何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

極乱を正すのも国民のはず

2016-03-31 21:13:05 | ニュース
最近こそ「なるようになる」をモットーに「安くて美味しい」が食卓の至上命題だが、以前は、狂牛病が危険だと聞けば、とりあえずミンチは止めようと数年間ハンバーグを食さず、鳥インフルが危ないと聞けば、無理をしてでも安心安全をうたう高級卵を購入していた。このような食の安全問題のはしりとなったO-157カイワレ事件も、今となっては当時の厚生大臣がカイワレを食べている姿しか思い浮ばず、すっかり油断していたが、今一度食の安全に関心を寄せねばならないと思わせる悲しい出来事があった。

<堺O157食中毒で4人目死者、20年前小1の女性> 2016年03月31日読売新聞より一部引用
堺市の学校給食が原因で1996年7月に発生した病原性大腸菌Oオー157による集団食中毒で、同市教委は30日、当時小学1年生だった同市北区の女性(25)が昨年10月、後遺症で死亡したと発表した。発生時に小学生3人が死亡し、死者は4人目となった。
降圧剤を服用し通院治療を続け、結婚して夫と2人で暮らしていたが、昨年10月10日夜、就寝中に嘔吐おうとして救急搬送され、翌日、腎血管性高血圧による脳出血のため死亡した。


食の安全については、これまでも遺伝子組み換え食品や無農薬野菜に関する本について書いてきたが、食品・産地偽装も含めた食の安全で問題となるものの一つにマスコミの報道姿勢もあるのではないだろうか。
誰もが関心をもつ重大な問題だけにマスコミが熱心に取材・報道をするのは当然だが、それは科学的知見に基づいたものというよりは、ともすれば犯人探しの様相を呈し、風評被害と悲劇を生み(カイワレ風評被害は国家賠償訴訟に発展し、鳥インフルに感染した養鶏業者は夫婦で自殺される等)、それゆえ更に国民の疑心暗鬼に拍車がかかり混乱を拡大させるという点でマスコミの問題は大きい。

これで思い出したのが、「極卵」(仙川環)だ。
~帯裏から~
有名自然食品店で売り出された卵は、極上の味がキャッチフレーズの高級商品『極卵』。
安全、安心だったはずなのに、猛毒による食中毒事件が発生する。
時間が経つうちに感染者が急増し、次々に死亡。
過激化した消費者団体は業者を糾弾し、大手マスメディアは過熱報道を増していく。
しかし取材を始めた瀬島桐子に前に、隠蔽された驚くべき事実が浮かび上がってきた・・・。

江戸時代から甦った極上の自然卵(4個1000円)を原因とするボツリヌス症で、神経麻痺や死者まででているにも拘らず、養鶏業者を調べても菌は検出さないままに、問題は遺伝子組み換えの是非や採算を取ることを急ぎすぎるアグリビジネスの闇に移っていく。
この過程でマスコミの餌食となる養鶏業者の父が自殺する場面が印象に残った理由は後ほど書くとして、新聞社勤務の経験を有する仙川氏が本書の作者であるだけに、主人公の女性記者に語らせるマスコミの問題点は核心を突いている。

『大きな事件が起こるたび、マスコミは誰かを叩く。
 責任の所在がはっきりしている場合は分からないでもないが、白か黒か分からないグレーであっても容赦なく叩く。
 メディアスクラムという言葉では生ぬるい。
 あれは、取材の名を借りた公開リンチだ。』

『詰め腹を切るなんて、現代では通用しないやり方だ。でも、それを求める空気が、この国にはある。』
『あの状況(熾烈を極めた取材攻勢)で、関係者が死を選ぶことを全く考えないなんて、あり得ない。
 多少、心の片隅で心配しただろう。
 でも、そのことに目をつぶり、自分達の正義、あるいは、ウップン晴らしを優先したのだ。』

マスコミは往々にして、自分達の正義あるいは結論が既にあり、それに都合のいい事実だけを挙げ連ねるならまだしもましで、自分達にとって都合のいい事例を捏造することすらあるように思う。
しかし、その公開リンチでウップン晴らしをしているのは、マスコミだけではない。
本書では、安全食品を標榜する消費者団体の 『自分が正しいと思う主張を通すためなら、デマを流してもいい』という異常性も強く書いているが、その一方で、公開リンチを見てウップン晴らしをするだけで、正しい世の中を実現させる努力をしない人間も強く非難している。
『あなたは、穏健なインテリの仮面をかぶった偽善者だ。
 あるいは、目の前にあるものを見ないふりをしている卑怯な人間だ』

