白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「灯台へ」/美の犯罪7

2019年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム
次にラムジー夫人は「亡霊」に《なる》。相変わらず変身は速い。

「まるで自分が亡霊(ゴースト)にでもなったように、二十年前のひどく寒かったテムズ河沿いの家にすべり込み、想像の中で、なつかしい応接間の椅子やテーブルの間をめぐり歩いてみた。そうやって歩き回れるのは亡霊としてだけなのだが、かえってそのことは彼女を魅了した。自分の方はすっかり変わっているのに、今では静寂と美に包まれた二十年前のその一日は、まったく変わることなく、そこにあり続けたように思えたからだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.164」岩波文庫)

さて、バンクス。彼は「マニング家ともラムジー家ともつき合い続けている」。

「『人は疎遠になりやすいものですよ』とバンクス氏は言ったが、自分はマニング家ともラムジー家ともつき合い続けていると考えて、少し満足感を覚えていた。つまり疎遠にはなっていないわけだと思って、手にしたスプーンを置き、きれいにひげを剃った口もとを几帳面にぬぐった。だがこの点では私は少々例外的な存在と言うべきかもしれない。とにかく型にはまった生活をするのが嫌で、だから敢えていろんな方面に友人を持とうとしてきたのだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.165~166」岩波文庫)

ということは、バンクスは「情報」であり「貨幣」でもある。マニング家からラムジー家へ行くとき、彼は或る種の情報を持って出かけ、ラムジー家へその情報をもたらす。次にラムジー家からマニング家へ行くとき、彼はラムジー家で入手した情報を携えてマニング家へ行き、マニング家でその情報を披露する。さらに彼は今度はマニング家からラムジー家へまた別の情報を持って行く。そしてラムジー家にはまた新しい情報がもたらされる。この運動は反復される。そしてそのたびに両者の間で蓄積される情報は容量を増していく。バンクスは両者の間で両者の情報を媒介し増殖させる流通貨幣の役割を果たす。流通貨幣は速やかになおかつ様々に姿を取り換える。落ち着きがない。その意味で彼はなるほど「型にはまった生活をするのが嫌」だ。

ラムジー夫人は再び亡霊になっている。しかし「亡霊」は、ヨーロッパではフランスを中心として始まり壊滅的な敗北で終わりを告げた一八四八年の革命の大失敗以後、その死者の群れを弔うかのように欧州諸国のあちこちで「見た」という人々が現れたのはなぜだろうか。フロイトによれば、内界から「排除されたもの」は「《外界から》再び戻ってくる」らしいが。それはそれとして。亡霊のまま「自由に歩き回」ることを夢想する。しかし亡霊として夢想している夫人はけっして非現実ではない。過去に戻っているだけだ。

「夫人の夢の国とは、非現実だが魅力的な場所、二十年前のマーロウにあったマニング家の応接間に他ならない。そこなら気づかうべき未来などないのだから、あわてる必要もなければ不安に駆られることもなく、自由自在に歩き回れる。もちろんその後、マニング夫妻にもわたしにもいろんなことがあった。でもこれは二十年前のことなのだから、いわば結末のわかっている物語を、それでもその美しさやおもしろさに惹かれて、もう一度読み返すのに似ている」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.174~175」岩波文庫)

過去を回想する人間は亡霊だろうか。過去の記憶を「もう一度読み返す」ことはそれほど非現実的だろうか。むしろ誰もがしばしば亡霊化しているといえないだろうか。人は実にしばしば亡霊に《なる》。身体を抹消して記憶に《なる》ともいえる。

「普段なら、たとえばこのテーブルからも一段ごとに滝のようにこぼれ落ちて、どこへ行くのか見当もつかない人生というものも、その応接間の中でなら、しっかりと封じ込められていて、あたかも静かな湖のように岸辺に穏やかに横たわっている」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.175」岩波文庫)

ラムジー夫人がいうには「人生」は「滝のようにこぼれ落ちて、どこへ行くのか見当もつかない」。一つの大きな流れの中に組み込まれているために一見それとはわからない小さな流れに過ぎない。だが記憶としては「しっかりと封じ込められてい」る一部分でもある。さて、記憶について、ベルクソンの有名な「逆円錐」の説明を参照しておこう。

「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)

