白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「灯台へ」/美の犯罪2

2019年04月11日 | 日記・エッセイ・コラム
タンズリーは冴えない哲学者である。たぶん普段から学生らにも馬鹿にされている。タンズリー自身、そのことをある程度察しているのだろう。そのぶん、大学から離れたところで、タンズリーは落ち着いてラムジー夫人ではなくラムジー夫人の言葉について考えることができた。

「タンズリーは、夫人がほのめかしているのは、あの男の絵が《貧弱な》ーーーこんな表現でいいかなーーーものだということか、彼の色彩が《堅固でない》ーーーこの言い方はどうだろうーーーということなのか、と考えこんだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.24」岩波文庫)

タンズリーが考える「色彩が《堅固でない》」という表現。それはおそらく正しい。色彩だけでなくその形式も「堅固だった」時代はとうに過ぎたのだ。今や資本主義的再生産ー拡大再生産の時代である。オリジナルなものは消え、シミュラクル(模倣)とシミュレーション(複製)が日常のあらゆるシーンを支配している。ホフマンスタールに言わせれば「たいがいの顔はぼやけ」ており「そのいずれにも確信が欠け」ている、という戸惑いとして感じられるほかない《あいだ》の出現。そしてこの《あいだ》は常に「ーーーとーーーとーーーとーーー」という始まりも終わりもない横断的運動として今やますます速度を増して進行している。

「たいがいの顔はぼやけ、自由豁達(じゆうかつたつ)でなく、多種多様のことが書きしるされてはいるものの、そのいずれにも確信が欠け、崇高さが欠けている」(ホフマンスタール「帰国者の手紙」『チャンドス卿の手紙・P.188』岩波文庫)

ところでタンズリーは、自分がなぜラムジー夫人に惹かれるのか、ようやくわかりかけてくる。

「ちょうどガーター勲章の青リボンをつけたヴィクトリア女王の肖像画の真ん前あたりで、静かに身じろぎもせず彼女は立っていた。その時突然、これだ、これこそが夫人の秘密なんだ、とタンズリーは気がついた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.25~26」岩波文庫)

簡単にいえば、ラムジー夫人には「ヴィクトリア」王朝時代の貴族的女性に特有の気品が残されており、それをタンズリーは彼女独特の「美」として捉えることで、「これ」ーーーヴィクトリア王朝時代の美ーーー「こそが夫人の秘密なんだ」と非論理的な混乱のうちに信仰対象へと格上げする。格上げしようがしまいがそれこそタンズリー自身の勝手だ。しかし彼は夫人独特の気品をどこから受け取っているだろうか。たとえばそれは「勲章」といっても「ガーター」でなければならず、「青」い青くないにかかわらずそれは「リボン」でなくてはならず、あくまでそれらを身にまとった上で堂々たる肉体として出現しなくてはならない。言うまでもなく「ガーター」は近代以降どこの性風俗店でも見られる「ガーターベルト」としてSM的風景を演出する性行為には欠かせない女性の太腿あたりで使用される「勲章」=「記号」としての「ガーター」である。また「リボン」は髪型の不可避的変化を通して女性を異形の存在へと変身させるばかりか、ときには「首輪」として有効に機能する性的装束の重要なポイントをなす。タンズリーの中ではこの上ない気品とこの上ない性風俗とこの上ない性的装束とが一体として彼の欲望の対象と化しているといわねばならない。

「チャールズ・タンズリーはこの上なく誇らしかった。風がそよぎシクラメンがほころびスミレの花が香ったーーーなぜなら彼は、生まれて初めて美しい女性と歩いていたのだから。いま彼女の大事なバッグは、間違いなく彼の手の中にあった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.26」岩波文庫)

ラムジー夫人がいつも手に持っている「バッグ」だが、それが今はタンズリーの「手の中にあった」。タンズリーはラムジー夫人の象徴の一つである「バッグ」を所有している。「バッグ」を偏愛している。象徴の一つを所有するとは、少なくともタンズリーにとって、すでに彼女を手に入れたも同然だった。タンズリーはラムジー夫人を、ではなく、彼女の気品を、彼女の性風俗的「ガーター」を、彼女の「首輪」としての性的装束を、愛していたのだ。ただ単なる恋愛感情ではないと述べたのはそういう意味においてである。恋愛感情というよりも「フェチ」なのだ。フェチ対象としてラムジー夫人はそれら性風俗的衣装を身にまとった姿へ衣替えした「ヴィクトリア女王」に《なる》。年齢性別国籍職業を問わず周囲の大勢から尊敬を集めて止まない彼女は間違いなく性風俗的フェティシズムの満足を与える女性として「ヴィクトリア女王」なのだ。