これまでも食の安全と採算の取れる農業については関心をもって書いてきたが、同じジャンルの本でありながら、本書をマスコミ取材の問題点という点から読んだのには、理由がある。

作者・仙川氏は阪大で生命科学を学んでおり、そのような経歴をもつ作家の本は漏らさず読むことにしている私が、「極卵」を手に取ったのは、発売から間もない2014年の秋だった。

2014年 夏から冬へ
敬宮様へのバッシングは熾烈を極めていた。
毎日毎朝、学校にマスコミが張り付き、その通学状況が翌週には大見出となり大バッシングとなった。
通学状況から苦手な科目を詮索し、運動会や休日の様子を暴露風に書きたて、手の所作(体の前で組むか体側にそろえるか)から両親より半歩前に出た足の先まで、まさに一挙手一投足を叩いて叩いて叩きのめした。
ごく一般的な家庭の児童・生徒であっても、通学に不安を抱え悩んでおれば自殺の危険性が生じるというのに、敬宮様は通学状況はおろか息をすることすら叩いてやると云わんばかりの悪質なバッシング記事が垂れ流されたのだ。

異常だった。
正気の沙汰ではなかった。
公開リンチだった。

この問題が生じたのが、ある新聞が女性皇太子の誕生について言及した「愛子様が将来の天皇陛下ではいけませんか」(田中卓・皇學館大学元学長、古代史の泰斗であり皇學館大学名誉教授)を記事にした時期に重なるため、一連のバッシングが私には、「東宮に女子の命は不要」という最後通牒のように感じられたのだ。
自分達の大義なり結論なりに固執するある筋とそれに同調する者による、公開リンチ

このような時期に「極卵」に出会ったので、食の安全よりも、メディアスクラムの問題点とそれを容認する国民に注目して読んだのだ。

本書は最後に、『手段を選ばす自分の主張を通そうとする人たちを許すことは出来ない』 が、実効性があると断言できる方法を示すことも難しい、と書いている。しかし、こうも書いている。
『対話で解決する道を放棄したら、そこで終わる。
 そして、サイレントマジョリティーは、手をこまねいている人ばかりではない』

目の前にあるものを見ないふりをする卑怯な人間にはなりたくない、偽善者であってはならないと思い悩んでいるうちに、弱冠13歳の敬宮様は御自身で、その苦境を乗り越えられたが、この国に蔓延するウップン晴らしの悪臭は、出口を求め今現在もそこかしこに漂っているので、これからも地道に頑張っている人を応援していきたいと思っている。

言いたい放題やりたい放題が大手を振って歩いている世の中に、一矢報いんと今日も応援ブログを書いている。

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空と命を守る勇者を 守れ

2016-03-29 23:51:25 | ニュース

第1輸送航空隊のC-130H輸送機


<安全保障関連法が施行=政府、世論にらみ慎重運用> 2016/03/29-05:03時事通信より引用
日本が直接攻撃されていなくても集団的自衛権による武力行使を可能とした安全保障関連法が29日、施行された。自衛隊は安保法施行を受け、多様化する任務に対応するための訓練を本格化させる。夏の参院選をにらみ、野党が憲法違反として安保法廃止を求めるのに対し、政府は当面、慎重な運用に努める考えだ。


今日が、戦後日本の歴史的転換点の日だから、のっけから航空自衛隊のC―130Hの写真を掲載したわけではなく、まったくの偶然だ。
先日、元自衛隊一等陸佐が南アルプスを砦に都民1300万人を人質にしたテロを起こす「ブロッケンの悪魔」(樋口明雄)を読み、自分の知らないところで犠牲を払い安全安心を守ってくれている人がいるのだと改めて思い、何か自衛隊に関する本を読もうかと思い探していたところ、目についたのが、このC―130Hを物語の中心にすえた「天空の救命室~航空自衛隊航空機動衛生隊」(福田和代)だったのだ。
これこそまさに国民の命の最後の砦!にもかかわらず、あまり世間に知られていない存在かもしれない。

