リリー・ブリスコウは画家として「わたしにはこう見える」と頭の中で主張する。たとえ現実は違っていても。しかし「わたしにはこう見える」以上、その風景を偽って描くことは「誠実な描き方とは思えな」いとしか思えない。いわゆる超越論的な見地に立っている。
「ジャクマナの花は鮮やかなスミレ色で、家の壁は陽(ひ)を受けて白く輝いている。自分にそう見える以上、あの鮮やかなスミレ色や輝くほどの白に勝手に手を加えることは、誠実な描き方とは思えなかった、たとえポーンフォルトさんがここへ来てからは、すべてを淡く優しく半透明に描くのが流行だとしても」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.34~35」岩波文庫)
ものごとのすべてがもっと確かな存在感を持っていたと懐かしむホフマンスタールの小説の登場人物とはまた違っている。リリー・ブロスコウは若い。若年層に属する。新しい時代に生きることを宿命づけられた人々の一人だ。だからホフマンスタールの小説の登場人物が持つような過去へのノスタルジーとかものごとの確かさへの復古主義はない。しかしリリーが直面する「恐怖心」はまったく新しい問題である。復古主義的精神で解決できるような問いでは到底なく、むしろより一層難解化した複雑な問いとして彼女の目の前にそそり立つ。
「色彩の下には形(シェイプ)があった。リリーがただ見つめているだけの時には、形はくっきりと紛れようもなく、確かにそこにあった。でも一旦絵筆をとるとすべてが変わってしまう。イメージを思い描くときとキャンバスに向かう時をへだてるほんの一瞬の間に、まるで悪魔(デーモン)が襲いかかってくるようで、涙さえ出そうになる。そう、頭の中の構想と実際の作業とを結ぶこの細道は、幼い子にとっての真っ暗な夜道と同じくらい恐怖心をそそるものだった。こういう気分に見舞われるのは珍しいことではなかった。とても勝ち目がなさそうな状況の中で、リリーは勇気を振りしぼって『でもわたしにはこう見える、こう見えるのよ』と叫ぼうとする。だが目には見えない無数の力が押し寄せてきて彼女のヴィジョンを奪い去り、もぎ取ろうとするので、彼女にできるのは、せめてそのヴィジョンの無残な残骸を胸に抱きしめることだけだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.35」岩波文庫)
こうある。「見つめているだけの時には、形はくっきりと紛れようもなく、確かにそこにあ」るけれども「一旦絵筆をとるとすべてが変わってしまう」。言い換えれば「イメージを思い描くときとキャンバスに向かう時をへだてるほんの一瞬の間に、まるで悪魔(デーモン)が襲いかかってくるようで、涙さえ出そう」だ。しかし問いとともに解決への糸口もここには書き込まれている。「頭の中の構想と実際の作業とを結ぶこの細道」。「結ぶ」ということは「ほどく」こともできるという意味を含んでいる。しかもそれは始めから「結」ばれていたわけでは何らない。人為的に「結」ばれた一時の因果関係に過ぎない。「結ぶこの細道」は無限数に渡って分割することができる。それは人間の知性の行為である。しかし「わたしにはこう見える」という事実は「ひとかたまり」の運動である。ベルクソンを参照してみよう。
「天才的な芸術家がキャンバスにある像を描いたとする。われわれは色とりどりのモザイクの小片でその絵をまねることができるだろう。この小片が小さければ小さいほど、その数が多ければ多いほど、色調が多彩であればあるほど、手本にしている絵の曲線やニュアンスをより正しく再現することになるだろう。しかし、それの芸術家が単純なものとして考えていた像の正確な等価物を獲得するためには、無限なニュアンスを提示する無限に小さな要素が、無限個必要となるだろう。芸術家はこの像を、ひとまとまりのまま、キャンバスに移そうとしたのであって、この像がある不可分な直感の投影として現れれば現れるほど、その完成度は高まる。さて、その巨匠の作品にどうしてもモザイクの効果を見てしまうように、われわれの眼が形成されていると想定してみよう。あるいは、その像がキャンバスに現れることを、モザイクの仕事として以外の仕方では説明できないように、われわれの知性が形成されていると想定してみよう。そうすると、単にモザイクの小片の寄せ集めについて語ることもできるだろう。そのとき、われわれは機械論的な仮定に立っていることになる。また、その寄せ集めの物質的な材料の他に、モザイク職人の仕事の計画が必要だった、と付け加えることもできるだろう。今度は、目的論者として自分の考えを述べることになる。しかしどちらの場合も、実際の過程に到達することはできないだろう。なぜなら寄せ集められる小片など存在しなかったからである」(ベルクソン「創造的進化・P.122~123」ちくま学芸文庫)