さて、ラムジー夫人は息子のことを考える。

「今ジェイムズにしてあげられることといえば、彼の切り抜いた冷蔵庫をほめ、さらに百貨店のカタログのページをめくって、熊手や芝刈り機など、突き出た部分や取っ手があって、切り抜くのに十分な技術と注意が要りそうな絵をさがしてあげることだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.28」岩波文庫)

もちろんジェイムズはナイフを用いて「切り抜く」のだが、「切り抜く」に際して、母親であるラムジー夫人は「十分な技術と注意が要りそうな絵をさがして」やる。このことは子どもの「サディズム」を育む有効な方法だが、それは同時に子どもへの教育的配慮でもある。普段それは学校の仕事だ。

「フリッツには、彼が《文字を書いて》いる時には、行は道を意味し、文字はその道ーーーいわばペンーーーの上を二輪車に乗ることを意味していた。例えば‘i’と‘e’は1台の二輪車に乗って一緒に走っていてーーー‘i’が通常運転していたが──現実の世界ではまったく見ることのできないような優しさで、2人はお互いに愛しあっていた。というのは、2人はいつも互いに一緒に乗っているので、大変似てきてお互いの相違もほとんどなくなってしまっていた。というのは、‘i’と‘e’は初めも終りも同じであり、ーーー彼はラテン語の小文字アルファベットの話をしているのだがーーー‘i’は真ん中に小さなストロークをもっており、‘e’は小さな穴をもっているだけであった。ゴシック文字の‘i’と‘e’は、彼によると、それらは1台の二輪車に乗っているが、ゴシックの‘e’は、小さな箱をもっているのに対して、ラテン語の<e>は小さな穴をもっているといった別の型の二輪車のような違いにすぎなかった。‘i’たちは、非常に技術がうまくて優れて賢いし、たくさんの武器をもち、洞穴ーーーその間には多くの山や庭や港があるがーーーに住んでいた。それらはペニスを意味し、それらの道は性行為を意味していた。一方、‘I’たちは、バカで無器用でなまけもので汚いことを意味していた。彼らは地下の穴で生活していた。‘L’の街では、ゴミと紙が道路に集まっていた。ーーーその小さな‘汚ならしい’家々の中では、‘I’の国で買った染料を水とまぜて、ワインとして飲んだり売ったりしていた。彼らはうまく歩くことができず、鍬を反対にもっているので掘ることもできない、といった具合であった。‘I’という文字はいわば糞便を意味していることもわかった。このように、いろいろな空想が他の文字に対しても話された。かくて、彼は、空想がこの制止の説明と解釈を与えてくれるまで、2つ続く‘S’を書けなくて、いつも1つだけ書いていた。‘S’の1つは彼自身であり、他は彼の父親であった。彼らはモータボートに乗って一緒にでかけた。というのも、ペンはまたボートを意味しており、ノートは湖を意味していたからである。彼自身である‘S’は、他の‘S’が所有しているボートに乗り込んで、すばやく湖に船出していった。これが、なぜ彼が2つ続きの‘S’を同時に書けなかったかの理由であった。彼は長い‘S’の代わりによく普通の‘S’を使ったが、それは、こうして取り残された長い‘S’の部分は彼にとっては‘人の鼻を持ち去られるようなもの’、という事実に基づいて決定されていたことがわかった。この誤りが父親に対する彼の去勢願望のためであることがわかったので、そう解釈すると、その誤りは消失した」(メラニー・クライン「子どものリビドー発達における学校の役割」『メラニー・クライン著作集1・P.75~76』誠信書房)

「フリッツの場合も、エルンストと同じく、あらゆる学校活動の基礎である読み書きに関する制止は、簡単な‘上り下り’(up and down)をもった書き方の基礎をなす‘i’という文字に始まっていたことを観察することができた」(メラニー・クライン「子どものリビドー発達における学校の役割」『メラニー・クライン著作集1・P.78』誠信書房)

この作業、「読むこと」と「書くこと」、についてデリダはこう述べている。

「ここでわれわれがはっきり考えているのは、メラニー・クラインの諸探求の方向に関わるような事柄である。その一例は、『子供のリビドー的発展における学校の役割』に関する試論の中に見られるであろう。この試論は、臨床学的見地から、<読むこと>(レクチュール)と<書くこと>(エクリチュール)の作業、文字の産出と操作、等々の担っている積極的信任を喚起している」(デリダ「グラマトロジーについて・上・P.185」現代思潮社)

