白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「波」/融合する身体6

2019年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
欲望の一元論。懐かしい言葉だ。人間は「いたるところで諸機械なのである」。そして作品「波」から「そして」と続けてみよう。

「『そして僕も、信じ難いことだが、他人の生涯に入りこみもする』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.57」角川文庫)

どういう理解ができるだろうか。ただ単に他人の記憶の中に保存されるということだけをいっているわけではないだろう。たとえば、ドゥルーズ&ガタリではこう続けることができる。

「いたるところで、これらは種々の諸機械なのである。しかも、決して隠喩的に機械であるというのではない。これらは、互いに連結し、接続して、(他の機械を動かし、他の機械に動かされる)機械の機械なのである。<源泉機械>には、<器官機械>がつながれている。一方の機械は流れを発する機械であるが、他方の機械は、この発せられた流れを切断する機械である。乳房は母乳を生産する機械であり、口はこの機械に連結されている機械である。食思欠損症の口は、いくつかの機械を前にしてためらっている機械である。すなわち、食べる機械であるのか、呼吸する機械であるのか(この場合には喘息の発作が起る)を決めかねているのだ。だから、ひとはすべて何でも器用にこなす存在なのである。各人はそれぞれ自分の小さい種々の機械を具えている。<エネルギー機械>に対して、<器官機械>があることは、常に流れと切断とがあることである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.13」河出書房新社)

何か間違っているだろうか。だからといってこれが正解だといいたいわけではない。こういうことも考えることができるだろうというほんのわずかな示唆に過ぎない。さてしかし、ここで言えようことは、「波」を読むという動きは、読者もまた、欲望する諸機械の部分として機能するほかないということである。少なくとも資本主義社会の中ではそうだといえるし言うべきでもあろう。そしてつい先ほどハイデッガーから長い引用を施しておいたが、それはもちろん作品「波」が次のセンテンスへ導くべく導かれている読者のため以外の何ものでもない。余計なおせっかいなどではまったくない。レーヴィットはこういっている。

「なまえのない、いいがたい、言表しがたく、つかみがたい、聞いたことも書かれたこともなく存在するものが意味するのは、あまりにはっきりしすぎていて、もはや語りにおいては適切に表現されないような存在にほかならない。不安が名状しがたい、あるいは喜びのあまりことばも出ないーーーこういったひとの情態性はあらゆる概念を超えており、ほんらいはつかみがたいとはいえ、完全に明瞭なものであることが理解される場合にのみ、把握される。明瞭な表現にひどく積極的なしかたで事実そのようにあらわれるものは、言語的には欠如的なかたちでだけ概念にもたらされるにしても、人間の感受、気分、情緒、感情、感覚の、特権的な表現なのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.282」岩波文庫)

こうある。「なまえのない、いいがたい、言表しがたく、つかみがたい、聞いたことも書かれたこともなく存在するものが意味するのは」、ハイデッガーから「不安」を感受するとはどのような様態なのかという引用を踏まえた上で、「ほんらいはつかみがたいとはいえ、完全に明瞭なものであることが理解される場合にのみ、把握される」けれども、それは「言語的には欠如的なかたちでだけ概念にもたらされる」ことになる「特権的な表現なのである」。さらに、このような差し当たり言語化できない「不安」あるいは「喜び」は、いわば「地下道」を利用することで理解へといたることができる。

「一者が他者の気分を直接に『理解する』のは、理解しがたいが、なお明瞭に感得されうる、『影響をうける』という、いわば地下道においてである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.283」岩波文庫)

登場人物らは今後、彼とも彼女とも特定できない多様体としてどんどん変容していく。しかし登場人物らはともに理解し合うことができる。それは理解のための「地下道」を共有することで可能になる。こんなふうに。

「或るひとびとは、その者たちの意図のいっさいに反して、たえず互いに語りあうだけでおわってしまう。他方、べつのひとびとは、『造作もなく』互いに理解しあっている。しかも、後者が前者のひとびとよりも明瞭にみずからを表現していたからではない。後者のひとびとが互いに諒解しあう方法は、かれらを共感的にむすびあわせる、地下道によるものだからである。かれらが相互に諒解しあうこの源泉によって、ひとつの語りかたが可能になる。第三者の目には、この語りかたは飛躍に充ち、論理をまったく欠くものと見えるにちがいない。だが、その語りかたは、飛躍し、論理的でなく見えるのとおなじ程度に、その者たち自身にとっては、明瞭で判明なものなのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.287」岩波文庫)

いわゆる「忖度」(そんたく)もまたこの中に含まれることは以前に述べた通りである。事例も前に上げた。誰でも知っているわかりやすいものを、という意味を込めてトルストイから引用したわけだが。

「ナターシャも夫とさし向かいになると、ただ夫婦の間にのみ見られる方法で話を始めた。つまり、推理や演繹(えんえき)や結論を無視して、あらゆる論理の法則にそむきながら、とくべつ明瞭迅速に、互いの思想を理解したり、伝えあったりしはじめたのである。ナターシャはこの方法で夫と語ることに慣れてしまったので、ピエールが論理的な考え方をする時は、かえってそれが二人の間の円満でないことを証明する、もっとも確かな徴候と考えるほどになった。ピエールが理屈っぽい調子で諄々(じゅんじゅん)と話しだす時や、また彼女までが夫の調子につりこまれて、同じようなことをはじめた時などは、それが必ず諍(いさか)いのもとになるということを、彼女はよく知っていた。

