白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「波」/融合する身体3

2019年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
作品「波」では各章の冒頭部分にそれぞれ「波」の描写がある。それは「波」についての描写だろうか。それとも「波」とそれを取り巻く周囲の描写を含めた描写だろうか。もし描写を文字通り受け止めるとすればそれは「波」とそれを取り巻く周囲、と考えることになるだろう。するとそれは、「波」《と》それを取り巻く周囲、ということになる。《と》という接続詞が介入する。切断が可能だということだ。同時に接続もまた可能だ。しかし各章の冒頭部分に置かれた「波」の描写は、おそらく、切断を求めるタイプの描写ではないに違いない。むしろ接続された「ひとかたまり」のものとして一気に読み下ろされなくてはならない描写だろう。たとえばこうある。

「陽射しが強くなると、蕾はここかしこでそれぞれに開いて、花々を拡げた。緑の縞をつけてふるえているのは、開花しようとする努力が花々を揺り動かしたようでもあり、白い花弁を蕊の繊弱い鳴子が打つ時には、仄かな鐘楽器を鳴りひびかせた。あらゆるものが和やかに形を失い、磁器のお皿が流れ、銅のナイフは液体でもあるようだった」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.26」角川文庫)

「波」ということ。「波」とは何か、ではなく、「波」ということ。あるいは波動としての「波」に《なる》とはどういうことか。このことについてここではまだ何も語っていない。参考としてベルクソンから引用しておきたい。

「われわれの視点からすると、生命は全体としてある巨大な波として現れる。その波はある中心から広がり、その円周のほぼすべての点で止まり、その場の振動に変わる。ただ一点で、障害はこじ開けられ、推進力が自由に通過した。人間の形態が記憶しているのはこの自由である。人間以外のところではすべて、意識は袋小路に追い込まれる。人間においてのみ、意識は立ち止まらずに進んだ。それゆえ人間は、生命が携えていたものすべてを引き連れていくわけではないが、生命の運動を無際限に続ける。生命の他の線の上では、生命が含んでいた別の傾向が進展していた。すべては補い合っているので、これらの傾向のいくらかを人間は保存していただろうが、保存していたのはそのうちのわずかなものだけである。《お好みに応じて、人間とも超人とも呼べるような、はっきりしないぼんやりとした存在が自己を実在化しようとしたが、自己のある部分を道の途中で捨てることで初めてそうするに至ったかのように、すべては進行している》」(ベルクソン「創造的進化・P.338」ちくま学芸文庫)

なるほど「波」は生命の全体であるとしても、しかし「波動」あるいは「振動」はスピノザの言葉によればその瞬間的な「変状」でありなおかつ「様態」に過ぎないということになるだろう。なお、ベルクソンの記述に「超人とも呼べるような」とあるが、それについてはもっと後で、またの機会に述べる。

「《様態》とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する」(スピノザ「エチカ・第一部・定義五・P.37」岩波文庫)

寄せては返す「波」の一つ一つは一回限りで二度と戻らない「単独性」である。したがって、寄せては返す「波」の一つ一つは、個別(個物)的な「波動」あるいは「振動」として考えられる。するとどういうことがいえるだろうか。

「個物は神の属性の変状である。あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態、にほかならぬ」(スピノザ「エチカ・第一部・定理二五・系・P.70」岩波文庫)

