欲望の一元論。懐かしい言葉だ。人間は「いたるところで諸機械なのである」。そして作品「波」から「そして」と続けてみよう。
「『そして僕も、信じ難いことだが、他人の生涯に入りこみもする』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.57」角川文庫)
どういう理解ができるだろうか。ただ単に他人の記憶の中に保存されるということだけをいっているわけではないだろう。たとえば、ドゥルーズ&ガタリではこう続けることができる。
「いたるところで、これらは種々の諸機械なのである。しかも、決して隠喩的に機械であるというのではない。これらは、互いに連結し、接続して、(他の機械を動かし、他の機械に動かされる)機械の機械なのである。<源泉機械>には、<器官機械>がつながれている。一方の機械は流れを発する機械であるが、他方の機械は、この発せられた流れを切断する機械である。乳房は母乳を生産する機械であり、口はこの機械に連結されている機械である。食思欠損症の口は、いくつかの機械を前にしてためらっている機械である。すなわち、食べる機械であるのか、呼吸する機械であるのか(この場合には喘息の発作が起る)を決めかねているのだ。だから、ひとはすべて何でも器用にこなす存在なのである。各人はそれぞれ自分の小さい種々の機械を具えている。<エネルギー機械>に対して、<器官機械>があることは、常に流れと切断とがあることである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.13」河出書房新社)
何か間違っているだろうか。だからといってこれが正解だといいたいわけではない。こういうことも考えることができるだろうというほんのわずかな示唆に過ぎない。さてしかし、ここで言えようことは、「波」を読むという動きは、読者もまた、欲望する諸機械の部分として機能するほかないということである。少なくとも資本主義社会の中ではそうだといえるし言うべきでもあろう。そしてつい先ほどハイデッガーから長い引用を施しておいたが、それはもちろん作品「波」が次のセンテンスへ導くべく導かれている読者のため以外の何ものでもない。余計なおせっかいなどではまったくない。レーヴィットはこういっている。
「なまえのない、いいがたい、言表しがたく、つかみがたい、聞いたことも書かれたこともなく存在するものが意味するのは、あまりにはっきりしすぎていて、もはや語りにおいては適切に表現されないような存在にほかならない。不安が名状しがたい、あるいは喜びのあまりことばも出ないーーーこういったひとの情態性はあらゆる概念を超えており、ほんらいはつかみがたいとはいえ、完全に明瞭なものであることが理解される場合にのみ、把握される。明瞭な表現にひどく積極的なしかたで事実そのようにあらわれるものは、言語的には欠如的なかたちでだけ概念にもたらされるにしても、人間の感受、気分、情緒、感情、感覚の、特権的な表現なのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.282」岩波文庫)
こうある。「なまえのない、いいがたい、言表しがたく、つかみがたい、聞いたことも書かれたこともなく存在するものが意味するのは」、ハイデッガーから「不安」を感受するとはどのような様態なのかという引用を踏まえた上で、「ほんらいはつかみがたいとはいえ、完全に明瞭なものであることが理解される場合にのみ、把握される」けれども、それは「言語的には欠如的なかたちでだけ概念にもたらされる」ことになる「特権的な表現なのである」。さらに、このような差し当たり言語化できない「不安」あるいは「喜び」は、いわば「地下道」を利用することで理解へといたることができる。
「一者が他者の気分を直接に『理解する』のは、理解しがたいが、なお明瞭に感得されうる、『影響をうける』という、いわば地下道においてである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.283」岩波文庫)
登場人物らは今後、彼とも彼女とも特定できない多様体としてどんどん変容していく。しかし登場人物らはともに理解し合うことができる。それは理解のための「地下道」を共有することで可能になる。こんなふうに。
「或るひとびとは、その者たちの意図のいっさいに反して、たえず互いに語りあうだけでおわってしまう。他方、べつのひとびとは、『造作もなく』互いに理解しあっている。しかも、後者が前者のひとびとよりも明瞭にみずからを表現していたからではない。後者のひとびとが互いに諒解しあう方法は、かれらを共感的にむすびあわせる、地下道によるものだからである。かれらが相互に諒解しあうこの源泉によって、ひとつの語りかたが可能になる。第三者の目には、この語りかたは飛躍に充ち、論理をまったく欠くものと見えるにちがいない。だが、その語りかたは、飛躍し、論理的でなく見えるのとおなじ程度に、その者たち自身にとっては、明瞭で判明なものなのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.287」岩波文庫)
いわゆる「忖度」(そんたく)もまたこの中に含まれることは以前に述べた通りである。事例も前に上げた。誰でも知っているわかりやすいものを、という意味を込めてトルストイから引用したわけだが。