しかしもともと子どものエネルギーは特定の方向など全然持っていない。むしろ「行き当たりばったり」なのが真相だ。

「動物性を構成するのは、起動装置を使って、できる限り多くの蓄積された潜在エネルギーを『爆発的な』行動に変換する能力である。最初、爆発は、方向を選べず行き当たりばったりに行われる」(ベルクソン「創造的進化・P.157」ちくま学芸文庫)

学校教育はしばしば「爆発的」な「それ」に特定の方向づけをほどこす社会的な機関である。ともあれ、次のセンテンスでラムジー夫人の聴く「波音」は次々と生成変化を遂げて行く。

「波音」は「自然の歌う古い」「子守歌」になり、「激しく太鼓を打ち鳴らすように生命の律動を容赦なく刻みつけ」ることで「永劫回帰するリズム」になり、「この島もやがては崩れ海に没し去ることを教える」ことで「教師」になり、「あれこれの仕事に追われるうちに彼女の人生も虹のように消え去ることを、あらためて思い起こさせもする」ことで歴史家にも《なる》。ところが次のセンテンスでは前後の整合性が合わなくなる。

「そして今、普段はほかの音にまぎれ、隠されているこの波音が、突然夫人の耳に大きくうつろに響きわたり、恐怖に駆られて思わず彼女は目を上げた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.29~30」岩波文庫)

夫人の周囲は様々な人の声とか物音とかでたいそうにぎやかだった。少なくとも「波音」以前は。そして周囲のにぎやかさの中で、一種の静けさを感じながら「波音」の生成変化を聞き届けることで「波音」の変身ぶりを堪能していた。それが「突然夫人の耳に大きくうつろに響きわたり、恐怖に駆られ」る。その理由について周囲の「男たちはすでに話をやめ」、「その沈黙のせいで、波音が大きく聞こえた」とウルフはやや苦しげな弁明を書き付けている。「波音」は「普段はほかの音にまぎれ、隠されている」ものだ。「隠されている」が周囲のにぎやかさの中で聞こえているということ自体、ラムジー夫人は様々に生成変化する「波音」として様々なものへと次々に分身していたのではないか、という疑問が湧くのである。そして周囲はもう静かになっているにもかかわらず、まさにそのとき夫人は、「うつろ」になり「恐怖に駆られ」る。彼女はすでに「波音」になっていた。そして様々な変身を遂げた。しかし「波」は最終的に何になるだろうか。ごく普通に考えたとしてもそれは「永遠」である。人間にとってそれは「死」を意味する。ラムジー夫人は「波音」と化してそれに身を委ねているうちに「波音」の行き着くべきところ、「永遠=死」の「うつろ=空虚」を、その「空虚そのもの」に《なる》ことの「恐怖」を、感じたのではなかったか。なお「うつろ」という感覚について再びホフマンスタールから。ここでも社会的枠組みを決定する社会的文法の溶融が始まっている。

「この四ヶ月間ずいぶん汽車に乗った。ベルリンからライン河畔へ、ブレーメンからシュレージエンへと縦横にだ。すると、いつであれ午後三時、あるいはいつでもいい、ごくありふれた光のもとでおこるのだ。線路の左右の小さな町、あるいは村、工場、風景の全体、丘、畑、林檎の木、散在する家、それらすべてが入りまじり、一つの顔をもち、内側にあってはまったく不確かで実にたちが悪いくらい非現実めいた、独特の曖昧な表情をし、ひどくうつろにーーーこの世ならぬほどうつろになる」(ホフマンスタール「帰国者の手紙」『チャンドス卿の手紙・P.207』岩波文庫)

そしてこれらは全体で一つの多様体であり、「或る一刻」として「此性」をなす。参照しておきたい。「普段はほかの音にまぎれ、隠されている」ものは差し当たり一定の強度を得て「波音」として出現している。ところでそもそも「隠されている」ものとは何なのだろう。ドゥルーズ&ガタリはいう。「流通し循環する」、「強度だけが」と。

