ラムジー夫人は子どもたちのことを実によく観察している。
「この子はまだ六歳だったが、一つの感情を別の感情と切り離しておくことができず、喜びや悲しみに満ちた将来の見通しで今手許(てもと)にあるものまで色づけしてしまわずにいられない、あの《偉大な種族》に属していた。こういう人たちは年端もいかぬ頃から、ちょっとした感覚の変化をきっかけに、陰影や輝きの宿る瞬間を結晶化させ不動の存在に変える力をもっているものだが、客間の床にすわって『陸海軍百貨店』の絵入りカタログから絵を切り抜いて遊んでいたジェイムズ・ラムジーも、母の言葉を聞いた時たまたま手にしていた冷蔵庫の絵に、自らの恍惚(こうこつ)とした喜びを惜しみなく注ぎこんだ。その冷蔵庫は、歓喜の縁飾りをもつことになったわけである」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.7~8」岩波文庫)
その観察によると、ジェイムズは「一つの感情を別の感情と切り離しておくことができず」、とある。まず理解できることは、感情は必ずしも一つのものではなく適宜「切り離す」ことができるという認識でなければならない。そしてジェイムズは様々に分離された感情を再び合体させ「色づけ」してしまう。それらは子どもの気まぐれな意志にしたがって何度も分離され何度も同化させることもできるということでなければならない。多くの子どもは皆そうだ。ラムジー夫人はその様子を観察して、子どもたちは「あの《偉大な種族》に属」していると感じる。「あの《偉大な種族》」とは何か。ニーチェのいう「野蛮人階級」である。
「異他を同化する精神の力は、新しいものを古いものと相似にし、多様を単純にし、全く矛盾するものを看過し、または押し除(の)ける強い傾向のうちに現われる。同様にまた、精神は異他的なもの、『外界』のあらゆるものの特定の画線を勝手に強調したり、際立(きわだ)たせたり、適当に変造したりする。その際に精神の意図するところは、新しい『経験』を消化し、新しい事物を古い系列に編入すること、ーーー従って成長することにある。更に明確に言えば、成長の《感情》、増大した力の感情にある。この同じ意志に、精神の一見して反対の衝動も奉仕する。無知を求め、勝手に閉じ籠(こ)もろうとする突然に勃発する決意とか、自己の窓の閉鎖とか、この或いはあの事物に対する内的な否定的発言とか、近寄ることの禁止とか、多くの知りうるものに対する一種の防御状態とか、暗黒や閉ざされた地平に対する満足とか、無知に対する肯定と是認など、すべて同然である。これらすべては、精神の同化力の程度に応じて、具象的に言えば、精神の『消化力』の度合いに応じて、それぞれ必要なのである。ーーーそれで、実際『精神』は最もよく胃に似たものなのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・二三〇・P.213~214」岩波文庫)
「真理は冷酷である。われわれは、これまであらゆる高度の文化がどのようにして地上に《始まった》か、を容赦することなく言おう!なお自然のままの本性をもつ人間、およそ言葉の怖るべき意味における野蛮人、なお挫(くじ)かれざる意志と権力欲を有している略奪的人間が、より弱い、より都雅な、より平和な、恐らく商業か牧畜を営んでいた人種に、或いは、いましもその最後の生命が精神と頽廃との輝かしい花火となって燃え尽きんとしていた古い軟熟した文化に襲いかかったのだ。貴族階級は当初には常に野蛮人階級であった」(ニーチェ「善悪の彼岸・二五七・P.265~267」岩波文庫)
その速度と技術において。
「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.101~102」岩波文庫)
認識という装置の錯覚について。
「認識の全装置は一つの抽象化・単純化の装置でありーーー認識をめざしているのではなく、事物を《わがものにする》ことをめざしている。『目的』と『手段』は、『概念』と同じく、およそ存在の本質にふれることがない。『目的』と『手段』でもってわがものとなるのは過程であるが(ーーーとらえうる過程が《捏造される》)、しかし『概念』でもってわがものとなるのは、この過程をつくりなしている『事物』なのである」(ニーチェ「権力への意志・第三書・五〇三・P.42」ちくま学芸文庫)
