何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

舌かんで反省したい 冒頭追記~舌かんで猛省すべし

2017-04-28 21:38:55 | 
<4月30日深夜に記す>
28日に掲載した本文末尾に、『丸山眞男氏と云えば、有名な「堕落論」がある。丸山氏が指摘しているより更に質の悪い「堕落」が現在横行している。そこあたりについては、また書くかもしれない。』などと書いたが、これは、まさに「舌かんで死んじゃいたい」くらいの間違いであり、「堕落論」坂口安吾氏のものであった。
あまりに情けない間違いであり、こっそり訂正加筆してすむレベルのミスではなく、このブログを閉じた方が良いのではないかと思うほど落ち込んでいる。
ともかく今は、自分のバカさかげんを猛省する為、間違い記事の冒頭に、訂正を掲載しておく。

                ~~~以下が28日の間違い本文~~~

’’赤’’頭巾ちゃんを話題とするから、というわけではないが・・・
咲き誇る牡丹の花

先日ひょんなことから「赤頭巾ちゃん気をつけて」(庄司薫)を思いだし(「’’虚栄’’が打ち砕く希望」)、少し読み返していた。
これを最初に読んだのは高校生の頃のことで、お決まりのように「ライ麦畑でつかまえて」(J・Dサリンジャー)と併せて読んだのだが、頭の固い私にはどちらの本も共感のしどころが今一つ分からなかった・・・今となっては頭が弱い自分を反省している。

だが、この度 本書「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読み返し、というよりも、その解説(苅部直)を読み、自分の’’読み’’が如何に浅かったかを痛感し、反省している。
そう、本書の著者・庄司薫氏は、あの丸山眞男氏の門下生だったのだ。
この事実に留意し本書を読み返せば、さりげない調子で書かれている一文にも深い味わいが生じてくる(本来なら、作者の背景など知らずとも、その行間を理解できねばならないのだが)。

(『 』「赤頭巾ちゃん気をつけて」より引用)
『たとえば知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そして飛んだり跳ねたりふざけたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きな優しさみたいなもの、そしてその優しさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか』

「赤頭巾ちゃん気をつけて」のこの部分に目が留まったのは、やはり先頃 再読していた「人生論ノート」(三木清)が云う知性論に通じるものがあるからだ。(「あぁ勘違い人生論ノート①」
三木清氏は、「知性とは主観的なものだ」と云う。

(『 』「人生論ノート~孤独について」(三木清)より引用」
『感情は主観的で知性は客観的であるといふ普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情でなく知性に屬するのでなければならぬ。』

哲学書を読むのは嫌いでないくせに、それが意味する深い処を理解する頭がないため、三木清氏の「知性こそ主観的なもの、人格的なもの」を具体的なイメージでもって捉えることが出来ずにいたが、それが「赤頭巾ちゃん気をつけて」を併せて読むことで形をなし、更に一つの方向に収斂されてさえいったのだ。

『何でもそうだが、要するにみんなを幸福にするにはどうしたらいいのかを考えてるんだよ。全員がとは言わないが』(「赤頭巾ちゃん気をつけて」より)

「知性」が、賢しらでもなく奸智でもなく、知性たる所以は、「要するに皆を幸福にするにはどうしたらいいかを考える』知恵だからだと思う。
そうであれば、確かに「知性」とは主観的でなくてはならないのだろう。

三木清氏が「知性」について考えねばならなかったのは、あるいは丸山眞男氏の門下生である庄司氏が、くだけた文体のなかで「知性」について書かねばならなかったのは、三木氏・丸山氏がともに「知性」の使いどころを真剣に考えねばならない時代に生きた人であったからだと思うのだ。

丸山眞男氏と云えば、最近では「丸山眞男をひっぱたきたい」という論考が有名だ。
これは最近の「希望は戦争」と語る若者の生態を、第二次世界戦下の兵隊の思考になぞらえた論考だ。

「丸山眞男をひっぱたきたい」曰く、
東京帝国大学法学部を卒業し、若くして将来を嘱望された丸山氏だが、リベラリストとして逮捕歴があったため二等兵として戦場へ送られる。
一たび戦場に赴けば、中学にも進んでいない一等兵からぶんなぐられる日々であった。
それは偏に、戦争により俄かに’’力’’を手にした者による、知的なエリートに対するウップン晴らしであったが、そのような一発大逆転が起こり得るのが「戦争」なのだ。
そして、現在の鬱積している若者は、それと似た衝動でもって「希望は戦争」と言う(のだそうだ)