なお「逆円錐」の構図は同P.322に掲載されている。また、この説明には続きがある。もっと後で述べる。

ところで、猫になったカーマイケルだが、彼は「記念碑のようにどっしり構え」「泰然自若(たいぜんじじゃく)とした落ち着きぶり」を示している。

「彼がスープを飲む時の泰然自若(たいぜんじじゃく)とした落ち着きぶりには、自然と敬意を払いたくなる。オーガスタスはスープが欲しくなれば頼むだけのこと。笑われようと腹を立てられようと、一切気にする様子はない。あの人がわたしのことを疎ましく思っているのはわかっている。でも、ある程度はまさにその故に、あの人を尊敬したい気持ちになる。薄らぎゆく陽光の中で堂々と静かにスープを飲む時の、記念碑のようにどっしり構え、深い物思いにふける姿を見ていると、彼はいったい何を感じているのか、なぜそんなに満ち足りた威厳が保てるのか、思わず尋ねてみたくなる」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.180~181」岩波文庫)

本当に「何を感じているのか」わからないまま話は進行する。ポールとミンタの二人がやってくる。メンバー全員が揃ったことになる。予定していた流れができあがる。夫人はおもう。と言う間もなく彼女は「鷹」に、「旗」に《なる》。

「やっとわたしは、ゆったりとした安定感にたどり着いた。鷹のように宙を舞っている気分だ。あるいは喜びの大気にひるがえる旗のような気持ち」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.197」岩波文庫)

ラムジー夫人は役割を果たした感慨に浸って自己満足しているだけだ、と言ってしまえばそれだけのことなのかも知れない。ところがこの「それだけのこと」が一体どれほどの「強度」を必要としたか。リリーは後の回想シーンでラムジー夫人を評して「あの自己犠牲」といっている。ニーチェが「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》」「敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること」と呼んだもの。ちなみに、蓄積されており、さらに逆方向へ転倒した爆発的エネルギーの運動は、かつて日本でもはっきり目に見えるが「奇妙な特徴」を持つ暴力的形態で出現したことがある。

「江戸期を通じて武士階級にはつねに薄氷感があり、去勢感情とその否認が存在したとみてよいであろう。その証拠の一つは、黒船襲来後の尊攘運動である。地獄の釜が開いたごとき殺し合いは、西南戦争(一八七八年)まで四半世紀にわたって続いた。この間、殺害された外国人は数えるほど少数である。否認された去勢感情の反動としての奇妙な特徴として、階級の自己破壊ともいうべく、主目標は自己階級内部に指向された」(中井久夫「分裂病と人類・P.77」東京大学出版会)

ということが自己内部で起こってくる。だから「自己犠牲」といっても、実をいうと、「ほどほど」にしなくてはいけない。

戻ろう。ラムジー夫人は「永遠」を感じる。

「その大気は皆を包んで、確実にそこにあった。そしてそれは、ーーーどこか永遠を思わせるものだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.197」岩波文庫)

メンバーが揃い、会話もそこそこはずみ、ラムジー氏も激怒したりはしていない。夫人はおもう。というのはーーー。

「物事には一貫性があり安定性がある。つまりどこかに何か変化を免れるものがあって、それは(夫人は光が波立つように揺れて映る窓ガラスを見た)流れるものや逃げ去るもの、うつろう存在を前にして、ルビーのごとく硬い輝きを放つ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.197」岩波文庫)

この「ルビーのごとく硬い輝きを放つ」確固たるものとは何だろうか。

「物事の核心、中心のまわりには、とても静かで穏やかな空間があるものだ。そこでは自由に動きまわったり、休んだりもできるーーーあるいは高い所から急降下する鷹のように舞い降りてきて、皆の笑い声に乗って楽々と浮いたり沈んだりしつつーーー話題の上に、すっかり身をもたせかけることもできる。それは、たまたま夫が持っていた列車の切符の番号、一二五三の平方根についての話のようだった。でもそれって何のこと?今日に至るまでわたしにはわからない。平方根って、それは何なの?」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.198」岩波文庫)

「この会話の流れ、つまり男性たちの素晴らしい知性の組み立てた流れに、しっかり自身を支えてもらい力づけてもらおうとする。たぶんこの知性こそ、堂々たる建造物を支える大梁にも似て、上下に縦貫し、左右に横断することを繰り返して世界全体を維持している」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.199」岩波文庫)

なるほどそれは「男性たちの素晴らしい知性の組み立てた流れ」ではある。しかしどこをどう見ても夫人がすべてを整えた上でようやく成立した場でしかない。それでも夫人はほぼ十分満足している。

