次にラムジー夫人は「亡霊」に《なる》。相変わらず変身は速い。
「まるで自分が亡霊(ゴースト)にでもなったように、二十年前のひどく寒かったテムズ河沿いの家にすべり込み、想像の中で、なつかしい応接間の椅子やテーブルの間をめぐり歩いてみた。そうやって歩き回れるのは亡霊としてだけなのだが、かえってそのことは彼女を魅了した。自分の方はすっかり変わっているのに、今では静寂と美に包まれた二十年前のその一日は、まったく変わることなく、そこにあり続けたように思えたからだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.164」岩波文庫)
さて、バンクス。彼は「マニング家ともラムジー家ともつき合い続けている」。
「『人は疎遠になりやすいものですよ』とバンクス氏は言ったが、自分はマニング家ともラムジー家ともつき合い続けていると考えて、少し満足感を覚えていた。つまり疎遠にはなっていないわけだと思って、手にしたスプーンを置き、きれいにひげを剃った口もとを几帳面にぬぐった。だがこの点では私は少々例外的な存在と言うべきかもしれない。とにかく型にはまった生活をするのが嫌で、だから敢えていろんな方面に友人を持とうとしてきたのだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.165~166」岩波文庫)
ということは、バンクスは「情報」であり「貨幣」でもある。マニング家からラムジー家へ行くとき、彼は或る種の情報を持って出かけ、ラムジー家へその情報をもたらす。次にラムジー家からマニング家へ行くとき、彼はラムジー家で入手した情報を携えてマニング家へ行き、マニング家でその情報を披露する。さらに彼は今度はマニング家からラムジー家へまた別の情報を持って行く。そしてラムジー家にはまた新しい情報がもたらされる。この運動は反復される。そしてそのたびに両者の間で蓄積される情報は容量を増していく。バンクスは両者の間で両者の情報を媒介し増殖させる流通貨幣の役割を果たす。流通貨幣は速やかになおかつ様々に姿を取り換える。落ち着きがない。その意味で彼はなるほど「型にはまった生活をするのが嫌」だ。
ラムジー夫人は再び亡霊になっている。しかし「亡霊」は、ヨーロッパではフランスを中心として始まり壊滅的な敗北で終わりを告げた一八四八年の革命の大失敗以後、その死者の群れを弔うかのように欧州諸国のあちこちで「見た」という人々が現れたのはなぜだろうか。フロイトによれば、内界から「排除されたもの」は「《外界から》再び戻ってくる」らしいが。それはそれとして。亡霊のまま「自由に歩き回」ることを夢想する。しかし亡霊として夢想している夫人はけっして非現実ではない。過去に戻っているだけだ。
「夫人の夢の国とは、非現実だが魅力的な場所、二十年前のマーロウにあったマニング家の応接間に他ならない。そこなら気づかうべき未来などないのだから、あわてる必要もなければ不安に駆られることもなく、自由自在に歩き回れる。もちろんその後、マニング夫妻にもわたしにもいろんなことがあった。でもこれは二十年前のことなのだから、いわば結末のわかっている物語を、それでもその美しさやおもしろさに惹かれて、もう一度読み返すのに似ている」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.174~175」岩波文庫)
過去を回想する人間は亡霊だろうか。過去の記憶を「もう一度読み返す」ことはそれほど非現実的だろうか。むしろ誰もがしばしば亡霊化しているといえないだろうか。人は実にしばしば亡霊に《なる》。身体を抹消して記憶に《なる》ともいえる。
「普段なら、たとえばこのテーブルからも一段ごとに滝のようにこぼれ落ちて、どこへ行くのか見当もつかない人生というものも、その応接間の中でなら、しっかりと封じ込められていて、あたかも静かな湖のように岸辺に穏やかに横たわっている」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.175」岩波文庫)
ラムジー夫人がいうには「人生」は「滝のようにこぼれ落ちて、どこへ行くのか見当もつかない」。一つの大きな流れの中に組み込まれているために一見それとはわからない小さな流れに過ぎない。だが記憶としては「しっかりと封じ込められてい」る一部分でもある。さて、記憶について、ベルクソンの有名な「逆円錐」の説明を参照しておこう。
「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)
なお「逆円錐」の構図は同P.322に掲載されている。また、この説明には続きがある。もっと後で述べる。
ところで、猫になったカーマイケルだが、彼は「記念碑のようにどっしり構え」「泰然自若(たいぜんじじゃく)とした落ち着きぶり」を示している。
