リリーは芝生の端にイーゼルを立てる。絵を描くためのキャンバスの位置を固定する。しかしキャンバスの位置はいつも必ず固定されていなければならないものなのだろうか。むしろ人間は、いつも固定されていないキャンバスを頭の中に持っていて、それを常に既に持ち運んではいないだろうか。さらに持ち運びながら実にしばしば消去したり修正したりしていないだろうか。ともかくリリーは固定する。というのは、この時点では、描くべきヴィジョンがまだ定まっていないことを意味する。なので差し当たり便宜的だ。
「日なたぼっこをしているカーマイケル氏に近すぎず、しかしいざという時かばってもらえる程度には近い場所だった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.284」岩波文庫)
猫になったカーマイケルに「いざという時かばってもらえる」ほどの距離。しかし後で述べられているように、「いざという時」が来ても、猫はかばってくれない。この「いざという時」というのは、ラムジー氏が巨大な存在感を発揮しつつリリーにどろどろと寄りかかり重量級のロマン主義的態度でおおいかぶさるように依存してくる「時」のことを指している。しかし猫は人間同士の争いのための自衛隊ではない。ラムジー氏の芝居じみた異性依存的態度から逃れられないリリーの苦悩を猫のカーマイケルは知らぬ顔で無視する。そしてそれゆえに猫は、リリーに向けて、猫自身の尊厳をリリーに伝えることができる。リリーもそれを思い知らされるという形でカーマイケルがなぜ猫なのかを知ることができる。さて、ラムジー氏が探求する哲学的骨格の問題。それは「灯台へ」の中では「台所の調理台」という隠喩表現で現わされてきたものだが。
「台所の調理台とは、どこか非現実的で厳格なもの、むき出しで堅く何の装飾もないもの、色どりもなく角ばっているばかりで、とにかく容赦ないまでに単純な存在だ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.299」岩波文庫)
根本的に単純で、後の用語でいえば「構造主義的」なものを指して言われているようにおもえる。だが「灯台へ」は第一次世界大戦と第二次世界大戦とのあいだの時期に書かれている。だから構造主義的な思考はまだなかった。自分でもわけのわからないうちに構造主義的な思考の枠組みを用いて論じられた論文ならあったと言えるが、それが構造主義的であると自分で認識して書かれていたものではない。単なる偶然の産物だった。さらにその偶然性ということ自体が注目を集めるのはもっと後のことである。ここでラムジー氏が探求している「台所の調理台」はもっと「設計図」的なものであり、同時に「容赦ないまでに単純な存在」でなければならない。ところがそういう形而上学的なものは、形而上学的であるにもかかわらず、とりわけ戦争と戦争とのあいだの長引く戦後不況という時期には、時として目に見える形で、ごく当たり前の様相で、そこらへんにぽつんと置いてあったりする。坂口安吾はこういっている。
「それは小さな、何か謙虚な感じをさせる軍艦であったけれども一見したばかりで、その美しさは僕の魂をゆりうごかした。僕は浜辺に休み、水に浮かぶ黒い謙虚な鉄塊を飽かず眺めつづけ、そうして、小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思いだしていたのであった。この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪(ゆが)められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とは成り得なかった。そうして、ここに、何物にも似ない三つのものが出来上がったのである。
僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ『必要』であり、一も二も百も、終始一貫ただ『必要』のみ。そうして、この『やむべからざる実質』がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ」(坂口安吾「日本文化私観」『坂口安吾全集14・P.381~382』ちくま文庫)
そういうものだ。時として形而上学は形而下学として、「机の上」ではなくニーチェのいう「机の下」の実物として、出現することがある。ただし安吾の場合、安吾自身の小説はそれほど「美」の領域に達しているだろうかという問題はある。むしろ安吾は評論家として一流だったのであって小説家としては二流で終わったのでは、と感じないでもない。
次のセンテンスはウルフ小説ではたびたび顔を覗かせる。
「そんなふうにキャンバスから離れて頭の中で構想することと、実際にこうして絵筆をとって最初の一筆を加えることの間には、天と地ほどの開きがあった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.303」岩波文庫)
「船出」ではこうだった。「それらすべてと彼女の便箋との間に横たわる深い淵」とある。
「肘掛け椅子に深く座っているテレンスを見、いろいろな家具、隅にある彼女のベッド、空一杯に枝を広げている木が見える窓ガラスに目を向け、時計が時を刻む音を聞き、それらすべてと彼女の便箋との間に横たわる深い淵に驚いた。世界が一つで分け難いものとなる時は来るだろうか?もしかするとテレンスでさえーーーいま遠く離れたところにいるのかもしれない」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.190」岩波文庫)
リリーは恐る恐る絵筆を取る。力がいる。途方もない力が。
「流れるように力強い線を描きこんでいくうち、その何本かの線に囲まれるようにして、ひとつの空間が(リリーはそれが自分に向かって迫って来る気がした)、ゆっくりと浮かび上がってきた。やっとひとつ波を乗り越えて波間にいる自分に、早くも次のさらに険しく聳(そび)え立つ波がのしかかってくるような思いだった。なぜなら、この空間ほどに、激しい畏怖(いふ)の念をかきたてるものはなかったから」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.305」岩波文庫)