二人さしむかいになって、ナターシャがうれしそうに眼を大きく見はりながら、そっと夫のそばへより、だしぬけにすばやくその頭へ手をかけて、自分の胸へぎゅっと締めつけながら、『さあ、今こそあなたはすっかり、すっかりあたしのものよ、あたしのものよ。もう逃がしやしないから』と言った瞬間から、この論理の法則に反した会話がはじまった。実際、一時にさまざまな問題を語るということだけでも、すでに非論理的であった。そういうふうに一時にさまざまな事柄を話しても、相互の明晰な理解を妨げないのみか、かえってそれが完全な理解の確実な表徴となるのであった。

夢の中では、その夢を支配する感情のほか、すべてが不確実で、無意味で、矛盾だらけであるが、それと同様に、あらゆる理性の法則に反したこの思想交換においても、はっきり秩序だっているのは言葉ではなくして、言葉を指導する感情であった」(トルストイ「戦争と平和4・P.455~456」岩波文庫)

そしてこのように一度できた「地下道」は二度も三度も利用されるたびに蘇る。その点についてはスピノザを推奨しておいた。

「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)

以前述べたことと同じ展開になってしまったが、相似はここまでのことだ。むしろ忖度(そんたく)を含め、忖度(そんたく)を蹂躙しつつ、忖度(そんたく)を超越していかなければならない。むずかしいのは、もっとデリケートで、なおかつもっと差異的=微分的要素の取り扱いにかかわる部分になるだろうからである。たとえば、利用しがいがあるのであえて「忖度」(そんたく)という言語を用いるとしても、しかし、それは或る特定のグループなりサークルなりの内部で、「どこ」あるいは「誰」にイニシアティヴがあるかと問われたとすれば答えることができるだろうか。答えは「できない」である。少なくともたった一人だけにイニシアティヴがあったと特定することはできないのだ。もし特定するとすれば、本当に限られた少人数だけを一挙に拘束するほかない。事情はこうだ。

「ふたりあるいはそれ以上の人格の、完全にそれ自身にもとづき、いわば自由に浮動するような圏が可能となる条件は、一者の他者に対する関係にふくまれる両義性が回帰することである。関係はたいていの場合、各人のふるまいが他者に向かい、他者にしたがっているときに回帰する。そのさいしかしながら、《第一義的には》他者から規定されているのであって、したがってたんに共に-規定されているのではない。これに対して回帰が絶対化するのは、両者それぞれの《固有な》ふるまいをみちびくイニシアティヴが、その《根源》を《他者》のうちに有し、そのつどの他者が、じぶんのなすことすべての『原理』である場合である。両者のそれぞれが『ペルソナ』であり個人でないのは、ただたんに、じぶんが関係している当の者によって、各人がじぶん自身を相互回帰的に共-規定するという、《その》意味においてばかりではない。両者のおのおのは第一義的に、《他者のペルソナとして》回帰的に規定されている。このように自立化した関係にあっては、だれにイニシアティヴがあるのかという二者択一はもはや決定不能である。一者が第一義的に他者にしたがうところでは、他者もまたすでに第一義的に、一者にしたがっているからだ。

『相互性』のこうした自立化は、原理的に可能である。それはたしかに人間の関係を徹底して支配するものではないとはいえ、関係において日常的には、現実的なものとしてあらわれる可能性がある。つまり、そのつどの一者のふるまいが第一義的に他者に方向づけられている場合には、いたるところでその可能性があるのである。なるほどそれ自体としては《一者》の願望は他者の願望であるとはいえ、その他者の願望がそれ自身また他方の者の願望に方向づけられている。両者の《おのおの》が第一義的には他方の者に方向づけられている場合、各人のなすことすべてについて、そのイニシアティヴはほんらい一者からも他者からも生じない。両者の《関係そのもの》から生じるのだ。だが事実、或るふるまいをみちびくイニシアティヴは、それが他方の者の『名のもとに』であろうと、それでも一方の側からとらえられるのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.202~203」岩波文庫)

共犯性は「《関係そのもの》から生じる」。だから読者はいつも作品「波」と共演することが大事になってくるだろう。

さて、ジニーは列車の中にいる。列車の窓枠に囲まれた映像を眺める。

「『轟々いうこの急行列車に乗って。それにとってもすっすと走るもんだから、生垣が平らに見えたり、丘などが長っぽく見えたり』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.60」角川文庫)

映画的認識のメカニズムの一部分としてのジニーがいる。むしろジニーはそういう目に《なる》。

「すべての人物に固有なすべての運動から、非人称的、抽象的で単純な運動、いわば《運動一般》を抽出してそれを映写機の中に置く。そして各々の特殊な運動の個別性を、この匿名の運動を人称的な態度と組み合わせることによって再構成するのである。以上が、映画のやり口であり、われわれの認識のやり口でもある。諸事物の内的な生成に貼りつく代わりに、われわれは諸事物の外に身を置いて、それらの生成を人工的に再構成する。われわれは、過ぎゆく持続のほぼ瞬間的な眺めを獲得するのだが、それらの眺めはこの実在を特徴づけるものなので、われわれは、認識の装置の底に位置する、抽象的で単調な眼に見えないある生成に沿ってそれらの眺めを繋いでやれば、この生成そのものの特徴的な点を模倣することになるだろう。知覚、知性による理解、言語は、一般にこのように進行する。生成を考えるにせよ、表現するにせよ、もしくはそれを知覚する場合でさえ、われわれは、ある種の内的な映画の装置を作動させること以外ほとんど何もしていない。それゆえ次のように言って以上を要約しよう。《われわれの通常の認識のメカニズムの本性は、映画的である》」(ベルクソン「創造的進化・P.387~388」ちくま学芸文庫)