「ナターシャも夫とさし向かいになると、ただ夫婦の間にのみ見られる方法で話を始めた。つまり、推理や演繹(えんえき)や結論を無視して、あらゆる論理の法則にそむきながら、とくべつ明瞭迅速に、互いの思想を理解したり、伝えあったりしはじめたのである。ナターシャはこの方法で夫と語ることに慣れてしまったので、ピエールが論理的な考え方をする時は、かえってそれが二人の間の円満でないことを証明する、もっとも確かな徴候と考えるほどになった。ピエールが理屈っぽい調子で諄々(じゅんじゅん)と話しだす時や、また彼女までが夫の調子につりこまれて、同じようなことをはじめた時などは、それが必ず諍(いさか)いのもとになるということを、彼女はよく知っていた。
二人さしむかいになって、ナターシャがうれしそうに眼を大きく見はりながら、そっと夫のそばへより、だしぬけにすばやくその頭へ手をかけて、自分の胸へぎゅっと締めつけながら、『さあ、今こそあなたはすっかり、すっかりあたしのものよ、あたしのものよ。もう逃がしやしないから』と言った瞬間から、この論理の法則に反した会話がはじまった。実際、一時にさまざまな問題を語るということだけでも、すでに非論理的であった。そういうふうに一時にさまざまな事柄を話しても、相互の明晰な理解を妨げないのみか、かえってそれが完全な理解の確実な表徴となるのであった。
夢の中では、その夢を支配する感情のほか、すべてが不確実で、無意味で、矛盾だらけであるが、それと同様に、あらゆる理性の法則に反したこの思想交換においても、はっきり秩序だっているのは言葉ではなくして、言葉を指導する感情であった」(トルストイ「戦争と平和4・P.455~456」岩波文庫)
そしてこのように一度できた「地下道」は二度も三度も利用されるたびに蘇る。その点についてはスピノザを推奨しておいた。
「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)
以前述べたことと同じ展開になってしまったが、相似はここまでのことだ。むしろ忖度(そんたく)を含め、忖度(そんたく)を蹂躙しつつ、忖度(そんたく)を超越していかなければならない。むずかしいのは、もっとデリケートで、なおかつもっと差異的=微分的要素の取り扱いにかかわる部分になるだろうからである。たとえば、利用しがいがあるのであえて「忖度」(そんたく)という言語を用いるとしても、しかし、それは或る特定のグループなりサークルなりの内部で、「どこ」あるいは「誰」にイニシアティヴがあるかと問われたとすれば答えることができるだろうか。答えは「できない」である。少なくともたった一人だけにイニシアティヴがあったと特定することはできないのだ。もし特定するとすれば、本当に限られた少人数だけを一挙に拘束するほかない。事情はこうだ。
「ふたりあるいはそれ以上の人格の、完全にそれ自身にもとづき、いわば自由に浮動するような圏が可能となる条件は、一者の他者に対する関係にふくまれる両義性が回帰することである。関係はたいていの場合、各人のふるまいが他者に向かい、他者にしたがっているときに回帰する。そのさいしかしながら、《第一義的には》他者から規定されているのであって、したがってたんに共に-規定されているのではない。これに対して回帰が絶対化するのは、両者それぞれの《固有な》ふるまいをみちびくイニシアティヴが、その《根源》を《他者》のうちに有し、そのつどの他者が、じぶんのなすことすべての『原理』である場合である。両者のそれぞれが『ペルソナ』であり個人でないのは、ただたんに、じぶんが関係している当の者によって、各人がじぶん自身を相互回帰的に共-規定するという、《その》意味においてばかりではない。両者のおのおのは第一義的に、《他者のペルソナとして》回帰的に規定されている。このように自立化した関係にあっては、だれにイニシアティヴがあるのかという二者択一はもはや決定不能である。一者が第一義的に他者にしたがうところでは、他者もまたすでに第一義的に、一者にしたがっているからだ。
『相互性』のこうした自立化は、原理的に可能である。それはたしかに人間の関係を徹底して支配するものではないとはいえ、関係において日常的には、現実的なものとしてあらわれる可能性がある。つまり、そのつどの一者のふるまいが第一義的に他者に方向づけられている場合には、いたるところでその可能性があるのである。なるほどそれ自体としては《一者》の願望は他者の願望であるとはいえ、その他者の願望がそれ自身また他方の者の願望に方向づけられている。両者の《おのおの》が第一義的には他方の者に方向づけられている場合、各人のなすことすべてについて、そのイニシアティヴはほんらい一者からも他者からも生じない。両者の《関係そのもの》から生じるのだ。だが事実、或るふるまいをみちびくイニシアティヴは、それが他方の者の『名のもとに』であろうと、それでも一方の側からとらえられるのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.202~203」岩波文庫)
共犯性は「《関係そのもの》から生じる」。だから読者はいつも作品「波」と共演することが大事になってくるだろう。
さて、ジニーは列車の中にいる。列車の窓枠に囲まれた映像を眺める。
「『轟々いうこの急行列車に乗って。それにとってもすっすと走るもんだから、生垣が平らに見えたり、丘などが長っぽく見えたり』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.60」角川文庫)
映画的認識のメカニズムの一部分としてのジニーがいる。むしろジニーはそういう目に《なる》。