『 』本書より引用
『航空機動衛生隊は、愛知県の小牧基地に置かれた部隊だ。名古屋市の北側、小牧市、春日井市、豊山町にまたがる基地だ。東京ディズニーランドがすっぽり収まる広さの土地に、およそ二千人の自衛隊員が勤務している。
国内はもとより、海外への輸送も担当する第一輸送航空隊が所属し、PKOやイラク復興支援などの任務でも活躍した』

小牧基地には他にも、管制官の養成などを実施する学校や、整備を実施する航空救難団整備群や、航空救難団の教育・訓練を行る救難教育隊など特色ある部隊が揃っているが、『航空機動衛生隊は、なかでも少人数の部隊だ。隊長、弓削史郎一等空佐のもとに二班。ユニットに乗り込んで現場で医療行為を行う医官や救急救命士らの「機動衛生班」と部隊運用の事務作業を担当する「総括班」に分かれる。現在、部隊が保有するユニットは二つあり、一ユニットにつき医官、救急救命士、看護師、管理要員の四名がつく』

本書によると、航空機動衛生隊が設立されるきっかけとなったのは、阪神淡路大震災だったそうだ。
当時我が国の人口一人当たりのヘリコプター保有台数は世界有数だったにも拘らず地震発生から24時間以内に患者を輸送できたヘリコプターは、たった一台だったという反省や、米英蘭といった先進国では1970年代からドクターヘリが活躍しているのに対して日本は90年代にやっとその検討が始まったばかりでしかないという危機感が、逆に、世界で初めてとも云える「機動衛生ユニット」というシステムの構築に繋がったのだ。
『有事の際に、広域で医療・救急活動を行えば、さらに多くの命を救うことができる。大規模な震災が発生すると、現地の医療関係が混乱することが多い。一般的なドクターヘリの輸送距離は四百キロメートル程度だが、輸送機なら最大四千キロメートルだ。滑走路さえあれば、日本中ほぼどこにでも、二時間もあれば重症患者を搬送することができる。電源を失うなど、被災地の病院が十全に機能しなくなるケースも考えられる。そんな時に、被災地の外に患者を運び、手厚い医療を受けさせることが可能になるのだ。』
そこで、防音性能と電磁波遮断性能を備えたコンテナの内部に、超音波診断装置から人工呼吸器、輸液ポンプ・シリンジポンプ、血液ガス分析装置、除細動器、血圧や脈拍の監視モニターなどICUで使われる様な医療機器を詰め込んだのが、C―130H「空飛ぶICU 機動衛生ユニット」なのだ。

これだけ機動性に富み効果も見込まれる「機動衛生ユニット」ではあるが、利用された案件がさほど多くはないのは、自衛隊の災害派遣に関する3要件である公共性・緊急性・非代替性を満たしたうえで、各都道府県知事による災害派遣要請を受けての活動に絞られるからだが、『東日本大震災で重傷を負った心不全の九十代の女性を、北海道の千歳から岩手県の花巻まで搬送した案件を皮切りに、毎年着実に実績を増やし続けている。三例目となった平成24年8月の案件では、肝不全と腎不全を持つ五十代の女性について、岡山県肝腎同時移植を実施することになり、航空機動衛生隊が青森県から岡山県までの搬送を行った。この時、搬送後に行われた手術が、我が国初の肝腎同時移植手術になったのだ。これまでドクターヘリや消防防災ヘリなどが担ってきた搬送業務だが、輸送機による長距離搬送という選択肢が生まれたことで、救える命が増えたのだと影吾は誇らしく思う』
ここで、「空飛ぶICU」を誇らしく思っているのが本書の主人公・内村影吾だ。
影吾は防衛医大で学んだあと曹長・二等空尉と昇進し、現在は一等空尉として機動衛生ユニットで活動する傍ら、週に二回は地域の拠点病院でもある救命救急センターで医療技術を磨いている。この物語の主人公は医官・影吾ということになってはいるが、「空飛ぶICU」こそが本物の主人公なので、影吾関係については防衛医大の指導教官の『頭は冷たく、心は熱く』というアドバイスしか印象には残らなかった一方で、「空飛ぶICU」のパイロットの描写は生きている。

