資本の流れは、ではなぜ、資本の「流れ」として述べることができるのだろうか。それは「分離・分裂」することもまた同時に可能である。「創造的」という言葉で有名なベルクソンはこう述べる。まず、「流れ」について。
「《生命とは、発達した有機体を媒介しながら胚から胚へと移りゆく、ある流れであるように見える》。あたかも有機体それ自身は、新しい胚へみずからを引き継がせようとする古い胚によって突き出される、こぶや芽のようなものでしかないように、すべては進行している。本質的なのは、無際限に続く進展の連続であって、可視的有機体は各々、生きるように与えられた短い時間、この不可視の進展にまたがるのである」(ベルクソン「創造的進化・P.49」ちくま学芸文庫)
だから、生命とは特定の目的を持たない。ただ単に無目的に進展していく「流れ」である。特定の新種の発生は持続的エネルギーの或る種の「爆発」に見えるが、それはこれまたただ単に「流れ」からの「分離・分裂」に過ぎない。
「《生命は、要素の結合や累積ではなく、分離や分裂によって、仕事を進める》」(ベルクソン「創造的進化・P.121」ちくま学芸文庫)
むしろ人間は何ら固定されることなく、むしろ逆に不断の変化の中を変化そのものとして実在するのだ。アルトーが特定の身体の中に有機体として閉じ込められたと告発するように。実は「人は絶え間な」い「変化」なのだというように。
「実は、人は絶え間なく変化しており、状態そのものがすでに変化なのである」(ベルクソン「創造的進化・P.19」ちくま学芸文庫)
「存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは無際限に自分を創造することである」(ベルクソン「創造的進化・P.25」ちくま学芸文庫)
そしてマルクスのいう「労働力」の「抽象的人間労働としてもっている共通な性格への還元」が可能なのはなぜだろうか。それぞれに違った「差異的」な労働力ではあるが、それがなぜ社会共通の「一般性」を受け取ることができるのか。
「私的諸労働がそれら自身の生産者たちのさまざまな欲望を満足させるのは、ただ、特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと交換可能であり、したがってこれと同等と認められるかぎりでのことである。互いにまったく違っている諸労働の同等性は、ただ、諸労働の現実の不等性の捨象にしかありえない。すなわち、諸労働が人間の労働力の支出、抽象的人間労働としてもっている共通な性格への還元にしかありえない」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.137」国民文庫)
この「捨象」ができるのは量的差異が先にあるのではなく、むしろ根源のわからない過去から未来永劫に渡って存続していくだろう等質的持続の「流れ」が常にあるからに違いない。労働力がその一部分をなすような実在的持続の「流れ」こそがそもそも「無方向的・無目的」な「流れ」としてあり、だから、その一部分を切り取って労働力として利用できるのにほかならない。この「流れ」は同時にグローバル化した資本主義の「流れ」である。それは「分離・分裂」によって何にでも変換可能だ。可視化されて見えているのはそのほんの一部分に過ぎない。或る立場からその流れを瞬間的に切り取って見ればそれはなるほど物体Aに見える。また別の或る立場からその流れを瞬間的に切り取って見ればそれはなるほど物体Bあるいは根性Cに見えもするという程度の問題に過ぎない。だが資本増殖について、なぜ資本は増殖するのか。流通過程における商品と労働力商品の自己実現によって可能になる。労働力は持続的実在の「流れ」をそれぞれの労働現場での労働形態という鋳型へ流し込む限りで労働力として機能する。しかしそれが資本増殖として実現されるのはただそれが貨幣と交換される限りにおいてである。増殖はただ単なる商品交換ではなく、商品(価値と剰余価値とを含む)と貨幣とが交換されるや否や実現される。
それにしても、「流れを瞬間的に切り取って見る」、とは一体どういうことか。
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
この「瞬間的」に切り取られた「見え・眺め」が、逆にそれを見た側の人々のそれぞれの立場(観念論者、唯物論者、機械論者、目的論者、現象学者、実存主義者、構造主義者、ポスト構造主義者、宗教者、オカルティストなど)を決定するのだ。しかし「売れ残り」に関して、前に述べた問題は依然として残されたままである。