「彼がスープを飲む時の泰然自若(たいぜんじじゃく)とした落ち着きぶりには、自然と敬意を払いたくなる。オーガスタスはスープが欲しくなれば頼むだけのこと。笑われようと腹を立てられようと、一切気にする様子はない。あの人がわたしのことを疎ましく思っているのはわかっている。でも、ある程度はまさにその故に、あの人を尊敬したい気持ちになる。薄らぎゆく陽光の中で堂々と静かにスープを飲む時の、記念碑のようにどっしり構え、深い物思いにふける姿を見ていると、彼はいったい何を感じているのか、なぜそんなに満ち足りた威厳が保てるのか、思わず尋ねてみたくなる」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.180~181」岩波文庫)
本当に「何を感じているのか」わからないまま話は進行する。ポールとミンタの二人がやってくる。メンバー全員が揃ったことになる。予定していた流れができあがる。夫人はおもう。と言う間もなく彼女は「鷹」に、「旗」に《なる》。
「やっとわたしは、ゆったりとした安定感にたどり着いた。鷹のように宙を舞っている気分だ。あるいは喜びの大気にひるがえる旗のような気持ち」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.197」岩波文庫)
ラムジー夫人は役割を果たした感慨に浸って自己満足しているだけだ、と言ってしまえばそれだけのことなのかも知れない。ところがこの「それだけのこと」が一体どれほどの「強度」を必要としたか。リリーは後の回想シーンでラムジー夫人を評して「あの自己犠牲」といっている。ニーチェが「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》」「敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること」と呼んだもの。ちなみに、蓄積されており、さらに逆方向へ転倒した爆発的エネルギーの運動は、かつて日本でもはっきり目に見えるが「奇妙な特徴」を持つ暴力的形態で出現したことがある。
「江戸期を通じて武士階級にはつねに薄氷感があり、去勢感情とその否認が存在したとみてよいであろう。その証拠の一つは、黒船襲来後の尊攘運動である。地獄の釜が開いたごとき殺し合いは、西南戦争(一八七八年)まで四半世紀にわたって続いた。この間、殺害された外国人は数えるほど少数である。否認された去勢感情の反動としての奇妙な特徴として、階級の自己破壊ともいうべく、主目標は自己階級内部に指向された」(中井久夫「分裂病と人類・P.77」東京大学出版会)
ということが自己内部で起こってくる。だから「自己犠牲」といっても、実をいうと、「ほどほど」にしなくてはいけない。
戻ろう。ラムジー夫人は「永遠」を感じる。
「その大気は皆を包んで、確実にそこにあった。そしてそれは、ーーーどこか永遠を思わせるものだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.197」岩波文庫)
メンバーが揃い、会話もそこそこはずみ、ラムジー氏も激怒したりはしていない。夫人はおもう。というのはーーー。
「物事には一貫性があり安定性がある。つまりどこかに何か変化を免れるものがあって、それは(夫人は光が波立つように揺れて映る窓ガラスを見た)流れるものや逃げ去るもの、うつろう存在を前にして、ルビーのごとく硬い輝きを放つ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.197」岩波文庫)
この「ルビーのごとく硬い輝きを放つ」確固たるものとは何だろうか。
「物事の核心、中心のまわりには、とても静かで穏やかな空間があるものだ。そこでは自由に動きまわったり、休んだりもできるーーーあるいは高い所から急降下する鷹のように舞い降りてきて、皆の笑い声に乗って楽々と浮いたり沈んだりしつつーーー話題の上に、すっかり身をもたせかけることもできる。それは、たまたま夫が持っていた列車の切符の番号、一二五三の平方根についての話のようだった。でもそれって何のこと?今日に至るまでわたしにはわからない。平方根って、それは何なの?」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.198」岩波文庫)
「この会話の流れ、つまり男性たちの素晴らしい知性の組み立てた流れに、しっかり自身を支えてもらい力づけてもらおうとする。たぶんこの知性こそ、堂々たる建造物を支える大梁にも似て、上下に縦貫し、左右に横断することを繰り返して世界全体を維持している」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.199」岩波文庫)
なるほどそれは「男性たちの素晴らしい知性の組み立てた流れ」ではある。しかしどこをどう見ても夫人がすべてを整えた上でようやく成立した場でしかない。それでも夫人はほぼ十分満足している。
「皆の話はいわば水中の鱒(ます)が微妙に位置を変える動きのようなもので、それが見える一方にはさざ波や砂利も見え、右にも左にもそれぞれ別の何かがあって、しかもそれらは全体としては調和し、一つに溶け合っているという印象だった。ーーーしばらく夫人は、自らを宙空に漂わせていた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.201」岩波文庫)