さらにジニー。鏡の効果を「社交」として楽しむ身体。わざと鏡の側に主導権を与えている。そしてこれは一種の技術でもある。技術だという意味で大変な巧みさを要するに違いない。

「『あの紳士が新聞を下げるのが見える。トンネルで反射して、映っている私に笑っているわ。私の身体は、見つめられて、わざときどっているの。私の身体はそれ自身の生涯を生きているんだわ。あら。又黒い窓ガラスが緑になったわ。トンネルを出てしまったの。あの人は新聞を読んでるわ。でも私たちはお互いに姿を見合ってまずいいと思ってしまったんだわ。それで身体と身体との、お互いのすばらしい社交があるわけ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.60」角川文庫)

ローダも車中の人となる。が、ローダはジニーのように身軽に振る舞うわけではない。何か考えている。

「『間をおいてつぎつぎに衝撃を与えながら、まるで虎の跳躍のように突然、人生が、その黒い顔を海からもち上げて出現してくるわ。私たちが結びつけられているのは、これに、なの。これに私たちは縛られているんだわ、身体を野育ちの馬に縛られているように。それでも私たちは多くのさけ目を埋めたり、それらの割れ目を包みかくす、色々な工夫を作り出して来たんだわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.62」角川文庫)

「人生」は「黒い顔を海からもち上げて出現してくる」とローダは考える。そして「海」に「結びつけられている」とも。ここで「海」とは何か。そこから「人生という名の各瞬間」が湧き起こってくる欲望の宇宙である。そこで描かれる波の一つ一つが震動あるいは波動としての「人生という名の各瞬間」に当たる。しかし誰しもそこに「さけ目」や「割れ目」が現われるのを目撃しないわけにはいかない。ローダのいうように人々は各自それぞれに趣向をこらしつつそれら「さけ目」や「割れ目」を「包みかくす、色々な工夫を作り出して来た」し今もしている。しかしハイデッガーの場合、「包みかくす、色々な工夫」について、それらの多くは世間話を中心とした「頽落」に過ぎないと恫喝する。もっと緊張感を持てと叱る。それはそれで構わない。しかし借金まみれになって行き場を失っていた当時の一部のドイツ人の耳には、根拠を持て、すなわち根拠地も持てというふうに、それが実践されると奇妙な解釈を巻き起こすという現象が生じた。当時というのはまさに第二次世界大戦前夜である。ドイツは再び膨張し始める。ハイデッガーがナチス党にその根拠を与えることになる哲学の危うい両義性をここに垣間見ることができる。しかしナチズムといっても、見ようによってはどうにでも映ることがある。たとえば、次の文章などはどうだろう。プルーストから。

「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)

「仲間意識と自負心とに気負いたった彼女ら」「『独自の一団』をつくって」「その等質な全体」。これらたった三箇所を抜き出してみただけでただちにファシズムを想起する読者はいないだろうか。もしファシズムを想起するというのであれば、それは間違ってはいないといえる。「少女」とは、たぶん、頭で考えているようには本人にもよくつかめない人間の「或る時期」であり同時に「或る態度」のことをいうのだ。それは「つかめない」という言葉を使用することによって逆光的に出現する何ものかなのである。だから人が流通貨幣のように身軽に次々と姿を変容させていくことができるのは、その瞬間に一度は誰でも、いま述べたような意味で「少女」になってから事後的に、でなくては変容するにも変容しようがないのでは、とおもわれる。そしてすべての子どもは子どもであると同時に「少女」の面影を重ねさせてはいないだろうか。具体的部分を取り上げて述べるとすれば、理想的に勃起しようのない男性器、などがそうだ。欲望する多様体としては大いに勃起的かもしれないが、現実の身体は非勃起的でしかない必至性。そこから生成が始まる、歴史以前的な霧の中。年齢性別職業以前的な繭に覆われていてよく見通せない全世界。