「皆の話はいわば水中の鱒(ます)が微妙に位置を変える動きのようなもので、それが見える一方にはさざ波や砂利も見え、右にも左にもそれぞれ別の何かがあって、しかもそれらは全体としては調和し、一つに溶け合っているという印象だった。ーーーしばらく夫人は、自らを宙空に漂わせていた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.201」岩波文庫)

彼女が「しばらく」ーーー「自らを宙空に漂わせてい」られる条件とは何だろうか。それは「ルビーのごとく硬い輝きを放つ」=社会的文法である。男性たちはそれを使いこなすことができる。が、始めからこつこつと組み立て上げてお膳立てしておくということはしない。流れが想定外の方向へ流出し出したとしても、夫人が何とかしてくれる。夫人に任せておけばいい。リリーの目にはそれが「あの自己犠牲」に映った。そして実際、夫人の死は近かった。

次の場面は面白い。子どもたちのほうが大人になり、大人たちのほうが子どもに《なる》という立場の転倒が発生している。

「あの子たちの取りすました静かな仮面のような顔の後ろには、たくさんの秘密が隠れているに違いない。だって、なかなか打ち解けてはくれないし、むしろ大人たちから少し離れた高い所に立って、いつも大人たちの言動や様子を、見張ったり見わたしたりしている感じがする」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.205」岩波文庫)

子どもたちの顔はあたかも能面のように表情がなく不気味だ。ドゥルーズはいう。

「いついかなる場合でも、裸のものの真理は、仮面、仮装、着衣のものである。反復の真の基体〔真に反復されるもの〕は、仮面である。反復は、本性上、表象=再現前化とは異なるからこそ、反復されるものは、表象=再現前化されえないのであって、反復されるものはつねに、おのれを意味するものによって意味され、おのれを意味するものをおのれの仮面とし、同時におのれ自身、おのれが意味するものの仮面となる、ということでなければならない」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.62~63」河出文庫)

「灯台へ」は奇妙な形式を取っていて、分量だけで比較すると、全三部のうち第一部だけで単独過半数を越えている。いま触れている部分ですでに半ばを越えている。そしてこの後、小説自体が速度を上げていく。この「一つの読みの試み」も早く終わってしまいそうだ。なお、ウルフ「灯台へ」(第一部)執筆時期(一九二六年)、イギリスは長引く戦後不況から抜け出せず炭鉱夫による九日間におよぶゼネストが行われている真っ最中だった。もっとも、このゼネストは組合側の完敗に終わっているが。

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「灯台へ」/美の犯罪6

2019年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム
子どもたちは大人になり始めるともう子どもだけが持っている広大な感受性を急速に失っていく。ナンシーは海辺で遊びながら目に入るものを自在に拡大してみたり縮小してみたりして面白がっている。

「向こうの淡く縞(しま)模様のついた砂地では、足がひょろ長く毛でおおわれ籠手(こて)をつけた奇妙な海獣が忍び歩いていて(彼女はまだ世界を拡大して見ていた)、やがて山腹の巨大な割れ目にすべり込んでいった。だが、ほとんど気づかぬほどわずかに視線を上にずらして、海と空の境界線の波立つあたり、汽船の煙のたなびきで木の幹が揺らいで映る風景をじっと眺めていると、普段ならいろいろなものをかき集めては素早く姿を消してしまうナンシーなのに、いわば催眠術をかけられたみたいに、あの広大さとこの卑小さ(潮溜まりはもとの大きさに戻っていた)の二つの感覚の対立に手足を縛られたようで、心に渦巻く感情の激しさのために身動きとれなくなってしまった。その激しい感情の流れは、つまるところ彼女のちっぽけな肉体も彼女の生命も、さらには世界中のすべての人々の生命さえも、むなしくはかないもの、無に等しいものと思わせた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.140~141」岩波文庫)

ところで、なぜ急にナンシーは「感情の激しさのために身動きとれなくなってしまった」だけでなく「世界中のすべての人々の生命さえも、むなしくはかないもの、無に等しいもの」に思えてきたのだろうか。それは「海と空の境界線の波立つあたり」の「揺らいで映る風景をじっと眺めている」ときに不意に出現した感情の動きである。「海と空の」《あいだ》に何を見たのだろう。ランボーはいっている。

「あれが見つかった 何が? 永遠 太陽と溶けあった 海のことさ」(ランボー「地獄の季節」『ランボー全詩集・P.290』ちくま文庫)

