何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

敬宮さまの青い空 再考

2019-12-15 23:55:55 | ニュース
この週末の土曜の午後、ほんとうに久しぶりに図書館で二時間過ごした。
 
随分前に受けた「あなたにとって至福の時間とは?」という質問に、躊躇わず「時間の制約なく、図書館で本を選んでいる時」と答えたほど、自由に本を選んでいる時間が好きなのだが、この二年ほど、図書館で自由に本を選ぶ時間も本を読む時間もなかなか取れなかったので、図書館で過ごした午後は、ほんとうに至福の時だった。
 
だから、図書館の吹き抜けの大きな窓から、小春日和の青い空が見えた時には、思わず「なんて幸せなんだろう」と呟いてしまった。
そのフレーズは、ありがちなようで、何かで読んだもののような気がして、それからずっと思い出そうとしていたのだが、二日続けて晴天の日曜日の午後、それが何の文のフレーズなのか思い出した。
 
そして、そのフレーズを用いた少女たちの心の美しさと、自分の至らなさと、老婆の醜さに複雑な思いがした。
 
その一つは、アンネの日記だ。
ユダヤ人という理由だけで何百万人もの人が虐殺されているなかで、二年にわたり隠れ家に身を隠していたアンネが、窓から見える青い空に、幸福を感じたと記していた件だ。
 
『This morning when I was sitting in front of the window and taking a long ,deep look outside at god and nature.
I was happy , just plain happy.
Peter, as long as people feel that kind of happiness within themselves, the joy of nature,health and much more besides, they'll always be to recapture that happiness.
Riches, prestige, everything can be lost. but the happiness in your own heart can only be dimmed: it will always be there, as long as you live, to make you happy again.
Whenever you're feeling lonely or sad, try going to the loft on a beautiful day and looking outside. not at the houses and the rooftops,but at the sky.
As long as you can look fearlessly at the sky, you'll know that you're pure within and will find happiness once more.』

『今朝、私は窓の前に座り、神と自然を見つめながら、長いあいだじっくり外を眺めているとき、私は幸せでした、ただ本当に幸せでした。
人は、自分自身の中にそのような幸福を-自然や健康やその他の多くのものに-喜びを感じている限り、いつでも、その幸せを取り戻すことが出来るでしょう。
富や名誉も、どんなものでも失われることがありますが、自分の心の内の幸福は、見えなくなっても、いつもそこにあるのです、あなたが生きている限り、あなたを幸せにするために。
孤独な時や淋しい時にはいつでも、天気の良い日には屋根裏部屋に行き、外を眺めて下さい、家や屋根を見るのではなく、空を眺めるのです。あなたが怖れることなく空を見ることができる限り、あなたは自分の内なる純粋さを自覚し、もう一度幸福を見出すでしょう。』

物音ひとつ立てることすら憚れる隠れ家の生活で、屋根裏部屋の窓から仰ぎ見る空に、幸福と希望を見出そうとした15歳の少女・アンネ。

ちょうどアンネと同じ年齢の頃に読んだ時には気に留めなかった この件が、大人になり読み返した時、重みをもって私の心に迫ってきた。
それを思い出させてくれる文章を二年半前に拝読した。

敬宮愛子さまの中等科ご卒業に寄せた作文だ。
先日の敬宮さまのお誕生日の記事にも掲載させていただいたが、何度拝読しても素晴らしいので、再度掲載しておきたい。

世界の平和を願って 敬宮 愛子
 卒業をひかえた冬の朝、急ぎ足で学校の門をくぐり、ふと空を見上げた。雲一つない澄み渡った空がそこにあった。家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれること…なんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう。青い空を見て、そんなことを心の中でつぶやいた。このように私の意識が大きく変わったのは、中三の五月に修学旅行で広島を訪れてからである。

 原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた。ドーム型の鉄骨と外壁の一部だけが今も残っている原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。これが実際に起きたことなのか、と私は目を疑った。平常心で見ることはできなかった。そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。

 最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった。

 その二週間後、アメリカのオバマ大統領も広島を訪問され、「共に、平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と説いた。オバマ大統領は、自らの手で折った二羽の折り鶴に、その思いを込めて、平和記念資料館にそっと置いていかれたそうだ。私たちも皆で折ってつなげた千羽鶴を手向けた。私たちの千羽鶴の他、この地を訪れた多くの人々が捧げた千羽鶴、世界中から届けられた千羽鶴、沢山の折り鶴を見たときに、皆の思いは一つであることに改めて気づかされた。

 平和記念公園の中で、ずっと燃え続けている「平和の灯」。これには、核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けようという願いが込められている。この灯は、平和のシンボルとして様々な行事で採火されている。原爆死没者慰霊碑の前に立ったとき、平和の灯の向こうに原爆ドームが見えた。間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、原爆ドームが守られているように思われた。「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった。

 平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々「平和」「平和」と口に出して言う。しかし、世界の平和の実現は容易ではない。今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。

 何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。

 そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。

 「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手がかりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から願っている。 



この作文が書かれたのは、敬宮さまにとって決して平穏で安心な状況の時ではなかった。
作文が書かれた半年前から、敬宮さまは体調を崩されていた。

母の枕辺で、生まれたばかりの敬宮さまは「次こそは男児を」という声を聞かれたという。
「女児ではいかん」という声に責められ母は心を病んだが、ようやく多くの国民の賛同もあり、敬宮さまを戴こうと決まりかけた矢先に、急転直下横やりが入り頓挫し、まるで男児従弟誕生の露払いとばかりに、4歳の敬宮さまは「笑わない愛子さま」とバッシングされた。
それで、自由に生きらえるようになったのかと云えば、そうではなく、勉強すれば偏差値72と優秀で、走ればリレーの代表に選ばれるほど俊足で、運動会では7段ピラミッドの最下段を任されるほど信頼が厚く、チェロを奏でるお姿は優美な敬宮さまは、事あるごとに女帝待望論の的になってこられた。
そして、それを快く思わない恐ろしい者が多くいた。
8割を超える国民が敬宮さまを想定し女性天皇を希望していることを脅威に感じる醜い大人たちが、ありとあらゆる手法で敬宮さまを攻撃した。
敬宮さまが中等科にあがられた頃には、15歳になれば自分の意思で皇籍を離れることができると、出ていけとばかりにバッシングされたし、その15歳で体調を崩された時には、隠し撮りした すっかり痩せて折れそうになられたお姿の写真とともに、「これでは命も危険」だとか「将来子供が産めない体になる」などと、命と存在を否定するかのような大見出しをつけたバッシングが毎週毎週 週刊誌に踊っていた。
そんななか書かれたのが、この平和を願う卒業文集なのだ。

敬宮さまは、生まれ落ちた瞬間から、女児というだけで、言われない非難を浴び存在を否定され、4歳にしてバッシングの餌食となられた。
それでも、敬宮さまは一言の反論もなさらなかった。

命すら愚弄するかのようなバッシングのさなか、空を見上げ、家族がいて、友達がいて、学校で学べる、ただそのことだけで平和で幸せだと感謝する作文を綴っておられた。

この崇高なお心と比べて、なんと大人の心の醜いことか、なんと往生際が悪く情けないことか。
 
図書館の窓から見上げた青い空に、幸福を感じているような生っちょろい私だが、15歳の少女たちの気高さを心に留め、恥ずかしくない道を歩まねばと思う、令和元年の師走の一日だった。