しかし大人になればファシズムから逃れることができるというのだろうか。たとえば音楽。

「芸術家は、そのようにして、その一人一人が、ある未知の祖国に生まれついた人間であるように思われる。彼は自分でその祖国を忘れてしまった、しかもその祖国は、今後べつの一人の大芸術家がそこから出てきて、大陸を求めて出帆する、ということもまったくない祖国なのだ。あえていえば、ヴァントゥイユは、その晩年の諸作品のなかで、そのような祖国に近づいていたように思われた、晩年の雰囲気はもはや《ソナタ》におけるそれとおなじではなかった、楽節の問いかけは、晩年になると、いっそう切迫し、いっそう不安げで、それを受ける答はいっそう神秘的だった、朝夕の水気をおびた空気が、楽器の弦にまで影響しているように思われるのであった。モレルは絶妙に弾きこなしていたがまだ十分ではかった、彼のヴァイオリンが発している音は私には異様に鋭く、ほとんどさけび声のように思われた。そのきつい音も耳ざわりではなく、人はそこに、たとえば声楽でのように、一種の精神的な長所、知的な才能を感じたであろう。しかしそれは人を不快にするものでもあった。宇宙への視野が改変され、純化され、内面の祖国への回想に一段と精妙に適合するようになるとき、音楽家にあっては音響の、おなじくまた画家にあっては色彩の、全般的変質となってそれがあらわれてくるのは至極当然である。それにまた、きわめて聡明な聴衆が、それを見あやまるころはない、その証拠に、のちになって人々はヴァントゥイユでは晩年の作品が一番深いと言明することになったからである。ところで、はじめはどんなプログラムも、どんな主題も、判断の知的材料を提供してはいなかった。だから、人々が推察していたのは、何か深いものが、音(おん)の世界に転置されていたのだろうという程度だったのである。この失われた祖国、それを音楽家たちは自分に思いださない、しかし彼らの各自がつねに無意識のうちにこの祖国とはある種の斉唱(ユニゾン)をなしてつながっているのである、その各自が自分の祖国にあわせてうたうとき、彼は歓喜で熱狂し、ときには、栄光への愛に駆られて祖国をうらぎる、しかしそんなとき、彼は栄光を求めることによって栄光からのがれる、そして栄光を軽蔑することによってのみ彼は栄光を見出すのである、そのとき彼はあの特異な歌をうたいだすのであり、その歌の同一調(モノトニー)はーーーというのも、とりあつかわれる主題がなんであろうと、彼は自己と同一のものにとどまるからでーーーその音楽家にあって彼の魂を構成する諸要素が確固不変であることを証明しているのである。しかしそんなとき、その諸要素にあたるもの、すなわちわれわれが自分自身のためにたいせつに残さなくてはならない現実の残留物、われわれが友人から友人へ、師から弟子へ、恋する男から女への会話では、とうていつたえることができないあの残留物、自分の感じたものから質的に選別されながらも各人が章句の入口で置きさらなくてはならない、あの言葉には言いあらわしがたいものというのも万人に共通したなんの興味もない外部の地点に自分を限定してでなくては各人は章句のなかで他人とコミュニケーションを保つことはできないからでーーーしかしそんなとき、そういう現実の残留物のすべて、そういう言葉には言いあらわしがたいものを、芸術は、エルスチールの芸術と同様にヴァントゥイユの芸術は、われわれが個人の世界と呼んでも芸術なくしてはけっしてわれわれに知られないであろうあの世界の、内的構造を、スペクトルの色のなかに顕在化することで、出現させるのではないだろうか?つばさ、ーーーそれもまた一種の呼吸器であり、それでわれわれは広大な空間を横切ることができるかもしれないが、だからといってわれわれにはなんの役にも立たないだろう、なぜなら、たとえわれわれが火星や金星に行ったとしても、おなじ感覚をもちつづけているならば、そこでわれわれが見るであろうすべてのものにわれわれの感覚は地球の事物とおなじ外観をまとわせるであろうからである。唯一の真の旅、唯一の《若がえりの泉》の水浴行は、新しい風景へのいでたちではなくて、多くの他の目をもつことであるだろう、他者の目、百の他者の目をもって宇宙を見ること、彼らのおのおのが見、彼らのおのおのが存在している百の宇宙を見ることであるだろう、そしてそのことは、一人のエルスチール、一人のヴァントゥイユ、またそのたぐいの人たちをもつことで、われわれに可能なのである、われわれはほんとうに星から星へと飛行するのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・P.448~451」ちくま文庫)

まったく別の世界が出現する。音楽によって「われわれはほんとうに星から星へと飛行する」のであり、要するに陶酔のうちにあり、国家あるいは国家装置をいとも容易に忘れ去ってしまう。「他者の目、百の他者の目をもって宇宙を見る」という或る種の融合状態が発生する。

ところで、ローダは「しじま」の効果を体感している。

「『しじまが私たちの通ったあとを塞いでいくのよ。禿げた頭ごしにふり返ったら、もう塞いでいっているしじまや、虚ろな荒野の上を、お互いに追いつ追われつしている雲の影を見ることができるわ。しじまが私たちの過ぎ去って行く路をすっかり塞いでいるわ。ほら、これが今の瞬間なの。今日は夏休みの最初の日なの。これが、わたしたちの結びつけられている現われ出た怪物の一部なの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.63」角川文庫)

各瞬間は過ぎ去るや否や「しじま」によってどんどん塞がれていかなければならない。しかし事情は「とらえがたい進行」としてしかとらえがたい。

「ほんとうのところ、あらゆる知覚はすでに記憶なのである。《私たちはじっさいには、過去しか知覚することができない》。いっぽう純粋な現在は、過去が未来へと食いこんでゆくとらえがたい進行なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.298」岩波文庫)

リゾーム的社会の偶然性についてはまたの機会になおかつ随時述べていかなくてはならないだろう。

BGM

「波」/融合する身体5

2019年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
スーザンは嫌な思い出のすべてを記憶の奥底に埋めてしまおうと考える。ネヴィルは幼い頃、バーナードとスーザンの二人を捉えて「あいつらはふらふら垂れている針金ーーーいつもからまってばかり」、と評した(固定した)。「ふらふら垂れている針金」の一方=スーザン。なかなか横着な発想の持ち主でもある。

「『一番嫌いなものをすっかり想い浮べて、それらを土の中へ埋めてしまおう。このぴかぴかする小石はマダム・カーロだわ。うんと深く埋めてしまってやるの。へつらってみたり人に取り入ったりする様子が嫌だし、音階の練習をしていると指を真っすぐするようにって六ペンス銀貨をくれたりするんだから。その銀貨は埋めてしまったわ。学校全部を埋めてしまいたいわ、体操場も、教室も、いつも肉の匂いのする食堂も、それにチャペルも。赤っ茶けたお古い方々ーーー恩人の方々、学校設立者の方々ーーーの肖像など、埋めてしまいたい。好きな木がいくつかあるわ。樹皮にきれいな樹脂のかたまりをつけている桜の木。それに屋根裏から向うのどこか遠くの丘が見える景色も好き。こんなのだけは別として、桟橋があり、散歩の人が歩いているこの海岸のあたりにいつも散らばっている醜い石コロを埋めるように、一切合切埋めてしまいたいわ。おうちでは波が長く長くつづいているわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.41~42」角川文庫)

