白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「波」/融合する身体1

2019年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム
生成変化の主題は作品「波」において絶頂に達するかのように見える。しかし個々の「波」はそのつど一回限りのものとして世界に刻み込まれる流動的でなおかつ可動的な境界線としての波動でしかない。一回限りの瞬間的な「波」としては大変貴重だ。しかし個々の「波」はいつも寄せては返す一つの「波」へと回収される。ところが一回限りの瞬間的な「波」の波動はそれが起こったというだけですでにそこには全世界へおよぶ波動として全世界の生成変化がある。作品「波」もまた描かれた生成変化としては一つの多様体に過ぎないのかもしれない。個々の登場人物たちもそれぞれが一つずつの多様体として動き語りはするものの、同時に「抽象化された波全体」の一部分を瞬間的に閃く一つの具体的な断片でしかない。実際のところ、作品「波」は幾重にも読解可能であるだけでなく、おそらく世界中で何万何千という数の論文が発表されてきた注目作あるいは問題作ではあろう。しかし作品の何が注目でありどのように問題なのだろうか。さっそく不可解におもわれることがある。作品「波」の中には数という概念の否定が明確に立てられている。にもかかわらず作品「波」について何万何千という「数に換算される」論文が発表されてきたこと自体、小説家ウルフとしては微笑ましくも滑稽なことではあるまいか。控えめにいって、作品「波」には多次元の交錯が顕著に見られる。そしてそのような多次元性を一つの次元において、なおかつ唯一の論点に絞り込んで論じることはいつも正しいことなのか、と疑問におもわれる。むしろ正しく読むとはどういうことなのか。「波」は逆に読者にそう問いかけつつなおかつ読まれるべくして書かれている。

「『僕は茎だ』ーーー『僕は全く細い根だ』ーーー『僕の両眼は緑の葉だ』ーーー『僕は灰色のフランネルの着物を着た子供だ』ーーー『僕の眼はナイル河畔の沙漠に立つ石像の瞼のない眼だ』ーーー『僕は生垣の蔭で水松樹のように緑だ』ーーー『僕は土の真中へ根をおろしている』ーーー『身体は茎だ』ーーー」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.9~10」角川文庫)

変化におけるこの速度。ルイスの言葉なのだが、だからといって、何もルイスだけがこのような思考の速さを持っているわけではない。子どもにありがちな思い込みでもない。ルイスはなるほど「ルイス」という名を持ってはいる。しかしその運動は名前の固定性を超越する「欲望する多様体」とでもいっておこう。そしてそれは極めて情動的で直接的なものであって、けっして「何の表象〔代理〕でもない」。

「生成変化が情動そのものであり、欲動それ自体であるということ、そしてこれは何の表象〔代理〕でもない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.205」河出文庫)

ドゥルーズ&ガタリはこうもいう。

「生成変化とは、みずからが保持する形式、みずからがそれであるところの主体、みずからが所有する器官、またはみずからが果たす機能をもとにして、そこから微粒子を抽出し、抽出した微粒子のあいだに運動と静止、速さと遅さの関係を確立することなのである。そうした関係は、自分が今<なろう>としているものに最も《近い》ものであり、それによってこそ生成変化が達成されるのである。またその意味でこそ、生成変化は欲望のプロセスだといえる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.234」河出文庫)

ここで「生成変化は欲望のプロセス」とされている。ルイスの言葉における様々で急速な生成変化を見ると明らかなように、欲望は或る種の過程を「線として」経ていくことがわかる。そしてそれはドゥルーズもガタリも述べてはいないが、次のマルクスの論考がなくては見えなかったであろう資本主義社会の掟の「線にも」忠実に沿って展開しているといえる。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

同時にAでありBでありCでありDでありーーー、という無限の商品系列の戯画化だともいえるのである。そして子どもたちのあいだでは貨幣商品は出現するものの特権的で一般的な価値形態としての貨幣は現われてこない。したがって、ルイスの変態系列はいわゆる「全体的な、または展開された価値形態」として捉えることができ、またそう捉えることに何らの問題もない。

