メイドの一人でスイス人のマリーは故郷の話をする。「山がとてもきれいなんです」。ラムジー夫人は瞬時に反応する。
「その話を聞いた途端、ちょうど陽光の中を飛んできた鳥の翼が静かに閉じる時、羽根の青さが明るい鋼(はがね)色から柔らかな紫に変わることがあるように、夫人の周囲のすべてが静まりかえり、柔らかく折りたたまれていくような気配がした」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.51~52」岩波文庫)
このときラムジー夫人はスイスの山々が織りなす様々な光景と合体し融合し分かちがたく一緒に《なる》。しかしそれはなぜ可能なのか。スピノザはいう。
「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)
ラムジー夫人について人々はいろいろと考える。
「彼女の単純素朴さは、知的で賢明な人々が捉えそこなうものを、正確につかんでいた。持ち前の純粋な精神で、小石のようにまっすぐ、小鳥のように的確に目指した所に向かうや、彼女の魂は、またたく間に舞い降りて獲物を捕らえる手際のよさで、一直線に真実をつかみ取ってみせるかのようだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.53」岩波文庫)
その「単純素朴さ」。何より「自然児」であること。そしてそれは人間にあらかじめ備わっており、子どもから大人になるにつれて急速に失われていく宿命にあるが、或る程度の知性と或る程度の感受性さえ大切にして生きていればそれほどの苦労などなくても手に入れられるものだ。ウルフはしばしばそのような自然児性を「鳥」という隠喩を用いて表現する。「またたく間に舞い降りて獲物を捕らえる手際のよさで、一直線に真実をつかみ取ってみせるかのよう」な迷いのない態度。それは「かのように」見えるのではなく、夫人が実際にそうである態度の持ち主だから「美しく」見え、その態度を実践しているときにこそ彼女は「美しい」。
バンクスはおもう。
「いや、あるいは彼女には、気品ある容姿などかなぐり捨ててしまいたいという、隠れた願望があるのかもしれない。美しさや男たちが美について語ることなどにはうんざりし、他の多くの人のように目立たぬ存在になりたいのかも。わからない、私にはわからない。そろそろ仕事に戻らねば」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.55」岩波文庫)
バンクスを通してウルフが顔を覗かせている。「容姿などかなぐり捨ててしまいたい」。同性愛支持者だったウルフは常日頃から女性という身体に束縛されて生きていかねばならないことに途方もない苦痛を感じていた。生を喜びとして、ではなく、むしろ苦痛の塊として受け取り苦悩し続けていた。ウルフは自分自身の身体を捨て去って身体という有機体から脱出し、身体に束縛されない「自由さ」を獲得することを願っていた。ウルフ作品の多くで重要人物が統合失調症か自殺かといった形を取りながら死んでしまう。女性の身体という有機体としての死〔女性という身体からの解放〕を迎える。そのわけは、登場してくる重要人物がほかでもないウルフの分身として描かれていることに起因する。
哲学者ラムジー氏はどんなことで理論化せずにはいられないタイプの学者である。非合理的におもえる発言を最も嫌う。だが夫人はごく当たり前の返事で答える。夫人の発言はもっともで、合理的な思考の中にいつも紛れ込んでくる非合理的世界のことを一生活者の立場から示唆しているに過ぎない。しかしラムジー氏にはそれが学問的な見地から見た非合理的発言に聞こえてしまう。
「明日灯台へなど行けるわけがないじゃないか、とラムジー氏は癇癪(かんしゃく)を起こして、吐き捨てるように言う。そうかしら、と夫人は答える。風向きなんて、よく変わるものですよ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.58」岩波文庫)
ここから一連の夫婦喧嘩が展開される。ラムジー氏は地団駄を踏んで怒りを露わにする。一方の夫人はあくまで冷静沈着で編物をしながら自分の場を動かずに対応する。社会的地位では氏のほうが圧倒的に上位だが、限定されてはいるものの、この場での態度という見地から見れば夫人のほうが圧倒的に上位に立つ。そして夫人はこうおもう。
「子どもはどんどん大きくなるのに、自分はただ皆の感情を吸いこむだけのスポンジのような気がしてきてーーー」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.59」岩波文庫)
家庭の中に収まった専業主婦はいわば「スポンジ」に等しい。それはウルフの考えだ。そして、おそらくだが、当時のイギリス女性というものはほとんどが「専業主婦としてのスポンジ」にほかならなかった。やがてはぼろ雑巾のようになり、実際にもほとんどぼろ雑巾として死んでいくほかなかったことをおもわせるに十分な箇所だろう。