「器官なき身体は強度にしか占有されないし、群生されることもないように出来ている。強度だけが流通し循環するのだ。器官なき身体はまだ舞台でも場所でもなく、何かが起きるための支えでもない。幻想とは何の関係もなく、何も解釈すべきものはない。器官なき身体は強度を流通させ生産し、それ自身、強度であり非延長である《内包的空間》の中に強度を配分する。器官なき身体は空間ではなく、空間の中に存在するものでもなく、一定の強度をもって空間を占める物質なのだ。この度合は、産み出された強度に対応する。それは強力な、形をもたない、地層化されることのない物質、強度の母体、ゼロに等しい強度であり、しかもこのゼロに少しも否定的なものは含まれていない。否定的な強度、相反する強度など存在しないのだ。物質はエネルギーに等しい。ゼロから出発する強度の大きさとして現実が生産される」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.314」河出文庫)

ラムジー夫人はジェイムズの教育に励む。カタログの中から随分複雑な「絵」を見つける。「六枚刃のポケットナイフの絵」だ。

「膝の上のカタログに目を落とすと、注意しないとうまく切り抜けないような六枚刃のポケットナイフの絵を、ジェイムズのために見つけてやった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.30」岩波文庫)

所詮は「絵」でしかない、と考えるだろうか。「うまく切り抜」くことができれば「歓喜の縁飾りをもつ」ことができる。「恍惚」のすべてを注ぎ込んで縁取られる「歓喜の縁飾り」に飾られた「六枚刃のポケットナイフの絵」だ。いつそれが本物の「ポケットナイフ」に変わらないと断定できるだろうか。さて、ここで画家・リリー・ブリスコウが登場する。ここでまたウルフのフェミニズムが顔を覗かせる。

「リリーの絵ねえ!とラムジー夫人は微笑んだ。小さな切れ上がった目(チャイニーズ・アイ)をして、ちょっと口をとがらせたような表情で、わたしは結婚なんかしません、と彼女は言うけれど、彼女の描く絵がまともに評価されることは多分ないだろう。それでも独立心旺盛な負けん気の強い女性だから、わたしは好きだわ、と夫人は考え」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.31」岩波文庫)

リリーはバンクスと二人で出かける。もちろん、リリーは絵を描くために。そこへラムジー氏が不意に現われる。

「ラムジー氏は二人をじろりとにらんだ。けれどもどこか《うわの空》で、本当に見えている様子はなかった。そのことに二人は微妙な居心地の悪さを感じさせた。まるで二人揃って見てはいけないものを見てしまい、他人のプライバシーに土足で踏み込んだような気分だった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.34」岩波文庫)

夫人にはナイフにすら見える厳格な夫ラムジー氏。それがどこか「《うわの空》」なのだ。ホフマンスタールはこういっている。

「何本かの木の場合もある。貧相だがよく手入れがしてあり、アスファルトに囲まれた方形の地面に、柵に守られて植わっている木だ。それを眼にすると、それが木を思い起こさせるものであることはわかるーーーだが、けっして木ではないのだーーー、と同時になにかが風のようにぼくのなかを走り抜け、ぼくをまっぷたつにする。永劫の無、永劫の非在から吹きよせる、なんとも言いがたい風。死の息、というよりむしろ生ならぬものの息なのだ。いわくいいがたい」(ホフマンスタール「帰国者の手紙」『チャンドス卿の手紙・P.206~207』岩波文庫)

リリーとバンクスはそんなラムジー氏の姿を見てしまった。「二人揃って見てはいけないものを見てしまい、他人のプライバシーに土足で踏み込んだような気分だった」。秘密の共有。誰もがそれぞれ思いがけず他人の内面を垣間見、覗き込んでしまう。「灯台へ」という作品は、ただ単に「生」と「生成変化」と「伝統とその溶融」だけを主題とする小説ではなく、見てはならない他人の内面を無意識のうちに、なおかつ不意に覗き見してしまわないではおかない「覗き込み/覗き込まれる」交換関係をも丹念に描いている。

またウルフの精神疾患あるいは統合失調症について、何もウルフだけが特別だったわけではない。第一次世界大戦の生存者のうち少なくない数の若年層が多少なりとも精神的変調に見舞われた時期でもあった。以前にはなかった精神病が次々に発見されもした。作品「ダロウェイ夫人」では登場人物・セプティマスの狂気ならびに自殺が象徴的だ。のちに「セプティマスはダロウェイ夫人の分身として持ち出した」とウルフ自身が語っている。二十世紀初頭前後に起こった社会的文法の溶融という次元から見ると、むしろそれは社会の側の統合が失調・解体していた時期に当たってもいるといわねばならないだろう。そしてこのような社会的統合失調期には通例として「新しい問い」が出現してくる。新しい課題が、解決できる形で現われてくる。その間の事情についてマルクスはこういう。

「一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから」(マルクス「序言」『経済学批判・P.14』岩波文庫)

BGM