白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「灯台へ」/美の犯罪10

2019年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム
リリーは身体への信頼に戻る。

「そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるというのか?たとえばあそこの空虚さを、どのように表現すればよいのか?(リリーの眺める客間の踏み段は恐ろしく空虚に見えた)。あれを感じ取っているのは身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどく耐えがたいものになった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.345」岩波文庫)

ともかく身体とその感性を失わせるわけにはいかない。ニーチェはいう。

「より驚嘆すべきものはむしろ《身体》である。いくら感嘆しても感嘆しきれないのは、いかにして人間の《身体》が可能になったか、ということである。すなわち、〔身体を構成する〕各生命体は、依存し従属しながらも、しかも他方では、或る意味で命令し、そして自分の意志に基づいて行為しながら、そこに、これらかずかずの生命体のこのような巨大な統合〔としての身体〕が、全体として生き、成長し、そして或る期間存続することがいかにして可能であるのか、ということであるーーー、そして、これは明らかに意識によって起こるのでは《ない》!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三四三・P.192」ちくま学芸文庫)

リリーは「中心にある完全な空虚」と述べる。「中心」は「空虚」なのだ。そして「中心」が「空虚」な限りで始めて周囲は「目まぐるしく乱舞し始める」ことができる。

「突然からっぽの客間の踏み段や室内の椅子のフリル、テラスで転げまわる子犬や庭全体の波立ちささやくような風景が、しなやかな曲線や唐草模様(アラベスク)を描きながら、中心にある完全な空虚のまわりを、目まぐるしく乱舞し始めるようだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.346」岩波文庫)

ところで「中心」が「空虚」であることは何ら消極的な動きなのではない。むしろ「中心的な重点」は、とりわけ資本主義社会では、《常に既に》「可変的」でなくてはならない。そうでなければ社会体はちょっとした身動きすら一つもできない。

「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)

再びリリーは宇宙的融合の流れに入っていく。何度も繰り返し現われるモチーフだが、人間はそういつもなにごとかに集中していられるわけではない。だからしばしば宇宙的融合の流れに身を預けきっているときがあるし、身を預けきっているときがなければ生きていくことはできない。たとえば一切の睡眠を奪われた人間のことを考えてみよう。急速に衰弱死してしまうということだ。その意味で睡眠は食欲とともに人間が人間であるための大変重要な根本をなす。

「世界全体がこの早朝の空気の中に溶け去って、なみなみと現実を湛(たた)えた深い水盤、思いに満ちあふれた一つの大きな池と化したかのよう」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.346」岩波文庫)

リリーは「不気味に静まりかえった」この「溶け去」り=「池」の中へそのまま投身するわけではない。「ダロウェイ夫人」でセプティマスがやったのと同じことをするわけにはいかない。その理由は作者ウルフの考えによりはしよう。よりはしても、そういう展開を取ってしまえばなぜラムジー夫人は死ななければならなかったのかという理由がそれこそ霧の彼方へ消え去ってわからなくなってしまう。もちろん「わからない」でもよいのだが、ここでは「わからない」ままでは余りにもよくない。言ってしまうと、ラムジー夫人と比較してリリーはまだまだ子ども過ぎる。かといって子どもでいられる時期はとうに過ぎ去っている。とすればリリーはラムジー夫人にとってかわって生成変化を遂げる必要があるのだ。そしてそれこそがこの小説を終わらせる唯一の条件である。ところがまだリリーは宙吊りのままだ。現実社会の中では人間は資本主義の構成要素としていつも「宙吊り」であるほかない。しかし小説という形式の中では宙吊りのまま終わるわけにはいかない。リリーは不可能で理不尽な二重性を生きなければならないのである。

「そこに小さなほころびが生まれ、それが不気味に静まりかえった池の表面に裂け目をいれてくれるのでは、などと想像してみたくなった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.347」岩波文庫)

リリーが望む「小さなほころび」は言語の到来を指す。溶け去って浮動的と化している世界に人為的地割れを起こして区画整理を施しに来る言語による「裂け目」=亀裂が上手く弾みとなってくれれば、宇宙的に融合していくあいまいな自己解体の流れから彼女を救い出してくれるはず、とリリーは考える。しかし彼女が問うた相手は猫のカーマイケルである。猫は何も答えない。「答えない」という猫の態度。それがかえってリリーをやや落ち着いて考えさせる機縁になる。

「たぶんこれがカーマイケルさんの答えなんだろうーーー『貴女』(ユー)も『私』(アイ)も『夫人』(シー)も、皆死んで消え去るのです。何も残らないし、すべては変わります。だが言葉は違うし、きっと絵も違うはずでしょう」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.347」岩波文庫)