その通り。「寄せ集められる小片など」始めから「存在しな」い。「寄せ集められる小片」は人間の知性が後から、事後的に、そう感じそう受け取って細分化した「無限に小さな要素=小片」に過ぎない。人間は知性的人間として大いに発達したが、発達すればするほど、現実をいわば現行犯で捉える方法を捨て去り見失ってしまった。しかし現実はベルクソンが「天才的な芸術家」という比喩を持ち出してきていうように「芸術家はこの像を、ひとまとまりのまま、キャンバスに移そうとしたのであ」る。そしてその「像」はあくまで「ひとかたまり」であって、「無限に小さな要素=小片」に分割されているわけでは全然なく、むしろ「不可分な直感の投影」なのだ。後になって人間はそれをモザイクの総合として捉え直して考え再構成しようとする。となるとそれはもうすでにオリジナルではなくシミュラクル(模倣)かシミュレーション(複製)でしかなくなる。また「イメージを思い描くときとキャンバスに向かう時をへだてるほんの一瞬の間」という問いは「船出」でも同様に提出されていた。
「肘掛け椅子に深く座っているテレンスを見、いろいろな家具、隅にある彼女のベッド、空一杯に枝を広げている木が見える窓ガラスに目を向け、時計が時を刻む音を聞き、それらすべてと彼女の便箋との間に横たわる深い淵に驚いた。世界が一つで分け難いものとなる時は来るだろうか?もしかするとテレンスでさえーーーいま遠く離れたところにいるのかもしれない」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.190」岩波文庫)
「それらすべてと彼女の便箋との間に横たわる深い淵」、とある。別の箇所を見てみよう。
「『人はなぜ正直になろうと《しない》んだ?』部屋への階段を昇りながら彼は呟いた。なぜ異なった人たちの間の関係は、こうも不充分で、断片的で、危なっかしいものなのか?なぜ言葉は極めて危険なもので、その作用により、他人の心情を理解し共感しようとする本能が、結局は自分の心情を入念に検査し、さらにおそらく押し潰す働きをしてしまうのだろうか?」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.338」岩波文庫)
ここでヒューウェットは「言語」に疑惑の目を向けている。裏切るのは実は言語ではないだろうか。ウルフは明らかにそれを知っている。知っているからこそ小説を通して問うたのだ。けれども小説もまた言語の総体に過ぎない。だからウルフは言語への疑いを言語化できないというパラドクスの中にいる。そのためにわざわざ絵画とか音楽とかを持ち出して、芸術へ希望を託そうとする。次へ行こう。リリーとバンクスの二人は海に面した湾に出る。
「そこは真っ赤な火桶のように鮮やかなトリトマの花に縁どられていて、向こうに広がる湾の青い水が、なお一層青味を増して見えるのだった。二人は毎日夕暮れ時になると、何かの必要に迫られるように、ここへやって来た。あたかもここに来ると、乾いた陸地で重く淀んでしまった考えが、海の波を受けて軽やかになり、再びしなやかに進む力を与えられるかのようで、二人はほとんど肉体的な解放感さえ覚えた。まず最初に色彩の搏動が湾全体を青く染め、それに合わせて心が広がり身体も泳ぎだす」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.36~37」岩波文庫)
リリーはおもう。「考え」が「陸地で重く淀んでしまった」と。この「重さ」とその処方箋についてはニーチェ参照。
「かれは、大地と生を重いものと考える。重さの霊がそう《望む》のだ。だが、重さに抗して軽くなり鳥になろうと望む者は、おのれみずからを愛さなければならない」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・重さの霊・P.307~308」中公文庫)
「わたしが学びおぼえたのは、ただ《わたし自身》を待つことである。しかも何にもまさってわたしの学びおぼえたことは、立つこと、歩くこと、走ること、よじのぼること、踊ることである」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・重さの霊・P.312」中公文庫)