次のセンテンスはラムジー氏が家に帰ってくるところだ。夫人は夫人なりの対応を取らなければならないと考える。するとその態度は子どものジェイムズから見た場合、この上ないエネルギーが傲然と立ち上がり光彩陸離たる生の輝きに満ちたもののように見える。しかし実際の夫人は編物を続けており、何ら立ち上がってなどいないわけだが。
「ラムジー夫人は、今や身を固く引き締めて、半ば振り返りながら無理に身体を起こすような仕草をしたかと思うと、突然大気中にあふれるほどの活力の雨、力強いしぶきの水柱を噴き上げるように見えた。その時彼女は全精力が溶け合って一つの大きな力となり、明るく燃え上がって光彩を放つかのようで、彼女自身の姿がこの上なく正気に満ちたものとなった(実際は夫人は腰を下ろしたまま、靴下を編んでいただけなのだが)」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.67~68」岩波文庫)
夫人は身体と力とへ分裂・分身する。だから、ここで「突然大気中にあふれるほどの活力の雨、力強いしぶきの水柱を噴き上げ」「全精力が溶け合って一つの大きな力となり、明るく燃え上がって光彩を放」っているのはラムジー夫人の身体ではなく、ラムジー夫人という名の「強度」なのだ。ところがこの強力な強度を無方向的に押し放つ夫人にも専業主婦特有の悩みがあった。
「もう一つ気になることがあって、それはむしろ夫には本当のことが話せないということだった。たとえば温室の屋根の修理をすると五十ポンドはかかりそうなことやーーー、さらには些細な日常の厄介事をあの人には隠しても、子どもたちは知っていて、それを少し重荷に感じているらしいことーーー」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.72」岩波文庫)
「温室の屋根の修理をすると五十ポンドはかかりそう」。極めて現実的な案件だ。そしてこの「屋根の修理費五十ポンド」は後になっても夫人が何か話をしていたり一人で空想をめぐらせていたりするとき、不意に何度でもよみがえってくる。彼女が無方向的に押し放つ「突然大気中にあふれるほど」の強力な強度は、それが強力であればあるほど、「温室の屋根の修理をすると五十ポンド」という案件にまで及ぶのであって、「専業主婦だから」という理由が先行しているわけではない。むしろラムジー氏のほうがそれを忘れて大学での職に安住していられるのは夫人の思考の範囲ならびに速度すなわち「力」に依存していられる限りにおいてである。
ラムジー夫人は細かいことにも実によく気が利く女性である。そして周囲の女性と比較すると少しばかり美しい容貌の持ち主でもある。さらにその美貌に溺れることなくごく普通に振る舞おうとする。その態度がさらなる感嘆と賞賛を夫人に与えずにはおかない。だが、夫人自身はそのような感嘆と賞賛に応えることにいささか疲れてきてはいるのだ。
「夫人は、自分でも意識せずにはいられなかったが、いわば美という炬火(たいまつ)を絶えず高く捧げ持っているようなものだった。その炬火を、彼女は自分が赴く所どこへでも持ち運ぶ。時にはヴェールで包み隠そうとも、あるいは美がもたらしがちな振舞いの単調さに戸惑うことはあっても、彼女の美しさは隠せなかった。夫人はどこでも賞賛され、いつでも愛された」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.75~76」岩波文庫)
猫になったカーマイケルがやってきた。さすがというべきか猫だけあって、夫人の心の中の暗い部分をすでに見抜いている。学者としては失格者で猫としても冴えないカーマイケルなのだが、むしろそれゆえに夫人から距離を置いてよく見えてしまうものがあるのかもしれない。夫人は猫と化したカーマイケルに自分の内面を覗き込まれてしまったようで、やや疲弊を感じる。
「黄色いスリッパをはいて手に本を抱えたカーマイケルさんが、わたしの質問にはいい加減にうなずくだけで通り過ぎようとした時、自分がうさん臭い目で見られているのではと感じ、結局いろいろな人に与えたい、助けてあげたいと思う自分の気持ちも、虚栄心にすぎないのではないかと思わさせたのだ。本能的に与えたり、助けたりしたくなるのも、所詮は自己満足のためで、『ああラムジー夫人、もちろんあの人出なきゃ!』と皆に言ってもらったり、必要とされ、頼られ、ほめられたりしたい、というだけのことなのか?自分がひそかに望んでいるのはたったそれだけのことで、だから今みたいにカーマイケルさんがわたしを避けて、どこか隅の方で文字遊びの詩に耽り始めたりすると、単にはねつけられたというよりも、自分の中にも確かにある卑しさを思い知らされたり、順調な場合でも人間関係というものが、いかに卑小で当てにならず、自分勝手なものかについて考えさせられたりするのかもしれない」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.76~77」岩波文庫)
