絵画ならもっと一挙に述べることができたに違いない。しかしウルフは小説を選んだ。音楽なら絵画よりより一層一挙に語ることができただろう。しかしウルフは小説を選んだ。しかもウルフは小説の中で絵画や音楽のほうを小説よりも有利な表現形式だと述べてもいる。ではなぜあえて小説なのか。たとえば絵画の場合、次のフレーズに込められたとおもわれる意図を考えてみよう。
「『まるで全世界が流れていたり曲っていたりしているようだーーー地上では木々が、大空では雲が』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.35」角川文庫)
この文章はどう考えてみてもゴッホの言葉を思い出さないわけにはいかない。ゴッホの言葉は両義的だ。画家であるにもかかわらず。
「多くの人間、ことに仲間の連中は、言葉が意味を持たないと思っているんだが、あべこべだね、そうだろう。何かをうまく語ることは、何かをうまく描くことと同様に難しくもあり面白いものだ。線の芸術と色の芸術とがあるように、言葉の芸術だってそれより劣るものじゃない」(「ゴッホの手紙・上・P.98」岩波文庫)
さらに小説あるいは小説家について述べるとともに画家はどうあるべきか、ゴッホは彼ならでは思想で巧く述べている。
「ゾラとバルザックはその作品のなかで画家のようにある時代の社会や自然を描写して不思議な芸術的衝動を起させ、読者に話しかける、それによって、描かれたその時代に触れさせるのだ。ーーードミエも同じようにたいした天才だった。ミレーも彼が所属していた階級を代表する画家だ。これらの天才が気狂いじみていたとも考えられないことはない。彼等を手離しで感心して好きになるためには、こちらも少し狂う必要がある」(「ゴッホの手紙・上・P.146」岩波文庫)
そして「灯台へ」読解でも引用した部分だが。
「いつも糸杉に心をひかれる。ひまわりを扱ったように描いてみたいのだ。まだ僕が感じているように描いたものを見たことがないのだ。線が美事で、ちょうどエジプトのオベリスクのような均衡を備えている。それにその緑の質が非常に上品なのだ。陽の照った景色のなかでは黒い斑点になるが、その黒い調子は最も興味のあるもので、正確に捕えるのがとてもむつかしいと思う。しかし、ここでは『青に対して』、もっと具体的に言えば『青の中』において見なければならない」(「ゴッホの手紙・下・P.188」岩波文庫)
この、「具体的に言えば『青の中』において見」る、ということ。「星月夜 一八八九年 油彩 73×92センチ(ニューヨーク近代美術館)」を眺めてみよう。多くの場合、その壮大さに圧倒されないわけにはいかない。しかしゴッホはこの壮大な夜景を「写生」したわけではない。「想像」で描いた。想像力の産物の場合、多くはそれ以上かそれ以下かで終わってしまうのが常だ。ところがゴッホはその壮大な「流れ」を「流れそのまま」に一挙にキャンバス上へ絵画化することに成功している。それができたのはなぜか。そしてその作業は何を意味しているといえるだろうか。或る動きを「動きそのもの」として描き出そうとしてゴッホは成功し、そして彼だけに成功することを可能にさせたもの。しかしその理由を、何もゴッホを実例として上げているわけではないが、実際に文章化した哲学者もいた。ベルクソンから。
「私が点Aから手を上げて点Bへと動かす場合、この運動は私に対して同時に二つの様相を呈する。内側から感じられるものとして、それは単純で、不可分な行為である。外側から見られるものとして、それはある曲線ABの経路である。この線に、私は好きなだけ多くの位置を見分けることができるだろうし、この線自体を位置同士が連携したものとして定義することもできるだろう。しかし、無限個の位置も、点同士を結びつける秩序も、私の手がAからBへと向かった不可分な行為から自動的に生じたものである。この場合、機械論は諸々の位置しか見ないし、目的論はそれらの秩序しか考慮しないだろう。しかしそのため、機械論も目的論も、実在そのものである運動の方をやりすごすだろう。ある意味で、運動は、諸々の位置やそれらの秩序よりも、《多いもの》である。なぜなら、運動をその不可分な単純さにおいて与えるだけで、継起する無限個の位置とそれらの秩序が同時に与えられ、その上、位置でも秩序でもない本質的な何か、つまり動性が与えられるからだ。しかし、別の意味で、運動は、一連の位置とそれらを結びつける秩序よりも、《少ないもの》である。なぜなら、諸々の点にある秩序で配置するためには、まず秩序を表象し、次にその秩序を点によって実現しなければならず、また、寄せ集めの仕事と知性が必要だからだ。それに対して手の単純な運動はこのようなものを何も含んでいない」(ベルクソン「創造的進化・P.123~124」ちくま学芸文庫)
極端に単純化していえば次のようになる。ところがこの単純な作業を、作業としては、人間はいつもふつうにやっている。特に意識していないだけで。
「榴散弾が、地面に触れる前に破裂して、爆発地帯を不可分の危険で覆うように、AからBへ進む矢は、ある長さの持続においてではあるが、一挙にその不可分な運動性を展開する。ゴムひもを想定して、AからBへ引き伸ばしてみよう。ゴムが広がるのを分割できるだろうか。矢の飛行はこの広がりそのもので、それと同じく単純で、分割不可能である。それはたった一度の跳躍なのである」(ベルクソン「創造的進化・P.392」ちくま学芸文庫)
とすれば、意識するとは一体どういうことなのか。意識するや否や不可能になってしまう行為、ゴッホの言葉では「『青の中』において見」る、ということ。何がそれを不可能にしているのか。「流動」を「流動そのまま」ではなく逆に「一瞬の切断面」しか捉えることができないのはなぜか。