「人のもたなくてはならぬものが一つある、生まれつき軽やかな心か、芸術や知識によって《軽やかにされた心》かである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・四八六・P.424」ちくま学芸文庫)
とはいえ、ニーチェのいう「芸術・知識」は時に或る種の危機を含むものでもある。それは「海の波を受けて軽やかになり、再びしなやかに進む力を与え」る「自由さ」であるという意味ではウルフが望んでいたことだ。けれども「ほとんど肉体的な解放感さえ覚えた。まず最初に色彩の搏動が湾全体を青く染め、それに合わせて心が広がり身体も泳ぎだす」という意味では、個体としての人間の身体と海との境界線を抹消して人間の身体と海全体とを分かちがたく融合させ一体とさせるものだ。その時点で人間の身体は統合を失調した解離状態を生きるほかないという身体と精神との分裂を経験しなくてはならない。そしてこの分裂が再び統合されるかどうかはまったくの偶然にかかっている。
「リリーは、ラムジー氏の研究について考えると、いつも磨き上げられた調理台を思い描くのだった。今二人は果樹園にたどり着いていたので、リリーの想像の調理台は、梨の木の枝の分かれ目のところに掛かっているように見えた。そして苦しいほどに注意力を集中させながら、彼女は、梨の木の銀色の《こぶ》のある樹皮や魚の形をした葉ではなく、幻の調理台ーーーそれも長年の間力をこめて一心に磨かれたため、木目や節が浮き出て材質の味わいがはっきりと感じとれるような調理台が、四本の脚を宙に浮かせて枝の上に引っ掛かっているところを、じっと見つめようとした。もし毎日こんなに単調な骨組みだけの本質と向き合っていて、例えばフラミンゴ色の雲が漂い、青や銀に鮮やかに染まる美しい夕空を見ても、その奥に潜む白い樅(もみ)材の四本脚のテーブルしか見ようとしない生活を続けているのなら(そしてそれは優れた知性のみがなしうることだろう)、そういう人を普通の基準で判断したり評価したりすることなど、到底できそうには思えなかった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.43」岩波文庫)
リリーはラムジー氏の哲学的研究についておもう。要するに「つまらない」とおもう。それは「長年の間力をこめて一心に磨かれたため、木目や節が浮き出て材質の味わいがはっきりと感じとれるような調理台が、四本の脚を宙に浮かせて枝の上に引っ掛かってい」て「フラミンゴ色の雲が漂い、青や銀に鮮やかに染まる美しい夕空を見ても、その奥に潜む白い樅(もみ)材の四本脚のテーブルしか見ようとしない生活を続けてい」くようなものだ、と嘆息する。ところがさらに「その奥に潜む白い樅(もみ)材の四本脚のテーブル」すら、本当はないかも知れないのだ。次のセンテンスは小説手法でいう「意識の流れ」をおもわせる。一緒にいるバンクスのことを考える。ところがリリーの意識は途中でラムジー氏のことへ移動する。
「まったくどう考えればよいのか。人を評価し判断するとはどういうことなのか?あれこれ考え合わせて、好き嫌いを決めるためには、どうすればよいのだろう。それに『好きだ』『嫌いだ』っていうのは、結局どういう意味なのか?梨の木のそばに釘づけにされて立ちつくしていると、二人の男性のさまざまな印象が降りかかってきて、目まぐるしく変わる自分の思いを追いかけることが、速すぎる話し声を鉛筆で書きとめようとするのにも似た、無理な行為に思われてくる。しかもその『話し声』は紛れもない自分自身の声で、それが否定しがたく、長く尾を引くような、矛盾に満ちたことを次々と言い募るのを聞いていると、梨の木の皮の偶然の裂け目や《こぶ》でさえ、どこか永遠不変」の確乎(かっこ)としたもののように感じられた。あなたには偉大さがあります、とリリーは言葉を続けた、でもラムジーさんにはありません。あの人は心が狭く、わがままなうぬぼれ屋で、自己中心的です。甘やかされた暴君のようで、夫人を死ぬほど疲れさせます。でもあの人にはあなたにないものがあって(と心の中でバンクス氏に言った)、これは炎のように激しい超俗的な生き方です。些細(ささい)なことには目もくれず、可愛がるのは犬と子どもたちばかり。子どもが八人ですよ、あなたには一人もいないのに。