「それから強情が現われてくるが、これは本来永遠者の力による絶望である、換言すれば人間が絶望的に自己自身であろうとして自己のうちなる永遠者を絶望的に濫用するのである。強情が永遠者の力による絶望であるというちょうどそのために、彼は或る意味では非常に真理の近くにある、ーーーだが彼が真理の側に非常に近くあるというちょうどそのために、彼は無限に真理から遠く隔たっている」(キルケゴール「死に至る病・P.111」岩波文庫)
ここでいう「永遠者」はかつての「神」にとってかわって君臨する「資本主義」であるということができる。資本主義の流れの中で「絶望的に自己自身であろうと」して自己アピールを繰り返すのが商品という形態に置かれた労働力である。それは今や「永遠者」となった「資本主義」の流れの中で自己実現を実現しようと絶望的に自己アピールするけれども、「売れ残る」。商品あるいは労働力商品であるそれら諸商品は貨幣と交換されない限り、自己を実現することは絶対的にできない。それが資本主義社会の「真理」である。しかし諸商品のうちの幾らかはすでに売れ残されており、したがって廃棄処分されるほかない。貨幣との交換が実現されない以上、それは何ものでもない。もしたとえ人間の労働力なしにはけっして成立不可能だった商品だとしてもなお、それが商品である限り、売れなければそれは何ものでもなくなる。
「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)
この「むだ」。「むだ」になるにもかかわらず常に「むだ」を生産し続ける今のシステムにはもっと注意深い吟味・検討が加えられてしかるべきだろう。
なお、濫用されている「男性脳/女性脳」の区別が本当にあるという証拠不十分な言説について。
むしろ今の脳科学自体が何年か前にベストセラーを記録した茂木健一郎の著作におけるように、そもそも端緒に付いたばかりの状態が引き続いているような研究環境にある。さらにAI研究というものは、そのようなレベルでしかない脳科学の専門家から見ても脳科学研究の置かれた研究環境よりもさらに遥かに遠い端緒のそのまた端緒に付いたばかりであるとしかおもえないしそうとしか言えないレベルでしかない。そのような極めて根拠薄弱なフィールドから無責任にも発生してきた「男性脳/女性脳」という疑似的科学思想。疑いを持たないほうがどうかしている。もし仮に労働現場で本当に「女性脳」があるとしよう。しかしレストランとかスーパーとかのトイレ掃除・調理場などでは男性が随分手早く活躍していることは誰でも知っている。公共の場ではもう見慣れてしまった光景が打ち広がっている。もはや明らかだがトイレ掃除・調理場・衛生管理・ドライクリーニングなど家事労働に相当する作業の効率性に性別の差は何ら見られない。さらに女性の場合、妊娠・出産に伴う生物学的変化が認められるが、それはあくまで生物学的変化なのであって、心理学的変化はもちろん多種多様である。妊娠したからといってすべての女性が喜ぶわけではないしむしろ「喜び」を「演じなければならなかった」苦痛に満ちた女性の告白が多く公表されるようになってきた。また、出産したため乳房から乳が出るようになるのは心理学的変化ではなく生物学的変化の次元に留まる。出産に伴う乳房の変化に対する女性の感情は「嫌悪」とか「自罰意識」とか(より一層内向した場合は「産後の乳幼児虐待」すらへと向かう)を含めると実に様々なのであって、けっして一定しない。むしろ不安定というべきだろう。「産後うつ病」は有名だが最近では「産前うつ病」としか考えられない症状を呈する女性の存在もだんだん知られるようになってきた。そしてそれら観察されうる幾つかの変化は、いわゆる「男社会」が都合よく勝手に「母性」と呼び後付けたに過ぎない政治的世論誘導的イデオロギーとは何の関係もない。「男性脳/女性脳」の区別自体ナンセンスなのだ。家事労働に関して「女性脳」より「男性脳」のほうが約三倍遅いという殺人的イデオロギーの流行は、一般社会の様々なシーンにおいて既に誤りであるということが判明している。性的役割分担という思想はただ単に「反復」と「習俗」の結果でしかない。そしてこの結果はテクノロジーの導入によるさらなる新しい「反復」と「習俗」によって逆転し転倒し更新され、性別に関係のない個別的諸労働の一つとしてばらばらに解体されていくのだ。
「習得としての反復」について。
「反復される努力は、それがつねにおなじものを再生するにすぎないならば、いったいなんの役にたつというのだろう。反復がほんとうに効果を有しているとするなら、それはまず《分解し》、つぎに《ふたたび合成し》ながら、かくて身体という知性に語りかけるところにある。反復は、それがあらたにこころみられるたびごとに、ふくまれていた運動を展開し、そのつど身体の注意をあらたな細部に対して呼びおこすが、その細部はそれまでは気づかれずに生起していたものなのである。反復は身体に分割させ、分類させる。かくて身体に対して、なにが本質的なことがらであるかを強調してみせるのだ。反復は、全体的な運動のうちに一本一本、内的構造をしるしづける輪郭線を見いだしてゆく。この意味で運動は、身体がそれを理解したときに習得されたといえるのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.220~221」岩波文庫)