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
人間は「一瞬の切断面」しか捉えることしかできない。それは人間に与えられた知性の要求に素直にしたがっているということでもある。それは各々の個人的な視線における限りでの「見え」あるいは「眺め」でしかないが、それはそれで各々の個人的な「見え」あるいは「眺め」としては正しいし、否定できない事情でもある。だから、「『青の中』において見」る=「流動そのものに《なる》、そしてそのような《生成》を維持したまま見る」、ということは、まさしくその行為自体が「狂気」だと推定せざるをえない。事実、ゴッホは精神病院に入院したわけだが。とはいうものの、では、現在の精神医療の中にゴッホが入ってきたとしよう。あるいはゴッホ的人物が。するとこういうことが起きるに違いない。すなわちゴッホは、ほかでもないウルフあるいはウルフ的人物と《出会う》ということが。
「世界のなかには、思考せよと強制する何ものかが存在する。この何ものかは、基本的な《出会い》の対象であって、再認の対象ではない。ーーー出会いの対象は、所与ではなく、所与がそれによって与えられる当のものである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.372~373」河出文庫)
もし「思考せよと強制する何ものかが」やって来なければ、ゴッホあるいはゴッホ的人物もウルフあるいはウルフ的人物もともに、「受動的総合という至福」のうちに安らっている〔快感する〕ことができたに違いない。
「快感とは、〔おのれのイマージュで〕満たすひとつの観照によってもたらされる感動であり、この観照それ自身のうちに、弛緩《と》縮約の事例が縮約されているのである。受動的総合という至福が存在するのだ」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.209」河出文庫)
しかし世界はどんな人間に対しても、人間である限り、「受動的総合という至福」のうちに安らう〔快感する〕という態度を許してはくれないようにできている。むしろ世界の「真理」は「醜い」。ニーチェはいう。
「『善と美とは一つである』と主張するのは、哲学者の品位にふさわしからざることである。さらにそのうえ『真もまた』と付け加えるなら、その哲学者を殴(なぐ)り飛ばすべきである。真理は醜い。私たちが《芸術》をもっているのは、私たちが《真理で台なしにならない》ためである」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八二二・P.338」ちくま学芸文庫)
ところで、ドゥルーズのいう「所与がそれによって与えられる当のもの」とは何のことだろうか。端的にいって、それは暴力的なものだ。自分に対しても他者に対しても。そしてそれはいつも外部から来る。それは常に既に人間を社会的文法という「鋳型」の中に流し込んで加工=変造するために人間のもとを訪れる。もう来ている。このことに関してはラカンに触れつつ前回述べた。また、狂気の画家について述べたが、音楽家について述べられてはいないのでは、という問いに対して、それはベルリオーズの名を上げるだけで十分だといっておこう。もし彼が現在の日本に生きていたとすればいわゆる「ストーカー」の罪で実刑判決を受けていたに違いないからだ。そして彼の場合、判決の内容がどうであれ、ストーカー行為を止めるということはおそらくできない。この反復についてはまたの機会に述べたい。次へいこう。
ルイスの特権的意識の発露。
「『草や木、やがては元の姿に立ち返る碧空のうつろな空間を吹きぬけ、吹かれては揺れかえす木の葉をゆさぶって、流れゆく風、膝をかかえて坐っている、ここの我々の環、これらは或る他の秩序、しかもよりよきものを暗示し、それが永遠に原理となるんだ。これを瞬間に見とり、今宵言葉に留め、鋼鉄の指輪に造り変えてやることにしよう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.37」角川文庫)
すべてを愛しつつすべてを言語化して保存しておこうという二律背反的態度。言語化という作業は、愛する対象を流れの中から引きずり出し、言語という秩序の中で固定させ、対象から対象独自の生命を引き去ってしまうことにほかならない。しかしそもそも対象を個体として愛するためにはすでに対象を「一箇のもの」として言語的に構造化して画鋲で打ち付けておかねばならない。そして言語化とは、一般化の、記号化の、凡庸化の、群畜化の作業、或る種の一元的理念型へ加工=変造する作業なのだ。
「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫)
ジニーは鏡の前に立つ。全身が映り込む。するとなぜだかわからないが、途端に踊り出したくなる。実際に躍ってしまう。
「『わたしは二人を追い抜いて階段を跳び上り、次の踊りの場へ行くの。そこには長い鏡が掛かっていて、すっかり全身が見えるわ。今こそ、身体も頭を一つに見えるの。こんなサージのフロックを着ていても、一つに見えるわ。身体と頭が。ほら、頭を動かすと細い身体を下の方へ、ずっと漣が立っていくわ。細っぽい足でさえ風に吹かれている茎のように波立つわ。わたしがスーザンの固い顔とローダのぼんやりしている顔との間で見えかくれするわ。土地の裂け目と裂け目の間を走る焔の中の一つのようにわたしは飛び跳ねるの。動いて、踊るの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.39」角川文庫)
