先月のワンコお告げの本の続編は、お遍路関連?のものだった。
お遍路関連?とは云え、グッチ&白鳥の変形バージョンだったので、当初は教訓めいたものは期待せず、単純に楽しく読めればよいと思っていたのだが、本書を積読するなり、知人から讃岐うどん「めんつるめん」や、こんぴらさんのお神酒醸造元の「金陵」(限定品イニシャルAと国の光)が送ってきたので、これはワンコの並々ならぬお告げが秘められているかもしれないと思い、注意深く読んでみた。
お遍路関連?とは云え、グッチ&白鳥の変形バージョンだったので、当初は教訓めいたものは期待せず、単純に楽しく読めればよいと思っていたのだが、本書を積読するなり、知人から讃岐うどん「めんつるめん」や、こんぴらさんのお神酒醸造元の「金陵」(限定品イニシャルAと国の光)が送ってきたので、これはワンコの並々ならぬお告げが秘められているかもしれないと思い、注意深く読んでみた。
「玉村警部補の巡礼」(海堂尊)
本書は、ワンコの12月のお告げ本「玉村警部補の災難」(海堂尊)の続編で、前作から続く遺体損壊罪で以て人生ロンダリングを図る闇の組織を、お遍路さんを装った玉村警部補と加納警視正が追いつめる、というストーリーなのだが、徹底的に現実主義者の加納は、事あるごとにお遍路さんの非効率性と儲け主義に走りがちな遍路寺の堕落ぶりを、切々と滔々と囂々と垂れ流し、挙句の果てには、空海坊主はホラ話をでっちあげているやら、その手口(空海の伝承)は詐欺師の常套手段だと言い募るので、一体どこからワンコの教えを得れば良いのか迷いながら読み進めていた。
警察庁でも切れ者で知られる加納と人の好い凡庸な玉村は、同じものを同時に見ても、そこに見るものそこから考えることに歴然とした差が生じる。それは、ポワロとヘイスティングズやシャーロックホームズとワトソン君でも使い古された手法なのだが、舞台が現代の日本となると、妙に身につまされるものがある。
警察庁でも切れ者で知られる加納と人の好い凡庸な玉村は、同じものを同時に見ても、そこに見るものそこから考えることに歴然とした差が生じる。それは、ポワロとヘイスティングズやシャーロックホームズとワトソン君でも使い古された手法なのだが、舞台が現代の日本となると、妙に身につまされるものがある。
加納のような洞察力も処理能力もなければ、人の都合も気持ちも一切無視して強引に我を通す根性もない私が、それでも何か見習うべきことはないかと思いながら見つけた言葉は、ありきたりだった。
『俺にできることなら何とかしてやるが、できないことはできないぞ』(『 』「玉村警部補の巡礼」より)
これは、遍路姿が空海に似ている加納を、「今大師さま」と拝み倒し願い事を告げようとする集落の婆さま方へ、加納が言った言葉だ。
言っている内容は当たり前のことだが、加納が登場する本を少しでも読めば、自意識過剰かつ自信過剰の見本のような加納の言葉とは思えないからこそ、印象に残ったのかもしれない。
あるいは、頼まれると何とかできないかと思ってしまい、何とかするために粉骨砕身東奔西走し、何とかした暁に、ちょっと怒ってしまう悪い癖が私にはあるので、『できないことはできないぞ』と言える強さ?弱さ?を身につけなければ身が持たないぞ 、とワンコが教えてくれているのかもしれない。
あるいは、頼まれると何とかできないかと思ってしまい、何とかするために粉骨砕身東奔西走し、何とかした暁に、ちょっと怒ってしまう悪い癖が私にはあるので、『できないことはできないぞ』と言える強さ?弱さ?を身につけなければ身が持たないぞ 、とワンコが教えてくれているのかもしれない。
もう一つは、加納自身が人生訓として述べている言葉だ。
『いいか、たま。俺が大切にしている人生訓がふたつある。
ひとつは、最初が肝心、ということ。もう一つは、終わりよければすべてよし、だ。』
これもごくごく当たり前のことだが、「終わりよければすべてよし」を意識してしまう年齢に近づいているせいか、日々のアレコレや仕事のうえでも全過程全力投球とはいかないなかで結果を追求しようとすると、この考え方は重要だと改めて気づかされた。そして、「終わりよければ」にもっていくためには「最初が肝心」、ということを新年にあたり頭に置いておかなければならない、とワンコは教えてくれているのかもしれない。
これもごくごく当たり前のことだが、「終わりよければすべてよし」を意識してしまう年齢に近づいているせいか、日々のアレコレや仕事のうえでも全過程全力投球とはいかないなかで結果を追求しようとすると、この考え方は重要だと改めて気づかされた。そして、「終わりよければ」にもっていくためには「最初が肝心」、ということを新年にあたり頭に置いておかなければならない、とワンコは教えてくれているのかもしれない。
こうして多少こじつけだと思いながらワンコの教えを読み解こうとしていくと、最後に真に心に響いてくる言葉があった。
『人生はただ一度、歩ける道は一筋のみ。それはすべて一本につながっている。
人生とは壮大な一筆書きで、遍路はそのほんの一部にすぎないんのだぞ、タマ』
これは、歩き遍路に固執するタマ(玉村警部補)に、超現実主義者にして変幻自在なご都合主義者の加納が厳かに言い放つ言葉だ。
タマは、歩き遍路で弘法大師の足跡を辿り結願することに拘っているが、加納は八十八か所どのような順番であろうと構わないし、その際の作法も仕来りに則る必要もないし、まして歩きである必要もない(タクシー利用は勿論のこと、パトカーをぶっ飛ばす車遍路でも構わない)と考えている。
要するに、加納は 本筋さえ見失わなければ(この場合、ご本尊をお参りすること)あとの枝葉末節は重要ではないと考えている。
タマは、歩き遍路で弘法大師の足跡を辿り結願することに拘っているが、加納は八十八か所どのような順番であろうと構わないし、その際の作法も仕来りに則る必要もないし、まして歩きである必要もない(タクシー利用は勿論のこと、パトカーをぶっ飛ばす車遍路でも構わない)と考えている。
要するに、加納は 本筋さえ見失わなければ(この場合、ご本尊をお参りすること)あとの枝葉末節は重要ではないと考えている。
ー 私はというと、どちらかというとタマ的気質があるので、加納のこの言葉にガツンとやられた気がするのだが、その一方で妙に納得している自分もいる。それは、まったく思いがけない道を歩くようになり、不満と戸惑いが多い近年だったが、本筋というか大本は、もしかすると似ているかもしれないと感じた頃から、今の道も悪くないと思い始めたからかもしれない。
まっとうに頑張る人を応援する、正しい道を歩む人を応援する
まっとうに頑張れるよう応援する、正しい道を歩めるように応援する
根っこの思いが揺らがなければ、その手法は、自分の能力や状況に応じて変わってもよいのかもしれない、・・・と最近ようやっと思うことができるようになってきた。
今でも、、、あちらの道を歩むことができたらと落ち込むこともあるし、どれほど努力しても報われず落ち込むこともあるが、『道に迷ったら、青空を見上げて考えよう』(『 』「玉村警部補の災難」より)
だからワンコ
私が私の道から逸れることのないように見守っていてね
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同行二人だよ ワンコ