まず、特定のコミュニケーションの用法に関して習得され習慣化していなければならない。それは必ずしも日本語だけとか英語だけとかに限ったものでなくてもよく、身振りなどを通してその意図が翻訳できうる言語圏におけるコミュニケーションであればどの言語でも構わない。ここでは広い意味で身体言語をも含める。
「反復される努力は、それがつねにおなじものを再生するにすぎないならば、いったいなんの役にたつというのだろう。反復がほんとうに効果を有しているとするなら、それはまず《分解し》、つぎに《ふたたび合成し》ながら、かくて身体という知性に語りかけるところにある。反復は、それがあらたにこころみられるたびごとに、ふくまれていた運動を展開し、そのつど身体の注意をあらたな細部に対して呼びおこすが、その細部はそれまでは気づかれずに生起していたものなのである。反復は身体に分割させ、分類させる。かくて身体に対して、なにが本質的なことがらであるかを強調してみせるのだ。反復は、全体的な運動のうちに一本一本、内的構造をしるしづける輪郭線を見いだしてゆく。この意味で運動は、身体がそれを理解したときに習得されたといえるのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.220~221」岩波文庫)
次にレーヴィットのいう「かれらを共感的にむすびあわせる、地下道」とその非論理性ということについて。
「或るひとびとは、その者たちの意図のいっさいに反して、たえず互いに語りあうだけでおわってしまう。他方、べつのひとびとは、『造作もなく』互いに理解しあっている。しかも、後者が前者のひとびとよりも明瞭にみずからを表現していたからではない。後者のひとびとが互いに諒解しあう方法は、かれらを共感的にむすびあわせる、地下道によるものだからである。かれらが相互に諒解しあうこの源泉によって、ひとつの語りかたが可能になる。第三者の目には、この語りかたは飛躍に充ち、論理をまったく欠くものと見えるにちがいない。だが、その語りかたは、飛躍し、論理的でなく見えるのとおなじ程度に、その者たち自身にとっては、明瞭で判明なものなのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.287」岩波文庫)
実例。
「ナターシャも夫とさし向かいになると、ただ夫婦の間にのみ見られる方法で話を始めた。つまり、推理や演繹(えんえき)や結論を無視して、あらゆる論理の法則にそむきながら、とくべつ明瞭迅速に、互いの思想を理解したり、伝えあったりしはじめたのである。ナターシャはこの方法で夫と語ることに慣れてしまったので、ピエールが論理的な考え方をする時は、かえってそれが二人の間の円満でないことを証明する、もっとも確かな徴候と考えるほどになった。ピエールが理屈っぽい調子で諄々(じゅんじゅん)と話しだす時や、また彼女までが夫の調子につりこまれて、同じようなことをはじめた時などは、それが必ず諍(いさか)いのもとになるということを、彼女はよく知っていた。
二人さしむかいになって、ナターシャがうれしそうに眼を大きく見はりながら、そっと夫のそばへより、だしぬけにすばやくその頭へ手をかけて、自分の胸へぎゅっと締めつけながら、『さあ、今こそあなたはすっかり、すっかりあたしのものよ、あたしのものよ。もう逃がしやしないから』と言った瞬間から、この論理の法則に反した会話がはじまった。実際、一時にさまざまな問題を語るということだけでも、すでに非論理的であった。そういうふうに一時にさまざまな事柄を話しても、相互の明晰な理解を妨げないのみか、かえってそれが完全な理解の確実な表徴となるのであった。
夢の中では、その夢を支配する感情のほか、すべてが不確実で、無意味で、矛盾だらけであるが、それと同様に、あらゆる理性の法則に反したこの思想交換においても、はっきり秩序だっているのは言葉ではなくして、言葉を指導する感情であった」(トルストイ「戦争と平和4・P.455~456」岩波文庫)
その反復可能性について。
「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)
BGM
「反復される努力は、それがつねにおなじものを再生するにすぎないならば、いったいなんの役にたつというのだろう。反復がほんとうに効果を有しているとするなら、それはまず《分解し》、つぎに《ふたたび合成し》ながら、かくて身体という知性に語りかけるところにある。反復は、それがあらたにこころみられるたびごとに、ふくまれていた運動を展開し、そのつど身体の注意をあらたな細部に対して呼びおこすが、その細部はそれまでは気づかれずに生起していたものなのである。反復は身体に分割させ、分類させる。かくて身体に対して、なにが本質的なことがらであるかを強調してみせるのだ。反復は、全体的な運動のうちに一本一本、内的構造をしるしづける輪郭線を見いだしてゆく。この意味で運動は、身体がそれを理解したときに習得されたといえるのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.220~221」岩波文庫)
次にレーヴィットのいう「かれらを共感的にむすびあわせる、地下道」とその非論理性ということについて。
「或るひとびとは、その者たちの意図のいっさいに反して、たえず互いに語りあうだけでおわってしまう。他方、べつのひとびとは、『造作もなく』互いに理解しあっている。しかも、後者が前者のひとびとよりも明瞭にみずからを表現していたからではない。後者のひとびとが互いに諒解しあう方法は、かれらを共感的にむすびあわせる、地下道によるものだからである。かれらが相互に諒解しあうこの源泉によって、ひとつの語りかたが可能になる。第三者の目には、この語りかたは飛躍に充ち、論理をまったく欠くものと見えるにちがいない。だが、その語りかたは、飛躍し、論理的でなく見えるのとおなじ程度に、その者たち自身にとっては、明瞭で判明なものなのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.287」岩波文庫)
実例。
「ナターシャも夫とさし向かいになると、ただ夫婦の間にのみ見られる方法で話を始めた。つまり、推理や演繹(えんえき)や結論を無視して、あらゆる論理の法則にそむきながら、とくべつ明瞭迅速に、互いの思想を理解したり、伝えあったりしはじめたのである。ナターシャはこの方法で夫と語ることに慣れてしまったので、ピエールが論理的な考え方をする時は、かえってそれが二人の間の円満でないことを証明する、もっとも確かな徴候と考えるほどになった。ピエールが理屈っぽい調子で諄々(じゅんじゅん)と話しだす時や、また彼女までが夫の調子につりこまれて、同じようなことをはじめた時などは、それが必ず諍(いさか)いのもとになるということを、彼女はよく知っていた。
二人さしむかいになって、ナターシャがうれしそうに眼を大きく見はりながら、そっと夫のそばへより、だしぬけにすばやくその頭へ手をかけて、自分の胸へぎゅっと締めつけながら、『さあ、今こそあなたはすっかり、すっかりあたしのものよ、あたしのものよ。もう逃がしやしないから』と言った瞬間から、この論理の法則に反した会話がはじまった。実際、一時にさまざまな問題を語るということだけでも、すでに非論理的であった。そういうふうに一時にさまざまな事柄を話しても、相互の明晰な理解を妨げないのみか、かえってそれが完全な理解の確実な表徴となるのであった。
夢の中では、その夢を支配する感情のほか、すべてが不確実で、無意味で、矛盾だらけであるが、それと同様に、あらゆる理性の法則に反したこの思想交換においても、はっきり秩序だっているのは言葉ではなくして、言葉を指導する感情であった」(トルストイ「戦争と平和4・P.455~456」岩波文庫)
その反復可能性について。
「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)
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