ここで「間で見えかくれ」という言葉には注意を要する。「スーザンの固い顔」《と》「ローダのぼんやりしている顔との間」で「見えかくれ」するということ。「確固たる固形物」《と》「曖昧でやわやわしたぼんやり性」との間で盛んに「見えかくれ」する運動体。性交時の勃起的男性器、パンチラ、襟元、手首、裾、眼差し、など様々な様態が考えられよう。とはいえ、エロティックな妄想を空想ばかりしていては時として完全な間違いに陥る。「裂け目と裂け目の間を走る焔」のようだと書かれているが。さらにウルフは夫=レナードとともにホガース・プレス社から「フロイト著作集」を出版してもいるが。だからといって、いつもフロイトを持ち出してくるのが正しいことなのか。しかしフロイトを持ち出さないことが正しいことなのか。どちらでもない。むしろこのような鏡を介したシーンの解釈にはまったく別の分野の専門家の思考を通して見るほうが的を得た解釈を手にすることができることがある。こう考えよう。「裂け目と裂け目の間を走る焔」。「焔」は瞬発力を有している。そしてまたこの瞬発力ゆえに「裂け目と裂け目の間」を埋めることができるものでなくてはならない。たとえば商品Aと商品Bとが交換不可能になって絶望に陥っているときを想像しよう。こんなふうに。
「それから強情が現われてくるが、これは本来永遠者の力による絶望である、換言すれば人間が絶望的に自己自身であろうとして自己のうちなる永遠者を絶望的に濫用するのである。強情が永遠者の力による絶望であるというちょうどそのために、彼は或る意味では非常に真理の近くにある、ーーーだが彼が真理の側に非常に近くあるというちょうどそのために、彼は無限に真理から遠く隔たっている」(キルケゴール「死に至る病・P.111」岩波文庫)
だから絶望は商品Aが商品Aのままであり、商品Bが商品Bのままで放置されるとすれば、両者ともに必ず廃棄処分されないわけにはいかないという「あいだ」を生きるものに特有の絶望である。要するに「救世主」が必要だというわけだ。資本主義社会の中でダブルバインド(板ばさみ)されて絶望している両者のために「救世主」の機能を果たすことができるのは唯一、貨幣のみだ。ということは、「裂け目と裂け目の間」を埋めることができるものは貨幣であり、また「裂け目と裂け目の間を走る《焔》」は、貨幣を介した商品交換によって実現される「労働力」ならびに「剰余価値」という「動いて、踊る」ものでなければならない。しかしそのためには、信用がいつも信用として機能しているかどうかが重要になってくる。グローバル資本主義では貨幣ではなくすでに信用の有無が貨幣価値を決めるのであり、さらに信用は手形流通が国際的な規模で確実な限りで信用されるのであり、間違っても個別的貨幣(あるいは個々の商品形態)が、ではない。
「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫)
さて、先に「ぼんやり性」と呼んだローダ。ローダは鏡を嫌う。ローダは鏡が先取り的に自分へ自分自身を与える機能を持っていることに気づいている。「ぼんやり性」としてのローダは「ぼんやり性」ゆえに「しょっちゅう何も考えない無の中へ沈んでいく」というけれども「わたし自身をこの肉体に呼び戻す」ためには逆に鏡の機能が必要なのだ。ローダは矛盾へ陥っている。
「『ひとりで、わたしはしょっちゅう何も考えない無の中へ沈んでいくの。世界の端から無の中へおっこちないように、そっと足を突き出してなきゃいけないわ。何か固い扉を手で打って、わたし自身をこの肉体に呼び戻すようにしなくてはいけないわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.41」角川文庫)
というふうなのだが、この少し前、ローダは重大なことを告白している。
「わたしったら、こっちやあっちへ移ってみたり、姿を変えてみたり、それにすぐに見抜かれるの。ーーーわたしったら、先ず見て、お二人がしてしまった時に他の人たちがすることをしなくてはならないの」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.40」角川文庫)
急速な変態をどんどん遂げていくという意味では流通貨幣に似ているが、「先ず見て」、事後的に「他の人たちがすることをしなくてはならない」と述べている点はヘーゲル弁証法をおもわせる。だがヘーゲル弁証法は流通貨幣の運動に似ていないだろうか。
「自己意識に対しては別の自己意識が在る。つまり自己意識は《自分の外》に出てきているのである。このことは二重の意味をもっている。《まず》自己意識は自己自身を失っている。というのは、自己意識は、自分が《他方の》もう一つの実在であることに気がつくからである。《次に》、そのため自己意識はその他者を廃棄している。というのは、自己意識は他者もまた実在であるとは見ないで、《他者》のうちに《自己自身》を見るからである。自己意識はこの《自らの他在》を廃棄しなければならない。このことは最初の二重の意味を廃棄することであるから、それ自身第二の二重の意味である。《まず》、自己意識は《他方の》自立的な実在を廃棄することによって、《自分》が実在であることを確信することに、向って行かねばならない。そこで《次に、自己自身》を廃棄することになる。というのは、この他者は自己自身だからである。このように、二重の意味の他在を二重の意味で廃棄することは、また、二重の意味で《自己自身》に帰ることである。