スピノザのいう「神」は汎神論的な意味でいう「神」だ。それは「全自然」あるいは始まりもなく終わりもない「宇宙」であると解される。その宇宙の中で波の一つ一つは瞬間的な唯一の「波動」あるいは「振動」をなす。というより、そうとしか考えようがない。人間の知性は「ひとかたまり」のものをそれ自体「ひとかたまり」として受け取ることができない。人間の知性はなるほど他の動植物と比較すれば比較にならないほどの次元にあるといえるかもしれない。しかしそれを高低の違いとして捉えることは本当に正しいことだろうか。ニーチェの場合、人間を動物より「高い」ものとして考えてはいない。むしろ人間に比べれば動物のほうをこそずっと自然な生命体として捉えている。ニーチェでは人間と動物の《あいだ》に程度の高低は設けられていない。むしろ両者は何か根本的に違った生き物として区別されている。実にしばしば人間は動物から嘲笑われる珍妙な動物として描かれている。ニーチェのユーモアもそこにある。そこでニーチェから離れてみたとしても、人間の知性は「ひとかたまり」のものをそれ自体「ひとかたまり」として受け取ることは到底できない。人間が認識するとき、それは常に「映画的」な過程を経る、その限りでの認識であるほかない。各瞬間ごとの差異的=微分的で一回限りの非連続的な諸映像を、わざわざ連続的な運動に置き換えて見ているに過ぎない。事情はこうだ。

「すべての人物に固有なすべての運動から、非人称的、抽象的で単純な運動、いわば《運動一般》を抽出してそれを映写機の中に置く。そして各々の特殊な運動の個別性を、この匿名の運動を人称的な態度と組み合わせることによって再構成するのである。以上が、映画のやり口であり、われわれの認識のやり口でもある。諸事物の内的な生成に貼りつく代わりに、われわれは諸事物の外に身を置いて、それらの生成を人工的に再構成する。われわれは、過ぎゆく持続のほぼ瞬間的な眺めを獲得するのだが、それらの眺めはこの実在を特徴づけるものなので、われわれは、認識の装置の底に位置する、抽象的で単調な眼に見えないある生成に沿ってそれらの眺めを繋いでやれば、この生成そのものの特徴的な点を模倣することになるだろう。知覚、知性による理解、言語は、一般にこのように進行する。生成を考えるにせよ、表現するにせよ、もしくはそれを知覚する場合でさえ、われわれは、ある種の内的な映画の装置を作動させること以外ほとんど何もしていない。それゆえ次のように言って以上を要約しよう。《われわれの通常の認識のメカニズムの本性は、映画的である》」(ベルクソン「創造的進化・P.387~388」ちくま学芸文庫)

なぜなら、同じことだが。

「《知性が明晰に表象できるのは、不連続なものだけなのである》」(ベルクソン「創造的進化・P.198」ちくま学芸文庫)

「事物や状態は、われわれの精神が取った生成の瞬間写真でしかない。事物など存在しない。あるのは作用だけだ」(ベルクソン「創造的進化・P.316」ちくま学芸文庫)

「実在するものとは、形態の絶え間ない変化である。《形態は推移の瞬間写真でしかない》」(ベルクソン「創造的進化・P.383」ちくま学芸文庫)

「持続は、《そのうちでじぶんが行動するのを観察するさいには》、さらにみずからを観察することが有用である場合ならば、要素がたがいに切りはなされ、並置されている持続である。たほう持続は、《そのなかでみずからが行動するかぎりでは》、私たちの状態がたがいに融合しあっている持続となる」(ベルクソン「物質と記憶・P.364」岩波文庫)

また「P.321・図5」を参照しつつ。

「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)