ジェイムズは「絵入りカタログから絵を切り抜いて遊んでいた」。彼は遠出の計画を聞かされて「手にしていた冷蔵庫の絵に、自らの恍惚(こうこつ)とした喜びを惜しみなく注ぎこ」み、と同時にその「冷蔵庫の絵」は彼の中から流出して注ぎ込まれた「恍惚(こうこつ)とした喜び」によって「歓喜の縁飾りをもつことになった」。「縁飾り」が「縁」であるのはどうしてかというと、この「縁」は「ナイフ」によって「絵入りカタログから」「切り抜」かれたものであり、先鋭な線によって枠づけられたものだからだ。しかし「冷蔵庫の絵」は何も「恍惚(こうこつ)とした喜び」によってのみ「歓喜の縁飾りをもつことになった」だけではない。ほかにもたくさんの要素が参加している。
「ほかにも庭の手押し車や芝刈り機、ポプラの葉のそよぎや雨の前の白っぽい木の葉の色、さらにはミヤマガラスの鳴き声や窓を叩くエニシダの枝、ドレスの衣(きぬ)づれの音などーーーこうした何でもないものが、彼の心の中ではくっきりと色づけきわだたせられていたので、いわば彼には自分だけの暗号、秘密の言葉があるようなものだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.8」岩波文庫)
これら「庭の手押し車」「芝刈り機」「ポプラの葉のそよぎ」「雨の前の白っぽい木の葉の色」「ミヤマガラスの鳴き声」「窓を叩くエニシダの枝」「ドレスの衣(きぬ)づれの音」などが一体となって或る瞬間としての「此性」となる。ジェイムズにとって、この、「或る瞬間」にのみ成立した「此性」こそ「自分だけの暗号、秘密の言葉」なのだ。しかしなぜ、これらは同時に接続するのか。スピノザ参照。
「精神がある物体を表象するのは人間身体のいくつかの部分がかつて外部の物体自身から刺激されたのと同様の刺激・同様の影響を人間身体が外部の物体の残した痕跡から受けることに基づくのである。ところが(仮定によれば)身体はかつて、精神が同時に二つの物体を表象するようなそうした状態に置かれていた。ゆえに精神は、今もまた、同時に二つのものを表象するであろう。そしてその一つを表象する場合、ただちに他のものを想起するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一八・P.122」岩波文庫)
さて、哲学者で夫のラムジー氏はこう描かれる。
「今もそうだが、ナイフのようにやせこけた体と、その刃にも似た頑固さとを見せつけながら、彼はどこまでも皮肉な笑みを浮かべて立ちつくしていた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.9」岩波文庫)
ラムジー氏は「ナイフ」だ。なるほどナイフはいつも「皮肉な笑みを浮かべて」いる。するとラムジー夫人はナイフと結婚したのか。というよりも、哲学者としてのラムジー氏と結婚しただけでなく同時に頑固で皮肉で厳格なナイフとも結婚した。ラムジー夫人は戸籍の上では一人の男性と結婚したに過ぎないが、実質的にはすでに多重結婚しているといえる。夫はナイフだと感じるラムジー夫人をよそに、子どもたちはそれぞれに「不埒(ふらち)な夢にふけ」る。ちなみにラムジー夫人は五十歳であり八人の子持ち、と設定されている。
「黙りこくったまま、それぞれの不埒(ふらち)な夢にふけっていた。それは母親とはまったく違うタイプの人生について紡いだ夢ーーーあれこれの男性の世話などに明け暮れず、パリあたりでもっと自由奔放に生きる夢だった。というのも彼女たちの心には、恭順の念や騎士道精神、イングランド銀行やインド帝国、さらには結婚指輪やレース飾りといったものの意味を、ひそかに疑わしく思う気持ちがあったからだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.13」岩波文庫)
早くもウルフの思想が書き込まれている。「あれこれの男性の世話などに明け暮れず」「パリあたりでもっと自由奔放に生きる」こと。さらに子どもたちの「夢」ということにしてはあるものの、実は「恭順の念や騎士道精神、イングランド銀行やインド帝国、さらには結婚指輪やレース飾りといったものの意味」などといったものは、非常に「疑わし」いということ。それら目に見える表面的な装飾物のざわめきで女性を翻弄しようとすることこそまさしく女性を馬鹿にする思想的行為だと彼女は思う。さらにウルフの思想が綴られる。