というのは、《まず、自らの》他在を廃棄することによって、また自己と等しくなるゆえ、廃棄によって自己自身を取りかえすからである。だが『次に』、自己意識は他方の自己意識に自らを取りもどさせる。というのも、自己意識は自ら他方のうちにあったからである。つまり、他方のうちでのこの自らの存在を廃棄し、したがってまた他方を自由にしてやるからである。だが、他方の自己意識と関係している自己意識のこの運動は、いま言ったように、《一方のものの行為》と考えられていた。とはいえ、一方のもののこの行為は、それ自身、《自己の行為》でありまた《他者の行為》であるという、二重の意味をもっている。なぜならば、他方もやはり独立であり、自分で完結しており、自己自身によらないであるようなものは、他方のなかには何もないからである。初めの自己意識は、さしあたり、欲求に対して在るにすぎないような対象を、相手にしているのではなく、それ自身で存在する独立な対象を相手にしているのである。それゆえ、初めの自己意識がこの対象にしかけることを、この対象が自分自身でもしかけない場合には、自己意識も自分ではその対象に対し何もしかけることはできない。だからこの動きは、端的に言って、両方の自己意識の二重の動きなのである。各々は、自分が行うことと同じことを、《他方》が行うのを見る。各々は、自分が他者に求めることを自分でやる。それゆえ、各々は、他者が同じことを行う限りでのみまた、自分の行うことを行う。起ってくるはずのことは、両方によってのみ起りうるのであるから、一方だけの行為は役に立たないであろう。したがって、行為が二重の意味のものであるのは、《自分に対する》ものであり、また《他方に対する》ものでもあるという限りでだけのことではなく、分かたれることなく、一方の行為であるとともにまた他方の行為でもある限りでのことである。この運動においてわれわれは、〔悟性において〕両力のたわむれとして現われた過程が、繰り返されるのを見るわけである。ただし、このここでのたわむれは意識のなかで行われる。前のたわむれの場合には、われわれにとって行われたことが、ここでは両方の極自身〔二つの自己意識〕にとって行われる。媒語〔中間〕は、両極に自ら分裂する自己意識である。各々の極は、その規定態を交換し、その対立極に絶対的に移行する。各々は、意識としてたしかに《自分の外に》出るのではあるが、その自己外存在にいながら、同時に自分にもどされたままである。つまり《自分だけで》ある。そして自らの自己外は《各々の極に対して》いる。各々はそのまま他方の意識《であり》また《ない》ということが、各々に対してある。同じように、この他方は、自分だけで〔対自的に〕あるものとしての自分を廃棄し、他者〔一方〕の自分だけでの有〔対自存在・自独存在〕においてのみ、自分だけでいることによって初めて、自分だけであるということが、各々に対してある。各々は他方にとり媒語であり、この媒語によって各々は自己を自己自身と媒介し、自己自身と結ばれる。各々は、自己にとっても他方にとっても、直接の〔無媒介の〕、自分で存在する実在であり、これは同時にこの媒介によってのみ、そのように自分だけで〔対自的で〕ある〔自分に対している〕。両方は、《互いに他方を認めて》いるものとして、互いに《認め》合っている。承認というこの純粋概念、自己意識をその統一において二重化するというこの純粋概念の過程が、自己意識にとりどういうふうに現われるかということが、ここで考察されねばならない。初めに、この過程は、両方が《等しくない》という側面を表わす、つまり、媒語が両極のなかに歩み出てくることを、両極は極としては対立しているが、一方はただ承認されるだけなのに、他方はただ承認するだけであるという形で、歩み出てくることを表わす」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.219~222」平凡社ライブラリー)
ローダは、ヘーゲルを通して見る限り、鏡の承認機能を必要としており、同時に鏡の承認機能を排除したい、少なくとも遠ざけておきたいという矛盾の中にいる。そしてこのことはローダの「ぼんやり性」と無縁ではない。むしろローダは「ぼんやり性」に《なる》とき、ふだんは目に見えない「幻覚的な夢の生」を夢見ている(生きている)。後のセンテンスでも出てくるのでそのときにもう少し詳しく触れたい。今は次の文章を引用するに留める。
「自らの生活を生きるかわりに《夢みる》ような人間は、おそらくはそのようにしてありとあらゆる瞬間に、過ぎ去ったじぶんの物語にぞくする無限な細部のひとつひとつをその視界のうちに留めておくことだろう。たほうその反対にこうした記憶を、そこから生まれてくるいっさいのものとともに撥(は)ねつけようとするひとであれば、じぶんの生活をたえず《演じて》、それを真に表象することはないはずである。そのひとは意識をもつ自動人形のように、有用な習慣の坂をくだるのであって、その習慣とは刺戟を適切な反応へと繰りのべる〔だけの〕ものなのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.307~308」岩波文庫)
だから、貨幣もまた或る種の「夢」なのだ。というのは、その価値は常に変動しているからである。むしろ変動しないわけにはいかない。ゆえに貨幣は貨幣価値を持つといえる。しかしその余りにも危うい浮動性によってもまた貨幣は貨幣価値としての適性を有するわけだが。ところがこの柔軟性は貨幣に唯一のものではない。柔軟性でありなおかつ一般性でもあるという意味では言語もまたそうだ。そして性もまたそうだということを常に頭の中で表象しておかないことには、作品「波」を読み進めるに当たって困難が続出すること間違いない。ローダはベルクソンのいう「逆円錐」におけるSからABのあいだを間断なく移動する「夢見る流通貨幣」として登場しているというべきだろう。