この「激しい畏怖」を感じさせるもの。それは「見せかけの世界の背後から鋭く姿を現わす」。
「このもうひとつの存在、この真実、この現実は、突然リリーを捉え、見せかけの世界の背後から鋭く姿を現わすと、彼女の注意をいやでも引きつけて放さない」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.305」岩波文庫)
どこかで記憶にないだろうか。
「いいか、すべて目に見ゆる物とは、ボール紙づくりの仮面にすぎぬ。だが、おのおのの出来事ではーーー生ける行動、疑う余地なき行為においてはじゃーーーかならず、そのでたらめな仮面の背後(うしろ)から、正体は知れぬがしかもちゃんと筋道にかなったものが、その隠された顔の目鼻だちを表面(おもて)に現わしてくるものなのだ。人間、壁をぶちやぶるなら、その仮面の壁をぶちやぶれ!囚人が壁を打ち破らんで外へ出られるか?このおれには、あの白鯨が壁になって、身近に立ちはだかって居(い)おるのだ。そりゃ、その壁の向う側には、何もないと思うこともある。だがそれでも同じじゃ。あいつがおれにはたらきかけ、おれにのしかかってくる」(メルヴィル「白鯨・上・P.273」新潮文庫)
このとき、エイハブは白鯨と等価関係に入っている。狂気に《なる》。狂気への生成変化がある。リリーにもその兆候を見て取ることができる。「無防備にむき出し」へ向かう。こんなふうに。
「日常生活の流動性の世界から絵画という集中性の世界への気持ちを切り換えようとする時、ほんの短い間ながら、自分がまったく無防備にむき出しにされたような思いがした。まるで未だ生まれず、肉体を持たぬ魂にも似て、強風の吹きすさぶ断崖の上で、身を守る術(すべ)もなくあらゆる疑問の嵐にさらされているような感じだ。だとしたらなぜ、そうまでして絵を描くのだろう?」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.306」岩波文庫)
「リリーはどこかから声が聞こえる気がしたーーーおまえには描けない、おまえには創り出せやしない、という声が。それはいわば習慣的な意識の声とでも言うべきもので、いま彼女は時を経て純粋な経験と化した言葉の中に囚(とら)われていて、何度か心の中で繰り返しているうちに、最初にそれを誰が言ったのかなど、ほとんど意識しなくなっていた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.306~307」岩波文庫)
言語という「習慣」に「囚(とら)われてい」る限り、リリーにこれ以上の進展は見込めない。だが彼女はそれ以上の「強度」を獲得する。しかしそのとき、すでに彼女は統合を失調させた狂気の領域を跋渉していなくてはならない。そして実際彼女はそう《なる》。解体する。
「彼女の心は、その奥底から、さまざまな場面や名前、言葉や記憶や観念を、まるで噴水のように噴き上げていった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.307」岩波文庫)
リリーは「噴水」に《なる》。面白いとおもう。というより、リリーの精神状態は大変深刻なわけだ。けれどもそれを観察している作者ウルフはたぶん思考のどこかで「上手く書けた」とほっとしている。そんな姿が見えてきそうではないだろうか。文学作品として見れば、「灯台へ」の絶頂あるいはエクスタシーは間違いなくここにある。残すところあと少しになってきた。何だか惜しい気がしなくもない。しかし問われるべき課題はまだ残っている。記憶について。ところで、記憶とは何だろう。
「ジェイムズは、時の流れが彼の意識の上に、木の葉やひだを一枚ずつ重ねるようにして、ゆっくりと絶え間なく積み上げてきた無数の印象の群れの中を、静かに手さぐりし始めたーーーさまざまな香りや音の中を、厳しい声やうつろな声や優しい声の中を、過ぎゆく光やエニシダの窓を叩く音の中を、波の激しい響きや静寂(しじま)の中を」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.325~326」岩波文庫)
記憶の堆積を見るわけだが、しかしここでジェイムズの記憶は、なぜ一挙に湧き出ているのだろうか。ベルクソンの「逆円錐」の構図を参照しよう。
「すくなくとも人間については、純粋に感覚ー運動的な状態といったものは存在せず、おなじくまた人間にかんしては、漠然とした活動の基体をともなわない想像的な生も存在しない。私たちの通常の心理学的生は、すでに述べておいたとおり、この両極のあいだで振動している。一方で、感覚ー運動的な状態Sが記憶を方向づけるが、この感覚ー運動的状態とは要するに、記憶の現勢的で活動的な極限にすぎない。他方では、この記憶そのものが、私たちの過去の全体をともない、前方へと推進力を行使して、現在の行動のなかに、記憶自身の最大限可能な部分を組みいれる。この二重の努力から、瞬間ごとに帰結するものが、記憶の無限に数多く可能な《状態》であって、それらの状態は、私たちの図式でいえば、断面A’B’、A”B”等々によってあらわされている。これらは、さきに述べておいたとおり、それぞれに私たちの過去の生全体を反復するものである。しかし、それらの切断面のおのおのは、それが底辺に近づくか、頂点に接近するかに応じて、そのひろがりに大小の差が生じる。くわえてまた、私たちの過去にかんするこれらの完全な表象のそれぞれが意識の光のもとにもたらすのは、たんに感覚ー運動的な状態の枠内に嵌まりこむもの、かくてまた現在の知覚に、遂行されるべき行動という観点から類似しているものにかぎられる。ことばをかえれば、統合された記憶は、現在の状態からの呼びかけに対して、ふたつの同時的な運動をつうじて応答するのだ。そのひとつは併進運動であって、これによって記憶は全面的に経験に向かってすすみ、かくて行動のために、分割されることなく多少ともみずからを凝縮させる。もうひとつは自転運動であり、それをつうじて記憶は、現下の状況へと方向づけられながら、その状況に対してもっとも有用な側面を提示する。収縮におけるこうしたさまざまな段階に、類似性をつうじた連合にあって、その多様な形態が対応しているのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.332~333」岩波文庫)