「争いや仲たがい、意見の相違や存在の織り糸にまで染みついた偏見ーーーこうした問題を、いかに早くから子どもたちが抱えこんでしまうことか、とラムジー夫人は嘆いた。ーーーそれでなくても違いやズレはたっぷりあるのに、わざわざ区別や差別をでっち上げるなんて馬鹿げてる。いま現に目の前にある差異やズレだけでたくさんでしょうに」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.16~17」岩波文庫)
ラムジー夫人は「偽善的」な「慈善活動」に対して非常に強い疑問を持っている。だから自分自身で街頭へ出て、実際の世帯の経済的諸状況についての調査なども行なっている。
「夫人は暇があれば手にバッグをさげて、地域の未亡人や貧困に苦しむ主婦たちの許(もと)を訪ねて話を聞き、用意したメモと鉛筆で、きちんと区切られた欄の中に、収入・支出・就労・失業の状況などを書きこんでいた。というのも彼女は、偽善的な憤りへの気休めや好奇心の満足に終わりがちな慈善活動をする一個人などではなく、ーーー社会問題を徹底的に解明する調査員にこそなろうと思っていた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.17~18」岩波文庫)
ラムジー夫人は冴えない無神論者タンズリーを連れて出かける。歩いていると、カーマイケルが寝そべっているところへ出くわす。カーマイケルもまたかつては哲学者だったようだが、今はまったく冴えない。しかしカーマイケルはさしたる用事もなく寝そべることを覚えることによって、「猫」に《なる》ことを覚えた。そして今やカーマイケルは「猫」だ。
「そこで日なたぼっこをして寝そべっていたカーマイケルさんに、何か用事はないかと尋ねるためだった。彼の黄色味をおびた猫のような目はほんの少しだけ開いて、本当の猫みたいに、揺れ動く枝や過ぎ行く雲を映してはいても、その奥にどんな考えや感情が宿っているかを示すことはなかった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.18~19」岩波文庫)
猫化したカーマイケルは「もっと愛想よくお答えしたいのだが、あいにく今は灰色がかった緑色の眠気の世界にどっぷり浸っているもので、とでも言いたげ」という身体言語で返事する。
「いや、何も用事はなさそうだ。カーマイケルさんは突き出したお腹(なか)の上で両手を組んで、少し目を瞬(またた)かせただけだった。それはまるでそういう優しい言葉には(彼女は魅力的だがちょっと神経質そうだ)、もっと愛想よくお答えしたいのだが、あいにく今は灰色がかった緑色の眠気の世界にどっぷり浸っているもので、とでも言いたげに見えた。その眠気の世界は言葉の必要もないまま、善意に満ちた広大で心地よい無気力の中に皆を、家全体を、いや世界中すべての人々を包みこむかのようだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.19」岩波文庫)
カーマイケルはすでに姿を消し、「もっと愛想よくお答えしたいのだが、あいにく今は灰色がかった緑色の眠気の世界にどっぷり浸っているもので、とでも言いたげ」な一匹の猫が「日なたぼっこをして寝そべってい」るだけだ。さらにまた、この「眠気の世界は」なぜ「言葉の必要もないまま、善意に満ちた広大で心地よい無気力の中に皆を、家全体を、いや世界中すべての人々を包みこむかのよう」におもえるのだろうか。夢を見ている状態を思い起こせばいいかも知れない。そこではいろいろな事物が様々に融合し合い流動する世にも奇妙な世界を覗き見ることとなるに違いない。
「もし私たちが自我と外的事物との接触面の下を掘り進んで、有機化された生きた知性の奥底まで侵入していけば、私たちはきっと、一度分離されたために、論理的に矛盾する諸項というかたちで相互に排除し合っているように見える多くの観念の重なり合い、あるいはむしろ内的融合を目撃することになるだろう。世にも奇妙な夢ではある。けれども、二つのイメージが重なり合って、異なる二人の人間を同時に示すが、それでも一人でしかないという、この夢は、目覚めた状態における私たちの概念の相互浸透について、わずかながら或る観念を与えてくれるであろう。夢見る人の想像力は、外的世界から隔離されてはいるが、知的生活のいっそう深い領域で絶えず観念の上で続けられている作業を単純なイメージに基づいて再現し、それなりの流儀でつくり変えているのである」(ベルクソン「時間と自由・P.163~164」岩波文庫)