リリーはラムジー夫人の信奉者であると同時に夫人を愛している。ラムジー夫人に対するリリーの感情は同性愛者のそれである。ここでも夫人は「鳥」に喩えられている。そして「鳥」はその生き方において「自由さ」と「余裕」であり、その「矢のよう」な速度と「まっすぐさ」において「力への意志」である。
「たとえばソファの隅に落ちていた手袋を見て、その指のねじれ具合から間違いなく彼女のものとわかるような、そんな夫人ならではの特質とは何だろう?夫人は鳥のように素早く、矢のようにまっすぐ突き進む」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.90」岩波文庫)
リリーは遂に夫人の美の厳粛さの謎を解いたような気がする。それはラムジー夫人が彼女特有の「人を寄せつけぬ聖域」を維持していることと関係がある。ニーチェのいう「距離の感じ」を夫人は無意識のうちに自分自身の身体の一部分を構成する精神的傾向として保存している。
「夫人が、到底理解できないはずの運命を、自分では平然と支配した気になっているのが、いかにも滑稽に思えたからだ。そんなことがあっても、夫人は相変わらず素朴で大真面目な顔をして、じっとすわったままだった。その時わたしは、夫人のエッセンスをつかんだ気がしたーーーこれこそ手袋のねじれた指ではないか。それにしても、何と厳かで人を寄せつけぬ聖域に踏み込んでしまったことだろう。リリーはやっとの思いで顔をあげたが、夫人はリリーが何を笑っていたのかは全く知らず、それでもその場を支配していた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.92」岩波文庫)
もっとも、ラムジー夫人が「その場を支配」できる理由は夫人が「美しいか美しくないか」という問題とは関係がない。というより、ラムジー夫人は「その場」に限らず「その場」でこれから起こるであろうことだけでなく、起こるかもしれないし起こらないかもしれない様々な事柄についていつも気配りを忘れない気性の持ち主であり、ただそのような思考を実践しているだけなのだ。それが周囲から見れば「美しい」と映る。とすれば周囲はよほどだらしないのだろうか。そうでもない。ラムジー夫人の思考は気配りにおいても速度においても周囲を圧倒している。人間社会ではそれが「美」に変換されて見える。ニーチェのいう遠近法的倒錯が起こっている。だからといって、転倒を再転倒させていわば「正立」させてみたとしても、単純に夫人が実は「不美人」だということにはならない。再転倒させる場合、再転倒させる側も同時に再転倒する必要があるからであって、結局のところ事態は変わらない。さらにこの「美」の印象はラムジー夫人が多少なりともいわゆる美人の類に属して見られている限り、なお一層彼女の「美」は真実味を帯びて強靭化してくる。おそらく事情はそうだ。また、リリーはラムジー夫人に甘えきっている。もちろんそれは夫人の気持ちを傷つけるものではない。リリーは夫人を同性として愛している。リリーはウルフの分身=同性愛者に《なる》。
「床にすわったまま、両腕をラムジー夫人の膝に強く巻きつけ、こんなに強く抱きしめる理由は夫人にはわかるまいと思って微笑みながら、リリーはさらに考え続けた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.93」岩波文庫)
次のリリーの思考は重要だろう。「自分の憧れの対象と分かちがたく一つに溶け合う」ことを願うが、そのためには互いが身体という有機体の中に束縛されていてはかなわない。「頭の複雑な回路を絡み合わせ」てみてもますます遠のくばかりだろう。
「一つの瓶に二種類の水を注ぎ込むように、自分の憧れの対象と分かちがたく一つに溶け合うには、どうすればよいのか?それができるのは肉体か、あるいは頭の複雑な回路を絡み合わせる精神か、それとも心か?よく言われるように、愛し合いさえすれば、わたしと夫人は一つになれるのか?というのもわたしが望むのは、知識を得ることなどでなく一体になること、碑文であれ何であれ文字で書き表わされうるものではなく、それこそが本当の知識であるはずの、言葉にならない親密感に他ならないのだから」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.93~94」岩波文庫)