逆円錐の構図はP.322。ネットでもいろいろ論じられているようなので、関心のある読書はそちらを参照したほうがいいかもしれない。なにせこの場はただ単なる素人論議なので。とはいえ、記憶と行動とに関してはさらに次の機会に適宜引用する。とりわけ「揺らぎ」については。
リリーはラムジー夫人のことを回想する。そういえば夫人は周囲の若年層に向かってやたらと「結婚させること」にこだわっていた。それが自分に与えられた使命だとでもいうように。謎解きはもはや世界中でなされている。ラムジー夫人のモデルは実はウルフ自身の母親である。そして実の父親はイギリスでは有名な実在の哲学者レズリー・スティーヴンであり、ラムジー氏は父親レズリーを多少なりとも戯画化した様相で登場させたものだ。そしてリリーがウルフだといってよい。リリーの世代から見ると母親世代は自分たちの子どもたちすべてを結婚させることが当たり前の社会的使命だった。世代としてはわずか一つ隔てられているだけで、このような違いがあったわけだ。しかし単なる世代論で終わらせてしまっていいのだろうか。リリーは他人の夫=ポールのことを不意に思い出す。と、彼女は精神的な「どよめき」を全身で感じる。が、不意打ち的とはいえ、結婚について考えていたわけなのでこの「どよめき」は何の不思議もない。リリーはとっさにこうおもう。「打ち上げる花火にも似て、鮮烈に輝く光」としてのポールのイメージについて「輝かしく力強いことは十分認めつつも」他方「家で最も大切な安らぎを貪欲(どんよく)に無残に食いちらすものと感じられ、戦慄(せんりつ)を覚え」る。要するに不倫がたちどころに送り届けてくるかもしれない家庭崩壊について「戦慄(せんりつ)を覚え」る。だがこの「戦慄」のイメージはその力を「打ち上げる花火にも似て、鮮烈に輝く光」としてのポールのイメージから得ているということが忘れられてはならないだろう。ということはリリーはこの「戦慄」に戦慄しつつ同時にそれを欲望しているといえる。
「なぜそこまで結婚にこだわる必要があるんだろう、とイーゼルに近づいたり離れたりを繰り返しながら、リリーは不思議に思った。⦅その時突然、ちょうど星が一つ夜空に滑り込むように突然に、リリーの心の中に赤みを帯びた光が燃え上がり、ポール・レイリーの姿を包みこむかに見えたが、それはポール自身が発する光に違いなかった。はるか彼方の浜辺で未開人が何かを祝って打ち上げる花火にも似て、鮮烈に輝く光だった。どよめくような、はじけるような音がして、数マイル四方の海は赤や金色に染まった。美酒を思わせる芳香も漂ってリリーを酔いしれさせ、いつかのように、浜辺に落ちた真珠のブローチを探し出すためなら、岸から身を投げて溺れ死んでも構わないとさえ思う気持ちにさせた。どよめきとはじけるような響きは、彼女を深い恐怖と嫌悪感で満たした。輝かしく力強いことは十分認めつつも、リリーにはそれが、この家で最も大切な安らぎを貪欲(どんよく)に無残に食いちらすものと感じられ、戦慄(せんりつ)を覚えたーーー⦆」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.339~340」岩波文庫)
問題としての「美」。美の犯罪というのは、それが周囲の実際的なものを覆い隠してしまうということにある。美しいか美しくないかということとはまったく別問題なのだ。
「理想化された姿ほど思い浮かべやすいものだ。あの人は目を見張るほどに美しかった、とウィリアムは言う。だけど、美がすべてではない。美しさにはいつだって微妙な危険がつきまとうーーーあまりにも思いうかべやすく、あまりにも完全なものに見えてしまうから、いわばそれは生命の動きを止め、生命を凍らせるのだ。その結果、日常の小さな揺れ動きが忘れ去られることになるーーーたとえば赤くなったり、青ざめたり、時には奇妙にゆがんだり、光や影が差しかかったりして、そのつど、一瞬誰の顔かさえわからなくなるのだが、その時その時に見かけたさまざまな表情は、その顔に新たに加わった印象として、いつまでも見る者の心に残り続けるのだ。そんな微妙な変化を、『美』という覆いのもとに一気にぬぐい去ってしまうのは、とてもたやすいことではあろう」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.343~344」岩波文庫)
「美/言語/貨幣」。この三位一体的問題。言語がいつもそれ自体を現わさないのはなぜか。
「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.352~353」ちくま学芸文庫)
「個別的なものを《無視する》ということが、われわれが概念をもつことの原因なのであり、これとともにわれわれの認識は始まるのである。すなわち、《標題づけ》において、《諸々の類》の提示において、われわれの認識は始まるのである。だが、こうしたものに、事物の本質は対応してはいない。それは認識過程ではあるが、事物の本質を射当ててはいないのである。多くの個別的特徴が、われわれに一つの事物を規定してくれるが、すべてのものを規定してはくれない。こうした特徴の同等性が機縁となって、われわれは多くの事物を一つの概念の下に統括するようになる」(ニーチェ「哲学者の書・P.319」ちくま学芸文庫)