「すべての人物に固有なすべての運動から、非人称的、抽象的で単純な運動、いわば《運動一般》を抽出してそれを映写機の中に置く。そして各々の特殊な運動の個別性を、この匿名の運動を人称的な態度と組み合わせることによって再構成するのである。以上が、映画のやり口であり、われわれの認識のやり口でもある。諸事物の内的な生成に貼りつく代わりに、われわれは諸事物の外に身を置いて、それらの生成を人工的に再構成する。われわれは、過ぎゆく持続のほぼ瞬間的な眺めを獲得するのだが、それらの眺めはこの実在を特徴づけるものなので、われわれは、認識の装置の底に位置する、抽象的で単調な眼に見えないある生成に沿ってそれらの眺めを繋いでやれば、この生成そのものの特徴的な点を模倣することになるだろう。知覚、知性による理解、言語は、一般にこのように進行する。生成を考えるにせよ、表現するにせよ、もしくはそれを知覚する場合でさえ、われわれは、ある種の内的な映画の装置を作動させること以外ほとんど何もしていない。それゆえ次のように言って以上を要約しよう。《われわれの通常の認識のメカニズムの本性は、映画的である》」(ベルクソン「創造的進化・P.387~388」ちくま学芸文庫)
さらにジニー。鏡の効果を「社交」として楽しむ身体。わざと鏡の側に主導権を与えている。そしてこれは一種の技術でもある。技術だという意味で大変な巧みさを要するに違いない。
「『あの紳士が新聞を下げるのが見える。トンネルで反射して、映っている私に笑っているわ。私の身体は、見つめられて、わざときどっているの。私の身体はそれ自身の生涯を生きているんだわ。あら。又黒い窓ガラスが緑になったわ。トンネルを出てしまったの。あの人は新聞を読んでるわ。でも私たちはお互いに姿を見合ってまずいいと思ってしまったんだわ。それで身体と身体との、お互いのすばらしい社交があるわけ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.60」角川文庫)
ローダも車中の人となる。が、ローダはジニーのように身軽に振る舞うわけではない。何か考えている。
「『間をおいてつぎつぎに衝撃を与えながら、まるで虎の跳躍のように突然、人生が、その黒い顔を海からもち上げて出現してくるわ。私たちが結びつけられているのは、これに、なの。これに私たちは縛られているんだわ、身体を野育ちの馬に縛られているように。それでも私たちは多くのさけ目を埋めたり、それらの割れ目を包みかくす、色々な工夫を作り出して来たんだわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.62」角川文庫)
「人生」は「黒い顔を海からもち上げて出現してくる」とローダは考える。そして「海」に「結びつけられている」とも。ここで「海」とは何か。そこから「人生という名の各瞬間」が湧き起こってくる欲望の宇宙である。そこで描かれる波の一つ一つが震動あるいは波動としての「人生という名の各瞬間」に当たる。しかし誰しもそこに「さけ目」や「割れ目」が現われるのを目撃しないわけにはいかない。ローダのいうように人々は各自それぞれに趣向をこらしつつそれら「さけ目」や「割れ目」を「包みかくす、色々な工夫を作り出して来た」し今もしている。しかしハイデッガーの場合、「包みかくす、色々な工夫」について、それらの多くは世間話を中心とした「頽落」に過ぎないと恫喝する。もっと緊張感を持てと叱る。それはそれで構わない。しかし借金まみれになって行き場を失っていた当時の一部のドイツ人の耳には、根拠を持て、すなわち根拠地も持てというふうに、それが実践されると奇妙な解釈を巻き起こすという現象が生じた。当時というのはまさに第二次世界大戦前夜である。ドイツは再び膨張し始める。ハイデッガーがナチス党にその根拠を与えることになる哲学の危うい両義性をここに垣間見ることができる。しかしナチズムといっても、見ようによってはどうにでも映ることがある。たとえば、次の文章などはどうだろう。プルーストから。
「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)
「仲間意識と自負心とに気負いたった彼女ら」「『独自の一団』をつくって」「その等質な全体」。これらたった三箇所を抜き出してみただけでただちにファシズムを想起する読者はいないだろうか。もしファシズムを想起するというのであれば、それは間違ってはいないといえる。「少女」とは、たぶん、頭で考えているようには本人にもよくつかめない人間の「或る時期」であり同時に「或る態度」のことをいうのだ。それは「つかめない」という言葉を使用することによって逆光的に出現する何ものかなのである。だから人が流通貨幣のように身軽に次々と姿を変容させていくことができるのは、その瞬間に一度は誰でも、いま述べたような意味で「少女」になってから事後的に、でなくては変容するにも変容しようがないのでは、とおもわれる。そしてすべての子どもは子どもであると同時に「少女」の面影を重ねさせてはいないだろうか。具体的部分を取り上げて述べるとすれば、理想的に勃起しようのない男性器、などがそうだ。欲望する多様体としては大いに勃起的かもしれないが、現実の身体は非勃起的でしかない必至性。そこから生成が始まる、歴史以前的な霧の中。年齢性別職業以前的な繭に覆われていてよく見通せない全世界。
しかし大人になればファシズムから逃れることができるというのだろうか。たとえば音楽。