一方タンズリーは、ラムジー夫人のバッグを持とうかと申し出るが断られる。
「いえいえ、《これ》はいつも自分でもつことにしていますから。なるほどその通りだった。確かに夫人のまわりにはいつも《何か》があった。時によっていろいろな印象を受けたが、どういうわけか絶えず彼の気持ちを高揚させたり取り乱させたりする《何か》があった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.20~21」岩波文庫)
とはいえ、タンズリーはラムジー夫人の「何」について、そんなにも欲望しているのだろうか。しかしラムジー夫人に対するタンズリーの恋愛感情はそう単純なものではない。しばらくすると海の見えるところへ出る。ラムジー夫人はいう。
「三年前に画家のポーンスフェルトさんがここで絵を書かれてからは、と夫人は言った、みんなあんなふうに描くんです」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.24」岩波文庫)
これはただ単なる「流行」に対する不満とかいうような次元の問題ではまったくない。言うまでもなく「ほかでもない単独性」の消滅に対する恐れと嘆きである。その意味でラムジー夫人は保守的だ。またウルフの思想の代弁者の一人として考えるならラムジー夫人は同性愛支持者として進歩的である。彼女は同時に二つの人格を持っているのだろうか。むしろ二つの人格を同時に持っている一人の個人がいるというべきだろう。次のように。
「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含むのだ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫)
そして新しい絵画の「再生産」という問い。資本主義の発展とともに進行した現実。オリジナルなものの死にとって代わったシミュラクル(模倣)とシミュレーション(複製)の時代の到来。ラムジー夫人は絵画手法の二つのパターンの《あいだ》を凝視しつつ二つに分裂していく世界の裂け目に身を置いている。この光景は第一次世界大戦を背景としていることを頭に置いておこう。
BGM
「この子はまだ六歳だったが、一つの感情を別の感情と切り離しておくことができず、喜びや悲しみに満ちた将来の見通しで今手許(てもと)にあるものまで色づけしてしまわずにいられない、あの《偉大な種族》に属していた。こういう人たちは年端もいかぬ頃から、ちょっとした感覚の変化をきっかけに、陰影や輝きの宿る瞬間を結晶化させ不動の存在に変える力をもっているものだが、客間の床にすわって『陸海軍百貨店』の絵入りカタログから絵を切り抜いて遊んでいたジェイムズ・ラムジーも、母の言葉を聞いた時たまたま手にしていた冷蔵庫の絵に、自らの恍惚(こうこつ)とした喜びを惜しみなく注ぎこんだ。その冷蔵庫は、歓喜の縁飾りをもつことになったわけである」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.7~8」岩波文庫)
その観察によると、ジェイムズは「一つの感情を別の感情と切り離しておくことができず」、とある。まず理解できることは、感情は必ずしも一つのものではなく適宜「切り離す」ことができるという認識でなければならない。そしてジェイムズは様々に分離された感情を再び合体させ「色づけ」してしまう。それらは子どもの気まぐれな意志にしたがって何度も分離され何度も同化させることもできるということでなければならない。多くの子どもは皆そうだ。ラムジー夫人はその様子を観察して、子どもたちは「あの《偉大な種族》に属」していると感じる。「あの《偉大な種族》」とは何か。ニーチェのいう「野蛮人階級」である。