BGM
「『まるで全世界が流れていたり曲っていたりしているようだーーー地上では木々が、大空では雲が』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.35」角川文庫)
この文章はどう考えてみてもゴッホの言葉を思い出さないわけにはいかない。ゴッホの言葉は両義的だ。画家であるにもかかわらず。
「多くの人間、ことに仲間の連中は、言葉が意味を持たないと思っているんだが、あべこべだね、そうだろう。何かをうまく語ることは、何かをうまく描くことと同様に難しくもあり面白いものだ。線の芸術と色の芸術とがあるように、言葉の芸術だってそれより劣るものじゃない」(「ゴッホの手紙・上・P.98」岩波文庫)
さらに小説あるいは小説家について述べるとともに画家はどうあるべきか、ゴッホは彼ならでは思想で巧く述べている。
「ゾラとバルザックはその作品のなかで画家のようにある時代の社会や自然を描写して不思議な芸術的衝動を起させ、読者に話しかける、それによって、描かれたその時代に触れさせるのだ。ーーードミエも同じようにたいした天才だった。ミレーも彼が所属していた階級を代表する画家だ。これらの天才が気狂いじみていたとも考えられないことはない。彼等を手離しで感心して好きになるためには、こちらも少し狂う必要がある」(「ゴッホの手紙・上・P.146」岩波文庫)
そして「灯台へ」読解でも引用した部分だが。
「いつも糸杉に心をひかれる。ひまわりを扱ったように描いてみたいのだ。まだ僕が感じているように描いたものを見たことがないのだ。線が美事で、ちょうどエジプトのオベリスクのような均衡を備えている。それにその緑の質が非常に上品なのだ。陽の照った景色のなかでは黒い斑点になるが、その黒い調子は最も興味のあるもので、正確に捕えるのがとてもむつかしいと思う。しかし、ここでは『青に対して』、もっと具体的に言えば『青の中』において見なければならない」(「ゴッホの手紙・下・P.188」岩波文庫)
この、「具体的に言えば『青の中』において見」る、ということ。「星月夜 一八八九年 油彩 73×92センチ(ニューヨーク近代美術館)」を眺めてみよう。多くの場合、その壮大さに圧倒されないわけにはいかない。しかしゴッホはこの壮大な夜景を「写生」したわけではない。「想像」で描いた。想像力の産物の場合、多くはそれ以上かそれ以下かで終わってしまうのが常だ。ところがゴッホはその壮大な「流れ」を「流れそのまま」に一挙にキャンバス上へ絵画化することに成功している。それができたのはなぜか。そしてその作業は何を意味しているといえるだろうか。或る動きを「動きそのもの」として描き出そうとしてゴッホは成功し、そして彼だけに成功することを可能にさせたもの。しかしその理由を、何もゴッホを実例として上げているわけではないが、実際に文章化した哲学者もいた。ベルクソンから。
「私が点Aから手を上げて点Bへと動かす場合、この運動は私に対して同時に二つの様相を呈する。内側から感じられるものとして、それは単純で、不可分な行為である。外側から見られるものとして、それはある曲線ABの経路である。この線に、私は好きなだけ多くの位置を見分けることができるだろうし、この線自体を位置同士が連携したものとして定義することもできるだろう。しかし、無限個の位置も、点同士を結びつける秩序も、私の手がAからBへと向かった不可分な行為から自動的に生じたものである。この場合、機械論は諸々の位置しか見ないし、目的論はそれらの秩序しか考慮しないだろう。しかしそのため、機械論も目的論も、実在そのものである運動の方をやりすごすだろう。ある意味で、運動は、諸々の位置やそれらの秩序よりも、《多いもの》である。なぜなら、運動をその不可分な単純さにおいて与えるだけで、継起する無限個の位置とそれらの秩序が同時に与えられ、その上、位置でも秩序でもない本質的な何か、つまり動性が与えられるからだ。しかし、別の意味で、運動は、一連の位置とそれらを結びつける秩序よりも、《少ないもの》である。なぜなら、諸々の点にある秩序で配置するためには、まず秩序を表象し、次にその秩序を点によって実現しなければならず、また、寄せ集めの仕事と知性が必要だからだ。それに対して手の単純な運動はこのようなものを何も含んでいない」(ベルクソン「創造的進化・P.123~124」ちくま学芸文庫)
極端に単純化していえば次のようになる。ところがこの単純な作業を、作業としては、人間はいつもふつうにやっている。特に意識していないだけで。
「榴散弾が、地面に触れる前に破裂して、爆発地帯を不可分の危険で覆うように、AからBへ進む矢は、ある長さの持続においてではあるが、一挙にその不可分な運動性を展開する。ゴムひもを想定して、AからBへ引き伸ばしてみよう。ゴムが広がるのを分割できるだろうか。矢の飛行はこの広がりそのもので、それと同じく単純で、分割不可能である。それはたった一度の跳躍なのである」(ベルクソン「創造的進化・P.392」ちくま学芸文庫)
とすれば、意識するとは一体どういうことなのか。意識するや否や不可能になってしまう行為、ゴッホの言葉では「『青の中』において見」る、ということ。何がそれを不可能にしているのか。「流動」を「流動そのまま」ではなく逆に「一瞬の切断面」しか捉えることができないのはなぜか。
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