嫌いなものを列挙しだすときりがなくなる。「一切合切埋めてしまいた」くなる。一人の人間の意識をじっと追っていると思わず笑いの一つも溢れてきそうになってくる。ところで、この一連の連想の終わりで「おうちでは波が長く長く」と、唐突に「波」のイメージが現われる。その「波」は「冬の夜に響きが聞こえてくる」ものであり「去年のクリスマス」などは「一人の男が溺死」したところまで続く。溺死という言葉が出てくるからといって、すぐさま死のイメージあるいは死への憧れのイメージを読み取ることは必ずしも正しいとはいえないだろう。むしろ「溺死」というところで文章が止まっている点に注意すべきかとおもわれる。ちなみに「ダロウェイ夫人」の分身=セプティマスの死因も「池」=「水」への投身による「溺死」である。そこが終着駅だとウルフが考えていたと思われるにしてもなお、作者ウルフが小説のこの時点で死んだわけでも何でもない。言い換えれば、人間は、小さな死(性行為における絶頂、芸術におけるエクスタシーなど)であれば何度でも死ねるということも念頭に置いておく必要性があるだろう。実際、ダロウェイ夫人が自殺するのではなく逆に社交界へ戻っていくに当たって、その《代補》として、セプティマスの自殺が両者の行為〔一方の生と他方の死〕の等価関係を保障していることを忘れるべきではないだろう。単独の生というものはない。単独の死というものもない。生は常に死によって支えられており、同時に死は常に生によって支えられている。生死は常に既に相互依存関係においてしか表象し得ない。しかし作品の中で問われているのは生か死かの二者択一ではまったくない。むしろその《あいだ》、常に両者の間で《宙吊り》にされている諸様態を様々に死につつ同時に生きていく欲望の流れの一つ一つなのだ。それら各々の登場人物は「欲望する身体」としては個別的に分割可能でありまた同時に「有機体からの脱コード化」としては欲望する融合的多様体でもある。そして「有機体からの脱コード化」は資本主義の諸運動として常に既にその役割を果たしてはいるのだ。また、作品「波」を欲望の一元論として読むとすれば、それぞれの個別的な「波」は小説中のどこにでもいつでも姿を現わしてくる。ウルフが小説家として生きた第一次世界大戦と第二次世界大戦との《あいだ》のイギリスという見地からいうとすれば、個別的なもの(個人性、年齢、性別、幾つかの記憶など)は画一化され、画一化されたものを受理することだけが許され、したがって普遍的なもの(人類共存、国際的連帯、芸術的なものへの傾倒など)は蹂躙された。しかし人間は戦時中にあってもなお、「個別的なもの」《と》「普遍的なもの」との《あいだ》を行ったり来たりする「揺らぎ」としてしか生きていくことはできなかった。その意味で人間は可憐であると同時に図々しい。

ローダはいう。

「『肉を切って分配する時にはあらゆるものが火の閃きのように走るわ。ひと月ひと月ずついろいろなものがその固さを失くしていっているの。わたしの身体でさえ今では光が通り抜けるわ。脊椎だって蠟燭の炎のそばで溶けている蠟のように柔らかいわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.43」角川文庫)

まるで粘土のようだ。さらに「光が通り抜ける」身体でもある。だんだん柔らかさを増していく。「蠟燭」の「蠟」に《なる》わけだが、「ひと月ひと月ずつ」とある。「或る季節」として、たまたまそこに集合した情動全体が個体化された「此性」として考えよう。ローダの身体だけで構成された「季節」が「ある」のではない。ローダの身体を含む「或る季節」が「此性」をなす。

ジニーは生成変化を謳歌する。

「『この宇宙には、固定しているものやじっとしているものは何もないんだわ。みんな波打っていて、みんな踊っているの、なんでもかんでも敏捷に動いて勝利を狂喜しているわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.43」角川文庫)

全身を鏡に映し出し、その前で「頭を動か」してみて「細い身体を下の方へ、ずっと漣が立っていく」エロティックな映像に自分で陶酔していたのもジニーだったが。ともかく彼女はいつも生の悦びに溢れていたいという一つの波動でもある。「合目的性」などどこにも見あたらない。ただひたすら肉体の塊として躍動感を求める。

「生命全体は、創造的進化として思い描かれるとき、自由な行為や芸術作品に類似した何かである。もし合目的性を、前もって考えられた、あるいは考えられうる観念の実現と解するならば、生命は合目的性を超えている」(ベルクソン「創造的進化・P.285」ちくま学芸文庫)

バーナードは考える。「一つのものを他のものにそっと結びあわせている一本のふらふらの糸」についてバーナードはよく知っている。それは見逃している限り見えないものでもある。見えている時は「ばらばらになっている」ものだ。

「『こんなつながった文句をうっちゃらなくちゃ。そうすればばらばらになっているのに、一つのものを他のものにそっと結びあわせている一本のふらふらの糸がよくわかるんだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.47」角川文庫)

ところが世間はこのような「ふらふらの糸」を実にしばしば見逃す。ほとんどいつも見逃す。まるでわざとのように見逃す。バーナードは自分が詩人に《なる》とおもっている。だがバーナードを本当の詩人にするのは「ふらふらの糸」を常に見逃して生き延びている世間である。

夏休みが近い。スーザンはおもう。

「『皺くちゃの、いじけた、こんな拘束なんてものーーー時間、秩序、紀律、きまった時間に正確にあちこちへちゃんといなくてはならないことなんかはーーーばらばらに砕けてしまうわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.50~51」角川文庫)