「芸術家は、そのようにして、その一人一人が、ある未知の祖国に生まれついた人間であるように思われる。彼は自分でその祖国を忘れてしまった、しかもその祖国は、今後べつの一人の大芸術家がそこから出てきて、大陸を求めて出帆する、ということもまったくない祖国なのだ。あえていえば、ヴァントゥイユは、その晩年の諸作品のなかで、そのような祖国に近づいていたように思われた、晩年の雰囲気はもはや《ソナタ》におけるそれとおなじではなかった、楽節の問いかけは、晩年になると、いっそう切迫し、いっそう不安げで、それを受ける答はいっそう神秘的だった、朝夕の水気をおびた空気が、楽器の弦にまで影響しているように思われるのであった。モレルは絶妙に弾きこなしていたがまだ十分ではかった、彼のヴァイオリンが発している音は私には異様に鋭く、ほとんどさけび声のように思われた。そのきつい音も耳ざわりではなく、人はそこに、たとえば声楽でのように、一種の精神的な長所、知的な才能を感じたであろう。しかしそれは人を不快にするものでもあった。宇宙への視野が改変され、純化され、内面の祖国への回想に一段と精妙に適合するようになるとき、音楽家にあっては音響の、おなじくまた画家にあっては色彩の、全般的変質となってそれがあらわれてくるのは至極当然である。それにまた、きわめて聡明な聴衆が、それを見あやまるころはない、その証拠に、のちになって人々はヴァントゥイユでは晩年の作品が一番深いと言明することになったからである。ところで、はじめはどんなプログラムも、どんな主題も、判断の知的材料を提供してはいなかった。だから、人々が推察していたのは、何か深いものが、音(おん)の世界に転置されていたのだろうという程度だったのである。この失われた祖国、それを音楽家たちは自分に思いださない、しかし彼らの各自がつねに無意識のうちにこの祖国とはある種の斉唱(ユニゾン)をなしてつながっているのである、その各自が自分の祖国にあわせてうたうとき、彼は歓喜で熱狂し、ときには、栄光への愛に駆られて祖国をうらぎる、しかしそんなとき、彼は栄光を求めることによって栄光からのがれる、そして栄光を軽蔑することによってのみ彼は栄光を見出すのである、そのとき彼はあの特異な歌をうたいだすのであり、その歌の同一調(モノトニー)はーーーというのも、とりあつかわれる主題がなんであろうと、彼は自己と同一のものにとどまるからでーーーその音楽家にあって彼の魂を構成する諸要素が確固不変であることを証明しているのである。しかしそんなとき、その諸要素にあたるもの、すなわちわれわれが自分自身のためにたいせつに残さなくてはならない現実の残留物、われわれが友人から友人へ、師から弟子へ、恋する男から女への会話では、とうていつたえることができないあの残留物、自分の感じたものから質的に選別されながらも各人が章句の入口で置きさらなくてはならない、あの言葉には言いあらわしがたいものというのも万人に共通したなんの興味もない外部の地点に自分を限定してでなくては各人は章句のなかで他人とコミュニケーションを保つことはできないからでーーーしかしそんなとき、そういう現実の残留物のすべて、そういう言葉には言いあらわしがたいものを、芸術は、エルスチールの芸術と同様にヴァントゥイユの芸術は、われわれが個人の世界と呼んでも芸術なくしてはけっしてわれわれに知られないであろうあの世界の、内的構造を、スペクトルの色のなかに顕在化することで、出現させるのではないだろうか?つばさ、ーーーそれもまた一種の呼吸器であり、それでわれわれは広大な空間を横切ることができるかもしれないが、だからといってわれわれにはなんの役にも立たないだろう、なぜなら、たとえわれわれが火星や金星に行ったとしても、おなじ感覚をもちつづけているならば、そこでわれわれが見るであろうすべてのものにわれわれの感覚は地球の事物とおなじ外観をまとわせるであろうからである。唯一の真の旅、唯一の《若がえりの泉》の水浴行は、新しい風景へのいでたちではなくて、多くの他の目をもつことであるだろう、他者の目、百の他者の目をもって宇宙を見ること、彼らのおのおのが見、彼らのおのおのが存在している百の宇宙を見ることであるだろう、そしてそのことは、一人のエルスチール、一人のヴァントゥイユ、またそのたぐいの人たちをもつことで、われわれに可能なのである、われわれはほんとうに星から星へと飛行するのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・P.448~451」ちくま文庫)
まったく別の世界が出現する。音楽によって「われわれはほんとうに星から星へと飛行する」のであり、要するに陶酔のうちにあり、国家あるいは国家装置をいとも容易に忘れ去ってしまう。「他者の目、百の他者の目をもって宇宙を見る」という或る種の融合状態が発生する。
ところで、ローダは「しじま」の効果を体感している。
「『しじまが私たちの通ったあとを塞いでいくのよ。禿げた頭ごしにふり返ったら、もう塞いでいっているしじまや、虚ろな荒野の上を、お互いに追いつ追われつしている雲の影を見ることができるわ。しじまが私たちの過ぎ去って行く路をすっかり塞いでいるわ。ほら、これが今の瞬間なの。今日は夏休みの最初の日なの。これが、わたしたちの結びつけられている現われ出た怪物の一部なの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.63」角川文庫)
各瞬間は過ぎ去るや否や「しじま」によってどんどん塞がれていかなければならない。しかし事情は「とらえがたい進行」としてしかとらえがたい。
「ほんとうのところ、あらゆる知覚はすでに記憶なのである。《私たちはじっさいには、過去しか知覚することができない》。いっぽう純粋な現在は、過去が未来へと食いこんでゆくとらえがたい進行なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.298」岩波文庫)