この「習得としての反復」は性的役割分担というありもしない「習俗」をあたかも遠い過去から真実としてあったかのように見せかけている近現代の政治思想を打ち破るに十分だろうとおもわれる。さらにニーチェは「習俗」の徹底化によって一体誰が「犠牲」となってきたかをあますところなく論じている。なぜ「ありもしない習俗」なのか。簡単だ。特に日本で水稲農耕は紀元前四世紀頃から約二〇〇〇年に渡って男女両方ともが一緒に行う共同作業として成立してきたし、逆に性的役割分担などというイデオロギー(ありもしない習俗)はもっとずっと後の明治維新を境界線として大日本帝国が天皇の権威を借りて創設した政治的思想だからである。
「『習俗とその犠牲』。ーーー習俗の起源は、次の二つの思想に帰着する、ーーー『団体は個人よりもいっそう価値がある』という思想と、『永続的な利益は一時的な利益に優先すべきである』という思想である。そして、これから、団体の永続的な利益は個人の利益、とくにその刹那的な満足よりも、しかしまた個人の永続的な利益やその生命の存続すらよりも、無条件に優先すべきであるという結論がでてくる。いまや、全体を益するための或る制度で個人が苦しもうと、また彼がそのために委縮し、そのために破滅してゆこうとーーー習俗は維持されねばならず、またそのためには犠牲が供されねばならない。しかし、このような心的態度が《生ずるのは》、自らは犠牲となることの《ない》連中においてだけである、ーーーなぜなら、犠牲者の方は、<個人は多数者よりも貴重なものであり得る>、同様に、<現在の享受、天国にあるこの一刹那は、苦しみのない、あるいは安楽な状態の無気力な持続よりもおそらくいっそう高く評価されるべきである>という意見を主張するからである。しかし、犠牲獣のこの哲学は、いつも叫ばれることあまりにも遅きに失している。だから彼らはいつまでたっても習俗や《道徳性》にしばられたままである。人びとは習俗の下で生き、習俗の下で教育された、ーーーしかも個人としてではなく、全体の分岐として、多数派の符牒として教育された。そして道徳性とはこのもろもろの習俗の総体や本質に寄せる感情にすぎないのである。ーーーかくして絶えず個人は、その道徳性を媒介として、自己自身を《多数派化》してゆく結果になる」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・八九・P.73~74」ちくま学芸文庫)
こうある。「習俗は維持されねばならず、またそのためには犠牲が供されねばならない。しかし、このような心的態度が《生ずるのは》、自らは犠牲となることの《ない》連中においてだけである」と。
にもかかわらずなぜ今頃になって性的役割分担などというかび臭いイデオロギーを「脳科学」とか「AI研究」とかいった未成熟な言葉を持ってくることでわざわざ流行させたりするのだろうか。そもそも性行為にしてからが人間と動物とは異なることがすでに十九〜二十世紀の時点で問われていたというのに。
「たいていの人にとって、『意識的』ということは『心的』ということと同じなのですが、われわれは『心的』という概念を広げようと企てて、意識的でない心的なものを承認する必要に迫られたのでした。これとまったく類似していることですが、他の人たちは『性的』と『生殖機能に属している』ーーーあるいはもっと簡単に言おうと思うなら『性器的』ーーーとを同一視していますが、われわれは、『性器的』でない、すなわち生殖とはなんの関係もない『性的』なものを承認せざるをえないのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.9」新潮文庫)
「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八九六・P.491」ちくま学芸文庫)
或る種の動物とか或る種の植物の場合、交尾期かそれに相当する時期はほぼ決まっている。しかし人間はそうではない。たぶん人間の場合何かが狂っているのだ。おそらく、人間の場合、誰の内部にも持っているわずかな「狂気」こそがいわゆる「一粒の塩」と取り違えられて運動しているのである。そして人間は常に既に運動と解された「進行」しかしていない。
「私たちがここで関わっているのは、《物》ではなく、《進行》なのだ」(ベルクソン「時間と自由・P.134」岩波文庫)
BGM