ベテラン医師は若手の影吾に『程度の差はあるが、患者が大変な思いをしていることには変わりがない。症状が軽いから重要じゃないわけではないんだ。患者の辛さを、医者が決めることはできないよ』とアドバイスするが、それは鰐淵機長の、「運ぶものが何であれ、それを待ってる人がいるんだからパイロットが勝手に積荷の優劣をつけるわけにはいかない」『紙おむつ一枚でもおろそかにするな!』と怒鳴る精神と同じだという。

荷物を運ぶ心意気として大切なこの言葉の意味を思い起こさせる事故が起こり、鰐淵は人生の転換点を迎えるが、人生の重大局面につき、「ゆっくり考えた方が」と勧める影吾に対し、結論を急ぐパイロットの鰐淵機長(三佐)は云う。
『車の運転をする時は、時速四十キロからせいぜい百キロ程度のスピードで、ものごとを判断するじゃないか。でも俺達パイロットは、音速に近い速さで飛行機を飛ばしながら、瞬時に判断を下すこともある。ゆっくり考える暇はない。しかも、判断を誤ると、命を落とすんだ』
そう言ってのける鰐淵機長(三佐)の信念は、「自分が正しいと思う通りにすればいい」ということ。
『自分にできる限りのことをすれば、あとは天が決めてくれます。たいがいなんとかなります』

医療系・航空機系と専門的ジャンルの視点でみれば多少物足りない感じがする本書ではあるが、その両方を知るための小説としては十分に楽しく読めたし、これを読み終わった日が、今日であったことにも、今はある種の想いがある。

医療に従事している時には機動衛生ユニットで活動する影吾だが、機長鰐淵の判断を仰ぐためコックピットで話し合う場面がある。
『コックピットの前の広い窓から外を見た。
 分厚い雲の海が広がっている。純白の、しっかり詰まった綿菓子がどこまでも続いているような雲だ。
 その上部が、太陽の光を反射して金色に輝いている』


美しい空、平和な空を守るために任務に従事する人々。
命を守るために空を舞う、金色の天翔ける馬ペガサス(401飛行隊の部隊マーク)と、アスクレピオスの杖(機動衛生隊の部隊マーク 医療の象徴であるギリシャ神話の名医アスクレピオスが持っていたという蛇が撒きついた杖)。

彼らの尊い精神が守られ、平和な空が守られることを願っている。
多くの働きにより安心安全があることを肝に銘じなければならないと思っている。

尊い精神と命が徒や疎かにされないことを心より祈っている。




ところで、音速のスピードで飛びながら瞬時に正しいと信じる判断をし、運を天に任せるパイロットと比べて、私は石橋を叩いて叩いて叩き割っても渡る決心がつかないという情けない小心者だ。そして、素直といえば聞こえは良いがどうしようもなく優柔不断でもある。こんな私に打ってつけのアドバイスがあった。
『君のいいところは、その子供みたいに素直なところだな。~略~
 良くも悪くも、誰にでも影響を受ける。だから、なるべく周囲には尊敬できる奴をおいた方がいい』
誰が尊敬に値するか、まずそこを見極める目を養うため、これからも本を読んでいこうと思っている。


写真出展 ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%E5%8B%95%E8%A1%9B%E7%94%9F%E9%9A%8A#/media/File:Japan_-_Air_Force_Lockheed_C-130H_Hercules_(L-382).jpg

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光と影 みんないい

2016-03-27 11:00:51 | ひとりごと
鹿児島上屋久の消印が押された奇麗な絵葉書が届いた。
送り主は旅先から必ず絵葉書を送ってくれる友人だ。
旅行が趣味で仕事柄海外への出張も多い友人が届けてくれる、その土地らしい絵葉書は、出不精で世間を知らぬ私を大いに楽しませてくれていたが、ここ数年、その回数が減っているのは、伴侶の病気療養が長引き、出張はともかく旅行に出かける状況ではないからだと聞いていた。
だから、旅先からの絵葉書をみて、本復されたかと喜んだが、そうではなかった。
出張で訪問した鹿児島(本土)から足を延ばして、屋久島に渡り、束の間のトレッキングを楽しんだということだった。