そしてまた「P.321・図5」を頭の中で常に表象しながら。

「行動の平面ーーー私たちの身体が、その過去を運動的な習慣へと凝縮している平面ーーーと、私たちの精神が流れさったじぶんの生の情景を、そのあらゆる細部にいたるまで保存している純粋記憶の平面のあいだには、これとは反対に、ことなった意識の無数の平面、私たちの生きられた経験の全体にかかわる、統合され、にもかかわらず多様な無数の反復がみとめられると私たちには思われた。記憶をより個人的な細部によって補完するとは、記憶群をこの記憶と機械的に並置することではまったくない。よりひろがりのある意識の平面へ身を置きうつすこと、行動をはなれ、夢の方向へむかうことである。なんらかの記憶を局在化することであるなら、それはまして、その記憶を他の記憶群のあいだに機械的に挿入することではない。記憶をその統合されたありかたにおいていっそう拡大することにより、じゅうぶんな大きさをもった円を描きだして、過去のその細部がその円内でかたどられるようにすることなのである。こういった平面はまた、かんぜんに出来あがった事物ならそうであるように、たがいに積みかさなって与えられているわけではない。これらの平面はむしろ潜在的に存在する。つまり、その存在は精神の事象に固有なものなのだ。知性はあらゆる瞬間に、それらの平面をへだてる間隔にそって運動しながら、それらの平面を不断に再発見する。あるいはむしろ、そういった平面をたえずあらたに創造する。知性の生は、この運動そのもののうちにある」(ベルクソン「物質と記憶・P.469~470」岩波文庫)

というべきだろう。

差し当たり、「各瞬間の唯一性」ということについてはこれくらいでよいのでは、とおもわれる。各瞬間ごとに生きられる現実の差異的な「生」は実際に表象される過程で削ぎ落とされてしまい、すでに理念体として単純化され一般化され記号化されている「範型」という形でしか残されないということ。そして再認されるものはいつも「逆円錐」のSからABまでのあいだを各瞬間ごとに行ったり来たりしている記憶の諸平面だけだということがわかればいいのだから。ところで、あらゆる生命体の中で人間だけを特別視しようとする人々がいるのも事実だ。しかしそのような特権化には何らの根拠も実はない。さらにいえば、もし実際に生物の世界に「進化」の過程があったとしてもなお、人間がその頂点に位置するとは間違っても言えない。なぜだろうか。

「生命は本質的に、物質を横切って放たれ、そこからできる限りのものを描き出す流れなのである。したがって、厳密に言えば、計画も設計図も存在していなかった。他方で、あまりにも明白なことだが、自然の残余のものが、人間に関係づけられていたわけではない。われわれは、他の種と同様、闘っているし、他の種とも闘ってきた。最後に、生命が道の途中で別の偶然事にぶつかっていたら、それによって、生命の流れが別の仕方で分割されていたら、物理的にも精神的にも、われわれは今とはかなり異なるあり方をしていただろう。このように様々な理由で、われわれが見ているような人類が進化の運動の中で前もって形成されていたと考えるのは誤りだろう。人類が進化全体の到達点であるとさえ言えない。なぜなら、進化は複数の分岐する線の上で遂行されてきたし、人間種がそれらの線の一つの最後にあるとしても、他の諸々の線は、その末端にいる別の種と共に辿られてきたからだ」(ベルクソン「創造的進化・P.337~338」ちくま学芸文庫)

もっといえば、あらゆる生命は「合目的性」などという思い上がった人間の安易な創作による浮薄極まりないイデオロギーとは一切無縁である。あるいは「合目的性」などという矮小この上ないイデオロギーを遥かに超え出ていく何ものかだ。

「生命全体は、創造的進化として思い描かれるとき、自由な行為や芸術作品に類似した何かである。もし合目的性を、前もって考えられた、あるいは考えられうる観念の実現と解するならば、生命は合目的性を超えている」(ベルクソン「創造的進化・P.285」ちくま学芸文庫)

さて、作品「波」に戻ろう。ルイスはいう。

「『ロンドンが粉々に乱れ飛ぶ。ロンドンがうねり波立つ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.28」角川文庫)

この場合、ロンドンが比喩として描かれていると考えてしまいがちかもしれない。ところが比喩ではないのである。ロンドンが比喩として描かれているわけではなく、文字通りに描かれているとおりの、そういう「ロンドン」の実在性の中を一挙に生きるということでなくてはならない。読むということはそれが行為でもある以上、その実践は常に可能である。だから「ロンドン」とは何かと問うのは止めよう。むしろ、「粉々に乱れ飛」び、なおかつ「うねり波立」っている一箇の《様態》としての「ロンドン」が無数の震動あるいは波動と化して、生産的な力の流れの中を縦横無尽に横切る、という理解でなければおそらくわけがわからなくなるだろう。そしてこの理解はルイスにとっては平凡な、しかし紛れもない事実だ。