「異他を同化する精神の力は、新しいものを古いものと相似にし、多様を単純にし、全く矛盾するものを看過し、または押し除(の)ける強い傾向のうちに現われる。同様にまた、精神は異他的なもの、『外界』のあらゆるものの特定の画線を勝手に強調したり、際立(きわだ)たせたり、適当に変造したりする。その際に精神の意図するところは、新しい『経験』を消化し、新しい事物を古い系列に編入すること、ーーー従って成長することにある。更に明確に言えば、成長の《感情》、増大した力の感情にある。この同じ意志に、精神の一見して反対の衝動も奉仕する。無知を求め、勝手に閉じ籠(こ)もろうとする突然に勃発する決意とか、自己の窓の閉鎖とか、この或いはあの事物に対する内的な否定的発言とか、近寄ることの禁止とか、多くの知りうるものに対する一種の防御状態とか、暗黒や閉ざされた地平に対する満足とか、無知に対する肯定と是認など、すべて同然である。これらすべては、精神の同化力の程度に応じて、具象的に言えば、精神の『消化力』の度合いに応じて、それぞれ必要なのである。ーーーそれで、実際『精神』は最もよく胃に似たものなのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・二三〇・P.213~214」岩波文庫)
「真理は冷酷である。われわれは、これまであらゆる高度の文化がどのようにして地上に《始まった》か、を容赦することなく言おう!なお自然のままの本性をもつ人間、およそ言葉の怖るべき意味における野蛮人、なお挫(くじ)かれざる意志と権力欲を有している略奪的人間が、より弱い、より都雅な、より平和な、恐らく商業か牧畜を営んでいた人種に、或いは、いましもその最後の生命が精神と頽廃との輝かしい花火となって燃え尽きんとしていた古い軟熟した文化に襲いかかったのだ。貴族階級は当初には常に野蛮人階級であった」(ニーチェ「善悪の彼岸・二五七・P.265~267」岩波文庫)
その速度と技術において。
「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.101~102」岩波文庫)
認識という装置の錯覚について。
「認識の全装置は一つの抽象化・単純化の装置でありーーー認識をめざしているのではなく、事物を《わがものにする》ことをめざしている。『目的』と『手段』は、『概念』と同じく、およそ存在の本質にふれることがない。『目的』と『手段』でもってわがものとなるのは過程であるが(ーーーとらえうる過程が《捏造される》)、しかし『概念』でもってわがものとなるのは、この過程をつくりなしている『事物』なのである」(ニーチェ「権力への意志・第三書・五〇三・P.42」ちくま学芸文庫)
ジェイムズは「絵入りカタログから絵を切り抜いて遊んでいた」。彼は遠出の計画を聞かされて「手にしていた冷蔵庫の絵に、自らの恍惚(こうこつ)とした喜びを惜しみなく注ぎこ」み、と同時にその「冷蔵庫の絵」は彼の中から流出して注ぎ込まれた「恍惚(こうこつ)とした喜び」によって「歓喜の縁飾りをもつことになった」。「縁飾り」が「縁」であるのはどうしてかというと、この「縁」は「ナイフ」によって「絵入りカタログから」「切り抜」かれたものであり、先鋭な線によって枠づけられたものだからだ。しかし「冷蔵庫の絵」は何も「恍惚(こうこつ)とした喜び」によってのみ「歓喜の縁飾りをもつことになった」だけではない。ほかにもたくさんの要素が参加している。
「ほかにも庭の手押し車や芝刈り機、ポプラの葉のそよぎや雨の前の白っぽい木の葉の色、さらにはミヤマガラスの鳴き声や窓を叩くエニシダの枝、ドレスの衣(きぬ)づれの音などーーーこうした何でもないものが、彼の心の中ではくっきりと色づけきわだたせられていたので、いわば彼には自分だけの暗号、秘密の言葉があるようなものだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.8」岩波文庫)
これら「庭の手押し車」「芝刈り機」「ポプラの葉のそよぎ」「雨の前の白っぽい木の葉の色」「ミヤマガラスの鳴き声」「窓を叩くエニシダの枝」「ドレスの衣(きぬ)づれの音」などが一体となって或る瞬間としての「此性」となる。ジェイムズにとって、この、「或る瞬間」にのみ成立した「此性」こそ「自分だけの暗号、秘密の言葉」なのだ。しかしなぜ、これらは同時に接続するのか。スピノザ参照。
「精神がある物体を表象するのは人間身体のいくつかの部分がかつて外部の物体自身から刺激されたのと同様の刺激・同様の影響を人間身体が外部の物体の残した痕跡から受けることに基づくのである。ところが(仮定によれば)身体はかつて、精神が同時に二つの物体を表象するようなそうした状態に置かれていた。ゆえに精神は、今もまた、同時に二つのものを表象するであろう。そしてその一つを表象する場合、ただちに他のものを想起するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一八・P.122」岩波文庫)