リゾーム的社会の偶然性についてはまたの機会になおかつ随時述べていかなくてはならないだろう。
BGM
「『そして僕も、信じ難いことだが、他人の生涯に入りこみもする』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.57」角川文庫)
どういう理解ができるだろうか。ただ単に他人の記憶の中に保存されるということだけをいっているわけではないだろう。たとえば、ドゥルーズ&ガタリではこう続けることができる。
「いたるところで、これらは種々の諸機械なのである。しかも、決して隠喩的に機械であるというのではない。これらは、互いに連結し、接続して、(他の機械を動かし、他の機械に動かされる)機械の機械なのである。<源泉機械>には、<器官機械>がつながれている。一方の機械は流れを発する機械であるが、他方の機械は、この発せられた流れを切断する機械である。乳房は母乳を生産する機械であり、口はこの機械に連結されている機械である。食思欠損症の口は、いくつかの機械を前にしてためらっている機械である。すなわち、食べる機械であるのか、呼吸する機械であるのか(この場合には喘息の発作が起る)を決めかねているのだ。だから、ひとはすべて何でも器用にこなす存在なのである。各人はそれぞれ自分の小さい種々の機械を具えている。<エネルギー機械>に対して、<器官機械>があることは、常に流れと切断とがあることである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.13」河出書房新社)
何か間違っているだろうか。だからといってこれが正解だといいたいわけではない。こういうことも考えることができるだろうというほんのわずかな示唆に過ぎない。さてしかし、ここで言えようことは、「波」を読むという動きは、読者もまた、欲望する諸機械の部分として機能するほかないということである。少なくとも資本主義社会の中ではそうだといえるし言うべきでもあろう。そしてつい先ほどハイデッガーから長い引用を施しておいたが、それはもちろん作品「波」が次のセンテンスへ導くべく導かれている読者のため以外の何ものでもない。余計なおせっかいなどではまったくない。レーヴィットはこういっている。
「なまえのない、いいがたい、言表しがたく、つかみがたい、聞いたことも書かれたこともなく存在するものが意味するのは、あまりにはっきりしすぎていて、もはや語りにおいては適切に表現されないような存在にほかならない。不安が名状しがたい、あるいは喜びのあまりことばも出ないーーーこういったひとの情態性はあらゆる概念を超えており、ほんらいはつかみがたいとはいえ、完全に明瞭なものであることが理解される場合にのみ、把握される。明瞭な表現にひどく積極的なしかたで事実そのようにあらわれるものは、言語的には欠如的なかたちでだけ概念にもたらされるにしても、人間の感受、気分、情緒、感情、感覚の、特権的な表現なのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.282」岩波文庫)
こうある。「なまえのない、いいがたい、言表しがたく、つかみがたい、聞いたことも書かれたこともなく存在するものが意味するのは」、ハイデッガーから「不安」を感受するとはどのような様態なのかという引用を踏まえた上で、「ほんらいはつかみがたいとはいえ、完全に明瞭なものであることが理解される場合にのみ、把握される」けれども、それは「言語的には欠如的なかたちでだけ概念にもたらされる」ことになる「特権的な表現なのである」。さらに、このような差し当たり言語化できない「不安」あるいは「喜び」は、いわば「地下道」を利用することで理解へといたることができる。
「一者が他者の気分を直接に『理解する』のは、理解しがたいが、なお明瞭に感得されうる、『影響をうける』という、いわば地下道においてである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.283」岩波文庫)
登場人物らは今後、彼とも彼女とも特定できない多様体としてどんどん変容していく。しかし登場人物らはともに理解し合うことができる。それは理解のための「地下道」を共有することで可能になる。こんなふうに。
「或るひとびとは、その者たちの意図のいっさいに反して、たえず互いに語りあうだけでおわってしまう。他方、べつのひとびとは、『造作もなく』互いに理解しあっている。しかも、後者が前者のひとびとよりも明瞭にみずからを表現していたからではない。後者のひとびとが互いに諒解しあう方法は、かれらを共感的にむすびあわせる、地下道によるものだからである。かれらが相互に諒解しあうこの源泉によって、ひとつの語りかたが可能になる。第三者の目には、この語りかたは飛躍に充ち、論理をまったく欠くものと見えるにちがいない。だが、その語りかたは、飛躍し、論理的でなく見えるのとおなじ程度に、その者たち自身にとっては、明瞭で判明なものなのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.287」岩波文庫)
いわゆる「忖度」(そんたく)もまたこの中に含まれることは以前に述べた通りである。事例も前に上げた。誰でも知っているわかりやすいものを、という意味を込めてトルストイから引用したわけだが。