「《生命とは、発達した有機体を媒介しながら胚から胚へと移りゆく、ある流れであるように見える》。あたかも有機体それ自身は、新しい胚へみずからを引き継がせようとする古い胚によって突き出される、こぶや芽のようなものでしかないように、すべては進行している。本質的なのは、無際限に続く進展の連続であって、可視的有機体は各々、生きるように与えられた短い時間、この不可視の進展にまたがるのである」(ベルクソン「創造的進化・P.49」ちくま学芸文庫)
だから、生命とは特定の目的を持たない。ただ単に無目的に進展していく「流れ」である。特定の新種の発生は持続的エネルギーの或る種の「爆発」に見えるが、それはこれまたただ単に「流れ」からの「分離・分裂」に過ぎない。
「《生命は、要素の結合や累積ではなく、分離や分裂によって、仕事を進める》」(ベルクソン「創造的進化・P.121」ちくま学芸文庫)
むしろ人間は何ら固定されることなく、むしろ逆に不断の変化の中を変化そのものとして実在するのだ。アルトーが特定の身体の中に有機体として閉じ込められたと告発するように。実は「人は絶え間な」い「変化」なのだというように。
「実は、人は絶え間なく変化しており、状態そのものがすでに変化なのである」(ベルクソン「創造的進化・P.19」ちくま学芸文庫)
「存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは無際限に自分を創造することである」(ベルクソン「創造的進化・P.25」ちくま学芸文庫)
そしてマルクスのいう「労働力」の「抽象的人間労働としてもっている共通な性格への還元」が可能なのはなぜだろうか。それぞれに違った「差異的」な労働力ではあるが、それがなぜ社会共通の「一般性」を受け取ることができるのか。
「私的諸労働がそれら自身の生産者たちのさまざまな欲望を満足させるのは、ただ、特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと交換可能であり、したがってこれと同等と認められるかぎりでのことである。互いにまったく違っている諸労働の同等性は、ただ、諸労働の現実の不等性の捨象にしかありえない。すなわち、諸労働が人間の労働力の支出、抽象的人間労働としてもっている共通な性格への還元にしかありえない」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.137」国民文庫)
この「捨象」ができるのは量的差異が先にあるのではなく、むしろ根源のわからない過去から未来永劫に渡って存続していくだろう等質的持続の「流れ」が常にあるからに違いない。労働力がその一部分をなすような実在的持続の「流れ」こそがそもそも「無方向的・無目的」な「流れ」としてあり、だから、その一部分を切り取って労働力として利用できるのにほかならない。この「流れ」は同時にグローバル化した資本主義の「流れ」である。それは「分離・分裂」によって何にでも変換可能だ。可視化されて見えているのはそのほんの一部分に過ぎない。或る立場からその流れを瞬間的に切り取って見ればそれはなるほど物体Aに見える。また別の或る立場からその流れを瞬間的に切り取って見ればそれはなるほど物体Bあるいは根性Cに見えもするという程度の問題に過ぎない。だが資本増殖について、なぜ資本は増殖するのか。流通過程における商品と労働力商品の自己実現によって可能になる。労働力は持続的実在の「流れ」をそれぞれの労働現場での労働形態という鋳型へ流し込む限りで労働力として機能する。しかしそれが資本増殖として実現されるのはただそれが貨幣と交換される限りにおいてである。増殖はただ単なる商品交換ではなく、商品(価値と剰余価値とを含む)と貨幣とが交換されるや否や実現される。
それにしても、「流れを瞬間的に切り取って見る」、とは一体どういうことか。
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
この「瞬間的」に切り取られた「見え・眺め」が、逆にそれを見た側の人々のそれぞれの立場(観念論者、唯物論者、機械論者、目的論者、現象学者、実存主義者、構造主義者、ポスト構造主義者、宗教者、オカルティストなど)を決定するのだ。しかし「売れ残り」に関して、前に述べた問題は依然として残されたままである。
「それから強情が現われてくるが、これは本来永遠者の力による絶望である、換言すれば人間が絶望的に自己自身であろうとして自己のうちなる永遠者を絶望的に濫用するのである。強情が永遠者の力による絶望であるというちょうどそのために、彼は或る意味では非常に真理の近くにある、ーーーだが彼が真理の側に非常に近くあるというちょうどそのために、彼は無限に真理から遠く隔たっている」(キルケゴール「死に至る病・P.111」岩波文庫)