しかし本当に「ばらばらに砕けてしま」ったら、どういうことが起こるだろうか。スーザンはどのように感じるだろうか。といっても、何も「拘束なんてものーーー時間、秩序、紀律、きまった時間」の側に立っていうのではない。彼らは十八歳。その夏休みがもうそこまで来ている。「拘束」はゆるゆるとゆるむほかない。切断される箇所も幾らかは出てくるだろう。だがそれはたとえば「檻の中の遠足」に過ぎない。

「だから生き残るのは、どこかで脱出を果たした人たちだとぼくは考えるようになった。脱出とは大変なことであって、新しい刑務所行きか古巣に戻るかにきまっている脱獄と同一視するわけにはいかない。よく言う『脱出』とか『すべてをあとにする』にしても、檻の中の遠足だ。たとえその中に南の海があり、絵に描いたり帆走に適していたとしても檻であることに変りはない。完全な脱出とは、二度と帰れないものを意味している。過去が存在しないのだから、取返しのつかぬものでなければならない」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.197』荒地出版社)

フィッツジェラルドの自己認識過程は精妙だ。ところで、奔放なジニーはいう。

「『区別なんかなくなって一週間が同じ一日になるといいのに』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.52」角川文庫)

ふだんは慎重なローダも生を謳歌する意志を隠さない。欲望する多様体として「白熱している」ばかりか、その欲望の流れは「思いのままに氾濫する」。

「『私が生きていこうとするところには何か邪魔があるんだわ。一筋の深い流れが何か障碍にぶつかるの。ぐいぐいと引いて、中心にある何かのふしが抵抗するわ。ああ、これが苦しくって。これが悩みだわ!私は弱って、衰えていく。もう私の身体が融けて行くわ。私はむきだしのまま。わたしは白熱しているわ。流れが満々たる深い潮流となって流れこみ、閉塞を開き、幾重にも重なり合ったものを押し破り、思いのままに氾濫するの。私の温い、孔の一杯ある身体から出て。身体中を流れているものをすっかりーーー』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.54」角川文庫)

しかしルイスには繰り返される一抹の不安がある。このページが初出だ。

「『でも僕にはいつでも重々しい波の音が聞えるんだ。縛られた野獣が海岸を歩いている。ずしり、ずしり』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.56」角川文庫)

不安ということ。長くなるがハイデッガーから引用したい。

「実存的にみれば、頽落において自己存在の本来性が閉塞され抑圧されていることはたしかである。けれども、この閉塞性は開示態の欠如にすぎないのであって、このことは、現存在の逃亡がおのれ自身に《臨んでの》逃亡であるということのうちに現象的に現われている。逃亡が《それ》に臨んで逃れていく《それ》のなかで、現存在は、逃亡する現存在の『あとから』かえって追いかけてくる。現存在が、存在論的にみて本質的に、おのれにそなわる開示態によってなんからのありさまで現存在自身の前へ連れだされているからこそ、現存在がおのれに臨んで《そこから》逃亡するということが可能なのである。もちろん、この頽落的背離においては、自分が何に臨んで逃亡するのかということが主題的に《とらえられて》いるわけではない。それどころか、そこへ就向する行き方のなかでそれが経験されているわけでさえない。しかし、そのものは、それからの背離のただなかでも、開示されてそこに(『現に』)あるのである。してみれば、実存的=存在的な背離も、それに固有の開示性格にもとづいて、逃亡が《それ》に臨んで逃れていく当のものを実存論的=存在論的にとらえる可能性を現象的に与えているわけである。背離のなかに含まれている存在的な《~からの離脱》の内部でも、それへ『向かって』現象学的解釈を加えれば、逃亡が何からの逃亡であるのかを理解し、概念的にこれを表明することができる。

したがって、分析の手がかりを頽落の現象に求めても、そのなかで開示される現存在についてなんらかの存在論的知見を得る見込みが原理的にないと決まったわけではない。むしろその反対に、われわれの解釈はここでこそ、現存在の作為的な自己把握のとりこになる怖れがもっとも少ないのである。解釈がなすべきことは、現存在自身が存在的に開示している事柄を明示的に展開することだけである。ある心境的了解の範囲内で、解釈的態度で現存在とともに歩み、そのあとをつけて歩みつつ、現存在の存在に迫っていくという可能性は、開示的な心境としての方法的機能をはたす現象が根源的なものであればあるほど、それだけ高まってくる。不安がそのような機能をはたすということは、さしあたりたんなる主張にすぎない。

われわれは、不安の分析にまったく不用意であるわけではない。もちろん、不安が怖れと存在論的にどう連関しているのかは、いまのところ明瞭ではない。しかし、明らかに、現象的な類似はある。その徴候は、このふたつの現象がたいていは分けられずにいて、怖れであるものが不安と呼ばれ、不安の性格をもつものが怖れとなづけられているという事実である。われわれは、不安の現象に一歩一歩迫っていこうと試みる。