制服問題を提起するのはローダである。イギリスであるにもかかわらず、それでもなぜ女性からの問題提起なのか。ともかく、「顔が、個性が、ない」、という。

「『でもここじゃあ、わたしは誰でもないの。顔が、個性が、ないの。みんな褐色のサージ服を着ているこのお仲間が、わたしからわたしの正体を奪ってしまったんだわ。わたしたち、みんなつれなくてよそよそしい』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.30」角川文庫)

もっとも今の日本では、制服は、いっときに比べてそうとう洒落たデザインのものが採用されるようになった。それには特に私学の場合、制服がお洒落でなければ誰も受験してくれないし通ってくれないし卒業してもくれないし、したがって金にならないという財政事情がある。ゆえに生徒らは或る程度の学力を有する場合、基準のあいまいな私服よりお洒落度が高く見える制服を採用している学校を選択するようになった。ところが制服の拘束性は変わらない。むしろ強化されたという事実について生徒らはほとんど意識していない。この、「意識していない」ということ、「無意識的」だということにこそ、長い時間をかけて管理社会が目指してきたデータバンク的メカニズムの重大ポイントがある。このポイントをはずしてしまうと教育行政自体が脱線してしまう。だから制服はあえて「お洒落でなくてはならない」。というのは今の新自由主義的グローバル社会が「規律・監禁」を無効化した無政府主義的資本主義社会である以上、制服はただ単なる「鋳型」としての機能をはみ出し、あらかじめ先に準備された「鋳型」として、生まれてくる子どもたちをそっくり制服化することを目指しているからである。ラカンの「鏡像段階論」に明記されているように、人間にとって人間自身は人間の内部から自然に湧き上がってくるものではなく、逆に外部から与えられるばかりかその内容をもどんどん盛り込みにくる整形外科手術的なものだ。制服はかつてより遥かに万能性を発揮している。あるいはより一層激しく生徒の単独性(個性)を廃棄し去って一元的に加工するための政治的装置として機能している。とりわけ女子学生の場合はそうだ。ニーチェはいう。

「《ギムナジウムの生徒としての少女たち》。ーーーどんなことがあろうとも、われわれのギムナジウム教育まで少女たちにもちこむのはよせ!才気に富んだ、知識欲のさかんな、火のような若者どもをしばしばーーーその教師たちの生写しにしてしまうようなあの教育を!」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・四〇九・P.359」ちくま学芸文庫)

多くの女子学生はおもう。大学に入学してからようやく思い当たる。あるいは就職してから。中学高校で経てきた制服教育とは一体何だったかと。しかしそれは何も私服がよいということを意味しない。そうではなく、或る特定の制服を欠かさず着用することによって自分自身の内容が「女性という鋳型」の中へ流し込まれ加工されたということに気づく、という意味で。ただ「単なる女性という記号」に加工=変造された、という意味で。しかしこの加工作業は人間の内容がまだ未熟であり、埋め立てる余地が存分にあるために幾らでも鋳型へ流し込むことができるわけであって、逆に早熟な女性の場合、この加工=変造作業は時として困難である。早熟さという点でいえばヨーロッパはそうだった。資本主義成立以降、世界史の中で最も早熟な生徒の一人だったといえる。後にアメリカがそこに加わってきた。またアジアや南米あるいはアフリカなど発展途上地域では、学校教育という分野に限ってみても、後になればなるほどより一層高度に発展したテクノロジーが先進国からもたらされるため、それらを検証することで様々なテクノロジーをますます急速かつ反省的に用いることができるという相対的に有利な条件が生じる。なので今や様子見できるほどの余裕を持つに至っている。タイミングの悪かったのは日本だ。日本は近代化に失敗した。戦争にも敗北した。そして何が残されたか。今や日本は日本の女子中高生やOLの隠し撮り映像を通して、「透けブラ=国宝説」の震源地として、違法ポルノ映像の素材提供大国として世界に華々しく君臨している。そしていわねばならないが、「違法ポルノ映像の素材提供大国」の「象徴」とは何か、ということだ。今なおそれは天皇であり天皇をおいてほかにない。にもかかわらず、日本の警察ならびに国家公安委員会は「違法ポルノ映像の素材提供大国」の「象徴」=「天皇」という単純この上ない論理について見て見ぬふりを決め込んでいるようにしか見えない。まったく謎めいた態度だ。