ところで、スーザンは何か悩んでいる。

「『わたしの苦しさをポケット・ハンカチーフに包みこんでしまおう。ーーー苦しみをとり出して橅の木の下の根っこに置こう。それを指にはさんでよく考えてみよう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.11」角川文庫)

彼女の悩みは「ハンカチーフに包みこんでしま」うことができ、さらにそれは「とり出して橅の木の下の根っこに置」くこともでき、さらにそれを「指にはさんでよく考えてみ」ることもできる。スーザンは多感だ、というのではなく、スーザンは多感に《なる》と同時に反省的思考にも《なる》ということでなければならない。

スーザンは続ける。自分の眼についてだけでなく、ジニー、ローダ、バーナードの眼について語る。

「『わたしの眼は堅苦しいーーージニーの眼は散って無数の輝きになるーーーローダの眼はここらの青い花見たいーーー貴方のはあふれて一杯になるけれど、決して破れたりしない』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.13」角川文庫)

眼について触れておかねばならない。

「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる」(ニーチェ「偶像の黄昏・P.96」ちくま学芸文庫)

「眼は光を拘束するのであり、眼それ自身が拘束された光なのである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.264」河出文庫)

それはまた「同じ強度に到達するところでは、同じ複雑さをもつ構造を通して、姿を現す」に違いない。

「諸物体の眼に見える輪郭とは、それらに対するわれわれの可能的な行動の素描なのである。したがって、視覚は、様々な程度で、きわめて多様な動物において見出される。また、それは、同じ強度に到達するところでは、同じ複雑さをもつ構造を通して、姿を現すだろう」(ベルクソン「創造的進化・P.131」ちくま学芸文庫)

間違えてはいけないことがある。たった今ベルクソンから「可能的な行動の素描」と引用し、ドゥルーズが「可能的」と述べていることは一体どういうことか、なのだが。

「われわれの知覚は、事物そのものの素描よりも、その事物に対するわれわれの可能的な行動の素描を与える。われわれが対象に見つける輪郭が示しているのは単に、その対象のうちで到達できるもの、変化させることができるものでしかない。われわれは、物質を横切って諸々の線が引かれているのを見るが、これらの線上をわれわれは移動するよう促されている」(ベルクソン「創造的進化・P.240」ちくま学芸文庫)

さらに。

「知覚とは、私たちの理解するところでは、事物に対するみずからの可能な行動を計るものであり、逆にじぶんに対して事物がおよぼすことの可能な作用を測るものにほかならない」(ベルクソン「物質と記憶・P.111」岩波文庫)

「私たちの感覚が知覚に対して有する関係は、だから、じぶんの身体の現実的行動がその可能的あるいは潜在的行動に対して有している関係とひとしい。私の身体の潜在的行動は、それ以外の諸対象にかかわり、それらの対象群にあって素描されている。その現実的な行動はじぶんの身体そのものに関係し、したがって身体のうちで描きだされているのである。すべてはかくして結局のところ、あたかも現実的行動ならびに潜在的行動が、その適用される点に、あるいはその原点へと真に回帰することをつうじて、外的イマージュが、私たちの身体によってそれを取りかこむ空間中に反射され、現実的行動はこの身体をつうじてその身体の実質の内部に留保されるかのように生起することだろう。またこのゆえにこそ、身体の表面ーーーこれが内部と外部とに共通する境界であるーーーは、知覚されると同時に感受される〔身体という〕延長のただひとつの部位なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.112~113」岩波文庫)

と、ある。「可能的」あるいは「可能的な世界」でも構わない。重要なのは、あらかじめ先に「可能性」が存在しているわけでは何らない、ということだ。それは事後的に、いきなり出現する。たとえば、犯人が鴨川を渡ったがゆえに、その瞬間、犯人が鴨川を渡らなかった「可能性」について行動の素描を一挙に下描きすることができる。そういう理解でなければならない。