ここでいう「永遠者」はかつての「神」にとってかわって君臨する「資本主義」であるということができる。資本主義の流れの中で「絶望的に自己自身であろうと」して自己アピールを繰り返すのが商品という形態に置かれた労働力である。それは今や「永遠者」となった「資本主義」の流れの中で自己実現を実現しようと絶望的に自己アピールするけれども、「売れ残る」。商品あるいは労働力商品であるそれら諸商品は貨幣と交換されない限り、自己を実現することは絶対的にできない。それが資本主義社会の「真理」である。しかし諸商品のうちの幾らかはすでに売れ残されており、したがって廃棄処分されるほかない。貨幣との交換が実現されない以上、それは何ものでもない。もしたとえ人間の労働力なしにはけっして成立不可能だった商品だとしてもなお、それが商品である限り、売れなければそれは何ものでもなくなる。
「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)
この「むだ」。「むだ」になるにもかかわらず常に「むだ」を生産し続ける今のシステムにはもっと注意深い吟味・検討が加えられてしかるべきだろう。
なお、濫用されている「男性脳/女性脳」の区別が本当にあるという証拠不十分な言説について。
むしろ今の脳科学自体が何年か前にベストセラーを記録した茂木健一郎の著作におけるように、そもそも端緒に付いたばかりの状態が引き続いているような研究環境にある。さらにAI研究というものは、そのようなレベルでしかない脳科学の専門家から見ても脳科学研究の置かれた研究環境よりもさらに遥かに遠い端緒のそのまた端緒に付いたばかりであるとしかおもえないしそうとしか言えないレベルでしかない。そのような極めて根拠薄弱なフィールドから無責任にも発生してきた「男性脳/女性脳」という疑似的科学思想。疑いを持たないほうがどうかしている。もし仮に労働現場で本当に「女性脳」があるとしよう。しかしレストランとかスーパーとかのトイレ掃除・調理場などでは男性が随分手早く活躍していることは誰でも知っている。公共の場ではもう見慣れてしまった光景が打ち広がっている。もはや明らかだがトイレ掃除・調理場・衛生管理・ドライクリーニングなど家事労働に相当する作業の効率性に性別の差は何ら見られない。さらに女性の場合、妊娠・出産に伴う生物学的変化が認められるが、それはあくまで生物学的変化なのであって、心理学的変化はもちろん多種多様である。妊娠したからといってすべての女性が喜ぶわけではないしむしろ「喜び」を「演じなければならなかった」苦痛に満ちた女性の告白が多く公表されるようになってきた。また、出産したため乳房から乳が出るようになるのは心理学的変化ではなく生物学的変化の次元に留まる。出産に伴う乳房の変化に対する女性の感情は「嫌悪」とか「自罰意識」とか(より一層内向した場合は「産後の乳幼児虐待」すらへと向かう)を含めると実に様々なのであって、けっして一定しない。むしろ不安定というべきだろう。「産後うつ病」は有名だが最近では「産前うつ病」としか考えられない症状を呈する女性の存在もだんだん知られるようになってきた。そしてそれら観察されうる幾つかの変化は、いわゆる「男社会」が都合よく勝手に「母性」と呼び後付けたに過ぎない政治的世論誘導的イデオロギーとは何の関係もない。「男性脳/女性脳」の区別自体ナンセンスなのだ。家事労働に関して「女性脳」より「男性脳」のほうが約三倍遅いという殺人的イデオロギーの流行は、一般社会の様々なシーンにおいて既に誤りであるということが判明している。性的役割分担という思想はただ単に「反復」と「習俗」の結果でしかない。そしてこの結果はテクノロジーの導入によるさらなる新しい「反復」と「習俗」によって逆転し転倒し更新され、性別に関係のない個別的諸労働の一つとしてばらばらに解体されていくのだ。
「習得としての反復」について。
「反復される努力は、それがつねにおなじものを再生するにすぎないならば、いったいなんの役にたつというのだろう。反復がほんとうに効果を有しているとするなら、それはまず《分解し》、つぎに《ふたたび合成し》ながら、かくて身体という知性に語りかけるところにある。反復は、それがあらたにこころみられるたびごとに、ふくまれていた運動を展開し、そのつど身体の注意をあらたな細部に対して呼びおこすが、その細部はそれまでは気づかれずに生起していたものなのである。反復は身体に分割させ、分類させる。かくて身体に対して、なにが本質的なことがらであるかを強調してみせるのだ。反復は、全体的な運動のうちに一本一本、内的構造をしるしづける輪郭線を見いだしてゆく。この意味で運動は、身体がそれを理解したときに習得されたといえるのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.220~221」岩波文庫)