「ナターシャも夫とさし向かいになると、ただ夫婦の間にのみ見られる方法で話を始めた。つまり、推理や演繹(えんえき)や結論を無視して、あらゆる論理の法則にそむきながら、とくべつ明瞭迅速に、互いの思想を理解したり、伝えあったりしはじめたのである。ナターシャはこの方法で夫と語ることに慣れてしまったので、ピエールが論理的な考え方をする時は、かえってそれが二人の間の円満でないことを証明する、もっとも確かな徴候と考えるほどになった。ピエールが理屈っぽい調子で諄々(じゅんじゅん)と話しだす時や、また彼女までが夫の調子につりこまれて、同じようなことをはじめた時などは、それが必ず諍(いさか)いのもとになるということを、彼女はよく知っていた。
二人さしむかいになって、ナターシャがうれしそうに眼を大きく見はりながら、そっと夫のそばへより、だしぬけにすばやくその頭へ手をかけて、自分の胸へぎゅっと締めつけながら、『さあ、今こそあなたはすっかり、すっかりあたしのものよ、あたしのものよ。もう逃がしやしないから』と言った瞬間から、この論理の法則に反した会話がはじまった。実際、一時にさまざまな問題を語るということだけでも、すでに非論理的であった。そういうふうに一時にさまざまな事柄を話しても、相互の明晰な理解を妨げないのみか、かえってそれが完全な理解の確実な表徴となるのであった。
夢の中では、その夢を支配する感情のほか、すべてが不確実で、無意味で、矛盾だらけであるが、それと同様に、あらゆる理性の法則に反したこの思想交換においても、はっきり秩序だっているのは言葉ではなくして、言葉を指導する感情であった」(トルストイ「戦争と平和4・P.455~456」岩波文庫)
そしてこのように一度できた「地下道」は二度も三度も利用されるたびに蘇る。その点についてはスピノザを推奨しておいた。
「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)
以前述べたことと同じ展開になってしまったが、相似はここまでのことだ。むしろ忖度(そんたく)を含め、忖度(そんたく)を蹂躙しつつ、忖度(そんたく)を超越していかなければならない。むずかしいのは、もっとデリケートで、なおかつもっと差異的=微分的要素の取り扱いにかかわる部分になるだろうからである。たとえば、利用しがいがあるのであえて「忖度」(そんたく)という言語を用いるとしても、しかし、それは或る特定のグループなりサークルなりの内部で、「どこ」あるいは「誰」にイニシアティヴがあるかと問われたとすれば答えることができるだろうか。答えは「できない」である。少なくともたった一人だけにイニシアティヴがあったと特定することはできないのだ。もし特定するとすれば、本当に限られた少人数だけを一挙に拘束するほかない。事情はこうだ。
「ふたりあるいはそれ以上の人格の、完全にそれ自身にもとづき、いわば自由に浮動するような圏が可能となる条件は、一者の他者に対する関係にふくまれる両義性が回帰することである。関係はたいていの場合、各人のふるまいが他者に向かい、他者にしたがっているときに回帰する。そのさいしかしながら、《第一義的には》他者から規定されているのであって、したがってたんに共に-規定されているのではない。これに対して回帰が絶対化するのは、両者それぞれの《固有な》ふるまいをみちびくイニシアティヴが、その《根源》を《他者》のうちに有し、そのつどの他者が、じぶんのなすことすべての『原理』である場合である。両者のそれぞれが『ペルソナ』であり個人でないのは、ただたんに、じぶんが関係している当の者によって、各人がじぶん自身を相互回帰的に共-規定するという、《その》意味においてばかりではない。両者のおのおのは第一義的に、《他者のペルソナとして》回帰的に規定されている。このように自立化した関係にあっては、だれにイニシアティヴがあるのかという二者択一はもはや決定不能である。一者が第一義的に他者にしたがうところでは、他者もまたすでに第一義的に、一者にしたがっているからだ。
『相互性』のこうした自立化は、原理的に可能である。それはたしかに人間の関係を徹底して支配するものではないとはいえ、関係において日常的には、現実的なものとしてあらわれる可能性がある。つまり、そのつどの一者のふるまいが第一義的に他者に方向づけられている場合には、いたるところでその可能性があるのである。なるほどそれ自体としては《一者》の願望は他者の願望であるとはいえ、その他者の願望がそれ自身また他方の者の願望に方向づけられている。両者の《おのおの》が第一義的には他方の者に方向づけられている場合、各人のなすことすべてについて、そのイニシアティヴはほんらい一者からも他者からも生じない。両者の《関係そのもの》から生じるのだ。だが事実、或るふるまいをみちびくイニシアティヴは、それが他方の者の『名のもとに』であろうと、それでも一方の側からとらえられるのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.202~203」岩波文庫)
共犯性は「《関係そのもの》から生じる」。だから読者はいつも作品「波」と共演することが大事になってくるだろう。
さて、ジニーは列車の中にいる。列車の窓枠に囲まれた映像を眺める。
「『轟々いうこの急行列車に乗って。それにとってもすっすと走るもんだから、生垣が平らに見えたり、丘などが長っぽく見えたり』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.60」角川文庫)
映画的認識のメカニズムの一部分としてのジニーがいる。むしろジニーはそういう目に《なる》。