木々に包まれた湖に木漏れ日が差し込む幻想的な写真にしばし見とれた後、絵葉書に添えられている詩に気が付いた。

光が当たる所。
光が当たらない所。
当たっていれば良いってものでもないし、
当たらないから悪いってものでもない。
光があるから影があり、影があるから光がある。
美しさの理由は考えるときりがない。



1999年12月30日から半年とたたない2000年5月、雅子妃殿下は地方公務にお出かけになっていた。
鹿児島・屋久島で開催された世界自然遺産会議の開会式に御出席されたのだ。
式典御臨席につづき屋久島を歩かれ、双子杉と仏陀杉を御覧になった時の御様子は強く印象に残っている。
 
仏陀杉(写真出展 屋久島町http://www.town.yakushima.kagoshima.jp/cust-facility/1605/)

流産の処置を終え御所に戻る御車を追うフラッシュの「光」、思えば雅子妃殿下が御病気のためカメラを苦手と感じられる原因の一つに、あの禍々しい「光」があったのかもしれない。樹齢数千年をこえる杉の木立の道は光が差し込まず、そこをを歩かれる皇太子ご夫妻を写すためにはフラッシュが必要だったろうが、雅子妃殿下はそれを避けておられたように感じられた。カメラを避け、皇太子様の影に隠れるようになさりながらも、じっとじっと杉を見上げておられる雅子妃殿下の御姿が、強く印象に残っているが、その年の御誕生日の会見では自然のなかで過す大切さを何度も述べておられる。
そして、屋久島で杉を見上げられてから、ちょうど一年後の五月、御懐妊の正式発表があったのだ。
敬宮愛子内親王殿下の御誕生
 

愛子杉(写真出展 屋久島町http://www.town.yakushima.kagoshima.jp/cust-facility/1611/)

光が当たる所。
光が当たらない所。
当たっていれば良いってものでもないし、
当たらないから悪いってものでもない。
光があるから影があり、影があるから光がある。
美しさの理由は考えるときりがない。


友よ
あなたの幸せと、御家族の幸いを心から祈っている。
夜明け前が一番暗いというが、明けぬ夜はない。
植物とて、日照時間が長ければ良いというものではないそうだ。
光が大切なのは勿論だが、影の時間があってこそ生物時間が整い、豊かな実を結ぶことに繋がるそうだ。
今は私にもエネルギーがなく、気の利いた言葉の一つもかけることができないが、
いつか出会った白馬の麓をともに歩こう、
そして、人生の光と影を語りあおう。


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ワンコに背負われて読む本

2016-03-24 00:33:37 | 
「パトラッシュの国に祈りを捧げる」より

「神々の山嶺」(夢枕獏)にどっぷり浸かっていたので、当分は違うジャンルの本を読もうと思っていたのに、本仲間に勧められた南アルプスを舞台にした「ブロッケンの悪魔」(樋口明雄)を読んでしまったのは、登場人物に深町という名の山岳救助隊がいたからだ(笑)。
本の帯に「前篇クライマックス 超弩級のノンストップ・エンターテイメント」と書かれるほどの息もつかせないストーリー展開は映画化しやすい物語だと思われる。もし映画化されるなら、是非とも深町敬仁(誠ではない)を主要人物に据えたうえで岡田准一氏に演じてもらえれば、アクションという点からも面白味が増すこと間違いなしなどと思いながら読んだ「ブロッケンの悪魔」ではあるが、考えさせられることは多々あった。

本書のテロ首謀者がPKO活動と福島第一原発救援中に亡くなった隊員の殉職の公表を要求する心情を読むと、国家のまえには声なき声とならざるをえない者の掲げる大義にも共感を覚えてしまうが、ベルギーでの暴虐を知った後では当然のことながら、いかなる大義も暴力に訴える理由にはならないと強く思ってはいる。
ただ、安全保障であれエネルギー政策であれ、ニュースで知らされている以上の問題をはらんでおり、そこには知られざる犠牲があるかもしれないということを肝に銘じておくため、武力集団の首謀者の怒りの言葉を再度記しておく。

『無気力で無関心で刹那的に生きていて、自分で未来を選ぼうとしない愚かな日本人に、我々が見てきたものをわからせたかった。無責任という逃げ道を作りながら飽くなき暴走を続ける政府と、それをなし崩し的に容認する無自覚な日本人そのものが、我々の標的だった』