言語化されることによって一回限りの「個別的なもの」は抹殺されてしまう。だから人間が言語化していることはすべて一般化され平板化され均質化された凡庸で薄っぺらなものでしかない。そして人間はそのような一般化の過程を経たものしか認識することができない。認識されたときすでにそれは一般化されており、他のものにでも置き換え可能な平板なものと化してしまっている。貨幣もまたそうだ。或る商品Aと別の商品Bとの《あいだ》に何らかの差異があるとしても、その差異を抹消して暴力的に自分を押し貫くことが貨幣に与えられた使命である。そうでなければ貨幣は商品を再貨幣化することができず、したがって資本は増殖することができなくなる。「美」というものも、それは或る種の「道徳」のようなものだ。歴史を振り返ってみると誰にでもわかるように、或るパラダイムにおいてのみ通用する「道徳観念」=「美意識」があった。それはその特定のパラダイムが成立している時期に限り、「美」でありなおかつ「道徳」であり、それによって一つの時代を支配することができた諸々のイデオロギーの連鎖に過ぎない。そしてそれらイデオロギーはいつも他の価値物を覆い隠すことに貢献してきた。それが今やどんなイデオロギーもグローバルな一つの流れの中へと解消されつつある。或る時或る場所で、これこそ「美だ」と誰かがいったとしても、それは大きな流れの中の一つの支流としての多様体でしかない。ニーチェのいうように「中心的な重心は何か可変的なもの」でしかなくなった。資本主義システムは英国王室や日本の皇室から移民社会や日雇い労働者の寄せ場など何もかもを含めて一様に平均化していく傾向を持つ。それでもなお地域次第、時と場所によりけりで、「美/言語/貨幣」は他の細かな実際的なものを覆い隠すのに忙しい。ところが、猫にはそのようなことは関係ないのである。こうある。
「まるで現実ではないものでも見るように、少しまぶしそうな目でカーマイケル氏を見ていた。彼はおなかの上で両手を組んで、椅子に長々と寝そべり、読書するでもなく、眠るでもなく、ただ存在そのものを堪能した生き物のように日なたぼっこをしていた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.344」岩波文庫)
相変わらず「ただ存在そのものを堪能した生き物のように日なたぼっこをしてい」る。猫化したカーマイケルのそばでリリーはさらに言語に対する不信を表明する。だがこの不信は言語に対する信頼が先にあったからにほかならない。
「言葉で思いを伝えることはできない。その時の思いにせきたてられて、いつも狙った的(まと)をはずしてしまうから。言葉という矢は、ふらふらと横にそれて、標的の数インチ下に中(あ)たるのが関の山なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.345」岩波文庫)
果たしてどのようなラストを設定することができるだろうか。ラストはもちろんある。たとえばリリーを救済する、といったような。しかしそれではなぜラムジー夫人は死なねばならなかったのかという問いは依然として残るのである。
なお、日本国内の報道でも、「美」=「道徳」と理解される場合、それ以外の他の微妙な意識の印象や差異的な違いを持つもの、単独性(個性)、中小零細企業の疲弊といったようなものはことごとく覆い隠された歴史がある。そしてそれはどのような事態をもたらしたか。いまの日本のテレビ・マスコミにはあの時に出現した取り返しのつかない事態に関する反省が一つも見られないのはなぜだろうか。改元にかこつけて皇室と内閣との行き来を細切れにして時間を費やし、綿密に逐一報道して結果的に他の重要な社会問題を隠蔽するのはどうしてなのか。
「藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼らが自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分が先ずまっさきにその号令に服従して見せることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分が先ずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。それは遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではないのだ。見給え。この戦争がそうではないか」(坂口安吾「続堕落論」『坂口安吾全集14・P.586~587』ちくま文庫)
日本のテレビ・マスコミが犯している「細切れ」にして時間を費やし他の事実を覆い隠すという犯罪的行為。それは映画のフィルムのようなものだ。視聴者に向かってものごとを一挙に与えない。必ずしも延長しなくてもいい事物をわざわざ人為的に「細切れ」にして長々と延長することで他の重要な社会問題あるいは皇室であれば皇室の「行動と協働の生命」ではなく、その「行動と協働の生命」の持続を持続として捉えず逆にずたずたに切り刻んで編集してしまう。それはむしろ皇室の持続がどこでどのようにしてその創造力を得てきたかという歴史を覆い隠してしまう。それにしてもテレビ・マスコミ報道は一体何がしたいのだろうか。何か重大な勘違いを犯してしまっていることに気づいていないのではないだろうか。
「例えば映画のフィルムの上ではそうであるように、すべてが一挙に与えられないのはなぜか。この点を掘り下げれば掘り下げるほど、次のように私には思える。第一に、未来が、現在の横に与えられるのではなく、現在に《引き継いで起こる》以外にないのは、未来が現在の瞬間において完全には決定されていないからだ。第二に、この継起に占められる時間が数以外のもので、そこに据え置かれた意識にとって絶対的な価値、絶対的な実在性を持つのは、予見不可能なもの、新しいものが絶えずそこで創造されているからだ。この創造が行われるのは、おそらく、砂糖水の入ったコップのような、人為的に切り離されるこれこれのシステムにおいてではなく、そのシステムが一部をなす具体的な全体においてである。この持続は物質そのものの事実ではありえない。物質の流れをさかのぼる『生命』の持続である。それでも、それら二つの運動は互いに固く結び付いている。《それゆえ、宇宙が持続する分、創造の余地があるということである。創造は宇宙のどこかに自分の場所を見つけることができるのである》」(ベルクソン「創造的進化・P.429」ちくま学芸文庫)