現存在が世間と配慮される『世界』とへ頽落することを、われわれは、現存在自身からの『逃亡』となづけておいた。けれども、なにかに臨んでたじろぐこと、なにかから背離することが、みな必ず逃亡であるわけではない。怖れにもとづき、怖れが開示するものーーーおびやかすものーーーに臨んでたじろぐことが、すなわち逃亡という性格を帯びるのである。心境としての怖れについての解釈が示したところによれば、怖れが《それに》臨んで怖れるところの《もの》は、そのつど内世界的な、特定の方面から近くで近づいてくる、有害な、しかしそれてしまうかも知れない存在者である。これに反して、頽落においては、現存在はおのれ自身から背離する。この背離が《それに》臨んでたじろぐところのものも、一般に、おびやかすという性格をそなえていなくてはならないが、しかしそれは、たじろぐ存在者とおなじ存在様相をもつ存在者であり、それは現存在自身なのである。そのものは、『怖ろしいもの』という形でとらえられることはできない。なぜなら、『怖ろしいもの』というようなものは、いつも内世界的存在者として遭遇するものだからである。『怖ろしい』といわれうるただひとつのものは、怖れのなかで発見されるのであって、それはいつも世界の内部にある存在者の側からやってくるのである。

そしてこの逃亡は内世界的存在者に対する怖れにもとづいているのであるから、頽落の背離は、このような性格の逃亡ではない。そのような基礎をもつ逃亡の性格が頽落の背離にそなわっていないことは、この背離がかえって内世界的存在者に融けこむというありさまでこれらの存在者へ《就向する》ことからも明らかである。《頽落の背離は、むしろ不安にもとづくものであり、そしてこの不安がまた、怖れをもはじめて可能にするのである》。

現存在がおのれ自身から頽落的に逃亡するという言い方を理解するためには、この存在者の根本的構成としての世界=内=存在のことを想起しなくてはならない。《不安がそれに臨んで不安を覚えるところのものは、世界=内=存在そのものなのである》。不安がそれに臨んで不安になるところのものは、怖れがそれに臨んで怖れを抱くところのものと、現象的にみてどのようにことなっているであろうか。不安が臨んでいるところのものは、いかなる内世界的存在者でもない。そのさいかような存在者には、本質上いかなる趣向もなくなるのは、このためである。不安に含まれる脅威は、おびやかされた者に、なにか特定の事実的存在可能に関して襲ってくるような、特定の有害性をもっていない。不安の『対象』は、まったく無規定である。それが無規定であるために、世界の内部のどの存在者から危険が迫ってくるのかが事実上決定できないだけでなく、そもそもかような存在者は『問題にならなく』なっている。世界の内部で用具的にまた客体的に存在しているいかなるものの、不安が《それに》臨んで不安を覚えているものではない。用具的なものと客体的なものとの、内世界的に発見された趣向全体性は、そもそも全体として重要さを失う。それらはひとりでに崩壊する。世界はまったくの無意義という性格を帯びる。不安のなかでは、物騒なものとして特別の趣向をもつような特定のものは、なにひとつ出会わないのである。

したがってまた、あぶないものがどこそこから近づいてくるというような、特定の《ここ》や《あそこ》は、不安の眼には入らない。おびやかすものが《どこにもない》ということが、不安が《それに》臨んでおびえているところのものの特徴がある。不安は、自分が何に臨んで不安を覚えているのかを『知り』はしない。しかし、『どこにもない』ということは、なにもないということではなく、そのなかには、方面全般がーーー本質上空間的な内=存在にとっての世界全般の開示態がーーー含まれている。それゆえにまた、おびやかすものは近さの範囲内で特定の方向から近づいてくるものではありえない。それはすでに『そこに』現存しておりーーーしかも、どこにもない。それはひとの胸をしめつけて息もつけなくするほど切迫していて、しかも、どこにもない。

不安が臨んでいるところのもののうちに、『それは無であり、どこにもない』ということがあらわになる。内世界的にみれば無であり無処であるものが不安のなかでかくも煩わしく居坐っているということは、現象的に、《不安が臨んでいるものは世界そのものである》ということを告げているのである。無と無処において打ち明けられているまったくの無意義さは、世界の不在を意味するものではなく、内世界的存在者がそれ自体としてまったく意味を失い、そのため、内世界的なものごとのこの《無意義性》を背景にして、ただひとつ世界がその世界性においてなおも身に迫ってくる、ということなのである。

重苦しく迫ってくるものは、あれやこれやの客体的存在者ではなく、またそれらすべてを取り集めた合計でもなく、用具的存在者全般の《可能性》、すなわち世界そのものである。不安がひいたとき、日常的な話は《実はなんでもなかったのだ》と言うものである。この言い方は、じっさい、それが何であったかを言い当てている。日常的な話は、用具的なものごとの配慮と用談に打ちこんでいる。ところが、不安がそれに臨んで不安を覚えているところのものは、内世界的な用にそなわるなにものでもない。しかし、日常的な配視的な話が了解できるただひとつのもの、用具的存在者からみれば無であるにしても、それがただちに全面的な無であるわけではない。用具性の見地からみて無であるものは、もっとも根源的な『あるもの』、すなわち《世界》にもとづいているのである。しかるにこの世界は、存在論的にみれば、世界=内=存在としての現存在の存在に本質的にぞくしている。してみれば、不安が臨むところが無として、すなわち世界そのものとして明らかになるということは、実は、《不安がそれに臨んで不安を覚えているものは、世界=内=存在そのものである》、ということを意味するのである。

不安を覚えることが、根源的にかつ端的に世界を世界として開示する。まず反省的考慮によって内世界的存在者を度外視し、そのあとに残された世界だけを考えてみると、それを前にして不安が発生するというような次第ではない。不安こそ、心境の様態として、はじめて世界としての世界を開示するものなのである。けれどもこのことは、不安のなかで世界の世界性が理解されるということではない。