ところで、山頂で自分の影を見で「山が復讐を勧めている」と感じたというテロ首謀者に対し、山岳救助隊が云う『山は人の心を鏡のようにして見せるんです』という言葉から、「春を背負って」(笹本稜平)を思い出した。
「春を背負って」の主人公亨は、高集積度三次元半導体の優秀な研究者でありマスコミを賑わすほどの成果もあげていたが、研究者としても人としてもみっともない上司に代表される諸々に失望し、研究への熱意もプライドも失い、遂には自殺まで考えるほどに追い詰められていたところを、亡き父が残した山小屋を継ぎ自然の中で暮らすことで、「生き直す」。
この主人公亨の「生き直し」に大きな影響を与えるのが、豊かな自然だけでなく、それぞれに事情を抱えた小屋番と登山客であることが本書の魅力であるので、そこで交わされる会話は、読む者の心を温かくしてくれる。そんな会話の幾つかを、『山は人の心を鏡のようにして見せるんです』という言葉により思い出したのだ。

教職を擲って山小屋の主人になった亨の父の生き方を「あの人には欲はなかったけど、夢があった」 『欲しいものを楽して手に入れようとするのが欲だよ』『(夢は)それを手に入れるために労を厭わない、むしろそのための苦労そのものが人生の喜びであるような何かだな―』などと語りながら、小屋番ゴローちゃんの哲学的な会話は続いていく。
『人生で大事なのは、山登りと同じで、自分の二本の足でどこまで歩けるか、自分自身に問うことなんじゃないのかね。
 自分の足で歩いた距離だけが本物の宝になるんだよ。
 だから人と競争する必要はないし、勝った負けたの結果から得られるものなんて、束の間の幻にすぎないわけだ』 

半導体の研究者もサラリーマンも止め、勝った負けたの世界から足を洗い、山に暮らすようになった亨が 『たとえば敵がいなくなって味方が増えた』 『今思えば、そもそも敵なんていなかったような気がする。勝ち負けでしか自分の力を評価できないから、そのために自分で幻の敵をつくっていたんじゃないのかな』と言うと、すかさずゴローちゃんは応える。
『そんなもんかもしれないね。たぶんその敵というのは鏡に映った自分なんだよ。
 俺たちのような凡人はそうやって自分自身と喧嘩し続けて、人生を棒に振るのが落ちなんだ』

山小屋で交錯するのは、小屋番たちの人生模様だけではない。
最終章の「荷揚げ日和」には、服役を終えた前科者が娘と山小屋を訪れる場面がある。
精神障害の妻と幼い娘・真奈美を抱えて人生の再出発を誓う前科者の明るい未来を祈りながら小屋番たちが交わす会話も、味がある。
『不幸ってのは人間を育てる肥やしなのかもしれないね』
『あの人(前科者)にすりゃ、奥さんと真奈美ちゃんは、損得抜きで背負う価値のある大事な荷物なんだろうね』
『周りからいくら幸福に見えても、その人が本当に幸福かどうかは本人にしか分からない。
 でも心のなかに自分の宝物を持っている人は、周りからどう見られようと幸福なんだよ』
『幸福を測る物差しなんてないからね。いくら容れ物が立派でも、中身がすかすかじゃどうしようもない。
 ところが世の中には、人から幸せそうに見えることが幸せだと勘違いしてるのが大勢いるんだよ』
『人間て、誰かのために生きようと思ったとき、本当に幸せになれるものかもしれないね。
 そう考えると、幸福の種子はそこにもここにもいくらでもあるものかもしれないね』

幸福の種子を心に播いて「春を背負って」は物語を終えるが、山が、自分の真の姿や自分にとって真に必要なものに気付かせてくれるという意味においては、「ブロッケンの悪魔」にも通じるものがあったと思われるし、それが「神々の山嶺」(夢枕獏)の深町の云うところの「(山で)見えてくるもの」であり、長谷常雄の云うところの「山と対話する」ということなのだと思っている。 「神々の頂を 想え」