丸山氏は戦後母校の東大で教鞭をとるが、今度は学園紛争で、東大生からぶん殴る対象とされてしまう。
「そろそろ殴っちゃおうか」「ヘン、ベートーヴェンなんか聞きながら学問をしやがって!」と言いながら、自分を殴ろうとする(全共闘の)学生に対し、丸山氏は「君たちのような暴挙はナチスも日本の軍国主義もやらなかった。わたしは君たちを憎みはしない。ただ軽蔑するだけだ」と言い放ったという。

戦前も戦後も、その圧倒的な知性ゆえに ぶん殴る対象とされ続けた丸山氏は、生涯 「知性とは、知性の使いどころとは」と考えられたのかもしれない。
そのような丸山氏の門下生である庄司氏によって「赤頭巾ちゃん気をつけて」が書かれたことを意識して読めば、くだけた調子の文のなかに、真の知的なエリートが果たさなければならない役割について書かれていることに、気付かされる。
だが これも、「赤頭巾ちゃん気をつけて」の解説から、その周辺の本をあたったことで気が付いただけで、本書を読むだけで、そこまで理解出来たわけではない。
読書の道は、まだまだ遙か遠くまで続いている。
「舌かんで・・・」と反省しながら、本を読んでいこうと思っている。

ところで、丸山眞男氏と云えば、有名な「堕落論」がある。
丸山氏が指摘しているより更に質の悪い「堕落」が現在横行している。
そこあたりについては、また書くかもしれない。

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連作③ 山犬ヤクルト

2017-04-26 00:05:25 | 
「連作① 山犬ヤクルト」 「連作② 山犬ヤクルト」より

ワンコを天上界に見送る時、庭の草花を目印にいつでも帰ってくることができるよう、何年も庭に根づいてくれている草花の葉をお伴させた~今そのうちの一つフリージアが満開を迎えている。
  
それ以来、ワンコが使っていた水飲みオアシスに、生花を絶やすことはない。

私は、直植えであれプランターであれ四季折々の花を楽しむのは好きだが、実は、生け花というか切り花を飾るのが、あまり好きではなかった。
プツリと切り取られた「生」が、きれいに飾られていることが却って残酷に思えたからだが、そんな私でも、客人を迎える時には必ず生花を活けると決めてきた。それは、切り花が切り取られた「生」であろうと、「生」である限り、一期一会の心持で客人を迎えることに繋がると考えてきたからだ。
だが、ワンコがお空組の住犬になり、ワンコが17年使用したオアシスにワンコを想いながら花を活けるようになり、生花を飾ることに、これまでとは異なる気持ちを持ち始めている、そんな私にうってつけの一話も本書には収録されていた。

「山猫珈琲」(湊かなえ)
それは、湊氏が中学校の国語の授業の振り返って書かれたエッセイだった。

友がみな 我よりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ  石川啄木

国語担当の教師は、この石川啄木の歌を紹介しながら「さて、啄木が買った花は何だと思うか」とクラスの一人一人に質問したという。
40人の生徒は、それぞれに「タンポポ、バラ、チューリップ」と花の名をあげ、作者は「キキョウとリンドウ」と答えたという。
このような経験をもつ作者は、「家に花を飾るのは、ほとんどの場合、お祝い事が多いけれど、自分は違う」と云っている。
(『 』「山猫珈琲」より)
『自分の在り方に迷ったり、仕事で行き詰まったり、先が見えず不安になったりした時こそ、啄木の歌を思いだし、花を飾るようにしています。そんな気分になれない時も、気力を振り絞って花屋に行き、欲しいと感じたものを購入し、家で眺めていると「こういう日があってもいいんじゃないか」と心が落ち着いてきます』

思えば私も、ワンコ・オアシスの花を選ぶ時、花を活ける時、ワンコに相談や報告をしている自分に気付く。
それで何かが変わるわけではなくとも、花を眺めながらワンコと話していると、「こういうこともあるんだよ、こういう時もあるんだな」と落ち着いてくる自分が、確かに いる。
これは、花がら摘みや追肥のタイミングを考えながら庭の花の世話をしている時とは、違う趣をもっており、今ではワンコ・オアシスの花を選び活けるのは、私の大切な時間となっている。