不安は~に臨んでの不安であるだけではなく、それは心境であるから、同時に、~《を案じて》の不安である。不安が何を案じての不安になるのかというと、それは現存在の《特定の》ありかたや可能性ではない。じっさい、不安の脅威そのものは、無規定なのであるから、それはあれこれの事実的に具体的な存在可能のなかへおびやかしつつ侵入してくることはできないのである。不安が《それを》案じて不安を覚える《ところの》ものは、世界=内=存在そのものである。不安のなかでは、環境的な用に具わっているものごと、一般に内世界的存在者は、崩れ落ちてしまう。『世界』も、またほかの人びとの共同現存在も、もはやなにものも提供することができなくなる。こうして不安は、頽落しつつ『世界』と公開的な既成解釈からおのれを了解する可能性を、現存在から奪い去る。不安は現存在を、現存在が《それを》案じて不安を抱いているところのものへーーーすなわち、おのれの本来的な世界=内=存在=可能へーーー投げかえす。不安は現存在をおのれのひとごとでない世界=内=存在へ孤独化し、そしてこの世界=内=存在は、了解的なるがゆえに、本質的にさまざまな可能性へむかって自己を投企するのである。したがって不安は、自分が何を案じて不安を抱くのかを開示するとともに、現存在を《可能存在として》ーーーしかも孤独化において孤独化されたものとしての現存在がひとえにおのれ自身によってのみ存在することのできる可能存在としてーーー開示するのである。

不安は現存在のうちに、ひとごとでない自己の存在可能へ《むかう存在》を、すなわち、自己自身をえらびこれを掌握する自由へ《むかって開かれている》という意味での《自由存在》を、あらわにする。不安は現存在を、現存在がはじめから存在してきた可能性としてのおのれの存在の本来性へむかって開かれているという、おのれの自由存在に直面させる。しかしこの存在は、とりもなおさず、現存在が世界=内=存在としてそれに引き渡されているところの存在なのである。

不安が《それを案じて》不安を覚えているところのものは、実は、不安が《それに臨んで》不安を覚えているところのものーーーすなわち世界=内=存在であることがあらわになった。不安が臨んでいるところのものと不安が案じているところのものとのこの自同性は、それにとどまらず、不安を抱くこと自身にも及ぶのである。なぜなら、このように不安を抱くことも、心境として、世界=内=存在の根本的様相のひとつだからである。このように、《開示することと開示されるものとが実存論的に同一であって、この開示されたものにおいて世界としての世界と孤独化された純粋な被投的存在可能としての内=存在とが開示されているということは》、われわれがとらえた《不安の現象によって、ひとつの際立った心境が解釈の主題となってきたということを明瞭に示すものである》。不安はひとを孤独化し、こうして現存在を《ただわれひとり》として開示する。けれどもこの実存論的『独我論』は、遊離した物的主観を無世界的な出現というたあいない空処に移転させるものではない。それはむしろ現存在を、極端な意味で世界としてのおのれの世界の前へ連れだし、こうして現存在自身を、世界=内=存在としてのおのれ自身に直面させるのである。

不安が根本的心境としてこのようなありさまで開示するということについては、日常的な現存在解意と話とが、ここでもやはりたくまざる証拠になっている。前に述べたように、心境は《(われともなく)どういう気がするか》ということをあらわにするものである。不安においては《(われともなく)『不気味』である》。そこにはまず、現存在が不安のなかで身をおいているところが、異様な無規定性をそなえていることが表現されている。すなわち、不安は、無と無処とをあらわにするのである。しかし不気味さという言葉は、それと同時に、落ち着いた家郷をもたぬ居心地のわるさをも意味している。われわれが現存在の根本的構成をはじめて現象的に告示して、内=存在の実存論的意味を『内部性』というカテゴリー的意義から区別して明示したときに、内=存在は~のもとに住まうこと、~と親しんでいること、として規定された。内=存在のこの性格は、その後、世間の日常的公開性によっていっそう具体的な姿で見られるようになった。すなわち、世間は現存在の平均的日常性のなかへ、くつろいだ安心感や当り前のような在宅感を取り入れてくるのである。これに反して、不安は現存在を、『世界』のなかへ頽落的に融けこんでいるありさまから、連れもどす。日常的な気安さは、崩れおちる。現存在は孤独化されるーーーとはいえ、あくまでも世界=内=存在《として》孤独化されるのである。こうして、内=存在は《居心地わるさ》という実存論的様態におちいる。『不気味さ』という言い方は、まさにこのことを指しているのである。

こうしてみると、逃亡としての頽落が何から逃亡するのかが、現象的に見えるようになる。それは内世界的存在者《から》逃亡するのではなく、かえってこのような存在者へーーーすなわち、配慮が世間のなかでわれを失って心安くくつろぐことのできるところへーーー逃亡するのである。公開性の居心地のよさへの頽落的な逃亡は、居心地のわるい不気味さ《からの》逃亡である。そしてその不気味さは、実は、その存在においておのれ自身に引き渡されている被投的な世界=内=存在としての現存在のうちに伏在しているのである。この不気味さはたえず現存在の隙をうかがっていて、それが世間のなかへ自己を日常的に喪失しているありさまを、それとなしにではあるが脅かしつづけている。この脅威は、事実的には、日常的配慮の完全な安心感や充足感と相携えていることがある。不安は、ごくありふれた状況のなかでも俄かにわき上ってくることがある。普通には暗やみのなかに居る方が不気味になりがちであるが、不安は必ずしも暗やみをまたなくとも起こる。とりわけ暗がりでは『何も』みえない、ーーーが、それだけに、世界はなおも、そしていよいよおしつけがましく『現存』するのである」(ハイデッガー「存在と時間・上・P.390~399」ちくま学芸文庫)

バーナードたちはこれから社会へ出る。不安な社会へ出る。しかし残された時間があともう少しだけある。

BGM