人間は「一瞬の切断面」しか捉えることしかできない。それは人間に与えられた知性の要求に素直にしたがっているということでもある。それは各々の個人的な視線における限りでの「見え」あるいは「眺め」でしかないが、それはそれで各々の個人的な「見え」あるいは「眺め」としては正しいし、否定できない事情でもある。だから、「『青の中』において見」る=「流動そのものに《なる》、そしてそのような《生成》を維持したまま見る」、ということは、まさしくその行為自体が「狂気」だと推定せざるをえない。事実、ゴッホは精神病院に入院したわけだが。とはいうものの、では、現在の精神医療の中にゴッホが入ってきたとしよう。あるいはゴッホ的人物が。するとこういうことが起きるに違いない。すなわちゴッホは、ほかでもないウルフあるいはウルフ的人物と《出会う》ということが。
「世界のなかには、思考せよと強制する何ものかが存在する。この何ものかは、基本的な《出会い》の対象であって、再認の対象ではない。ーーー出会いの対象は、所与ではなく、所与がそれによって与えられる当のものである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.372~373」河出文庫)
もし「思考せよと強制する何ものかが」やって来なければ、ゴッホあるいはゴッホ的人物もウルフあるいはウルフ的人物もともに、「受動的総合という至福」のうちに安らっている〔快感する〕ことができたに違いない。
「快感とは、〔おのれのイマージュで〕満たすひとつの観照によってもたらされる感動であり、この観照それ自身のうちに、弛緩《と》縮約の事例が縮約されているのである。受動的総合という至福が存在するのだ」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.209」河出文庫)
しかし世界はどんな人間に対しても、人間である限り、「受動的総合という至福」のうちに安らう〔快感する〕という態度を許してはくれないようにできている。むしろ世界の「真理」は「醜い」。ニーチェはいう。
「『善と美とは一つである』と主張するのは、哲学者の品位にふさわしからざることである。さらにそのうえ『真もまた』と付け加えるなら、その哲学者を殴(なぐ)り飛ばすべきである。真理は醜い。私たちが《芸術》をもっているのは、私たちが《真理で台なしにならない》ためである」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八二二・P.338」ちくま学芸文庫)
ところで、ドゥルーズのいう「所与がそれによって与えられる当のもの」とは何のことだろうか。端的にいって、それは暴力的なものだ。自分に対しても他者に対しても。そしてそれはいつも外部から来る。それは常に既に人間を社会的文法という「鋳型」の中に流し込んで加工=変造するために人間のもとを訪れる。もう来ている。このことに関してはラカンに触れつつ前回述べた。また、狂気の画家について述べたが、音楽家について述べられてはいないのでは、という問いに対して、それはベルリオーズの名を上げるだけで十分だといっておこう。もし彼が現在の日本に生きていたとすればいわゆる「ストーカー」の罪で実刑判決を受けていたに違いないからだ。そして彼の場合、判決の内容がどうであれ、ストーカー行為を止めるということはおそらくできない。この反復についてはまたの機会に述べたい。次へいこう。
ルイスの特権的意識の発露。
「『草や木、やがては元の姿に立ち返る碧空のうつろな空間を吹きぬけ、吹かれては揺れかえす木の葉をゆさぶって、流れゆく風、膝をかかえて坐っている、ここの我々の環、これらは或る他の秩序、しかもよりよきものを暗示し、それが永遠に原理となるんだ。これを瞬間に見とり、今宵言葉に留め、鋼鉄の指輪に造り変えてやることにしよう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.37」角川文庫)
すべてを愛しつつすべてを言語化して保存しておこうという二律背反的態度。言語化という作業は、愛する対象を流れの中から引きずり出し、言語という秩序の中で固定させ、対象から対象独自の生命を引き去ってしまうことにほかならない。しかしそもそも対象を個体として愛するためにはすでに対象を「一箇のもの」として言語的に構造化して画鋲で打ち付けておかねばならない。そして言語化とは、一般化の、記号化の、凡庸化の、群畜化の作業、或る種の一元的理念型へ加工=変造する作業なのだ。
「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫)
ジニーは鏡の前に立つ。全身が映り込む。するとなぜだかわからないが、途端に踊り出したくなる。実際に躍ってしまう。
「『わたしは二人を追い抜いて階段を跳び上り、次の踊りの場へ行くの。そこには長い鏡が掛かっていて、すっかり全身が見えるわ。今こそ、身体も頭を一つに見えるの。こんなサージのフロックを着ていても、一つに見えるわ。身体と頭が。ほら、頭を動かすと細い身体を下の方へ、ずっと漣が立っていくわ。細っぽい足でさえ風に吹かれている茎のように波立つわ。わたしがスーザンの固い顔とローダのぼんやりしている顔との間で見えかくれするわ。土地の裂け目と裂け目の間を走る焔の中の一つのようにわたしは飛び跳ねるの。動いて、踊るの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.39」角川文庫)