さて、「霧」が生じてくる。まるで「夢の国にいる」ようだ。もしかしてここは海の中なのではないかと疑うことができる。バーナードの言葉だ。

「『お話をしているうちにお互いに気持がしっくりしてくる。霧にかこまれて、夢の国にいるようだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.13」角川文庫)

スーザンは答える。

「『でもあなたは行っちまう、抜け去ってしまう。いろいろおしゃべりしながら上の方へ昇ってしまう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.13~14」角川文庫)

海の中なのでは、と問うたのはなぜか。それは「おしゃべりしながら上の方へ昇ってしまう」ことができると前提されているからである。「昇って」しまえば海面に顔を出すことになるだろう。この場がたとえ子どもたちにとって、ほんのちょっとした木立ちや羊歯の生えた遊び場に過ぎないとしても。だからむしろここは海の中なのだ。バーナードはいう。地上に上がっている。

「『撃たれてしまう!かけすのように撃たれーーーやつらは僕たちを狐だと思うよ。走って!』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.13~14」角川文庫)

子どもたちは「かけす」に、「狐」に《なる》。飛んで逃げなければならない。とっとと走らなければならない。

ネヴィルはいう。バーナードとスーザンの二人を指して、「ふらふら垂れている針金、ーーーいつもからまってばかり」だと。二人は「ふらふらした針金」だ。

「『バーナードはボートをほったらかして、僕のナイフを持ったまま追いかけて行ったんだ。竜骨を切る、よく切れる奴なんだよ。あいつらはふらふら垂れている針金、ーーーいつもからまってばかりいてさ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.16~17」角川文庫)

ルイスが話題を変える。が、ルイスはまだ変化し続けている。

「『僕の根は、植木鉢の枝根のように、分け拡がって、この世界をぐるぐるまわる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.17」角川文庫)

ところで人間は、ウルフがおもっていたようにではなく、本当にそうなるかも知れない。二十一世紀に入ってからのテクノロジーの爆発的発展は、とりわけサイバネティックスの高度化はそれを可能な射程におさめつつある。サイバネティックスはルイスがいっているように言語(エクリチュール)を通して様々に生成変化していく。遺伝子操作、iPS細胞、ゲノム編集、など。これらはどれも言語(エクリチュール)の操作に関わる。人間以外の他のどんな生物にも《なる》ことができることを日々証明している。それがどのような事態なのか。デリダはかつてこういった。

「絵画書法的であれ表意書法的であれたんに文字表記の身体的動作を示すためだけでなく、また表記を可能にするものの全体を示すために、また意味する側面を越えて意味される側面自体を示すために、したがって、表記が文字的であろうとなかろうと、またたとえそれが空間内で配分するものが声の秩序とは無関係なものーーー映画書法(シネマトグラフィ)、舞踊書法(コレグラフィ)は勿論、絵画的、音楽的、彫刻的な<書法(エクリチュール)>などに至るまでーーーだとしても、表記というもの一般を惹き起し得るあらゆるものを示すために、<エクリチュール>と言われるのである。同様に、競技者の<エクリチュール>について、また次の諸分野を今日支配しているさまざまな技術に想いをいたすならば、さらにいっそう確実に、軍隊の<エクリチュール>あるいは政治の<エクリチュール>について、語ることもできるだろう。こういうことを言うのは、たんに以上の諸活動に二次的に関連している表記法の体系を記述するためだけでなく、これらの活動そのものの本質と内容を記述するためである。また、まさにこの意味において、今日生物学者は生きた細胞内の情報の最も基本的な過程に関して、エクリチュールとプロ=グラム〔前=文字〕を語るのである。けっきょく、本質的諸限界をもとうともつまいと、サイバネティックス的《プログラム》におおわれたあらゆる領域は、エクリチュールの領域であるだろう。サイバネティックスの理論は、かつて機械と人間を対立させる役割を果たしてきたあらゆる形而上学的概念ーーー魂、生命、価値、選択、記憶の概念にいたるまでーーーを自身から放逐し得ると仮定しても、自身の歴史=形而上学的所属が同様に告発されるに至るまで、文字言語(エクリチュール)、痕跡、文字あるいは文字素の概念を保有せざるを得ないであろう」(デリダ「グラマトロジーについて・上・P.27」現代思潮社)