この「習得としての反復」は性的役割分担というありもしない「習俗」をあたかも遠い過去から真実としてあったかのように見せかけている近現代の政治思想を打ち破るに十分だろうとおもわれる。さらにニーチェは「習俗」の徹底化によって一体誰が「犠牲」となってきたかをあますところなく論じている。なぜ「ありもしない習俗」なのか。簡単だ。特に日本で水稲農耕は紀元前四世紀頃から約二〇〇〇年に渡って男女両方ともが一緒に行う共同作業として成立してきたし、逆に性的役割分担などというイデオロギー(ありもしない習俗)はもっとずっと後の明治維新を境界線として大日本帝国が天皇の権威を借りて創設した政治的思想だからである。
「『習俗とその犠牲』。ーーー習俗の起源は、次の二つの思想に帰着する、ーーー『団体は個人よりもいっそう価値がある』という思想と、『永続的な利益は一時的な利益に優先すべきである』という思想である。そして、これから、団体の永続的な利益は個人の利益、とくにその刹那的な満足よりも、しかしまた個人の永続的な利益やその生命の存続すらよりも、無条件に優先すべきであるという結論がでてくる。いまや、全体を益するための或る制度で個人が苦しもうと、また彼がそのために委縮し、そのために破滅してゆこうとーーー習俗は維持されねばならず、またそのためには犠牲が供されねばならない。しかし、このような心的態度が《生ずるのは》、自らは犠牲となることの《ない》連中においてだけである、ーーーなぜなら、犠牲者の方は、<個人は多数者よりも貴重なものであり得る>、同様に、<現在の享受、天国にあるこの一刹那は、苦しみのない、あるいは安楽な状態の無気力な持続よりもおそらくいっそう高く評価されるべきである>という意見を主張するからである。しかし、犠牲獣のこの哲学は、いつも叫ばれることあまりにも遅きに失している。だから彼らはいつまでたっても習俗や《道徳性》にしばられたままである。人びとは習俗の下で生き、習俗の下で教育された、ーーーしかも個人としてではなく、全体の分岐として、多数派の符牒として教育された。そして道徳性とはこのもろもろの習俗の総体や本質に寄せる感情にすぎないのである。ーーーかくして絶えず個人は、その道徳性を媒介として、自己自身を《多数派化》してゆく結果になる」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・八九・P.73~74」ちくま学芸文庫)
こうある。「習俗は維持されねばならず、またそのためには犠牲が供されねばならない。しかし、このような心的態度が《生ずるのは》、自らは犠牲となることの《ない》連中においてだけである」と。
にもかかわらずなぜ今頃になって性的役割分担などというかび臭いイデオロギーを「脳科学」とか「AI研究」とかいった未成熟な言葉を持ってくることでわざわざ流行させたりするのだろうか。そもそも性行為にしてからが人間と動物とは異なることがすでに十九〜二十世紀の時点で問われていたというのに。
「たいていの人にとって、『意識的』ということは『心的』ということと同じなのですが、われわれは『心的』という概念を広げようと企てて、意識的でない心的なものを承認する必要に迫られたのでした。これとまったく類似していることですが、他の人たちは『性的』と『生殖機能に属している』ーーーあるいはもっと簡単に言おうと思うなら『性器的』ーーーとを同一視していますが、われわれは、『性器的』でない、すなわち生殖とはなんの関係もない『性的』なものを承認せざるをえないのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.9」新潮文庫)
「生殖は、性欲の《或る》種の満足の、一つの往々生じる偶然的な帰結であって、性欲の意図では《ない》のだ、性欲の必然的な結果ではないのだ。性欲は生殖とはいかなる必然的な関係をももってはいない。たまたま性欲によってあの成果がいっしょに達成されるのだ、栄養が食欲によってそうされるように」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八九六・P.491」ちくま学芸文庫)
或る種の動物とか或る種の植物の場合、交尾期かそれに相当する時期はほぼ決まっている。しかし人間はそうではない。たぶん人間の場合何かが狂っているのだ。おそらく、人間の場合、誰の内部にも持っているわずかな「狂気」こそがいわゆる「一粒の塩」と取り違えられて運動しているのである。そして人間は常に既に運動と解された「進行」しかしていない。
「私たちがここで関わっているのは、《物》ではなく、《進行》なのだ」(ベルクソン「時間と自由・P.134」岩波文庫)
BGM