だからといって、女性のお洒落がいけないなどとは一言もいっていないし、そもそもお洒落がいけないとはまったくおもいもしない。年齢性別国籍宗教に囚われず、それぞれが思い思いの衣装を実現できればよいのではといいたいだけだ。ただ、女性を女性という名の「鋳型」にはめ込んで世界中から軽蔑されているだけでなく国際社会の中でも稀に見る違法ポルノ製造のためのまたとない素材提供という陰質で不愉快で不名誉な連動装置が創設されるのを、日本国家はぼうっとしたまま担っていることを間違いなく放置していることに、違和を感じないわけにはいかないと強力に主張しておきたい。同時に問われねばならないが、女性の社会進出に関連して、別に何も会社や公共機関で働いていなくても、専業主婦はそれだけで立派な社会人である。会社や公共機関で働いていないと胸を張って社会人だとはいえない珍妙な空気がもう何年も前から、少なくとも明治維新から日本中に蔓延している。これもまた日本独特の暴力的空気であり、世界の中でのガラパゴス化への意志と無関係ではない。そしてその根底には男社会という強情が根を張っているだけでなく、男社会は上位百社を支え、上位百社は男社会を支えてきた相互依存的習俗の一つの結果だろう。ネット化が進みリゾーム化した時代にいつまでこのような時代錯誤に依存していくつもりなのだろうか。

さて、「男社会は上位百社を支え、上位百社は男社会を支えて」いるという実状と切っても切れない、常に接続されたパラダイム(社会的枠組みを規定する諸条件が一致する時期)において、その中で教育行政も繰り返し考察されなければならない。教育行政という次元でいえば制服問題のみならず、教科書問題こそ、避けて通ることのできない問題であるに違いない。教科書は教育課程を通して教育課程の中で外部から与えられるほかない。なお、日本は間違っても旧ソ連ではない。スターリン独裁体制時代のような絶対的なトップダウンは通用しない。地方自治体には地方自治体の権利があるしそれを行使することは大変重要なことだ。だが、この種の権利はしばしば積極的に行使していないと、たとえば教科書問題でいえば、いとも簡単に上位機関である文部科学省の指導に服従するほかなくなるという政治的ダメージをこうむることになる。沖縄に行けば、あるいは北方領土に行けば、日本の情けなさがどれほど深甚なまで情けないか、逆に地方自治体に対してのみどれほど強硬な態度に出るか、よくわかるだろう。このような議員同士によるあるいは同一議会階級同士による蓄積したエネルギーの流動は、それが外部へ向けて放出する方法を持たない場合、どのような事態を出現させるか、少し前に中井久夫から引用したばかりなのだが。

「江戸期を通じて武士階級にはつねに薄氷感があり、去勢感情とその否認が存在したとみてよいであろう。その証拠の一つは、黒船襲来後の尊攘運動である。地獄の釜が開いたごとき殺し合いは、西南戦争(一八七八年)まで四半世紀にわたって続いた。この間、殺害された外国人は数えるほど少数である。否認された去勢感情の反動としての奇妙な特徴として、階級の自己破壊ともいうべく、主目標は自己階級内部に指向された」(中井久夫「分裂病と人類・P.77」東京大学出版会)