ここで「間で見えかくれ」という言葉には注意を要する。「スーザンの固い顔」《と》「ローダのぼんやりしている顔との間」で「見えかくれ」するということ。「確固たる固形物」《と》「曖昧でやわやわしたぼんやり性」との間で盛んに「見えかくれ」する運動体。性交時の勃起的男性器、パンチラ、襟元、手首、裾、眼差し、など様々な様態が考えられよう。とはいえ、エロティックな妄想を空想ばかりしていては時として完全な間違いに陥る。「裂け目と裂け目の間を走る焔」のようだと書かれているが。さらにウルフは夫=レナードとともにホガース・プレス社から「フロイト著作集」を出版してもいるが。だからといって、いつもフロイトを持ち出してくるのが正しいことなのか。しかしフロイトを持ち出さないことが正しいことなのか。どちらでもない。むしろこのような鏡を介したシーンの解釈にはまったく別の分野の専門家の思考を通して見るほうが的を得た解釈を手にすることができることがある。こう考えよう。「裂け目と裂け目の間を走る焔」。「焔」は瞬発力を有している。そしてまたこの瞬発力ゆえに「裂け目と裂け目の間」を埋めることができるものでなくてはならない。たとえば商品Aと商品Bとが交換不可能になって絶望に陥っているときを想像しよう。こんなふうに。
「それから強情が現われてくるが、これは本来永遠者の力による絶望である、換言すれば人間が絶望的に自己自身であろうとして自己のうちなる永遠者を絶望的に濫用するのである。強情が永遠者の力による絶望であるというちょうどそのために、彼は或る意味では非常に真理の近くにある、ーーーだが彼が真理の側に非常に近くあるというちょうどそのために、彼は無限に真理から遠く隔たっている」(キルケゴール「死に至る病・P.111」岩波文庫)
だから絶望は商品Aが商品Aのままであり、商品Bが商品Bのままで放置されるとすれば、両者ともに必ず廃棄処分されないわけにはいかないという「あいだ」を生きるものに特有の絶望である。要するに「救世主」が必要だというわけだ。資本主義社会の中でダブルバインド(板ばさみ)されて絶望している両者のために「救世主」の機能を果たすことができるのは唯一、貨幣のみだ。ということは、「裂け目と裂け目の間」を埋めることができるものは貨幣であり、また「裂け目と裂け目の間を走る《焔》」は、貨幣を介した商品交換によって実現される「労働力」ならびに「剰余価値」という「動いて、踊る」ものでなければならない。しかしそのためには、信用がいつも信用として機能しているかどうかが重要になってくる。グローバル資本主義では貨幣ではなくすでに信用の有無が貨幣価値を決めるのであり、さらに信用は手形流通が国際的な規模で確実な限りで信用されるのであり、間違っても個別的貨幣(あるいは個々の商品形態)が、ではない。
「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫)
さて、先に「ぼんやり性」と呼んだローダ。ローダは鏡を嫌う。ローダは鏡が先取り的に自分へ自分自身を与える機能を持っていることに気づいている。「ぼんやり性」としてのローダは「ぼんやり性」ゆえに「しょっちゅう何も考えない無の中へ沈んでいく」というけれども「わたし自身をこの肉体に呼び戻す」ためには逆に鏡の機能が必要なのだ。ローダは矛盾へ陥っている。
「『ひとりで、わたしはしょっちゅう何も考えない無の中へ沈んでいくの。世界の端から無の中へおっこちないように、そっと足を突き出してなきゃいけないわ。何か固い扉を手で打って、わたし自身をこの肉体に呼び戻すようにしなくてはいけないわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.41」角川文庫)
というふうなのだが、この少し前、ローダは重大なことを告白している。
「わたしったら、こっちやあっちへ移ってみたり、姿を変えてみたり、それにすぐに見抜かれるの。ーーーわたしったら、先ず見て、お二人がしてしまった時に他の人たちがすることをしなくてはならないの」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.40」角川文庫)
急速な変態をどんどん遂げていくという意味では流通貨幣に似ているが、「先ず見て」、事後的に「他の人たちがすることをしなくてはならない」と述べている点はヘーゲル弁証法をおもわせる。だがヘーゲル弁証法は流通貨幣の運動に似ていないだろうか。
「自己意識に対しては別の自己意識が在る。つまり自己意識は《自分の外》に出てきているのである。このことは二重の意味をもっている。《まず》自己意識は自己自身を失っている。というのは、自己意識は、自分が《他方の》もう一つの実在であることに気がつくからである。《次に》、そのため自己意識はその他者を廃棄している。というのは、自己意識は他者もまた実在であるとは見ないで、《他者》のうちに《自己自身》を見るからである。自己意識はこの《自らの他在》を廃棄しなければならない。このことは最初の二重の意味を廃棄することであるから、それ自身第二の二重の意味である。《まず》、自己意識は《他方の》自立的な実在を廃棄することによって、《自分》が実在であることを確信することに、向って行かねばならない。そこで《次に、自己自身》を廃棄することになる。というのは、この他者は自己自身だからである。このように、二重の意味の他在を二重の意味で廃棄することは、また、二重の意味で《自己自身》に帰ることである。というのは、《まず、自らの》他在を廃棄することによって、また自己と等しくなるゆえ、廃棄によって自己自身を取りかえすからである。だが『次に』、自己意識は他方の自己意識に自らを取りもどさせる。というのも、自己意識は自ら他方のうちにあったからである。