先日も上着を二枚着て二階から降りてきて、夫人に散髪をさせながらプディング鉢で切った髪の毛を受けてませんでしたか?こうした思いのすべてが、リリーの頭の中で、それぞれはバラバラながら、透明な伸縮自在の網をかぶったように整然とした群れをなすブヨの動きにも似て、上へ下へと大きく激しく踊りまわっていた。その踊りは梨の木の枝の周辺にまで及んでいたが、そこには彼女のラムジー氏に寄せる敬意の象徴とも言うべき磨きこまれた調理台の幻が、泰然として掛かったままだった。彼女の思いは、さらに目まぐるしくさらに勢いを増して踊り続けたあげく、やがてその激しさに耐えかねたように、大きな音をたてて破裂した」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.45~46」岩波文庫)
リリーの思考は「それぞれはバラバラ」で「伸縮自在」で「上へ下へと大きく激しく踊りまわってい」て「さらに目まぐるしくさらに勢いを増して踊り続け」、そのあげく、やがて「激しさに耐えかねたように、大きな音をたてて破裂」する。思考はそもそも「それぞれはバラバラ」であって、各々が不埒なまでにてんで不適切なのは事実だ。誰もがそのことを仮面の下に隠している。それは認めなければならないだろう。ところが「伸縮自在」以降の文章はどう見ても「激しい」性行為を描いた性的描写としか考えられない。だからといって単純にフロイトの立場に立ってこの部分は無意識的な性行為を描いたものだと断定するには手続きが足りないようにおもう。むしろこの部分は、フロイト的ではないのでは、とおもわれる。そうではなくて、リリーの思考自身はポルノ的なのではなく、あたかもポルノ的性的描写である「かのように」フル回転で運動する思考なのだ。リリーの思考は、ウルフの描写にしたがえば、ばらばらでまとまりもなく加速度的にただひたすら変化していく一つの多様体的運動である。そして「その踊りは梨の木の枝の周辺にまで及んでい」る限りで、リリーをその中に含む「或る一刻」として「此性」をなす。
次のセンテンスはユーモアを感じさせて面白い。ラムジー夫人は息子のジェイムズに命じる。
「『さあ、ちゃんと立って。足の寸法を測らせてちょうだい』」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.48」岩波文庫)
なぜ「寸法」なのか。夫人は「灯台守の息子のために」持って行く新しい靴下を編んでやる。そのために自分の息子の足の「寸法」を「寸法台」に変えようとする。
「ジェイムズは灯台守の息子のために寸法台にされることを嫌がり、わざともぞもぞしていたのだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.48~49」岩波文庫)
だがジェイムズは抵抗むなしく「寸法台」にされてしまう。ジェイムズは「寸法台」に《なる》。立派な「寸法台」としてラムジー夫人の息子の足は灯台守の息子の足を代理する。ジェイムズの足は代理でしかない。両者はいつでも置き換え可能だ。驚くべきことは、人間は時として、他人のために有用な「計測器=メジャー」に《なる》ということではないだろうか。このとき、息子ジェイムズの足は単純この上ないメジャーとして単なる基準に《なる》。
それだけではない。ラムジー夫人は自分の息子の足と灯台守の息子の足とを関係づける靴下を編み上げる「特権的」な女性として、両者の《あいだ》を接続するか切断するかを決定する極めて重要な創造的機械へと変態している。或る商品Aと別の商品Bとの《あいだ》を媒介する貨幣のように。しかし両者の《あいだ》に位置する女性あるいは貨幣は、両者をただ媒介して交換関係に置き、両者の等価性を実現するだけでなく、両者の《あいだ》に入ることで両者の《あいだ》の不等価性をなおさら曖昧なものに変えてしまう。
さらに、先ほどリリーはラムジー氏の世界観について「普通の基準で判断したり評価したりすることなど、到底できそうには思えな」い、とおもって自分の無力をしみじみ感じる。けれども、では、ジェイムズの足の寸法を「計測器=メジャー」として活用するのはどうか。ジェイムズの足の寸法を「計測器=メジャー=基準」としてラムジー氏の世界観を測るのである。この問いはけっして滑稽で馬鹿げた考えではない。むしろ人々はしばしば何らの抵抗も感じずごく当たり前のようにそのような比較をしてしまっている。そしてそのことに気づいていない、平然としている、ということがよくありはしないだろうか。