ところで、このエッセイの末尾で作者は、『先の歌、皆様はどの花を思い浮かべますか?』と問いかけてくるのだが、想像力が乏しいせいか「これだ!」という花が浮かばない。
花の名は浮かばないのに、『~を思い浮かべますか』のフレーズから全く異なる質問を思い浮かべた私は、とことん集中力散漫な人間だと思うのだが、その全くことなる質問とは?
何年か前のことだが、「好きな映画を三つ、思い浮かべてみて」と言われたことがある。これで心理分析ができるという。
自分がその時、どの映画を思い浮かべたのかも、それで何が分析できるのかも忘れてしまったが、この質問だけは妙に心に残っていた。

氏の「山猫珈琲」ならぬ、私の「山犬ヤクルト」の末尾、同様の言葉で締めくくってみようと思う。
・・・先の心理テスト、皆様はどんな映画を思い浮かべますか?

追記
今、ネットをあれこれ検索してみると、それは どうも有名な心理テストのようで、幾つものサイトがヒットした。
どうやら、一番目に思い浮ぶ映画は「自分がどう見られたいか」を、二番目に思い浮かぶ映画は「自分の根底に流れるテーマ」を、三番目に思い浮かぶ映画は「バランスの取り方」を表しているようだ。




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連作② 山犬ヤクルト

2017-04-23 18:55:05 | 
「連作① 山犬ヤクルト」より

「嫌ミスの女王」の登場人物の感覚に共感することが多い私は、私自身「嫌な人」なのだろうかと思っていたが、作者と身にまとう「時代の空気」が近いことが、その理由の一つにあると、「嫌ミスの女王」初のエッセイを読み理解できた。

作者が云う『祭のあと世代』に属する者が皆「似ている」と言い切ることは出来ないので、他にも理由を探すと、やはり本書の題名に行きつくのではないかと感じている。
「山猫珈琲」(湊かなえ)

作者自身は、「山」「猫」「珈琲」に絶対の拘りがあるのかもしれないが、「海」「犬」「紅茶」を好む人が読みづらい本では、決してない。
要するに、雄大な自然と、生活空間にいる愛おしい動物と、ホッと一息つける一杯の飲み物が、湊氏の怒涛の作家生活を支えているということなので、他の何かを排斥する意図はまったく伺えない。
ただ、その冒頭にあげられるのが「山」であることに強い共感を覚え、『祭のあと世代』と相俟って、「似ている」に繋がるのかもしれないと、自分なりに分析している。
天狗池から望む槍ケ岳

湊氏は、北穂のてっぺんから槍ケ岳の雄姿を見た感動と、その感動が導くままに北アルプスを縦走した経験と、それらに重ねた人生論を語っておられるが、その感動と感想は、そのまま私の想いに繋がってくる。

『山は寛容な存在です。
日常生活において、目標に向かって必死に努力しても、すべてが報われるわけではありません。
運に恵まれなかったり、他者からの妨害にあったり、自分の実力に限界を感じてしまったり。
しかし、山は一歩一歩進んできた人を温かく迎えてくれます。その頂を踏ませてくれます。
頂から眺める自分が歩いてきた道は、努力のあとであり、今後の自信にもつながります。
もちろん、時には引き返さなければならないことも、頂上が見えているのに、諦めなければならないことだってあります。
しかし、山はそこにあり続けてくれます。何十年の時を経て、再挑戦することもできるのです。
そして、成功出来れば、また、次の山に登りたくなるのです。』(『 』「山猫珈琲」より)

私が初めて登った3000メートル級の山も北穂高だったこと、そこから見た奥穂と槍ヶ岳の雄姿に高揚感が掻きたてられたこと、それらの華々しさとは異なる常念岳の安定感ある大らかな山容に感動したこと、何より一歩一歩歩くことに人生を重ねること、これら全ての経験と感動が、湊氏のものと重なることが、何がしか「似ている」と感じさせる要因になっているのではないかと、今は思っている。

かなり疲労困憊している現在、初めてのあの山を思いだし活力を得たいが、フィルム派だった当時の写真をスキャンしたりネガをデジタル化する元気と時間がないので、昨年登った蝶が岳から望む穂高連峰と槍ヶ岳の雄姿をここに掲載し、元気をもらおうと思っている。
 

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連作① 山 犬 ヤクルト

2017-04-22 13:00:00 | 
猛烈な忙しさだけではなく心配事もあり、なかなか本を読む時間がないのだが、忙しいからこそ気分転換が必要であり、そのような時にエッセイ集などは、有難い。