彼女が「しばらく」ーーー「自らを宙空に漂わせてい」られる条件とは何だろうか。それは「ルビーのごとく硬い輝きを放つ」=社会的文法である。男性たちはそれを使いこなすことができる。が、始めからこつこつと組み立て上げてお膳立てしておくということはしない。流れが想定外の方向へ流出し出したとしても、夫人が何とかしてくれる。夫人に任せておけばいい。リリーの目にはそれが「あの自己犠牲」に映った。そして実際、夫人の死は近かった。
次の場面は面白い。子どもたちのほうが大人になり、大人たちのほうが子どもに《なる》という立場の転倒が発生している。
「あの子たちの取りすました静かな仮面のような顔の後ろには、たくさんの秘密が隠れているに違いない。だって、なかなか打ち解けてはくれないし、むしろ大人たちから少し離れた高い所に立って、いつも大人たちの言動や様子を、見張ったり見わたしたりしている感じがする」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.205」岩波文庫)
子どもたちの顔はあたかも能面のように表情がなく不気味だ。ドゥルーズはいう。
「いついかなる場合でも、裸のものの真理は、仮面、仮装、着衣のものである。反復の真の基体〔真に反復されるもの〕は、仮面である。反復は、本性上、表象=再現前化とは異なるからこそ、反復されるものは、表象=再現前化されえないのであって、反復されるものはつねに、おのれを意味するものによって意味され、おのれを意味するものをおのれの仮面とし、同時におのれ自身、おのれが意味するものの仮面となる、ということでなければならない」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.62~63」河出文庫)
「灯台へ」は奇妙な形式を取っていて、分量だけで比較すると、全三部のうち第一部だけで単独過半数を越えている。いま触れている部分ですでに半ばを越えている。そしてこの後、小説自体が速度を上げていく。この「一つの読みの試み」も早く終わってしまいそうだ。なお、ウルフ「灯台へ」(第一部)執筆時期(一九二六年)、イギリスは長引く戦後不況から抜け出せず炭鉱夫による九日間におよぶゼネストが行われている真っ最中だった。もっとも、このゼネストは組合側の完敗に終わっているが。
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「まるで自分が亡霊(ゴースト)にでもなったように、二十年前のひどく寒かったテムズ河沿いの家にすべり込み、想像の中で、なつかしい応接間の椅子やテーブルの間をめぐり歩いてみた。そうやって歩き回れるのは亡霊としてだけなのだが、かえってそのことは彼女を魅了した。自分の方はすっかり変わっているのに、今では静寂と美に包まれた二十年前のその一日は、まったく変わることなく、そこにあり続けたように思えたからだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.164」岩波文庫)
さて、バンクス。彼は「マニング家ともラムジー家ともつき合い続けている」。
「『人は疎遠になりやすいものですよ』とバンクス氏は言ったが、自分はマニング家ともラムジー家ともつき合い続けていると考えて、少し満足感を覚えていた。つまり疎遠にはなっていないわけだと思って、手にしたスプーンを置き、きれいにひげを剃った口もとを几帳面にぬぐった。だがこの点では私は少々例外的な存在と言うべきかもしれない。とにかく型にはまった生活をするのが嫌で、だから敢えていろんな方面に友人を持とうとしてきたのだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.165~166」岩波文庫)
ということは、バンクスは「情報」であり「貨幣」でもある。マニング家からラムジー家へ行くとき、彼は或る種の情報を持って出かけ、ラムジー家へその情報をもたらす。次にラムジー家からマニング家へ行くとき、彼はラムジー家で入手した情報を携えてマニング家へ行き、マニング家でその情報を披露する。さらに彼は今度はマニング家からラムジー家へまた別の情報を持って行く。そしてラムジー家にはまた新しい情報がもたらされる。この運動は反復される。そしてそのたびに両者の間で蓄積される情報は容量を増していく。バンクスは両者の間で両者の情報を媒介し増殖させる流通貨幣の役割を果たす。流通貨幣は速やかになおかつ様々に姿を取り換える。落ち着きがない。その意味で彼はなるほど「型にはまった生活をするのが嫌」だ。
ラムジー夫人は再び亡霊になっている。しかし「亡霊」は、ヨーロッパではフランスを中心として始まり壊滅的な敗北で終わりを告げた一八四八年の革命の大失敗以後、その死者の群れを弔うかのように欧州諸国のあちこちで「見た」という人々が現れたのはなぜだろうか。フロイトによれば、内界から「排除されたもの」は「《外界から》再び戻ってくる」らしいが。それはそれとして。亡霊のまま「自由に歩き回」ることを夢想する。しかし亡霊として夢想している夫人はけっして非現実ではない。過去に戻っているだけだ。