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「ジャクマナの花は鮮やかなスミレ色で、家の壁は陽(ひ)を受けて白く輝いている。自分にそう見える以上、あの鮮やかなスミレ色や輝くほどの白に勝手に手を加えることは、誠実な描き方とは思えなかった、たとえポーンフォルトさんがここへ来てからは、すべてを淡く優しく半透明に描くのが流行だとしても」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.34~35」岩波文庫)
ものごとのすべてがもっと確かな存在感を持っていたと懐かしむホフマンスタールの小説の登場人物とはまた違っている。リリー・ブロスコウは若い。若年層に属する。新しい時代に生きることを宿命づけられた人々の一人だ。だからホフマンスタールの小説の登場人物が持つような過去へのノスタルジーとかものごとの確かさへの復古主義はない。しかしリリーが直面する「恐怖心」はまったく新しい問題である。復古主義的精神で解決できるような問いでは到底なく、むしろより一層難解化した複雑な問いとして彼女の目の前にそそり立つ。
「色彩の下には形(シェイプ)があった。リリーがただ見つめているだけの時には、形はくっきりと紛れようもなく、確かにそこにあった。でも一旦絵筆をとるとすべてが変わってしまう。イメージを思い描くときとキャンバスに向かう時をへだてるほんの一瞬の間に、まるで悪魔(デーモン)が襲いかかってくるようで、涙さえ出そうになる。そう、頭の中の構想と実際の作業とを結ぶこの細道は、幼い子にとっての真っ暗な夜道と同じくらい恐怖心をそそるものだった。こういう気分に見舞われるのは珍しいことではなかった。とても勝ち目がなさそうな状況の中で、リリーは勇気を振りしぼって『でもわたしにはこう見える、こう見えるのよ』と叫ぼうとする。だが目には見えない無数の力が押し寄せてきて彼女のヴィジョンを奪い去り、もぎ取ろうとするので、彼女にできるのは、せめてそのヴィジョンの無残な残骸を胸に抱きしめることだけだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.35」岩波文庫)
こうある。「見つめているだけの時には、形はくっきりと紛れようもなく、確かにそこにあ」るけれども「一旦絵筆をとるとすべてが変わってしまう」。言い換えれば「イメージを思い描くときとキャンバスに向かう時をへだてるほんの一瞬の間に、まるで悪魔(デーモン)が襲いかかってくるようで、涙さえ出そう」だ。しかし問いとともに解決への糸口もここには書き込まれている。「頭の中の構想と実際の作業とを結ぶこの細道」。「結ぶ」ということは「ほどく」こともできるという意味を含んでいる。しかもそれは始めから「結」ばれていたわけでは何らない。人為的に「結」ばれた一時の因果関係に過ぎない。「結ぶこの細道」は無限数に渡って分割することができる。それは人間の知性の行為である。しかし「わたしにはこう見える」という事実は「ひとかたまり」の運動である。ベルクソンを参照してみよう。
「天才的な芸術家がキャンバスにある像を描いたとする。われわれは色とりどりのモザイクの小片でその絵をまねることができるだろう。この小片が小さければ小さいほど、その数が多ければ多いほど、色調が多彩であればあるほど、手本にしている絵の曲線やニュアンスをより正しく再現することになるだろう。しかし、それの芸術家が単純なものとして考えていた像の正確な等価物を獲得するためには、無限なニュアンスを提示する無限に小さな要素が、無限個必要となるだろう。芸術家はこの像を、ひとまとまりのまま、キャンバスに移そうとしたのであって、この像がある不可分な直感の投影として現れれば現れるほど、その完成度は高まる。さて、その巨匠の作品にどうしてもモザイクの効果を見てしまうように、われわれの眼が形成されていると想定してみよう。あるいは、その像がキャンバスに現れることを、モザイクの仕事として以外の仕方では説明できないように、われわれの知性が形成されていると想定してみよう。そうすると、単にモザイクの小片の寄せ集めについて語ることもできるだろう。そのとき、われわれは機械論的な仮定に立っていることになる。また、その寄せ集めの物質的な材料の他に、モザイク職人の仕事の計画が必要だった、と付け加えることもできるだろう。今度は、目的論者として自分の考えを述べることになる。しかしどちらの場合も、実際の過程に到達することはできないだろう。なぜなら寄せ集められる小片など存在しなかったからである」(ベルクソン「創造的進化・P.122~123」ちくま学芸文庫)