BGM
「日なたぼっこをしているカーマイケル氏に近すぎず、しかしいざという時かばってもらえる程度には近い場所だった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.284」岩波文庫)
猫になったカーマイケルに「いざという時かばってもらえる」ほどの距離。しかし後で述べられているように、「いざという時」が来ても、猫はかばってくれない。この「いざという時」というのは、ラムジー氏が巨大な存在感を発揮しつつリリーにどろどろと寄りかかり重量級のロマン主義的態度でおおいかぶさるように依存してくる「時」のことを指している。しかし猫は人間同士の争いのための自衛隊ではない。ラムジー氏の芝居じみた異性依存的態度から逃れられないリリーの苦悩を猫のカーマイケルは知らぬ顔で無視する。そしてそれゆえに猫は、リリーに向けて、猫自身の尊厳をリリーに伝えることができる。リリーもそれを思い知らされるという形でカーマイケルがなぜ猫なのかを知ることができる。さて、ラムジー氏が探求する哲学的骨格の問題。それは「灯台へ」の中では「台所の調理台」という隠喩表現で現わされてきたものだが。
「台所の調理台とは、どこか非現実的で厳格なもの、むき出しで堅く何の装飾もないもの、色どりもなく角ばっているばかりで、とにかく容赦ないまでに単純な存在だ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.299」岩波文庫)
根本的に単純で、後の用語でいえば「構造主義的」なものを指して言われているようにおもえる。だが「灯台へ」は第一次世界大戦と第二次世界大戦とのあいだの時期に書かれている。だから構造主義的な思考はまだなかった。自分でもわけのわからないうちに構造主義的な思考の枠組みを用いて論じられた論文ならあったと言えるが、それが構造主義的であると自分で認識して書かれていたものではない。単なる偶然の産物だった。さらにその偶然性ということ自体が注目を集めるのはもっと後のことである。ここでラムジー氏が探求している「台所の調理台」はもっと「設計図」的なものであり、同時に「容赦ないまでに単純な存在」でなければならない。ところがそういう形而上学的なものは、形而上学的であるにもかかわらず、とりわけ戦争と戦争とのあいだの長引く戦後不況という時期には、時として目に見える形で、ごく当たり前の様相で、そこらへんにぽつんと置いてあったりする。坂口安吾はこういっている。
「それは小さな、何か謙虚な感じをさせる軍艦であったけれども一見したばかりで、その美しさは僕の魂をゆりうごかした。僕は浜辺に休み、水に浮かぶ黒い謙虚な鉄塊を飽かず眺めつづけ、そうして、小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思いだしていたのであった。この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪(ゆが)められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とは成り得なかった。そうして、ここに、何物にも似ない三つのものが出来上がったのである。
僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ『必要』であり、一も二も百も、終始一貫ただ『必要』のみ。そうして、この『やむべからざる実質』がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ」(坂口安吾「日本文化私観」『坂口安吾全集14・P.381~382』ちくま文庫)
そういうものだ。時として形而上学は形而下学として、「机の上」ではなくニーチェのいう「机の下」の実物として、出現することがある。ただし安吾の場合、安吾自身の小説はそれほど「美」の領域に達しているだろうかという問題はある。むしろ安吾は評論家として一流だったのであって小説家としては二流で終わったのでは、と感じないでもない。
次のセンテンスはウルフ小説ではたびたび顔を覗かせる。
「そんなふうにキャンバスから離れて頭の中で構想することと、実際にこうして絵筆をとって最初の一筆を加えることの間には、天と地ほどの開きがあった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.303」岩波文庫)
「船出」ではこうだった。「それらすべてと彼女の便箋との間に横たわる深い淵」とある。
「肘掛け椅子に深く座っているテレンスを見、いろいろな家具、隅にある彼女のベッド、空一杯に枝を広げている木が見える窓ガラスに目を向け、時計が時を刻む音を聞き、それらすべてと彼女の便箋との間に横たわる深い淵に驚いた。世界が一つで分け難いものとなる時は来るだろうか?もしかするとテレンスでさえーーーいま遠く離れたところにいるのかもしれない」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.190」岩波文庫)
リリーは恐る恐る絵筆を取る。力がいる。途方もない力が。
「流れるように力強い線を描きこんでいくうち、その何本かの線に囲まれるようにして、ひとつの空間が(リリーはそれが自分に向かって迫って来る気がした)、ゆっくりと浮かび上がってきた。やっとひとつ波を乗り越えて波間にいる自分に、早くも次のさらに険しく聳(そび)え立つ波がのしかかってくるような思いだった。なぜなら、この空間ほどに、激しい畏怖(いふ)の念をかきたてるものはなかったから」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.305」岩波文庫)