さて、哲学者で夫のラムジー氏はこう描かれる。
「今もそうだが、ナイフのようにやせこけた体と、その刃にも似た頑固さとを見せつけながら、彼はどこまでも皮肉な笑みを浮かべて立ちつくしていた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.9」岩波文庫)
ラムジー氏は「ナイフ」だ。なるほどナイフはいつも「皮肉な笑みを浮かべて」いる。するとラムジー夫人はナイフと結婚したのか。というよりも、哲学者としてのラムジー氏と結婚しただけでなく同時に頑固で皮肉で厳格なナイフとも結婚した。ラムジー夫人は戸籍の上では一人の男性と結婚したに過ぎないが、実質的にはすでに多重結婚しているといえる。夫はナイフだと感じるラムジー夫人をよそに、子どもたちはそれぞれに「不埒(ふらち)な夢にふけ」る。ちなみにラムジー夫人は五十歳であり八人の子持ち、と設定されている。
「黙りこくったまま、それぞれの不埒(ふらち)な夢にふけっていた。それは母親とはまったく違うタイプの人生について紡いだ夢ーーーあれこれの男性の世話などに明け暮れず、パリあたりでもっと自由奔放に生きる夢だった。というのも彼女たちの心には、恭順の念や騎士道精神、イングランド銀行やインド帝国、さらには結婚指輪やレース飾りといったものの意味を、ひそかに疑わしく思う気持ちがあったからだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.13」岩波文庫)
早くもウルフの思想が書き込まれている。「あれこれの男性の世話などに明け暮れず」「パリあたりでもっと自由奔放に生きる」こと。さらに子どもたちの「夢」ということにしてはあるものの、実は「恭順の念や騎士道精神、イングランド銀行やインド帝国、さらには結婚指輪やレース飾りといったものの意味」などといったものは、非常に「疑わし」いということ。それら目に見える表面的な装飾物のざわめきで女性を翻弄しようとすることこそまさしく女性を馬鹿にする思想的行為だと彼女は思う。さらにウルフの思想が綴られる。
「争いや仲たがい、意見の相違や存在の織り糸にまで染みついた偏見ーーーこうした問題を、いかに早くから子どもたちが抱えこんでしまうことか、とラムジー夫人は嘆いた。ーーーそれでなくても違いやズレはたっぷりあるのに、わざわざ区別や差別をでっち上げるなんて馬鹿げてる。いま現に目の前にある差異やズレだけでたくさんでしょうに」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.16~17」岩波文庫)
ラムジー夫人は「偽善的」な「慈善活動」に対して非常に強い疑問を持っている。だから自分自身で街頭へ出て、実際の世帯の経済的諸状況についての調査なども行なっている。
「夫人は暇があれば手にバッグをさげて、地域の未亡人や貧困に苦しむ主婦たちの許(もと)を訪ねて話を聞き、用意したメモと鉛筆で、きちんと区切られた欄の中に、収入・支出・就労・失業の状況などを書きこんでいた。というのも彼女は、偽善的な憤りへの気休めや好奇心の満足に終わりがちな慈善活動をする一個人などではなく、ーーー社会問題を徹底的に解明する調査員にこそなろうと思っていた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.17~18」岩波文庫)
ラムジー夫人は冴えない無神論者タンズリーを連れて出かける。歩いていると、カーマイケルが寝そべっているところへ出くわす。カーマイケルもまたかつては哲学者だったようだが、今はまったく冴えない。しかしカーマイケルはさしたる用事もなく寝そべることを覚えることによって、「猫」に《なる》ことを覚えた。そして今やカーマイケルは「猫」だ。
「そこで日なたぼっこをして寝そべっていたカーマイケルさんに、何か用事はないかと尋ねるためだった。彼の黄色味をおびた猫のような目はほんの少しだけ開いて、本当の猫みたいに、揺れ動く枝や過ぎ行く雲を映してはいても、その奥にどんな考えや感情が宿っているかを示すことはなかった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.18~19」岩波文庫)
猫化したカーマイケルは「もっと愛想よくお答えしたいのだが、あいにく今は灰色がかった緑色の眠気の世界にどっぷり浸っているもので、とでも言いたげ」という身体言語で返事する。