その通り。「寄せ集められる小片など」始めから「存在しな」い。「寄せ集められる小片」は人間の知性が後から、事後的に、そう感じそう受け取って細分化した「無限に小さな要素=小片」に過ぎない。人間は知性的人間として大いに発達したが、発達すればするほど、現実をいわば現行犯で捉える方法を捨て去り見失ってしまった。しかし現実はベルクソンが「天才的な芸術家」という比喩を持ち出してきていうように「芸術家はこの像を、ひとまとまりのまま、キャンバスに移そうとしたのであ」る。そしてその「像」はあくまで「ひとかたまり」であって、「無限に小さな要素=小片」に分割されているわけでは全然なく、むしろ「不可分な直感の投影」なのだ。後になって人間はそれをモザイクの総合として捉え直して考え再構成しようとする。となるとそれはもうすでにオリジナルではなくシミュラクル(模倣)かシミュレーション(複製)でしかなくなる。また「イメージを思い描くときとキャンバスに向かう時をへだてるほんの一瞬の間」という問いは「船出」でも同様に提出されていた。
「肘掛け椅子に深く座っているテレンスを見、いろいろな家具、隅にある彼女のベッド、空一杯に枝を広げている木が見える窓ガラスに目を向け、時計が時を刻む音を聞き、それらすべてと彼女の便箋との間に横たわる深い淵に驚いた。世界が一つで分け難いものとなる時は来るだろうか?もしかするとテレンスでさえーーーいま遠く離れたところにいるのかもしれない」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.190」岩波文庫)
「それらすべてと彼女の便箋との間に横たわる深い淵」、とある。別の箇所を見てみよう。
「『人はなぜ正直になろうと《しない》んだ?』部屋への階段を昇りながら彼は呟いた。なぜ異なった人たちの間の関係は、こうも不充分で、断片的で、危なっかしいものなのか?なぜ言葉は極めて危険なもので、その作用により、他人の心情を理解し共感しようとする本能が、結局は自分の心情を入念に検査し、さらにおそらく押し潰す働きをしてしまうのだろうか?」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.338」岩波文庫)
ここでヒューウェットは「言語」に疑惑の目を向けている。裏切るのは実は言語ではないだろうか。ウルフは明らかにそれを知っている。知っているからこそ小説を通して問うたのだ。けれども小説もまた言語の総体に過ぎない。だからウルフは言語への疑いを言語化できないというパラドクスの中にいる。そのためにわざわざ絵画とか音楽とかを持ち出して、芸術へ希望を託そうとする。次へ行こう。リリーとバンクスの二人は海に面した湾に出る。
「そこは真っ赤な火桶のように鮮やかなトリトマの花に縁どられていて、向こうに広がる湾の青い水が、なお一層青味を増して見えるのだった。二人は毎日夕暮れ時になると、何かの必要に迫られるように、ここへやって来た。あたかもここに来ると、乾いた陸地で重く淀んでしまった考えが、海の波を受けて軽やかになり、再びしなやかに進む力を与えられるかのようで、二人はほとんど肉体的な解放感さえ覚えた。まず最初に色彩の搏動が湾全体を青く染め、それに合わせて心が広がり身体も泳ぎだす」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.36~37」岩波文庫)
リリーはおもう。「考え」が「陸地で重く淀んでしまった」と。この「重さ」とその処方箋についてはニーチェ参照。
「かれは、大地と生を重いものと考える。重さの霊がそう《望む》のだ。だが、重さに抗して軽くなり鳥になろうと望む者は、おのれみずからを愛さなければならない」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・重さの霊・P.307~308」中公文庫)
「わたしが学びおぼえたのは、ただ《わたし自身》を待つことである。しかも何にもまさってわたしの学びおぼえたことは、立つこと、歩くこと、走ること、よじのぼること、踊ることである」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・重さの霊・P.312」中公文庫)