この「激しい畏怖」を感じさせるもの。それは「見せかけの世界の背後から鋭く姿を現わす」。
「このもうひとつの存在、この真実、この現実は、突然リリーを捉え、見せかけの世界の背後から鋭く姿を現わすと、彼女の注意をいやでも引きつけて放さない」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.305」岩波文庫)
どこかで記憶にないだろうか。
「いいか、すべて目に見ゆる物とは、ボール紙づくりの仮面にすぎぬ。だが、おのおのの出来事ではーーー生ける行動、疑う余地なき行為においてはじゃーーーかならず、そのでたらめな仮面の背後(うしろ)から、正体は知れぬがしかもちゃんと筋道にかなったものが、その隠された顔の目鼻だちを表面(おもて)に現わしてくるものなのだ。人間、壁をぶちやぶるなら、その仮面の壁をぶちやぶれ!囚人が壁を打ち破らんで外へ出られるか?このおれには、あの白鯨が壁になって、身近に立ちはだかって居(い)おるのだ。そりゃ、その壁の向う側には、何もないと思うこともある。だがそれでも同じじゃ。あいつがおれにはたらきかけ、おれにのしかかってくる」(メルヴィル「白鯨・上・P.273」新潮文庫)
このとき、エイハブは白鯨と等価関係に入っている。狂気に《なる》。狂気への生成変化がある。リリーにもその兆候を見て取ることができる。「無防備にむき出し」へ向かう。こんなふうに。
「日常生活の流動性の世界から絵画という集中性の世界への気持ちを切り換えようとする時、ほんの短い間ながら、自分がまったく無防備にむき出しにされたような思いがした。まるで未だ生まれず、肉体を持たぬ魂にも似て、強風の吹きすさぶ断崖の上で、身を守る術(すべ)もなくあらゆる疑問の嵐にさらされているような感じだ。だとしたらなぜ、そうまでして絵を描くのだろう?」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.306」岩波文庫)
「リリーはどこかから声が聞こえる気がしたーーーおまえには描けない、おまえには創り出せやしない、という声が。それはいわば習慣的な意識の声とでも言うべきもので、いま彼女は時を経て純粋な経験と化した言葉の中に囚(とら)われていて、何度か心の中で繰り返しているうちに、最初にそれを誰が言ったのかなど、ほとんど意識しなくなっていた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.306~307」岩波文庫)
言語という「習慣」に「囚(とら)われてい」る限り、リリーにこれ以上の進展は見込めない。だが彼女はそれ以上の「強度」を獲得する。しかしそのとき、すでに彼女は統合を失調させた狂気の領域を跋渉していなくてはならない。そして実際彼女はそう《なる》。解体する。
「彼女の心は、その奥底から、さまざまな場面や名前、言葉や記憶や観念を、まるで噴水のように噴き上げていった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.307」岩波文庫)
リリーは「噴水」に《なる》。面白いとおもう。というより、リリーの精神状態は大変深刻なわけだ。けれどもそれを観察している作者ウルフはたぶん思考のどこかで「上手く書けた」とほっとしている。そんな姿が見えてきそうではないだろうか。文学作品として見れば、「灯台へ」の絶頂あるいはエクスタシーは間違いなくここにある。残すところあと少しになってきた。何だか惜しい気がしなくもない。しかし問われるべき課題はまだ残っている。記憶について。ところで、記憶とは何だろう。
「ジェイムズは、時の流れが彼の意識の上に、木の葉やひだを一枚ずつ重ねるようにして、ゆっくりと絶え間なく積み上げてきた無数の印象の群れの中を、静かに手さぐりし始めたーーーさまざまな香りや音の中を、厳しい声やうつろな声や優しい声の中を、過ぎゆく光やエニシダの窓を叩く音の中を、波の激しい響きや静寂(しじま)の中を」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.325~326」岩波文庫)
記憶の堆積を見るわけだが、しかしここでジェイムズの記憶は、なぜ一挙に湧き出ているのだろうか。ベルクソンの「逆円錐」の構図を参照しよう。
「すくなくとも人間については、純粋に感覚ー運動的な状態といったものは存在せず、おなじくまた人間にかんしては、漠然とした活動の基体をともなわない想像的な生も存在しない。私たちの通常の心理学的生は、すでに述べておいたとおり、この両極のあいだで振動している。一方で、感覚ー運動的な状態Sが記憶を方向づけるが、この感覚ー運動的状態とは要するに、記憶の現勢的で活動的な極限にすぎない。他方では、この記憶そのものが、私たちの過去の全体をともない、前方へと推進力を行使して、現在の行動のなかに、記憶自身の最大限可能な部分を組みいれる。この二重の努力から、瞬間ごとに帰結するものが、記憶の無限に数多く可能な《状態》であって、それらの状態は、私たちの図式でいえば、断面A’B’、A”B”等々によってあらわされている。これらは、さきに述べておいたとおり、それぞれに私たちの過去の生全体を反復するものである。しかし、それらの切断面のおのおのは、それが底辺に近づくか、頂点に接近するかに応じて、そのひろがりに大小の差が生じる。くわえてまた、私たちの過去にかんするこれらの完全な表象のそれぞれが意識の光のもとにもたらすのは、たんに感覚ー運動的な状態の枠内に嵌まりこむもの、かくてまた現在の知覚に、遂行されるべき行動という観点から類似しているものにかぎられる。ことばをかえれば、統合された記憶は、現在の状態からの呼びかけに対して、ふたつの同時的な運動をつうじて応答するのだ。そのひとつは併進運動であって、これによって記憶は全面的に経験に向かってすすみ、かくて行動のために、分割されることなく多少ともみずからを凝縮させる。もうひとつは自転運動であり、それをつうじて記憶は、現下の状況へと方向づけられながら、その状況に対してもっとも有用な側面を提示する。収縮におけるこうしたさまざまな段階に、類似性をつうじた連合にあって、その多様な形態が対応しているのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.332~333」岩波文庫)