そして一般市民はこの不毛な闘争に巻き込まれて疲弊するのだ。それにしても、制服にせよ教科書にせよ「与える」ということに付随する普遍的なまでの重大さについて、諸外国からみて日本は余りにも幼稚な認識しか持ち得ていないと半ば軽蔑を含まざるをえない同情の念を込めて映っているに違いない。「与える」ということ。公教育では「贈与」ということになるわけだが。この「贈与」には重大この上ない問題が今なお存する。デリダはいう。

「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟は必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。

与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局)

「与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうる」=「人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕」。ここでデリダは「教師と生徒との関係」が「債権者と債務者との関係」に置き換えられてしまう危険性があるといっているわけだ。ニーチェ参照。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという『理由』から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.70」岩波文庫)

八十年代後半の現代思想ではデリダのような指摘は当たり前のものとして、日本のごくふつうの大学の中でも大いに発言権を持っていた。ヨーロッパでは欧州全域において。あれから四十年近くが過ぎた。すると今度は、あれほど進歩していた思想に対する反動的勢力が復讐感情・劣等感(ルサンチマン)を剥き出しにして歴史修正主義者として出現してきた。逆説的にいえば、歴史は前へ向かって退行しているように見える。

ところで、デリダのこの論考にヒントを与えたのはこれまたニーチェである。

「そこでおまえは学んだのだ。ーーー正しく与えることは、正しく受けるよりも、むずかしいということを。また、よく贈るということは、一つの《技術》であり、善意の究極の離れ業(わざ)、狡知(こうち)をきわめる巨匠の芸であることを」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第四部・進んでなった乞食(こじき)・P.433」中公文庫)

子どもたちに何かを「与える」ということが本当はどれほど至難で困難な態度を必要とするか。与える側に立つ大人(あるいは大人子供)たちはもっとじっくり考えたほうがよいようにおもう。かつてのように子どもたちが制服になるのではない。それとなく誘惑する制服が瞬時に子どもたちに《なる》ばかりか子どもたちの内容までをも占拠する。どこを見回してみてももはや子どもたちはおらず、逆に制服が登下校するのだ。そしてそれは管理社会の資本増殖のためのただ単なるデータベースと化して堆積されていく。データベースは更新され新しい資本増殖のための具体例を教育行政に与える。教科書の内容もまた同じように子どもたちに働きかける。この点にはよく注意しておかないといけない。後から世界史的大問題へ発展したとしても、その責任を取るのはそのとき大人になっているはずの、今の子どもたちだから。もし仮に子ども世代に責任を押し付けることにならない場合を想定できるとすれば、それは全世界に対して日本という国家が、そして日本だけが、日米同盟すら反古にして単独で勝利し全世界を支配下におさめ完全に圧倒した瞬間のみに限られる。なるほど今のアメリカは日本を従属させているけれども日本と心中するつもりなどまったくない。日本が牙を向けばアメリカはそれ相応の対応を取るに過ぎない。小型原爆の一つでも軽く落として済ませるだろう。それでも、ありうるだろうか。あらゆる他者を無視した空想的な国家の生き延び方というものが。もっとも、日本は日本の頭の中だけの幻想的な光景として想像することはありうるわけだが。想像するだけなら。しかしそのような想像もまた或る種の「理念型」にはめ込まれた上で、事後的にのみ出現することが許されている一般化された記号的なシーンの一つに過ぎない。それでもなお一般化と記号化を越えたいというのなら、そのためには資本主義そのものを越え出ていくほかないだろう。ほとんど不可能な試みだ。資本主義を越えるためには今の社会的文法の枠組みを破壊しつつ越え出ていくほかない。できるだろうか、そのようなことが。今の日本政府に。しかも現行の社会的文法は、個人的想像の範囲を遥かに越えた力を、暴力を、滔々とたたえているというのに。

BGM