「すべての人物に固有なすべての運動から、非人称的、抽象的で単純な運動、いわば《運動一般》を抽出してそれを映写機の中に置く。そして各々の特殊な運動の個別性を、この匿名の運動を人称的な態度と組み合わせることによって再構成するのである。以上が、映画のやり口であり、われわれの認識のやり口でもある。諸事物の内的な生成に貼りつく代わりに、われわれは諸事物の外に身を置いて、それらの生成を人工的に再構成する。われわれは、過ぎゆく持続のほぼ瞬間的な眺めを獲得するのだが、それらの眺めはこの実在を特徴づけるものなので、われわれは、認識の装置の底に位置する、抽象的で単調な眼に見えないある生成に沿ってそれらの眺めを繋いでやれば、この生成そのものの特徴的な点を模倣することになるだろう。知覚、知性による理解、言語は、一般にこのように進行する。生成を考えるにせよ、表現するにせよ、もしくはそれを知覚する場合でさえ、われわれは、ある種の内的な映画の装置を作動させること以外ほとんど何もしていない。それゆえ次のように言って以上を要約しよう。《われわれの通常の認識のメカニズムの本性は、映画的である》」(ベルクソン「創造的進化・P.387~388」ちくま学芸文庫)
さらにジニー。鏡の効果を「社交」として楽しむ身体。わざと鏡の側に主導権を与えている。そしてこれは一種の技術でもある。技術だという意味で大変な巧みさを要するに違いない。
「『あの紳士が新聞を下げるのが見える。トンネルで反射して、映っている私に笑っているわ。私の身体は、見つめられて、わざときどっているの。私の身体はそれ自身の生涯を生きているんだわ。あら。又黒い窓ガラスが緑になったわ。トンネルを出てしまったの。あの人は新聞を読んでるわ。でも私たちはお互いに姿を見合ってまずいいと思ってしまったんだわ。それで身体と身体との、お互いのすばらしい社交があるわけ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.60」角川文庫)
ローダも車中の人となる。が、ローダはジニーのように身軽に振る舞うわけではない。何か考えている。
「『間をおいてつぎつぎに衝撃を与えながら、まるで虎の跳躍のように突然、人生が、その黒い顔を海からもち上げて出現してくるわ。私たちが結びつけられているのは、これに、なの。これに私たちは縛られているんだわ、身体を野育ちの馬に縛られているように。それでも私たちは多くのさけ目を埋めたり、それらの割れ目を包みかくす、色々な工夫を作り出して来たんだわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.62」角川文庫)
「人生」は「黒い顔を海からもち上げて出現してくる」とローダは考える。そして「海」に「結びつけられている」とも。ここで「海」とは何か。そこから「人生という名の各瞬間」が湧き起こってくる欲望の宇宙である。そこで描かれる波の一つ一つが震動あるいは波動としての「人生という名の各瞬間」に当たる。しかし誰しもそこに「さけ目」や「割れ目」が現われるのを目撃しないわけにはいかない。ローダのいうように人々は各自それぞれに趣向をこらしつつそれら「さけ目」や「割れ目」を「包みかくす、色々な工夫を作り出して来た」し今もしている。しかしハイデッガーの場合、「包みかくす、色々な工夫」について、それらの多くは世間話を中心とした「頽落」に過ぎないと恫喝する。もっと緊張感を持てと叱る。それはそれで構わない。しかし借金まみれになって行き場を失っていた当時の一部のドイツ人の耳には、根拠を持て、すなわち根拠地も持てというふうに、それが実践されると奇妙な解釈を巻き起こすという現象が生じた。当時というのはまさに第二次世界大戦前夜である。ドイツは再び膨張し始める。ハイデッガーがナチス党にその根拠を与えることになる哲学の危うい両義性をここに垣間見ることができる。しかしナチズムといっても、見ようによってはどうにでも映ることがある。たとえば、次の文章などはどうだろう。プルーストから。
「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)
「仲間意識と自負心とに気負いたった彼女ら」「『独自の一団』をつくって」「その等質な全体」。これらたった三箇所を抜き出してみただけでただちにファシズムを想起する読者はいないだろうか。もしファシズムを想起するというのであれば、それは間違ってはいないといえる。「少女」とは、たぶん、頭で考えているようには本人にもよくつかめない人間の「或る時期」であり同時に「或る態度」のことをいうのだ。それは「つかめない」という言葉を使用することによって逆光的に出現する何ものかなのである。だから人が流通貨幣のように身軽に次々と姿を変容させていくことができるのは、その瞬間に一度は誰でも、いま述べたような意味で「少女」になってから事後的に、でなくては変容するにも変容しようがないのでは、とおもわれる。そしてすべての子どもは子どもであると同時に「少女」の面影を重ねさせてはいないだろうか。具体的部分を取り上げて述べるとすれば、理想的に勃起しようのない男性器、などがそうだ。欲望する多様体としては大いに勃起的かもしれないが、現実の身体は非勃起的でしかない必至性。そこから生成が始まる、歴史以前的な霧の中。年齢性別職業以前的な繭に覆われていてよく見通せない全世界。
しかし大人になればファシズムから逃れることができるというのだろうか。たとえば音楽。