逆円錐の構図はP.322。ネットでもいろいろ論じられているようなので、関心のある読書はそちらを参照したほうがいいかもしれない。なにせこの場はただ単なる素人論議なので。とはいえ、記憶と行動とに関してはさらに次の機会に適宜引用する。とりわけ「揺らぎ」については。
リリーはラムジー夫人のことを回想する。そういえば夫人は周囲の若年層に向かってやたらと「結婚させること」にこだわっていた。それが自分に与えられた使命だとでもいうように。謎解きはもはや世界中でなされている。ラムジー夫人のモデルは実はウルフ自身の母親である。そして実の父親はイギリスでは有名な実在の哲学者レズリー・スティーヴンであり、ラムジー氏は父親レズリーを多少なりとも戯画化した様相で登場させたものだ。そしてリリーがウルフだといってよい。リリーの世代から見ると母親世代は自分たちの子どもたちすべてを結婚させることが当たり前の社会的使命だった。世代としてはわずか一つ隔てられているだけで、このような違いがあったわけだ。しかし単なる世代論で終わらせてしまっていいのだろうか。リリーは他人の夫=ポールのことを不意に思い出す。と、彼女は精神的な「どよめき」を全身で感じる。が、不意打ち的とはいえ、結婚について考えていたわけなのでこの「どよめき」は何の不思議もない。リリーはとっさにこうおもう。「打ち上げる花火にも似て、鮮烈に輝く光」としてのポールのイメージについて「輝かしく力強いことは十分認めつつも」他方「家で最も大切な安らぎを貪欲(どんよく)に無残に食いちらすものと感じられ、戦慄(せんりつ)を覚え」る。要するに不倫がたちどころに送り届けてくるかもしれない家庭崩壊について「戦慄(せんりつ)を覚え」る。だがこの「戦慄」のイメージはその力を「打ち上げる花火にも似て、鮮烈に輝く光」としてのポールのイメージから得ているということが忘れられてはならないだろう。ということはリリーはこの「戦慄」に戦慄しつつ同時にそれを欲望しているといえる。
「なぜそこまで結婚にこだわる必要があるんだろう、とイーゼルに近づいたり離れたりを繰り返しながら、リリーは不思議に思った。⦅その時突然、ちょうど星が一つ夜空に滑り込むように突然に、リリーの心の中に赤みを帯びた光が燃え上がり、ポール・レイリーの姿を包みこむかに見えたが、それはポール自身が発する光に違いなかった。はるか彼方の浜辺で未開人が何かを祝って打ち上げる花火にも似て、鮮烈に輝く光だった。どよめくような、はじけるような音がして、数マイル四方の海は赤や金色に染まった。美酒を思わせる芳香も漂ってリリーを酔いしれさせ、いつかのように、浜辺に落ちた真珠のブローチを探し出すためなら、岸から身を投げて溺れ死んでも構わないとさえ思う気持ちにさせた。どよめきとはじけるような響きは、彼女を深い恐怖と嫌悪感で満たした。輝かしく力強いことは十分認めつつも、リリーにはそれが、この家で最も大切な安らぎを貪欲(どんよく)に無残に食いちらすものと感じられ、戦慄(せんりつ)を覚えたーーー⦆」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.339~340」岩波文庫)
問題としての「美」。美の犯罪というのは、それが周囲の実際的なものを覆い隠してしまうということにある。美しいか美しくないかということとはまったく別問題なのだ。
「理想化された姿ほど思い浮かべやすいものだ。あの人は目を見張るほどに美しかった、とウィリアムは言う。だけど、美がすべてではない。美しさにはいつだって微妙な危険がつきまとうーーーあまりにも思いうかべやすく、あまりにも完全なものに見えてしまうから、いわばそれは生命の動きを止め、生命を凍らせるのだ。その結果、日常の小さな揺れ動きが忘れ去られることになるーーーたとえば赤くなったり、青ざめたり、時には奇妙にゆがんだり、光や影が差しかかったりして、そのつど、一瞬誰の顔かさえわからなくなるのだが、その時その時に見かけたさまざまな表情は、その顔に新たに加わった印象として、いつまでも見る者の心に残り続けるのだ。そんな微妙な変化を、『美』という覆いのもとに一気にぬぐい去ってしまうのは、とてもたやすいことではあろう」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.343~344」岩波文庫)
「美/言語/貨幣」。この三位一体的問題。言語がいつもそれ自体を現わさないのはなぜか。
「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.352~353」ちくま学芸文庫)
「個別的なものを《無視する》ということが、われわれが概念をもつことの原因なのであり、これとともにわれわれの認識は始まるのである。すなわち、《標題づけ》において、《諸々の類》の提示において、われわれの認識は始まるのである。だが、こうしたものに、事物の本質は対応してはいない。それは認識過程ではあるが、事物の本質を射当ててはいないのである。多くの個別的特徴が、われわれに一つの事物を規定してくれるが、すべてのものを規定してはくれない。こうした特徴の同等性が機縁となって、われわれは多くの事物を一つの概念の下に統括するようになる」(ニーチェ「哲学者の書・P.319」ちくま学芸文庫)