そしてデリダが指摘したようにヘーゲルは「<エクリチュール>についての最初の思惟者」でもある。

「《記憶》としての知性は、表象一般としての知性が最初の直接的直観に対して行なう内化作用(想起作用)の諸活動と同じ諸活動を、《言葉の》直観に対して行なう。ーーー(1)あの結合(直観とそれの意味との結合)が記号なのであるが、知性はこの結合を自分のものとしながら、この内化(想起)によって《個別的な》結合を《一般的な》結合すなわち持続的な結合に高める。そしてこの一般的持続的な結合においては名前と意味とが知性に対して客観的に結合されている。知性はまたさしあたり名前である直観を《表象》にする。その結果、内容すなわち意味と記号とが同一化され、《一つの》表象になる。そして表象作用はそれの内面性において具体的であり、内容は表象作用の現存在として存在する。ーーーこれが名前を《保持する》記憶である。ーーー《名前》はこうして、《表象界》において現存し、そして効力をもっているような《事象》である。(2)《再生産的》記憶は、直観や心像なしに、名前のなかで《事象》をもち且つ認識し、また事象と共に名前をもち且つ認識する。内容が知性のなかでもっている《現実存在》としての名前は、知性のなかにある知性自身の《外面態》である。そして、知性によって作り出された直観としての名前を《内化(想起)する》とういことは、同時に《疎外する》ということであって、知性はこの疎外において自己自身の内部に自己を措定するのである。もろもろの特殊な名前の連合(連想)は、感覚する知性・表象する知性・または思惟する知性がもっているもろもろの規定の意味のなかに含まれており、知性は感覚するもの等々として自己内でこれら幾系列もの規定を経過して行くのである。ーーーライオンという名前の場合には、われわれはそのような動物の直観を必要とせず、また心像をさえ必要としない。そうではなくて、われわれが名前を《理解する》ということによって、名前は心像を欠いた単純な表象である。われわれが《思惟する》のは名前においてである」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.144~146」岩波文庫)

「もろもろの名前の連関が意味のなかに横たわっている限り、意味と名前としての存在との結合はなお総合であり、知性は自分のこの外面態のなかで単純に自己自身に復帰していない。しかし知性は一般者であり、自分のもろもろの特殊な疎外の単純な真実態である。そして知性が自分のもろもろの特殊な疎外を完全に自己のものにするということは、意味と名前とのあの区別を廃棄することである。表象作用が行なうこの最高の内化(想起)は知性の最高の疎外であって、知性はこの疎外において自己を《存在》として措定し、名前そのものの・すなわち無意味な言葉の一致的空間として措定する。この抽象的存在であるところの自我は、主観性として同時に、種々なる名前を支配している威力であり、幾系列もの種々なる名前を自己のなかで確固としたものにし、確固とした秩序のなかで保持するところの空虚な《きずな》である。種々なる名前が単に《存在するもの》であるにすぎず、そして知性がここでは自己内でそれ自身自己のこの存在である限り、知性は《全く抽象的な主観性》としてのこの威力である。記憶においては、種々なる名前の諸系列における諸分肢は相互に全く外面的に対抗し合っており、そしてまた記憶自身もたとい主観的外面性ではあってもとにかく外面性である。《記憶》はこのために《機械的》と名づけられる」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.149」岩波文庫)

それがどのような未来を招来するかはわからない。しかしデリダがエクリチュールといったとき、既にサイバネティックスの射程は世界中の専門家によって認識されていたはずなのだ。人間は滅びる。しかしその前に、ウルフの精神性を救っておかなければならない。そしてそのことにこそ、なお人間には可能性があるのだ。しかしウルフとは一体どのような人だったのか。どの研究者をも越えて、特にウルフに限ったことではなく、中井久夫はこう述べている。