タイミングよく、ある作家さんが自身’’初’’となるエッセイ集を刊行されたというので、読んでみた。

以前から、ミステリー作家と云われる彼女の作品の、謎解きテクニックの良し悪しは兎も角、登場人物の心情に自分に似ているものを感じていたのだが、彼女が「嫌ミスの女王」と云われる作家であるため、「似ている」と言うのが憚られてきた。
だが、エッセイ集を読み、「似ている」理由がよく理解できた。

「山猫珈琲」(湊かなえ)
帯びには『好きなものは、「山」と「猫」と「珈琲」 これらのお陰で怒涛の10年を乗り越えることができました」とある。
読ませる本をコンスタントに出版するのは大変なことだと思うが、情報が東京に一極集中している現在、地方在住で売れる(評判となる)作品を世に出し続けることは、読者の想像を超えるほど難しいことのようだ。

本書は、湊氏が作家になる以前の学生時代の後半から、淡路島で作家生活を送る現在までを振り返ったエッセイ集であり、タイトル以外の様々なことが綴られているのだが、タイトルが「山猫珈琲」とされるほど、これらは湊氏の怒涛の10年を支えてきたのだと思われる。
だが、タイトルが「山」「猫」「珈琲」だからと云え、「海」「犬」「紅茶」を好む人が読みづらいということは、決してない。
私の場合、さしずめ「山犬ヤクルト」といった感じだが、「(やはり)似ている」と感じるのは、全ての前提となる「身にまとう時代の空気」が同じだからかもしれない。

氏は、ご自身を『祭のあと世代』だと称している。
「バブルが終わった後、社会に出た世代」を、彼女はそう命名しているのだが、この感覚が私にはよく分かる。
勿論 バブル崩壊後、失われた10年とも20年とも云われる時代がくるのだから、日本には『祭のあと世代』と感じる人は多くいるとは思うが、在学中にバブル崩壊を目の当たりにし、就職氷河期の先陣をきり社会に出なければならなかった世代には、その世代にしか分からない’’もの’’があると思う。
この独特の’’もの’’を共有していることが、湊氏の作品に、自分に似ている何かが見つかる理由ではないか、と今は感じている。

さて、上下巻のエッセイ集には、「時代の空気」以外にも私と共通するものがあり、その一つが「山」であるが、それについては又つづく、とする。

追記1
先日読んだ「少女」(湊かなえ)は、設定がとんでもないため、その感想を書きあぐねていた。
本の帯には、大文字で「人が死ぬのを見てみたかった」と書かれ、続けて「少女たちの無垢な好奇心は日常を変え、物語は思いもかけない結果を迎える。女子高生たちの衝撃的な夏休みを描く長編ミステリー」とある。

本書「少女」は、親友の自殺を目撃したことがあるという転校生の告白を聞いた女子高生二人が、自らも人の死ぬ様を目撃したいと思い、それをてっとり早く実現させるため、夏休みに老人ホームや小児病棟でボランティアをするというストーリーである。
女子高生の「人が死ぬのを見てみたかった」という心情も、それを「無垢な好奇心」と表現することも到底理解できないのだが、この女子高生が呟く ある言葉には、大いに思い当たる節がある。

『自分を不器用だという人の大半は、気が利かないだけなんじゃないかな』

他者を評して、「〇〇さんは、不器用な人だ、不器用な生き方だ」と言うときの「不器用」は、マイナスイメージではなく、「真面目で誠実だが世渡りが上手くないため損をしている」という、ある種の共感をこめた意味合いで使うのではないだろうか。
だが、時折 自分のことを「(上記のニュアンスで)私って不器用だから・・・」と言う人を見かけることがある。
そして、そのような人に限って、そのような人柄ではない場合が多いと感じるのは、私が「嫌ミス」ならぬ「嫌な人」だからだろうか。
そんな私は、『自分を不器用だという人の大半は、気が利かないだけなんじゃないかな』という言葉に大いに肯いたのだが・・・・・
どこからか、「お前が言うなよ」という声がしてくるような気がしないでもない。

追記2
人が死ぬ場面に出くわしたいという目的は、そこそこ達成されるのだが、「人の死を知るという一夏の経験で、少女は改心し優しい大人の女性への一歩を歩み出した」と、ならないところが、「嫌ミスの女王」の女王たる所以だと感じさせる結末の物語だった。