「夫人の夢の国とは、非現実だが魅力的な場所、二十年前のマーロウにあったマニング家の応接間に他ならない。そこなら気づかうべき未来などないのだから、あわてる必要もなければ不安に駆られることもなく、自由自在に歩き回れる。もちろんその後、マニング夫妻にもわたしにもいろんなことがあった。でもこれは二十年前のことなのだから、いわば結末のわかっている物語を、それでもその美しさやおもしろさに惹かれて、もう一度読み返すのに似ている」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.174~175」岩波文庫)
過去を回想する人間は亡霊だろうか。過去の記憶を「もう一度読み返す」ことはそれほど非現実的だろうか。むしろ誰もがしばしば亡霊化しているといえないだろうか。人は実にしばしば亡霊に《なる》。身体を抹消して記憶に《なる》ともいえる。
「普段なら、たとえばこのテーブルからも一段ごとに滝のようにこぼれ落ちて、どこへ行くのか見当もつかない人生というものも、その応接間の中でなら、しっかりと封じ込められていて、あたかも静かな湖のように岸辺に穏やかに横たわっている」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.175」岩波文庫)
ラムジー夫人がいうには「人生」は「滝のようにこぼれ落ちて、どこへ行くのか見当もつかない」。一つの大きな流れの中に組み込まれているために一見それとはわからない小さな流れに過ぎない。だが記憶としては「しっかりと封じ込められてい」る一部分でもある。さて、記憶について、ベルクソンの有名な「逆円錐」の説明を参照しておこう。
「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)
なお「逆円錐」の構図は同P.322に掲載されている。また、この説明には続きがある。もっと後で述べる。
ところで、猫になったカーマイケルだが、彼は「記念碑のようにどっしり構え」「泰然自若(たいぜんじじゃく)とした落ち着きぶり」を示している。
「彼がスープを飲む時の泰然自若(たいぜんじじゃく)とした落ち着きぶりには、自然と敬意を払いたくなる。オーガスタスはスープが欲しくなれば頼むだけのこと。笑われようと腹を立てられようと、一切気にする様子はない。あの人がわたしのことを疎ましく思っているのはわかっている。でも、ある程度はまさにその故に、あの人を尊敬したい気持ちになる。薄らぎゆく陽光の中で堂々と静かにスープを飲む時の、記念碑のようにどっしり構え、深い物思いにふける姿を見ていると、彼はいったい何を感じているのか、なぜそんなに満ち足りた威厳が保てるのか、思わず尋ねてみたくなる」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.180~181」岩波文庫)
本当に「何を感じているのか」わからないまま話は進行する。ポールとミンタの二人がやってくる。メンバー全員が揃ったことになる。予定していた流れができあがる。夫人はおもう。と言う間もなく彼女は「鷹」に、「旗」に《なる》。
「やっとわたしは、ゆったりとした安定感にたどり着いた。鷹のように宙を舞っている気分だ。あるいは喜びの大気にひるがえる旗のような気持ち」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.197」岩波文庫)
ラムジー夫人は役割を果たした感慨に浸って自己満足しているだけだ、と言ってしまえばそれだけのことなのかも知れない。ところがこの「それだけのこと」が一体どれほどの「強度」を必要としたか。リリーは後の回想シーンでラムジー夫人を評して「あの自己犠牲」といっている。ニーチェが「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》」「敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること」と呼んだもの。ちなみに、蓄積されており、さらに逆方向へ転倒した爆発的エネルギーの運動は、かつて日本でもはっきり目に見えるが「奇妙な特徴」を持つ暴力的形態で出現したことがある。
「江戸期を通じて武士階級にはつねに薄氷感があり、去勢感情とその否認が存在したとみてよいであろう。その証拠の一つは、黒船襲来後の尊攘運動である。地獄の釜が開いたごとき殺し合いは、西南戦争(一八七八年)まで四半世紀にわたって続いた。この間、殺害された外国人は数えるほど少数である。否認された去勢感情の反動としての奇妙な特徴として、階級の自己破壊ともいうべく、主目標は自己階級内部に指向された」(中井久夫「分裂病と人類・P.77」東京大学出版会)
ということが自己内部で起こってくる。だから「自己犠牲」といっても、実をいうと、「ほどほど」にしなくてはいけない。
戻ろう。ラムジー夫人は「永遠」を感じる。