「分裂病者の社会『復帰』の最大の壁は、社会の強迫性、いいかえれば強迫的な周囲が患者に自らを押しつけて止まないこと、である。われわれはそれを日々体験している。われわれは社会の強迫性がいかに骨がらみかを知っており、その外に反強迫性的ユートピアを建設することはおそろしく不可能だからである。ただ言いうることは、私がかつて分裂病者の治療は『心のうぶ毛』を失ってはならないといったが、実はそれこそは分裂病者の微分(回路)的認知力であり、それが摩耗してはすべてが空しいことである。少なくともそれは、分裂病者あるいは分裂病親和者から彼らが味わいうる生の喜びを奪うであろう」(中井久夫「分裂病と人類・P.33~34」東京大学出版会)

特定の芸術家に限らず、日常生活の中ではしばしばすれ違っている他者。他者とは知らずに毎日すれ違っている他者。個人差はあるにせよ、誰もが自分自身の中にも幾分かは分かち持っている他者性。そのような他者に特有とも言うべき「心のうぶ毛」とは何か。

「たまさかの治療場面で、治療者が感じる、慎みを交えたやさしさへの敏感さにあらわれているようなーーー極めて表現しにくいものであるけれどもあえて言えばーーー一種の『心のうぶ毛』あるいはデリカシーというべきものは、いったん失ったら取り戻すことがむつかしい。このことをわざわざ述べる必要があるのは、慢性分裂病状態からの離脱の途がどうも一つではないらしいからである。自然治癒力それ自体が、新しい、多少とも病的な展開を生む原動力となりうることは、自己免疫病や外傷性ショックをはじめ、身体疾患においては周知のとおりであるが、慢性分裂病状態からの離脱過程においても、一見、性格神経症、あるいは《裏返しの神経症》という意味でのいわゆる精神病質的な状態にはまり込むことが少なくない。これらは、いわば『心のうぶ毛』を喪失した状態である。『心のうぶ毛』を喪失すること自体は何も分裂病と関係があるわけではなく、そういう人は世に立ち交っている人のなかにも決して少なくないけれども、『高い感受性』をかけがえのないとりえとする分裂病圏の人にとって、この喪失の痛手はとくに大きい」(中井久夫「分裂病と人類・P.34」東京大学出版会)

あの「かけがえのないもの」、「一回きりのもの」、「反復不可能なもの」、「単独性」(個性)、それらは消滅していくだろう。そしてそれらの消滅を何ともおもわない人々によって人間は各瞬間において一回限りの貴重なものを低く侮り嘲笑すらするようになっていくに違いない。ニーチェが警告していた「一般化・凡庸化・群畜化・規格化・大きなしたたかな頽廃が・偽造が・皮相化が・薄っぺらな記号化が」世界を支配するようになるだろう。やってくるのは絶望的な退屈と変化の多い怠惰の支配の始まりであり、そしてその支配は、デリダが告発していたサイバネティックスによる「自身の歴史=形而上学的所属が同様に告発されるに至るまで」続くだろう。言うまでもなく「歴史=形而上学的所属」とはナチス・ドイツの優生思想によるホロコーストをその一例とする。「告発されるに至るまで」というのはこうだ。たとえばクローン人間は本当に人間であるのか、といった問いをクローン人間自身が問題として告発するに至るまで。ヘーゲルのいう「量の質への転化」は差し当たりまだ勘案しないという条件つきであるとしても。なぜなら、或るクローン人間と別のクローン人間との《あいだ》の量的差異は質的差異を発生させず、量的な意味に限られた再生産過程であれば両者は等価関係に入ることができる。しかし或るクローン人間と別のクローン人間との《あいだ》に設定された《貨幣価値による質的差異》が存在する場合、質的な意味での再生産は諸階級の再生産となって出現するほかない。とすれば大量のクローン人間の再生産過程が様々な質的差異の発生でもある限り、その《あいだ》で起こってくることは、どちらか一方あるいは多数の階級の絶滅を含む諸階級闘争の可能性であるほかないからである。さらにこの想定は、どのようなクローン人間をどれだけ所有しているかという、諸階級自身の価値を反映する鏡としても機能しないわけにはいかないからでもある。

BGM