「永遠」。ウルフが生涯をかけて追い求めたものだ。結果から言ってしまえば彼女はそれを「死」と等価なものとして求めていた。そしてこのテーマはすでに「ダロウェイ夫人」の中で、ウルフが自分の分身として登場されたセプティマスの自殺によって小説の中では実現されている。

「わたし自身の生活では、おしゃべりの花環(はなわ)で飾り立てられ、よごされ、曖昧(あいまい)なものにされてしまい、毎日腐敗と嘘とおしゃべりとなって、滴りおとされる一つのものが。この大切なものを彼は保存していたのだ。死は挑戦なのだ。死は中心部に通じようとする企てなのだ。人々は、中心部に達することが不可能だと感じている。それは神秘的に彼らを避けるのだ。近さは遠くなり、有頂天は消え失(う)せて、ひとはひとりぽっちになる。死の中にこそ抱擁があるのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.295~296」角川文庫)

夫人はいつも或る何かとまた別の何かとの《あいだ》において「死」=「永遠」という私的公式を見出さずにはいられない。ナンシーも「彼女のちっぽけな肉体も彼女の生命も」結局のところ「無に等しい」=「死」であるとおもわないではいられなくなる。それはまさしく「海と空の」《あいだ》であり、なおかつその「風景をじっと眺めている」限りで不意に彼女に襲いかかる。さらにナンシーはそのとき、「二つの感覚の対立に手足を縛られたよう」で「身動きとれなくなって」いる。カント的な二律背反といってもいいが、ベイトソンのいうダブルバインド(板ばさみ)といったほうがわかりやすいかもしれない。

次のセンテンスは結婚を前にしたポールとミンタが抱き合っている場面に遭遇したアンドリューとナンシーの反応である。

「アンドリューはやがてナンシーも女になるんだと思って苛立ち、ナンシーの方もアンドリューが男になるんだと思って困惑を覚え、二人とも腹立ちまぎれに靴ひもを強く引っ張って、いつもより堅い蝶結びにした」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.142」岩波文庫)

子どもが子どもでいられる時期はほんのわずかだ。子どもの想像力は計り知れないほど大きく、身体は男の子であっても内面は女の子になり、また身体は女の子であっても内面は男の子になることができる。いわゆる「ままごと遊び」でその実例を観察することができる。男の子と女の子とは相互に浸透し合い溶け合うことが可能な時期を有する。大人になることは一方でそれまでもっと自由だった生の「残骸が撒き散らされている」シーンを記憶に留めておく作業でもある。

「生命は傾向であり、傾向の本質は、ただ増大するだけで、分岐する諸方向を創造しながら、束状に自身を展開するーーー創造された諸方向は、生命の弾みを分有している。われわれが性格と呼ぶ特別な傾向が進化するとき、われわれは自分自身に以上のようなことが起こっているのを観察する。われわれは誰しも、自分の身の上を少しでも振り返ってみれば、子供の頃の人格が、不可分であるとはいえ、様々な人格を併せ持っていたことを認めるだろう。それらは生まれつつある状態であったので、互いに溶け合ったままでいられたのである。この期待に満ちた定まらなさは、幼少時代の最も大きな魅力の一つでさえある。しかし相互に浸透し合っている人格は増大するにつれて両立不可能になる。われわれは誰しも一つの人生しか生きることができないから、選択せざるをえないのである。われわれは実際たえず選び、そして同じく絶えず多くのものを捨てているのだ。われわれが時間において通る道には、われわれがなり始めていたもの、なりえたもの全ての残骸が撒き散らされている」(ベルクソン「創造的進化・P.134~135」ちくま学芸文庫)

幼年期は二度と戻らない。けれども、まさにそれゆえに「永遠の魅力を発揮」してはいないだろうか、とマルクスは問う。

「困難は、ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみをあたえ、しかもある点では規範としての、到達できない模範としての意義をもっているということを理解する点にある。おとなはふたたび子供になることはできず、もしできるとすれば子供じみるくらいがおちである。しかし子供の無邪気さはかれを喜ばさないであろうか、そして自分の真実さをもう一度つくっていくために、もっと高い段階でみずからもう一度努力してはならないであろうか。子供のような性質のひとにはどんな年代においても、かれの本来の性格がその自然のままの真実さでよみがえらないだろうか?人類がもっとも美しく花をひらいた歴史的な幼年期が、二度とかえらないひとつの段階として、なぜ永遠の魅力を発揮してはならないのだろうか?しつけの悪い子供もいれば、ませた子供もいる。古代民族の多くはこのカテゴリーにはいるのである。ギリシャ人は正常な子供であった。かれらの芸術がわれわれにたいしてもつ魅力は、その芸術が生い育った未発達な社会段階と矛盾するものではない。魅力は、むしろ、こういう社会段階の結果なのである、それは、むしろ、芸術がそのもとで成立し、そのもとでだけ成立することのできた未熟な社会的諸条件が、ふたたびかえることは絶対にありえないということと、かたくむすびついていて、きりはなせないのである」(マルクス「経済学批判序説」『経済学批判・P.328~329』岩波文庫)