つまり、他方のうちでのこの自らの存在を廃棄し、したがってまた他方を自由にしてやるからである。だが、他方の自己意識と関係している自己意識のこの運動は、いま言ったように、《一方のものの行為》と考えられていた。とはいえ、一方のもののこの行為は、それ自身、《自己の行為》でありまた《他者の行為》であるという、二重の意味をもっている。なぜならば、他方もやはり独立であり、自分で完結しており、自己自身によらないであるようなものは、他方のなかには何もないからである。初めの自己意識は、さしあたり、欲求に対して在るにすぎないような対象を、相手にしているのではなく、それ自身で存在する独立な対象を相手にしているのである。それゆえ、初めの自己意識がこの対象にしかけることを、この対象が自分自身でもしかけない場合には、自己意識も自分ではその対象に対し何もしかけることはできない。だからこの動きは、端的に言って、両方の自己意識の二重の動きなのである。各々は、自分が行うことと同じことを、《他方》が行うのを見る。各々は、自分が他者に求めることを自分でやる。それゆえ、各々は、他者が同じことを行う限りでのみまた、自分の行うことを行う。起ってくるはずのことは、両方によってのみ起りうるのであるから、一方だけの行為は役に立たないであろう。したがって、行為が二重の意味のものであるのは、《自分に対する》ものであり、また《他方に対する》ものでもあるという限りでだけのことではなく、分かたれることなく、一方の行為であるとともにまた他方の行為でもある限りでのことである。この運動においてわれわれは、〔悟性において〕両力のたわむれとして現われた過程が、繰り返されるのを見るわけである。ただし、このここでのたわむれは意識のなかで行われる。前のたわむれの場合には、われわれにとって行われたことが、ここでは両方の極自身〔二つの自己意識〕にとって行われる。媒語〔中間〕は、両極に自ら分裂する自己意識である。各々の極は、その規定態を交換し、その対立極に絶対的に移行する。各々は、意識としてたしかに《自分の外に》出るのではあるが、その自己外存在にいながら、同時に自分にもどされたままである。つまり《自分だけで》ある。そして自らの自己外は《各々の極に対して》いる。各々はそのまま他方の意識《であり》また《ない》ということが、各々に対してある。同じように、この他方は、自分だけで〔対自的に〕あるものとしての自分を廃棄し、他者〔一方〕の自分だけでの有〔対自存在・自独存在〕においてのみ、自分だけでいることによって初めて、自分だけであるということが、各々に対してある。各々は他方にとり媒語であり、この媒語によって各々は自己を自己自身と媒介し、自己自身と結ばれる。各々は、自己にとっても他方にとっても、直接の〔無媒介の〕、自分で存在する実在であり、これは同時にこの媒介によってのみ、そのように自分だけで〔対自的で〕ある〔自分に対している〕。両方は、《互いに他方を認めて》いるものとして、互いに《認め》合っている。承認というこの純粋概念、自己意識をその統一において二重化するというこの純粋概念の過程が、自己意識にとりどういうふうに現われるかということが、ここで考察されねばならない。初めに、この過程は、両方が《等しくない》という側面を表わす、つまり、媒語が両極のなかに歩み出てくることを、両極は極としては対立しているが、一方はただ承認されるだけなのに、他方はただ承認するだけであるという形で、歩み出てくることを表わす」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.219~222」平凡社ライブラリー)
ローダは、ヘーゲルを通して見る限り、鏡の承認機能を必要としており、同時に鏡の承認機能を排除したい、少なくとも遠ざけておきたいという矛盾の中にいる。そしてこのことはローダの「ぼんやり性」と無縁ではない。むしろローダは「ぼんやり性」に《なる》とき、ふだんは目に見えない「幻覚的な夢の生」を夢見ている(生きている)。後のセンテンスでも出てくるのでそのときにもう少し詳しく触れたい。今は次の文章を引用するに留める。
「自らの生活を生きるかわりに《夢みる》ような人間は、おそらくはそのようにしてありとあらゆる瞬間に、過ぎ去ったじぶんの物語にぞくする無限な細部のひとつひとつをその視界のうちに留めておくことだろう。たほうその反対にこうした記憶を、そこから生まれてくるいっさいのものとともに撥(は)ねつけようとするひとであれば、じぶんの生活をたえず《演じて》、それを真に表象することはないはずである。そのひとは意識をもつ自動人形のように、有用な習慣の坂をくだるのであって、その習慣とは刺戟を適切な反応へと繰りのべる〔だけの〕ものなのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.307~308」岩波文庫)
だから、貨幣もまた或る種の「夢」なのだ。というのは、その価値は常に変動しているからである。むしろ変動しないわけにはいかない。ゆえに貨幣は貨幣価値を持つといえる。しかしその余りにも危うい浮動性によってもまた貨幣は貨幣価値としての適性を有するわけだが。ところがこの柔軟性は貨幣に唯一のものではない。柔軟性でありなおかつ一般性でもあるという意味では言語もまたそうだ。そして性もまたそうだということを常に頭の中で表象しておかないことには、作品「波」を読み進めるに当たって困難が続出すること間違いない。ローダはベルクソンのいう「逆円錐」におけるSからABのあいだを間断なく移動する「夢見る流通貨幣」として登場しているというべきだろう。
BGM