言語化されることによって一回限りの「個別的なもの」は抹殺されてしまう。だから人間が言語化していることはすべて一般化され平板化され均質化された凡庸で薄っぺらなものでしかない。そして人間はそのような一般化の過程を経たものしか認識することができない。認識されたときすでにそれは一般化されており、他のものにでも置き換え可能な平板なものと化してしまっている。貨幣もまたそうだ。或る商品Aと別の商品Bとの《あいだ》に何らかの差異があるとしても、その差異を抹消して暴力的に自分を押し貫くことが貨幣に与えられた使命である。そうでなければ貨幣は商品を再貨幣化することができず、したがって資本は増殖することができなくなる。「美」というものも、それは或る種の「道徳」のようなものだ。歴史を振り返ってみると誰にでもわかるように、或るパラダイムにおいてのみ通用する「道徳観念」=「美意識」があった。それはその特定のパラダイムが成立している時期に限り、「美」でありなおかつ「道徳」であり、それによって一つの時代を支配することができた諸々のイデオロギーの連鎖に過ぎない。そしてそれらイデオロギーはいつも他の価値物を覆い隠すことに貢献してきた。それが今やどんなイデオロギーもグローバルな一つの流れの中へと解消されつつある。或る時或る場所で、これこそ「美だ」と誰かがいったとしても、それは大きな流れの中の一つの支流としての多様体でしかない。ニーチェのいうように「中心的な重心は何か可変的なもの」でしかなくなった。資本主義システムは英国王室や日本の皇室から移民社会や日雇い労働者の寄せ場など何もかもを含めて一様に平均化していく傾向を持つ。それでもなお地域次第、時と場所によりけりで、「美/言語/貨幣」は他の細かな実際的なものを覆い隠すのに忙しい。ところが、猫にはそのようなことは関係ないのである。こうある。
「まるで現実ではないものでも見るように、少しまぶしそうな目でカーマイケル氏を見ていた。彼はおなかの上で両手を組んで、椅子に長々と寝そべり、読書するでもなく、眠るでもなく、ただ存在そのものを堪能した生き物のように日なたぼっこをしていた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.344」岩波文庫)
相変わらず「ただ存在そのものを堪能した生き物のように日なたぼっこをしてい」る。猫化したカーマイケルのそばでリリーはさらに言語に対する不信を表明する。だがこの不信は言語に対する信頼が先にあったからにほかならない。
「言葉で思いを伝えることはできない。その時の思いにせきたてられて、いつも狙った的(まと)をはずしてしまうから。言葉という矢は、ふらふらと横にそれて、標的の数インチ下に中(あ)たるのが関の山なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.345」岩波文庫)
果たしてどのようなラストを設定することができるだろうか。ラストはもちろんある。たとえばリリーを救済する、といったような。しかしそれではなぜラムジー夫人は死なねばならなかったのかという問いは依然として残るのである。
なお、日本国内の報道でも、「美」=「道徳」と理解される場合、それ以外の他の微妙な意識の印象や差異的な違いを持つもの、単独性(個性)、中小零細企業の疲弊といったようなものはことごとく覆い隠された歴史がある。そしてそれはどのような事態をもたらしたか。いまの日本のテレビ・マスコミにはあの時に出現した取り返しのつかない事態に関する反省が一つも見られないのはなぜだろうか。改元にかこつけて皇室と内閣との行き来を細切れにして時間を費やし、綿密に逐一報道して結果的に他の重要な社会問題を隠蔽するのはどうしてなのか。
「藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼らが自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分が先ずまっさきにその号令に服従して見せることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分が先ずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。それは遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではないのだ。見給え。この戦争がそうではないか」(坂口安吾「続堕落論」『坂口安吾全集14・P.586~587』ちくま文庫)
日本のテレビ・マスコミが犯している「細切れ」にして時間を費やし他の事実を覆い隠すという犯罪的行為。それは映画のフィルムのようなものだ。視聴者に向かってものごとを一挙に与えない。必ずしも延長しなくてもいい事物をわざわざ人為的に「細切れ」にして長々と延長することで他の重要な社会問題あるいは皇室であれば皇室の「行動と協働の生命」ではなく、その「行動と協働の生命」の持続を持続として捉えず逆にずたずたに切り刻んで編集してしまう。それはむしろ皇室の持続がどこでどのようにしてその創造力を得てきたかという歴史を覆い隠してしまう。それにしてもテレビ・マスコミ報道は一体何がしたいのだろうか。何か重大な勘違いを犯してしまっていることに気づいていないのではないだろうか。
「例えば映画のフィルムの上ではそうであるように、すべてが一挙に与えられないのはなぜか。この点を掘り下げれば掘り下げるほど、次のように私には思える。第一に、未来が、現在の横に与えられるのではなく、現在に《引き継いで起こる》以外にないのは、未来が現在の瞬間において完全には決定されていないからだ。第二に、この継起に占められる時間が数以外のもので、そこに据え置かれた意識にとって絶対的な価値、絶対的な実在性を持つのは、予見不可能なもの、新しいものが絶えずそこで創造されているからだ。この創造が行われるのは、おそらく、砂糖水の入ったコップのような、人為的に切り離されるこれこれのシステムにおいてではなく、そのシステムが一部をなす具体的な全体においてである。この持続は物質そのものの事実ではありえない。物質の流れをさかのぼる『生命』の持続である。それでも、それら二つの運動は互いに固く結び付いている。《それゆえ、宇宙が持続する分、創造の余地があるということである。創造は宇宙のどこかに自分の場所を見つけることができるのである》」(ベルクソン「創造的進化・P.429」ちくま学芸文庫)
BGM