「その大気は皆を包んで、確実にそこにあった。そしてそれは、ーーーどこか永遠を思わせるものだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.197」岩波文庫)
メンバーが揃い、会話もそこそこはずみ、ラムジー氏も激怒したりはしていない。夫人はおもう。というのはーーー。
「物事には一貫性があり安定性がある。つまりどこかに何か変化を免れるものがあって、それは(夫人は光が波立つように揺れて映る窓ガラスを見た)流れるものや逃げ去るもの、うつろう存在を前にして、ルビーのごとく硬い輝きを放つ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.197」岩波文庫)
この「ルビーのごとく硬い輝きを放つ」確固たるものとは何だろうか。
「物事の核心、中心のまわりには、とても静かで穏やかな空間があるものだ。そこでは自由に動きまわったり、休んだりもできるーーーあるいは高い所から急降下する鷹のように舞い降りてきて、皆の笑い声に乗って楽々と浮いたり沈んだりしつつーーー話題の上に、すっかり身をもたせかけることもできる。それは、たまたま夫が持っていた列車の切符の番号、一二五三の平方根についての話のようだった。でもそれって何のこと?今日に至るまでわたしにはわからない。平方根って、それは何なの?」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.198」岩波文庫)
「この会話の流れ、つまり男性たちの素晴らしい知性の組み立てた流れに、しっかり自身を支えてもらい力づけてもらおうとする。たぶんこの知性こそ、堂々たる建造物を支える大梁にも似て、上下に縦貫し、左右に横断することを繰り返して世界全体を維持している」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.199」岩波文庫)
なるほどそれは「男性たちの素晴らしい知性の組み立てた流れ」ではある。しかしどこをどう見ても夫人がすべてを整えた上でようやく成立した場でしかない。それでも夫人はほぼ十分満足している。
「皆の話はいわば水中の鱒(ます)が微妙に位置を変える動きのようなもので、それが見える一方にはさざ波や砂利も見え、右にも左にもそれぞれ別の何かがあって、しかもそれらは全体としては調和し、一つに溶け合っているという印象だった。ーーーしばらく夫人は、自らを宙空に漂わせていた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.201」岩波文庫)
彼女が「しばらく」ーーー「自らを宙空に漂わせてい」られる条件とは何だろうか。それは「ルビーのごとく硬い輝きを放つ」=社会的文法である。男性たちはそれを使いこなすことができる。が、始めからこつこつと組み立て上げてお膳立てしておくということはしない。流れが想定外の方向へ流出し出したとしても、夫人が何とかしてくれる。夫人に任せておけばいい。リリーの目にはそれが「あの自己犠牲」に映った。そして実際、夫人の死は近かった。
次の場面は面白い。子どもたちのほうが大人になり、大人たちのほうが子どもに《なる》という立場の転倒が発生している。
「あの子たちの取りすました静かな仮面のような顔の後ろには、たくさんの秘密が隠れているに違いない。だって、なかなか打ち解けてはくれないし、むしろ大人たちから少し離れた高い所に立って、いつも大人たちの言動や様子を、見張ったり見わたしたりしている感じがする」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.205」岩波文庫)
子どもたちの顔はあたかも能面のように表情がなく不気味だ。ドゥルーズはいう。
「いついかなる場合でも、裸のものの真理は、仮面、仮装、着衣のものである。反復の真の基体〔真に反復されるもの〕は、仮面である。反復は、本性上、表象=再現前化とは異なるからこそ、反復されるものは、表象=再現前化されえないのであって、反復されるものはつねに、おのれを意味するものによって意味され、おのれを意味するものをおのれの仮面とし、同時におのれ自身、おのれが意味するものの仮面となる、ということでなければならない」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.62~63」河出文庫)
「灯台へ」は奇妙な形式を取っていて、分量だけで比較すると、全三部のうち第一部だけで単独過半数を越えている。いま触れている部分ですでに半ばを越えている。そしてこの後、小説自体が速度を上げていく。この「一つの読みの試み」も早く終わってしまいそうだ。なお、ウルフ「灯台へ」(第一部)執筆時期(一九二六年)、イギリスは長引く戦後不況から抜け出せず炭鉱夫による九日間におよぶゼネストが行われている真っ最中だった。もっとも、このゼネストは組合側の完敗に終わっているが。
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