「いや、何も用事はなさそうだ。カーマイケルさんは突き出したお腹(なか)の上で両手を組んで、少し目を瞬(またた)かせただけだった。それはまるでそういう優しい言葉には(彼女は魅力的だがちょっと神経質そうだ)、もっと愛想よくお答えしたいのだが、あいにく今は灰色がかった緑色の眠気の世界にどっぷり浸っているもので、とでも言いたげに見えた。その眠気の世界は言葉の必要もないまま、善意に満ちた広大で心地よい無気力の中に皆を、家全体を、いや世界中すべての人々を包みこむかのようだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.19」岩波文庫)
カーマイケルはすでに姿を消し、「もっと愛想よくお答えしたいのだが、あいにく今は灰色がかった緑色の眠気の世界にどっぷり浸っているもので、とでも言いたげ」な一匹の猫が「日なたぼっこをして寝そべってい」るだけだ。さらにまた、この「眠気の世界は」なぜ「言葉の必要もないまま、善意に満ちた広大で心地よい無気力の中に皆を、家全体を、いや世界中すべての人々を包みこむかのよう」におもえるのだろうか。夢を見ている状態を思い起こせばいいかも知れない。そこではいろいろな事物が様々に融合し合い流動する世にも奇妙な世界を覗き見ることとなるに違いない。
「もし私たちが自我と外的事物との接触面の下を掘り進んで、有機化された生きた知性の奥底まで侵入していけば、私たちはきっと、一度分離されたために、論理的に矛盾する諸項というかたちで相互に排除し合っているように見える多くの観念の重なり合い、あるいはむしろ内的融合を目撃することになるだろう。世にも奇妙な夢ではある。けれども、二つのイメージが重なり合って、異なる二人の人間を同時に示すが、それでも一人でしかないという、この夢は、目覚めた状態における私たちの概念の相互浸透について、わずかながら或る観念を与えてくれるであろう。夢見る人の想像力は、外的世界から隔離されてはいるが、知的生活のいっそう深い領域で絶えず観念の上で続けられている作業を単純なイメージに基づいて再現し、それなりの流儀でつくり変えているのである」(ベルクソン「時間と自由・P.163~164」岩波文庫)
一方タンズリーは、ラムジー夫人のバッグを持とうかと申し出るが断られる。
「いえいえ、《これ》はいつも自分でもつことにしていますから。なるほどその通りだった。確かに夫人のまわりにはいつも《何か》があった。時によっていろいろな印象を受けたが、どういうわけか絶えず彼の気持ちを高揚させたり取り乱させたりする《何か》があった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.20~21」岩波文庫)
とはいえ、タンズリーはラムジー夫人の「何」について、そんなにも欲望しているのだろうか。しかしラムジー夫人に対するタンズリーの恋愛感情はそう単純なものではない。しばらくすると海の見えるところへ出る。ラムジー夫人はいう。
「三年前に画家のポーンスフェルトさんがここで絵を書かれてからは、と夫人は言った、みんなあんなふうに描くんです」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.24」岩波文庫)
これはただ単なる「流行」に対する不満とかいうような次元の問題ではまったくない。言うまでもなく「ほかでもない単独性」の消滅に対する恐れと嘆きである。その意味でラムジー夫人は保守的だ。またウルフの思想の代弁者の一人として考えるならラムジー夫人は同性愛支持者として進歩的である。彼女は同時に二つの人格を持っているのだろうか。むしろ二つの人格を同時に持っている一人の個人がいるというべきだろう。次のように。
「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含むのだ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫)
そして新しい絵画の「再生産」という問い。資本主義の発展とともに進行した現実。オリジナルなものの死にとって代わったシミュラクル(模倣)とシミュレーション(複製)の時代の到来。ラムジー夫人は絵画手法の二つのパターンの《あいだ》を凝視しつつ二つに分裂していく世界の裂け目に身を置いている。この光景は第一次世界大戦を背景としていることを頭に置いておこう。
BGM