですが、たんに習性でしたことだとは思われません。この学校で世話になっているのだから、お返しに、自分で出来るこれくらいのことはしなければと思っていたに違いないと皆そう考えていました。』

やがてクロは、※ 好きな授業を聴講するようになり、
職員会議にも出席するようになり、
ついには職員名簿にその名が記されるようにもなるんだよ

クロが、
青春時代らしい悩みをもつ生徒のそばにソッと寄り添ったり、
激論で長引く職員会議の空気を和ませたりするのを、
一食一飯の恩のお返しと捉えるのか、
人といて、人を幸せにすることに喜びを感じるのが犬なのだ、と捉えるのかは、
人によって考えが分かれるのかもしれないけれど、
とにかくクロがいる学校は幸せだったと思うし、クロ自身も楽しく過ごしていたと思うんだよ

そんな学校が、悲しみに、大きな悲しみに包まれたことがあるんだよ
1972年(昭和42年)8月1日、西穂高独標落雷事故が起こり、
松本深志高校の学校登山行事に参加していた生徒さんが落雷に遭い、
11人が亡くなり、たくさんの怪我人がでたんだよ
遺体は次々とヘリコプターで校庭に運ばれ、
学校中が深い悲しみに包まれ、沈んだ気分がずっとずっと続いたそうなのだけど、
この時もクロは、皆の心に寄り添い力になったんだそうだよ
『それからはクロに声をかけたり、頭をなでたり、首をさすったり、クロを相手に長々と話をする先生や生徒が急に多くなりました。クロは嫌がったりせず、いつまでもその相手をしていました。皆クロと触れ合うことで気持ちが癒されていたに違いありません。
クロは先生や生徒たちの心のなかに、微かながらも灯りをともす役割を果たしたのでした。(この事故のあと)学校の中でクロとみんなの心が深く触れ合うようになっていったのでした。』

こんなクロも年をとり、やがて眠りにつく日が来てしまうんだよ
だけどね ワンコ
クロのために盛大な「お別れの会」が開かれるんだよ ワンコ
それは、旧職員や元生徒もかけつけ総勢1200人を超す会となり、
僧籍をもつ教師が読経をあげ、校長先生が弔事を述べ、応援団長が会を取り仕切るというもので、
最後には皆で校歌を歌ったそうなのだけど、
入学式や卒業式や記念式典などの晴れの舞台以外で 校歌が歌われたのは、
後にも先にも、西穂高落雷事故の学校葬とクロのお別れの会だけだというから、
どれだけクロが、この学校で愛されていたかは、分かるだろう ワンコ

この お別れの会で朗読されたギリシャの詩や、先生や生徒の詩歌には心を打つものが多いから、
それは又つづく とするよ ワンコ

追記 ※
クロは、どの学年のどんな授業も聴講することを許されていたんだよ
先生も生徒も「クロが生徒だったらトップクラスだろう」と思うほど、
クロはしっかり授業を受けていたのだけど、
クロが得意だったのは、どうも語学らしいんだよ
国語と英語の授業は特にしっかり受けていたというんだよ ワンコ
ワンコと一緒だね 
ラジオで語学講座を聞く私達の側で、いつも真面目に勉強していたから、
ワンコは語学が得意だったね ワンコ 「ワンコの愛 その2」
お空組でも語学の勉強を続けているかい?ワンコ

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