今年は、もしかすると憧れの常念岳に登る機会があるかもしれない。
山にしっかり向き合えるよう、その日まで精進して過ごさなければならないと思っている。

ところで、「ブロッケンの悪魔」を読み進めた理由は、深町(敬仁or誠)以外にもある。
「ブロッケンの悪魔」には、山岳救助犬バロンが、谷底に落ちて気を失っているハンドラーを救うべく、大嵐のなか鳳凰小屋に駆けつけ救助の人を呼ぶ場面があるが、主人の急に立ち向かう救助犬バロン(シェパード)の姿に、我ワンコが重なったのも、その理由の一つだ。

1999年12月30日から31日にかけて、日本中に悲しいニュースが駆けめぐった。
皇太子ご夫妻の深い悲しみと雅子妃殿下の御体調に思いを寄せるだけでも胸が潰れる思いがしたが、カーテンを閉めた御車を禍々しいフラッシュが追いかける様はあまりにお気の毒で痛ましく、それ以上はニュースを見ておれず、ワンコと夜の散歩に出た。
呆然と悄然と歩いていて、アスファルトの窪みに気付かず、足をとられて横転し、そのまま数分間?気絶していた。
気が付いたのは、足首の激痛のせいではなく、ワンコが顔を一生懸命に舐めてくれていたおかげだった。
当時やっと一歳の誕生日を過ぎたばかりのワンコはやんちゃ盛りで、散歩でも絶対的な主導権を握り、私達を振り回し、隙あらばリードを振り切って走っていくほどだった。
そのワンコが、ひっくりかえって動かない私の元から離れず、覆い被さりながら顔を舐めてくれたおかげで、意識が戻ったのだ。
足を引きずりながら、這うような歩みの私に付き添い歩いてくれた ワンコ
やっと門に帰りつくなり、へたり込む私を見るや、アプローチを駆け上がり、家族に急を知らせてくれた ワンコ
あの時のワンコに救助犬バロンが重なり、ワンコの優しさを思い出しながら、「ブロッケンの悪魔」を読んだので、辛いけれども「おいで、一緒に行こう」(森絵都)も読まねばならないと思ったのだ。  「桜よりぼた餅かい ワンコ」
ワンコのおかげで読書ワールドが広がったよ ワンコ
これからも 読書の道も導いてよ ワンコ

ところで、あれ以来、雅子妃殿下の御懐妊の一報を告げた新聞が書くことは、一行たりとも信用して読んだことはない。
御懐妊報道を検証した他紙は「東宮大夫が流産を告げた時、報道はとんでもない間違いを犯したのではないかと、体が震えた」と書いていた。
御懐妊のスクープを受けて報道するテレビのキャスターのなかには、「このような早い段階での報道はいかがなものか、もし間違いなら取り返しがつかないし、皇太子ご夫妻に申し訳ない」と戸惑っている人もいた。
が、当の第一報を流した新聞は、その後も無反省に皇太子御一家を苦しめ続けた。
マスコミに携わる者ならスクープが欲しいのは当然だろうし、報道に携わる者であれば、事実をいち早く伝える使命もあるだろう。が、そこに国や人に対する愛がなければ、それは只の三文の価値すらない。

あれから、あの一報を告げた新聞は私にとって、相変わらず三文以下の存在だ。

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パトラッシュの国に祈りを捧げる

2016-03-22 23:59:25 | ニュース
「桜よりぼた餅かい ワンコ」より

映画「神々の山嶺」が公開になって以来、''山''にどっぷり浸っていたので、しばらくは全く違うジャンルの本を読もうと思っていたのだが、本仲間から勧められたのが、南アルプスを舞台としたテロの話。
本の帯には、『南アルプス北岳山荘を武装集団が制圧。それは国家を巻き込んだ恐るべきテロ事件の幕開けだった…。超大型台風が到来、警察も自衛隊も接近できない陸の孤島と化した山。しかし、そこには“奴ら”がいた!』 とある。

「神々の山嶺」(夢枕獏)的な純粋山岳小説でないだけでなく、山にテロだの殺人だのを持ち込む話はあまり好きではないので、ご遠慮しようかと思ったのだが、これは以前読んだ山岳救助隊kー9シリーズ「天空の犬」「ハルカの空」(樋口明雄)の続編なので、パラパラとページを繰っているうちに読んでしまった。