注目したい。翻訳者(御輿哲也)はあえて「『貴女』(ユー)も『私』(アイ)も『夫人』(シー)も」と、ルビを打たせている。ともすれば文法の溶融とともに消え去ってしまいそうな言語的社会体系だが、それを支えているのは、ほかでもない‘you’、‘I’、‘she’といった個別的で物質的な言語表記による束縛だ。この束縛がなくなってしまっては「『貴女』(ユー)も『私』(アイ)も『夫人』(シー)も」、その各々の差異の消滅とともに個人としての輪郭を喪失して存在そのものをどろどろに溶かせていきつつ大きな流れの中へと融合し合っていくほかない。そして実際、「皆死んで消え去る」ときは、それぞれ時期はまちまちだとはいえ、個別的個人の死としては速やかに解体されながら限りない微分化を経つつ自然循環の中へ「何も残」さず「変わ」っていく。その変化は「すべては変わ」るということでなければならない。文字通り一人の人間の死はただそれだけでもわずかながら全体に幾ばくかの欠如を与える。他方、世界はいつも他の生物の膨大な量の生命の誕生の場でもある。それに比べれば人間の生命の誕生など取るに足らない。むしろ人間の生命は他の生物の膨大な量の生命の誕生と変化とによって食わせてもらっていくほかない憐れなほど儚いものだ。それでもなお、人間の各個人の死は取るに足りないながらも宇宙的環境循環の中で常に行われている再編成の一部として「すべては変わ」るという理解がなければウルフ作品を読み解いていくことはけっしてできない。何度もいうが、「ダロウェイ夫人」でのセプティマスの自殺は「世界の中心へ」の投身自殺だったのであり、そしてそれは宇宙的融合へのウルフ自身の究極の願いでもあった。ウルフは作者として自分が自殺することではなく、その分身としての登場人物の一人を自殺させることで自分が自殺することを阻止したのである。その意味で小説とは、その文字とは、自分自身は一体何ものなのかという問いの接続と切断とが不断に反復され更新される場であるほかない。

ウルフ作品はいつも、一方で宇宙的融合を渇望しながら、他方で単独性(個性)の輪郭をしっかり保存しようとする。矛盾なのだが、それが矛盾だといえるのはヘーゲル的二元論の観点から世界を見ている以上、避けられない矛盾である。ということはヘーゲル的二元論を離れたところであればこの矛盾から逃れることができるというのだろうか。もしそうだとしても、ではしかし一体どこの誰がヘーゲル的二元論から離れて思考することができただろうか。実をいうと、正確にはニーチェですら二元論から脱出できたとはけっして言えないのである。最後の最後までヘーゲルの亡霊に付きまとわれていた。それは最晩年のニーチェ作品の中ですら生きており、実際、「アポロン」《と》「ディオニュソス」との「対立」という二元論的関係にまで持ち込まれている。ディオニュソスの勝利ではなくその復活を、その回帰を祈念しつつニーチェは死んでしまう。ところがニーチェ経由の「舞踏」「官能」「豊饒」「残酷」「創造」などの概念は、第二次世界大戦後になって再び大きな枠組みの中で、枠組みの支柱として、さらには枠組みを超えて縁から溢れ出ていくものとして、哲学の世界に舞い戻ってきた。その意味でなるほどディオニュソスは回帰したわけだが。

リリーはいったん落ち着きを取り戻したかのように見えていながら、またしても精神的急転あるいは「揺らぎ」に入る。

「そこに現実に描かれたものより、それが表そうとしたもののゆえに、きっと『永遠に残る』はずだ、と言いかけたのだが、さすがにそう口に出すのはあまりに面映(おもは)ゆく、ただ黙って自分に言い聞かせようとするにとどめた。とその時、じっと絵を見ていたはずなのに、驚いたことにその絵がまったく見えなくなっているのに気づいた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.348」岩波文庫)

自分で自分自身が描いていたはずの目の前にある「絵がまったく見えなくなっている」。そして問う。

「これはどういうことなんでしょう?一体どんな意味があるんでしょうか?物が急に手を突き出して、つかみかかることがあるんでしょうか?刃が切りつけたり、握ったこぶしが人を押さえつけたりするのでしょうか?安全などどこにもないのでしょうか?世の中を無事に生きていく方法を身につけるなど無理なことですか?」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.348」岩波文庫)