「人のもたなくてはならぬものが一つある、生まれつき軽やかな心か、芸術や知識によって《軽やかにされた心》かである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・四八六・P.424」ちくま学芸文庫)
とはいえ、ニーチェのいう「芸術・知識」は時に或る種の危機を含むものでもある。それは「海の波を受けて軽やかになり、再びしなやかに進む力を与え」る「自由さ」であるという意味ではウルフが望んでいたことだ。けれども「ほとんど肉体的な解放感さえ覚えた。まず最初に色彩の搏動が湾全体を青く染め、それに合わせて心が広がり身体も泳ぎだす」という意味では、個体としての人間の身体と海との境界線を抹消して人間の身体と海全体とを分かちがたく融合させ一体とさせるものだ。その時点で人間の身体は統合を失調した解離状態を生きるほかないという身体と精神との分裂を経験しなくてはならない。そしてこの分裂が再び統合されるかどうかはまったくの偶然にかかっている。
「リリーは、ラムジー氏の研究について考えると、いつも磨き上げられた調理台を思い描くのだった。今二人は果樹園にたどり着いていたので、リリーの想像の調理台は、梨の木の枝の分かれ目のところに掛かっているように見えた。そして苦しいほどに注意力を集中させながら、彼女は、梨の木の銀色の《こぶ》のある樹皮や魚の形をした葉ではなく、幻の調理台ーーーそれも長年の間力をこめて一心に磨かれたため、木目や節が浮き出て材質の味わいがはっきりと感じとれるような調理台が、四本の脚を宙に浮かせて枝の上に引っ掛かっているところを、じっと見つめようとした。もし毎日こんなに単調な骨組みだけの本質と向き合っていて、例えばフラミンゴ色の雲が漂い、青や銀に鮮やかに染まる美しい夕空を見ても、その奥に潜む白い樅(もみ)材の四本脚のテーブルしか見ようとしない生活を続けているのなら(そしてそれは優れた知性のみがなしうることだろう)、そういう人を普通の基準で判断したり評価したりすることなど、到底できそうには思えなかった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.43」岩波文庫)
リリーはラムジー氏の哲学的研究についておもう。要するに「つまらない」とおもう。それは「長年の間力をこめて一心に磨かれたため、木目や節が浮き出て材質の味わいがはっきりと感じとれるような調理台が、四本の脚を宙に浮かせて枝の上に引っ掛かってい」て「フラミンゴ色の雲が漂い、青や銀に鮮やかに染まる美しい夕空を見ても、その奥に潜む白い樅(もみ)材の四本脚のテーブルしか見ようとしない生活を続けてい」くようなものだ、と嘆息する。ところがさらに「その奥に潜む白い樅(もみ)材の四本脚のテーブル」すら、本当はないかも知れないのだ。次のセンテンスは小説手法でいう「意識の流れ」をおもわせる。一緒にいるバンクスのことを考える。ところがリリーの意識は途中でラムジー氏のことへ移動する。
「まったくどう考えればよいのか。人を評価し判断するとはどういうことなのか?あれこれ考え合わせて、好き嫌いを決めるためには、どうすればよいのだろう。それに『好きだ』『嫌いだ』っていうのは、結局どういう意味なのか?梨の木のそばに釘づけにされて立ちつくしていると、二人の男性のさまざまな印象が降りかかってきて、目まぐるしく変わる自分の思いを追いかけることが、速すぎる話し声を鉛筆で書きとめようとするのにも似た、無理な行為に思われてくる。しかもその『話し声』は紛れもない自分自身の声で、それが否定しがたく、長く尾を引くような、矛盾に満ちたことを次々と言い募るのを聞いていると、梨の木の皮の偶然の裂け目や《こぶ》でさえ、どこか永遠不変」の確乎(かっこ)としたもののように感じられた。あなたには偉大さがあります、とリリーは言葉を続けた、でもラムジーさんにはありません。あの人は心が狭く、わがままなうぬぼれ屋で、自己中心的です。甘やかされた暴君のようで、夫人を死ぬほど疲れさせます。でもあの人にはあなたにないものがあって(と心の中でバンクス氏に言った)、これは炎のように激しい超俗的な生き方です。些細(ささい)なことには目もくれず、可愛がるのは犬と子どもたちばかり。子どもが八人ですよ、あなたには一人もいないのに。先日も上着を二枚着て二階から降りてきて、夫人に散髪をさせながらプディング鉢で切った髪の毛を受けてませんでしたか?