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ワンコの一句一遊

2017-04-20 09:51:25 | ひとりごと
図書館や本屋さんにいると、「今日は、ワンコからのお告げがありそうだな」という予感が働く時があるんだよ

世界と我が家を俯瞰するワンコ

ワンコが天上界から「読め」と指令してくれる本は、この一年3か月で何冊にもなり、
毎月20日には、その本について記すことが多いのだけど、
正直なところ、「今月は無理だろう」と思っていたんだよ ワンコ
ワンコも知っている上司のご病気のこともあるし、この時期は猛烈に忙しいから、
落ち着いて本を読む時間がないんだよ
だから、きっとワンコのお告げもないだろうと思っていたのだけれど、
ワンコはさすがだね
時間がなくても読むことができる本を教えてくれたんだね ワンコ 

「犬がいる暮らしを詠む わん句 歳時記」(吉田悦花)

返却するためだけに行った図書館のディスプレイに、この本は置かれていたんだよ ワンコ
風流を解さないせいか、俳句にはとんと縁がないのだけれど、
本書の表紙を飾っているチビわんこが、ワンコがおチビだった頃に似ているから、
迷うことなく借りてきたのだけれど、やはりワンコの仕業’’愛’’を感じたよ

本書は俳句の本だけに、季節の花々の写真がふんだんに載せられているだけでも目に優しいが、
「わん句」に合う犬の写真が心を和ませてくれるんだよ ワンコ

怒るんでないよ ワンコ
一般的に「犬」という言葉は、ロクな響きを持っていないんだよ、犬畜生、犬侍、犬死
犬好きの著者は、それを怒っているのだけれど、
「犬」が、「戌」とも「狗」とも表記されることに目をつけ、
とくに「狗」が、けものへんに「句」と書くことから、俳句と狗とに通じるものがあるのではないか?と考え、生まれた本が、本書なんだよ ワンコ
でもさ、ワンコ
一般的な辞書的意味合いが悪いせいか、
『犬のことを詠んだ俳句にも、なんとなく見下したような哀れさばかりが漂うもの』が少なくないそうなのだ
ただ、物事の本質を見極める偉大な人は、見るべき所を見ているんだよ
犬を詠む多く句のなかで、
松尾芭蕉与謝野蕪村小林一茶、そして正岡子規が犬に向ける視線は親しげで温かいんだよ

犬どもがよけてくれけり雪の道  小林一茶
・・・・・’’ども’’という語感は好ましくないけれど、
     まだ誰も踏んでいない真っ白な雪の上を歩くのが好きだったワンコの姿が目に浮かんだんだよ
     
藪入や犬も見送るかすむ迄  小林一茶
・・・・・ワンコは、出かける家族を見送るということはしなかったけれど、
     出迎えは、必ずしてくれたね ワンコ
     それぞれ帰宅時間は不規則なのに、うまい具合に玄関マットで寝そべり待ってくれていたね ワンコ

ワンコとの「約束の星」を持つ私には、心に響く句があったんだよ ワンコ

七夕や犬も見あぐる天の川  正岡子規
・・・・・ワンコの夜鳴きコーラスと丑三つチッチで、二人して夜空の星を見上げるようになったのは、
     七夕を過ぎた頃からだけれど、
     病に冒されていた子規が、どんな気持ちでこの句を詠んだのかと思うと、
     あの頃の私達を思いだし、切ないよ ワンコ

でもね ワンコ、今は夜空を見上げると、ワンコの’’愛’’を感じるんだよ
そう確信させてくれる句があるんだよ ワンコ
この句を伝えるために、本書の存在を教えてくれたんだろう ワンコ

銀河の下 犬に信頼されて行く  西東三鬼

今思い返してみても、ワンコに信頼されていたというよりは、
私達の方が絶対的にワンコを信頼していたのだと思うけれど、
そこには確かに、’’愛’’があったと確信しているんだよ ワンコ
’’愛’’とかアガペーなんて言葉は捉えようがないけれど、
ワンコを想う心には確かに’’愛’’があり、何か普遍の豊かさを感じさせてくれるんだよ ワンコ
その感覚が、この句にピッタリなんだよ ワンコ

ワンコに触れることができなくなり二度目の桜の時期が過ぎ、
寂しいことには違いがないけれど、本を読むとき旅するとき
いつもワンコと一心同体組だと感じる不思議な愉しみもあるんだよ 最近では

ワンコ ワンコの嫌いな暑い夏がくるまでは、
我が家でまったり過しておくれ ワンコ
頼むよ ワンコ

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