「ブロッケンの悪魔」(樋口明雄)
「前篇クライマックス 超弩級のノンストップ・エンターテイメント」と帯に書かれるだけあって、息もつかせないストーリー展開が面白かったのもあるが、読み続けた動機としてはワンコと少年岡田の影響が大きい。そのあたりは後ほど書くとして、本書は著者・樋口明雄氏の外交安全とエネルギー政策の考えが伝わる作品であり、これまでの樋口氏の作品とは少し毛色が異なる感がある。

今日も又、ベルギー(ブリュッセル)で悲劇があったばかりであり、どのような大義があろうとも、それを武力で示すという手法が如何に卑劣であるかは、言うまでもないことだが、本書では国の欺瞞と無責任な国民に現実を突きつけるという武力派の大義という側面に、かなり力点を置いて書かれている。

武力集団の首謀者 鷲尾一哲元陸上自衛隊一等陸佐
彼には、平成5年のカンボジアPKO活動と平成23年の福島第一原発事故救援の際に(任務中)命を落としたにもかかわらず、政府の方針で、死そのものが伏せられてしまった部下と息子がいた。
外交防衛の基本政策を変えないために他国で命を落とした自衛隊員の存在を隠す政府や、エネルギー政策のツケを命でもって贖った存在を隠す政府を強烈に批判する一方で、他者の犠牲による安心安全に、無知をいいことに寄りかかっている国民も強烈に批判している。
『無気力で無関心で刹那的に生きていて、自分で未来を選ぼうとしない愚かな日本人に、我々が見てきたものをわからせたかった。無責任という逃げ道を作りながら飽くなき暴走を続ける政府と、それをなし崩し的に容認する無自覚な日本人そのものが、我々の標的だった』

テロの標的は、1300万の東京都民であり、彼の要求は、戦死した隊員がいる事実と原発敷地内から遺体も回収できなかった隊員の殉職を公式に発表することであり、それらにより国と国民に安全保障・エネルギー政策の現実を突きつけることが彼の目的だった。

彼が武力行使の舞台に北岳を選んだのは、vxガスを散布するにあたり地の利があったのも確かだが、そこが福島原発事故の救援で亡くなった息子との思いでの場所でもあったからだ。
息子を偲んで登った北岳山頂で、自分の影を見たとき、彼は復讐を心に決めたのだと山岳警備隊員の夏美に語る。
『この山がな、復讐しろと言ったんだよ。だから、私はいっさいの良心を棄てたのだ』 と。
夏美は 『山はそんなんじゃない。誰かに対して復讐をそそのかしたりなんて、絶対しません。山はいつも優しいです。たしかに厳しさもあるけど、それは人の身勝手や甘えを許さないからです』 と反論する
『私はあの山頂で自分の影を見た。それが悪魔の姿だった』 
鷲尾が云うのが、ブロッケン現象であること、そして雲に映る自分の影が悪魔に見えるほど、鷲尾は追い詰められていたのだろうと理解しても尚、夏美は鷲尾を諭すのだ。
『鷲尾さん。それはきっとあなた自身の心です』
『山は人の心を鏡のようにして見せるんです。だから、悪魔はあなたご自身の中にいます』 

鷲尾は悪魔ではなかったし、悪魔にもなりきれなかった。
そして、山岳救助隊と山岳救助犬の大活躍で物語は幕を閉じるのだが、閉じたあとエピグラムが警告として迫ってくる。

『自由の樹は、たびたび愛国者と暴君の血を吸って育ってゆく  トーマス・ジェファーソン

 愛国主義とは悪意ある者の美徳である   オスカー・ワイルド

 愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。
 録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり  新約聖書『ローマ人への手紙』第12章19節より』


『ただ神の怒に任せまつれ』
それは暴力の応酬となってしまっている現在に、強く迫ってくる聖句だが、神のことは分からないので、ベルギーを舞台にした「フランダースの犬」(アニメ)の最後の言葉とともに、犠牲となられた方々のご冥福を祈りたい。
「そこは(天使に召された世界)、痛みも苦しみも悲しみもない世界・・・・・」  「不苦者有知 ワンコ」

「ブロッケンの悪魔」つながりの読書感想文は、また、つづく

追記
P169誤植
『カンボジアPKOは何しろ14年も前の話だし、原発事故もはや6年前』と書かれているが、本の内容から、物語の設定は平成29年と分かるので「PKOは何しろ24年も前の話だし」が正しいはず。

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