さて、ミンタが祖母から貰った大切なブローチを失くしてしまって泣いているのをナンシーは見る。そしてこうおもう。

「ナンシーから見ると、なくしたブローチをミンタが気にしているのは本当だとしても、ただそれだけのために彼女が泣きじゃくっているのではないような気がした。きっともっと別のことのために泣いているんだ。皆でその場にすわりこんで、一緒になって泣きたい気分だわ、とナンシーは思ったが、それが何のためなのかはよくわからなかった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.144~144」岩波文庫)

ミンタが海辺で失くしたものはただ単に祖母の形見の品というだけのものではない。なるほどブローチは物でしかないけれども、もっと「かけがえのないもの」であり、一度失ってしまえば二度と取り戻すことのできないものでもあり、同じ女性であるナンシーが「きっともっと別のことのために泣いている」と鋭く見抜いているように、それは男性にはなく女性だけが持っているものである。暗示的な手法であり特にここで挿入しなくても不自然にはおもわれない文章なのだが、一人の女性から見たもう一人の女性の涙の意味が、この時点では「何のためなのかはよくわからな」いけれども、という表現を取って描かれている。

さて、ラムジー夫人は「カラスたち」の翼の羽ばたきによって「空気」が「鋭い三日月刀の形に刻まれていく」のを見て、持ち前の「力への意志」を感じとり爽快感をおぼえる。

「カラスたちは一斉に舞い上がり、空気はその黒い翼で強く押しのけられては、鋭い三日月刀の形に刻まれていくようだった。バサッ、バサッ、バサッと叩きつけるように翼が動くさまーーーどう言葉を使っても十分満足できる表現にはならないがーーーそれこそは、夫人にとって最も心地よく感じられる眺めの一つだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.150」岩波文庫)

その「眺め」は「夫人にとって最も心地よく感じられる」。夫人はまたもや自分の身体を脱ぎ捨てて今度はカラスに《なる》というわけだ。変身が速い。

次のセンテンスでラムジー夫人は「自分のささやかな力ではとてもお返しできない」と感じる。

「自分の子どもの頃を思い返してみると、きっとローズくらいの歳の女の子が母親に対して抱く特別な感情というものがあって、それは深く静かに埋もれた感情、うまく言葉にならない気持ちなのだろう。自分に対して強い感情が向けられていることに気づいた時はいつもそうなのだが、夫人はどこか寂しさを感じた。なぜって、それは自分のささやかな力ではとてもお返しできないものだから。ローズがわたしに抱く思いの深々とした重さは、現実のわたしにはあまりにも不釣り合いだ。これから成長するにつれ、この子はその細やかで豊かな感情のために、きっといろいろ苦労するに違いないわ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.151~152」岩波文庫)

このように「ローズがわたしに抱く思いの深々とした重さ」と「現実のわたし」とを秤に掛けて「あまりにも不釣り合い」と思い込んでしまう精神の動き。しかしこのような精神の動きはその発生を一体どこに持っているのだろうか。ニーチェはそれを「今日では根絶できない」思想と呼んだ。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという『理由』から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.70」岩波文庫)

母子関係の葛藤を「債権者」と「債務者」との「間」の関係に置き換えるなど不謹慎におもえるかもしれない。けれども夫人が感じている「良心の疚(やま)しさ」はこのように「売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に」までさかのぼっていくことができる。母親ラムジーは娘ローズに対して暴力的態度を取ることはできないししようともおもわない。常に幾らかの暴力的要素を含む夫人の「力」は、ここでは外部に向けて発散させることを堰き止められている。するとその「力」は逆流して自分自身の内部に舞い戻ってくるほかない。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)

ラムジー夫人の生成変化。「あらゆることを通り越し、通り抜け、外側へ飛び出してしまったかのような」素早さを感じる。また、「そこに人々を巻き込む強く大きな渦のようなものがあると」すれば「うまくゆけばその中に入り込むこともできた」が、失敗している。そして絶望に《なる》。