こうした思いのすべてが、リリーの頭の中で、それぞれはバラバラながら、透明な伸縮自在の網をかぶったように整然とした群れをなすブヨの動きにも似て、上へ下へと大きく激しく踊りまわっていた。その踊りは梨の木の枝の周辺にまで及んでいたが、そこには彼女のラムジー氏に寄せる敬意の象徴とも言うべき磨きこまれた調理台の幻が、泰然として掛かったままだった。彼女の思いは、さらに目まぐるしくさらに勢いを増して踊り続けたあげく、やがてその激しさに耐えかねたように、大きな音をたてて破裂した」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.45~46」岩波文庫)
リリーの思考は「それぞれはバラバラ」で「伸縮自在」で「上へ下へと大きく激しく踊りまわってい」て「さらに目まぐるしくさらに勢いを増して踊り続け」、そのあげく、やがて「激しさに耐えかねたように、大きな音をたてて破裂」する。思考はそもそも「それぞれはバラバラ」であって、各々が不埒なまでにてんで不適切なのは事実だ。誰もがそのことを仮面の下に隠している。それは認めなければならないだろう。ところが「伸縮自在」以降の文章はどう見ても「激しい」性行為を描いた性的描写としか考えられない。だからといって単純にフロイトの立場に立ってこの部分は無意識的な性行為を描いたものだと断定するには手続きが足りないようにおもう。むしろこの部分は、フロイト的ではないのでは、とおもわれる。そうではなくて、リリーの思考自身はポルノ的なのではなく、あたかもポルノ的性的描写である「かのように」フル回転で運動する思考なのだ。リリーの思考は、ウルフの描写にしたがえば、ばらばらでまとまりもなく加速度的にただひたすら変化していく一つの多様体的運動である。そして「その踊りは梨の木の枝の周辺にまで及んでい」る限りで、リリーをその中に含む「或る一刻」として「此性」をなす。
次のセンテンスはユーモアを感じさせて面白い。ラムジー夫人は息子のジェイムズに命じる。
「『さあ、ちゃんと立って。足の寸法を測らせてちょうだい』」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.48」岩波文庫)
なぜ「寸法」なのか。夫人は「灯台守の息子のために」持って行く新しい靴下を編んでやる。そのために自分の息子の足の「寸法」を「寸法台」に変えようとする。
「ジェイムズは灯台守の息子のために寸法台にされることを嫌がり、わざともぞもぞしていたのだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.48~49」岩波文庫)
だがジェイムズは抵抗むなしく「寸法台」にされてしまう。ジェイムズは「寸法台」に《なる》。立派な「寸法台」としてラムジー夫人の息子の足は灯台守の息子の足を代理する。ジェイムズの足は代理でしかない。両者はいつでも置き換え可能だ。驚くべきことは、人間は時として、他人のために有用な「計測器=メジャー」に《なる》ということではないだろうか。このとき、息子ジェイムズの足は単純この上ないメジャーとして単なる基準に《なる》。
それだけではない。ラムジー夫人は自分の息子の足と灯台守の息子の足とを関係づける靴下を編み上げる「特権的」な女性として、両者の《あいだ》を接続するか切断するかを決定する極めて重要な創造的機械へと変態している。或る商品Aと別の商品Bとの《あいだ》を媒介する貨幣のように。しかし両者の《あいだ》に位置する女性あるいは貨幣は、両者をただ媒介して交換関係に置き、両者の等価性を実現するだけでなく、両者の《あいだ》に入ることで両者の《あいだ》の不等価性をなおさら曖昧なものに変えてしまう。
さらに、先ほどリリーはラムジー氏の世界観について「普通の基準で判断したり評価したりすることなど、到底できそうには思えな」い、とおもって自分の無力をしみじみ感じる。けれども、では、ジェイムズの足の寸法を「計測器=メジャー」として活用するのはどうか。ジェイムズの足の寸法を「計測器=メジャー=基準」としてラムジー氏の世界観を測るのである。この問いはけっして滑稽で馬鹿げた考えではない。むしろ人々はしばしば何らの抵抗も感じずごく当たり前のようにそのような比較をしてしまっている。そしてそのことに気づいていない、平然としている、ということがよくありはしないだろうか。
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