「芸術家は、そのようにして、その一人一人が、ある未知の祖国に生まれついた人間であるように思われる。彼は自分でその祖国を忘れてしまった、しかもその祖国は、今後べつの一人の大芸術家がそこから出てきて、大陸を求めて出帆する、ということもまったくない祖国なのだ。あえていえば、ヴァントゥイユは、その晩年の諸作品のなかで、そのような祖国に近づいていたように思われた、晩年の雰囲気はもはや《ソナタ》におけるそれとおなじではなかった、楽節の問いかけは、晩年になると、いっそう切迫し、いっそう不安げで、それを受ける答はいっそう神秘的だった、朝夕の水気をおびた空気が、楽器の弦にまで影響しているように思われるのであった。モレルは絶妙に弾きこなしていたがまだ十分ではかった、彼のヴァイオリンが発している音は私には異様に鋭く、ほとんどさけび声のように思われた。そのきつい音も耳ざわりではなく、人はそこに、たとえば声楽でのように、一種の精神的な長所、知的な才能を感じたであろう。しかしそれは人を不快にするものでもあった。宇宙への視野が改変され、純化され、内面の祖国への回想に一段と精妙に適合するようになるとき、音楽家にあっては音響の、おなじくまた画家にあっては色彩の、全般的変質となってそれがあらわれてくるのは至極当然である。それにまた、きわめて聡明な聴衆が、それを見あやまるころはない、その証拠に、のちになって人々はヴァントゥイユでは晩年の作品が一番深いと言明することになったからである。ところで、はじめはどんなプログラムも、どんな主題も、判断の知的材料を提供してはいなかった。だから、人々が推察していたのは、何か深いものが、音(おん)の世界に転置されていたのだろうという程度だったのである。この失われた祖国、それを音楽家たちは自分に思いださない、しかし彼らの各自がつねに無意識のうちにこの祖国とはある種の斉唱(ユニゾン)をなしてつながっているのである、その各自が自分の祖国にあわせてうたうとき、彼は歓喜で熱狂し、ときには、栄光への愛に駆られて祖国をうらぎる、しかしそんなとき、彼は栄光を求めることによって栄光からのがれる、そして栄光を軽蔑することによってのみ彼は栄光を見出すのである、そのとき彼はあの特異な歌をうたいだすのであり、その歌の同一調(モノトニー)はーーーというのも、とりあつかわれる主題がなんであろうと、彼は自己と同一のものにとどまるからでーーーその音楽家にあって彼の魂を構成する諸要素が確固不変であることを証明しているのである。しかしそんなとき、その諸要素にあたるもの、すなわちわれわれが自分自身のためにたいせつに残さなくてはならない現実の残留物、われわれが友人から友人へ、師から弟子へ、恋する男から女への会話では、とうていつたえることができないあの残留物、自分の感じたものから質的に選別されながらも各人が章句の入口で置きさらなくてはならない、あの言葉には言いあらわしがたいものというのも万人に共通したなんの興味もない外部の地点に自分を限定してでなくては各人は章句のなかで他人とコミュニケーションを保つことはできないからでーーーしかしそんなとき、そういう現実の残留物のすべて、そういう言葉には言いあらわしがたいものを、芸術は、エルスチールの芸術と同様にヴァントゥイユの芸術は、われわれが個人の世界と呼んでも芸術なくしてはけっしてわれわれに知られないであろうあの世界の、内的構造を、スペクトルの色のなかに顕在化することで、出現させるのではないだろうか?つばさ、ーーーそれもまた一種の呼吸器であり、それでわれわれは広大な空間を横切ることができるかもしれないが、だからといってわれわれにはなんの役にも立たないだろう、なぜなら、たとえわれわれが火星や金星に行ったとしても、おなじ感覚をもちつづけているならば、そこでわれわれが見るであろうすべてのものにわれわれの感覚は地球の事物とおなじ外観をまとわせるであろうからである。唯一の真の旅、唯一の《若がえりの泉》の水浴行は、新しい風景へのいでたちではなくて、多くの他の目をもつことであるだろう、他者の目、百の他者の目をもって宇宙を見ること、彼らのおのおのが見、彼らのおのおのが存在している百の宇宙を見ることであるだろう、そしてそのことは、一人のエルスチール、一人のヴァントゥイユ、またそのたぐいの人たちをもつことで、われわれに可能なのである、われわれはほんとうに星から星へと飛行するのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・P.448~451」ちくま文庫)
まったく別の世界が出現する。音楽によって「われわれはほんとうに星から星へと飛行する」のであり、要するに陶酔のうちにあり、国家あるいは国家装置をいとも容易に忘れ去ってしまう。「他者の目、百の他者の目をもって宇宙を見る」という或る種の融合状態が発生する。
ところで、ローダは「しじま」の効果を体感している。
「『しじまが私たちの通ったあとを塞いでいくのよ。禿げた頭ごしにふり返ったら、もう塞いでいっているしじまや、虚ろな荒野の上を、お互いに追いつ追われつしている雲の影を見ることができるわ。しじまが私たちの過ぎ去って行く路をすっかり塞いでいるわ。ほら、これが今の瞬間なの。今日は夏休みの最初の日なの。これが、わたしたちの結びつけられている現われ出た怪物の一部なの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.63」角川文庫)
各瞬間は過ぎ去るや否や「しじま」によってどんどん塞がれていかなければならない。しかし事情は「とらえがたい進行」としてしかとらえがたい。
「ほんとうのところ、あらゆる知覚はすでに記憶なのである。《私たちはじっさいには、過去しか知覚することができない》。いっぽう純粋な現在は、過去が未来へと食いこんでゆくとらえがたい進行なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.298」岩波文庫)
リゾーム的社会の偶然性についてはまたの機会になおかつ随時述べていかなくてはならないだろう。
BGM