「夫人はスープをよそいながらも、自分があらゆることを通り越し、通り抜け、外側へ飛び出してしまったかのような気がした。たとえばそこに人々を巻き込む強く大きな渦のようなものがあるとして、うまくゆけばその中に入り込むこともできたのだろうが、間違いなく彼女はその外にいた。もう何をしても無駄な気もした」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.155~156」岩波文庫)

ラムジー夫人はあくまでもみんなが一緒に融合することを望んでいる。しかし自分のやっていることは何だろう。一人でありながらも同時に「心の中の思い」としての夫人と「スープをよそうこと」としての夫人という二人の夫人に分身している。どちらもがラムジー夫人である。間違いなく夫人は複数存在する。そして「ますます強く、自分が渦の外にいる」とおもう。だがこのような場面は今なお日本では数多く見られる。「心の中の思い」としての女性新入社員と「お茶を汲むこと」としての女性新入社員という二人の女性新入社員に分身している女性新入社員は今もどこにでもいる。

「心の中の思いと実際にやっていることーーースープをよそうことーーーのギャップに思わず眉をしかめつつ、夫人はますます強く、自分が渦の外にいるのを感じた。あるいは何か影が振りかかり、多様な色彩が奪われて、もののあるがままの姿が見えてきたようでもあった。この部屋の雰囲気は(彼女は見わたしてみた)、ずいぶんみすぼらしい。どこにも美しさなど見当たらない。タンズリーさんの方に目を向けるのは、あえて避けた。何ひとつ溶け合うことなく、皆ばらばらにすわっている。そして溶け込ませ、流れを生み、何かを創り出す努力はすべて彼女の肩にかかっていたのだ。反感をもつというよりただの事実として、夫人はあらためて男たちの不毛さを感じた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.156」岩波文庫)

夫人は「渦の外」へ出ることで「もののあるがままの姿が見えてきたようでもあった」。「ずいぶんみすぼらしい」と感じる。何より「反感」すら持たないでもはや「ただの事実」が見えるばかりだ。それは次のような距離の取り方をして始めて見えてくる。

「哲学的誇大広告ーーーこれがお上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだがーーーを正しく評価するためには、また、《こうした青年ヘーゲル派運動総体の》狭量さ<と>、地方的偏狭さを、<そして>《とりわけ》これらの英雄たちの実際の業績と業績に関する幻想との間の悲喜劇的なコントラストを明瞭にするためには、この騒動全体をいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.36」岩波文庫)

再び自分が張り切って部屋の中で独創的な雰囲気を作り上げ、ばらばらになっているみんなを「流れ」の中に「溶け込ませ」ないといけないのかと疲労を感じる。その意味で周囲は夫人に依存しきっている。それを見てリリーはおもう。リリーから見れば夫人は五十歳で、どう考えてもいつまでも若くはない。というばかりでなく、むしろ「自由さ」の獲得を目指す夫人と、他方、当時でいう「良妻賢母」であろうとする夫人と、二人の夫人がいるように見える。

「なんて年をとり疲れきったように見えるんだろう、とリリーは思った、そしてなんて遠い人のように感じられるんだろう。しかし一旦夫人がウィリアム・バンクスの方を向くと、まるで船が急にその向きを変え、明るい陽光がその帆を包みこんだかのようで、リリーはホッとした気持ちも手伝って、少しばかりいたずらっぽく、どうしてバンクスさんをあわれむ必要などあるのだろう、と考えた。ーーーまるで彼女の疲れは半ばはあれこれと人を気遣いあわれむせいで、もうひと頑張りしようと活力をよみがえらせたのもまた憐れみのなせる業(わざ)であるかのようだったから。でもそれは間違っている、とリリーは思う。夫人特有の勘違いの一つと言ってもいい。たぶんその気持ちの動きは夫人の心の中に本能的に根差したもので、他人のためというよりむしろ自分自身の必要に駆られて生じているのだろう。バンクスさんをあわれむ必要なんてまったくない。ちゃんとご自分の仕事をお持ちなのだから、とリリーは考えた。その時突然、まるで宝物でも見つけたみたいに、そういえば自分にだって仕事があるんだ、と思い出した」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.158~159」岩波文庫)

リリーはこれまた突然「自分」の「仕事」を思い出す。あたかも「宝物でも見つけたみたいに」思い出す。ニーチェはいう。

「《職業》ーーー職業は生活の背骨である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五七五・P.451」ちくま学芸文庫)

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