「灯台へ」執筆の背景に第一次世界大戦の悲惨があったことは自明である。だがこの時期、大変多くの小説家が小説の中に戦争を生き延びた人々の悲惨な生活を書き込んだ。何もウルフだけが特別だったわけではない。ここでリリーが問うていることは、戦中戦後にかかわらず、いつどこにでも生じてこないわけにはいかない暴力というものについてであって、その意味ではふだんの日常生活の中でもしばしば起こっていることをも含めた「叫び」であると読むほうが妥当だろうとおもう。そしてそう読めるし、ウルフ自身、戦前の幸福だった時代に精神疾患を患っているだけに、ただ単に戦時にのみ発生する暴力だけを指していっているわけではないと解されるべきだろう。もっといえば、人間はそもそも存在自体が幾分かは暴力なのだ。言い方を換えてみたとしても同じことの繰り返しになるばかりだろう。人間は眠り込んでいるときでも幾分かは暴力的である。最小限の力を放っている。とても節約=経済(エコノミー)な状態を保っている。それでもなおその「力」はたとえ何と言い換えようとも存在する限り「暴力」でありまた最少限度の「強度」として世界の一部分を確実に占拠していることに何ら変わりはない。この事実を否定することはできないし、否定したところからは何一つ始めることはできない。むしろ肯定すること。引き受けること。引き受けた上で、あえて非勃起的な《速度》になること。微粒子に《なる》こと。変化そのものに《なる》こと。一つの多様体であること。実際のところ、人間は常に既に《変化》でしかない。逆に固定された人格は幻想に過ぎない。だからといって、この事情は何ら抽象的な部分を含んでいない。

「人は絶え間なく変化しており、状態そのものがすでに変化なのである」(ベルクソン「創造的進化・P.19」ちくま学芸文庫)

リリーは自分がいっとき狂気と化していたことを認める。「踏みはずした瞬間」とある。

「滅亡の海の上に突き出た板切れを彼女が踏みはずした瞬間は、誰にも目撃されていない。相変わらずリリーは、芝生の上で絵筆を握りしめた貧相な老嬢のままだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.351」岩波文庫)

とはいえ、少なくとも猫のカーマイケルは見ていたわけだが「目撃されていない」ことになっている。そしてふつうの「光景」が眼前に戻ってくる。ふつうの「光景」とは、すでに社会的文法化を終えて目の前に映し出されている「光景」のことをいう。だからそれを「見る」ことは、本来ばらばらな世界が言語化され整えられた後で「見える」世界を「見る」ことと「同様に人を慰める」ことができる。

「目に映る光景には、言葉と同様に人を慰める力がある」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.352」岩波文庫)

動揺のうちにも少しは言語化の余裕を取り戻していた。この余裕は精神から生じるものではなく、精神を含む身体全体がこの構造化に参与することで生じる。事情はまたしてもニーチェが詳しい。

「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫)

「光景が不意に脳裏に浮かんでくると、彼女は半ば目を閉じながら、その幻影を現実の何かに結びつけ、つなぎとめようと試みた。汽車の客車やバスに目をやったり、そばを行く人の肩や頬の輪郭を借りてみたりした」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.353」岩波文庫)

幻影もまた知覚の一つである。そして知覚とはすでに何か「生」(なま)の実在が与えられた後、或る種の加工・変造を経て、事後的にでなければ受け取ることができない何ものかである。さらに知覚は現在的なものと記憶されたものとの合成物の運動であるほかない。したがってもしリリーの体験を文章化しようとすればそれはただちに次のような事情であるに違いない。

「私たちが知覚する行為においてとらえるものは、知覚自身を超えでている或るものであるが、そのさい、にもかかわらず物質的宇宙は、私たちが手にするその宇宙の表象とはことなるとか、本質的に区別されるといったことはない。ある意味で私の知覚は、たしかにじぶんの内部にある。知覚は私の持続のただ一瞬のうちに、それ自体としては数えきれないほどの数の瞬間に分散してゆくことがらを凝縮するものであるからだ。とはいえ、私の意識が抹消されたとしても、物質的宇宙は、それが在ったがままに存続してゆく。ただし、私たちはそのばあい持続の特殊なリズムを捨象しており、そのリズムは私が事物にはたらきかけるさいの条件であったのだから、それらの事物はみずから自身へ立ちかえって、科学が区別するだけの瞬間へと切りわけられてゆくことになる。そこで感覚的質は、消失することはないにしても、比較を絶して遥かに細分化された持続へとひろがって、希薄なものとなってゆく。物質はこのようにして、無数の振動へと解消される。それらの振動のいっさいは中断することのない連続性においてむすびあわされ、すべてはたがいに繋がりあい、あらゆる方向に向かっておなじだけ無数の震えとなって、疾走してゆく」(ベルクソン「物質と記憶・P.408~409」岩波文庫)

リリーは余りにも敏感過ぎるというべきだろうか。「無数の震えとなって、疾走してゆく」。ブレーキがない。というよりむしろ、現代人のほうが急速に鈍感になったというべきではなかろうか。そしてニーチェにいわせれば、人間はますます鈍感に、凡庸に、一般的に、群畜に、薄っぺらな記号に、なっていくほかないのではないだろうか。

BGM