毎年夏野菜を作り続けてきたが、なぜか茄子はまったく上手くできず、例年は三つの苗から握りこぶしにも満たないものが5本ずつ収穫できるのがやっとだった。
が、今年はなぜか茄子が豊作で、ひと夏ほとんど茄子を買わなくても良いほど立派なものが次から次へと収穫できた。そのかわりというのも変だが、ずっと大豊作でご近所さんへお裾分けしてもまだ余り次の収穫まで冷凍庫でトマトソースを供給し続けてくれてきたトマトがサッパリだった。収穫する前に暑さにやられ実がパックリと割れてしまうトマトを見ては、地球沸騰化を実感していたのだが、それでは何故に茄子が豊作なのかは、未だに謎。
謎ながら、今も美味しい秋茄子をぬか漬けにして、楽しんでいる。
そんな夏野菜の異変に驚いていた頃に読んだ「青と赤のエスキース」(青山美智子)で思いだし再読したのが、「猫のお告げは樹の下で」(青山美智子)だった。
本書には個人的に興味を持つフレーズが何度もあったので、ワンコがなぜ「猫」に姿を変えてお告げしてくれるのかは謎のままだが、直球でないお告げがかえって考える切っ掛けをくれたような気がしなくもないかもしれないかもしれない。
どうして諦めきれない夢があった。
そのために何もかも犠牲にしてもよい(実際かなりのものを犠牲にし、かなりの迷惑を家族にもかけてきた)夢があった。
それが、どうしても避けられない要請があり、不承不承 今だけ 人助けだと思い、と自分を宥めながら取り組んだ事が思いのほか面白く、気がつけば忙殺される日々をけっこう楽しく過ごしていた。
どこかに潜む、何か違うのではないか?という声を聴こえないふりをしながら。
そんな毎日に立ち止まって考える切っ掛けを、青山氏の二作はくれたのかもしれない。
『人生は何度でもあるって、そう思うの。
どこからでも、どんなふうにでも、新しく始めることができるって。そっちの考え方の方が好き』
『ただ、人生は何度でもあるけど、それを経験できるこの体はひとつしかないのよね。
だから、なるべく長持ちさせなきゃ』(『 』「青と赤のエスキース」より)
青臭い夢と現実の生活に折り合いをつけないといけないと思いながらグズグズしている中年男女の、青臭い夢の始まりからその途中を描く「青と赤のエスキース」
誰にでもありがちな、小さいけれど刺さって取れない棘のようなものに心痛める人に告げらる猫の一言、そしてそこから悟っていく人々の言葉に気づきをもらえる、「猫のお告げは樹の下で」
<自分のいるところが真ん中。
自分が本当に思うことが真ん中。
自分の中の真ん中。
そこがこの世界の真ん中だ>
<僕はずっと、どこへ行けばいいのかわからないって思っていた。
何を選べばいいのか、何を決めればいいのか。
先にある終着点だけを探していた。
でも、それよりも前に、もっと分かっていないことがあった。
まず知るべきは、目的地じゃない。
現在地だったんだーーーー。>
色んなものを忘れ、終着点にも現在地にも関心をもたずただただ齷齪頑張っている(つもり)の私に、今までの道これからの道を考える、ということに気づかせてくれ、そのうえで、自分のいるところが真ん中、という言葉をくれた猫のお告げの本をお告げしてくれたワンコ
ワンコに感謝、だよ
ワンコ