リリーは思考しつつこう考える。「一体になること、碑文であれ何であれ文字で書き表わされうるものではなく、それこそが本当の知識であるはずの、言葉にならない親密感」。だがしかし、このことは当時のイギリスの資本主義社会では極めて単純な形態で果たされてはいたのだ。いったん分割されたものどうしが再び「一体になる」ために必要なのは貨幣であり、流通貨幣は日々この「それぞれに違った個別的なもの」の「等価化」を実現させながら社会全体を動かしていた。「碑文であれ何であれ文字で書き表わされうるものではな」いものどうしの《あいだ》を媒介する貨幣というもの。女性どうしが女性どうしで「貨幣のように」一体となることは可能か。一個の五百円玉ともう一個の五百円玉とを差し出せばただ一枚の一〇〇〇円札に合体して戻ってくるように。貨幣にせよ言語にせよその機能はそれぞれに違った個別的なものどうしを対面させて交換関係に置き、同時に両者を暴力的に「等価化」してしまう社会的装置である。さしあたりマルクスを参照しておきたい。
「労働生産物は、それらの交換のなかではじめてそれらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受け取るのである。このような、有用物と価値物とへの労働生産物の分裂は、交換がすでに十分な広がりと重要さをもつようになり、したがって有用な諸物が交換のために生産され、したがって諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのものにさいして考慮されるようになったときに、はじめて実際に実証されるのである。この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は実際に一つの二重な社会的性格を受け取る。それは、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分の総労働の諸環として、社会的分業の自然発生的体制の諸環として、実証しなければならない。他面では、私的諸労働がそれら自身の生産者たちのさまざまな欲望を満足させるのは、ただ、特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと交換可能であり、したがってこれと同等と認められるかぎりでのことである。互いにまったく違っている諸労働の同等性は、ただ、諸労働の現実の不等性の捨象にしかありえない。すなわち、諸労働が人間の労働力の支出、抽象的人間労働としてもっている共通な性格への還元にしかありえない。私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換で現われる諸形態でのみ反映させ、ーーーしたがって彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が有用でなければならないという、しかも他人のために有用でなければならないという形態で反映させーーー、異種の諸労働の同等性という社会的性格を、これらの物質的に違った諸物の、諸生産物の、共通な価値性格という形態で反映させるのである。だから、人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行なうのである。それゆえ、価値の額(ひたい)に価値とはなんであるかが書いてあるのではない。価値は、むしろ、それぞれの労働生産物を一つの社会的な象形文字にするのである。あとになって、人間は象形文字の意味を解いて彼ら自身の社会的な産物の秘密を探りだそうとする。なぜならば、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的な産物だからである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.137~138」国民文庫)
次の場面でバンクスはリリーの絵(ラムジー夫人とその息子ジェイムズとが描かれた母子像)が理解できないという。そこでリリーは自分の絵画論を語って聞かせる。
「でもあの絵はあの二人の絵ではないんです、少なくともバンクスさんが考えているような意味では。敬愛の表現の仕方、感じ方にはいろいろあるはずです、とリリーは言う、たとえばここに影をおき反対側に光をおくーーーそれがわたしの賛辞が取る形(フォーム)なんです。わたしだって、ぼんやりとですが、絵画というのはある種の賛辞であるべきだ、とは思っています。母子の姿が影にされても不謹慎にはならない、こちらの光があちらの影を要求するのだから」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.97」岩波文庫)
ここでリリーが語る絵画論はそれほど目新しいものではない。逆説的な言い方になるが、変化と幻惑のうちに進行する確かなものを、ひとかたまりの「ヴィジョン」として捉え絵画形式を採用して定着させようという試みだ。
「彼女は以前からの立ち場所に再び立つと、むしろ目をかすませる気持ちをうつろにさえしながら、一人の女性として受けるさまざまな印象を、もっとはるかに一般的で非個人的な感覚に包みこもうとした。それは、あのヴィジョンの力の元にもう一度身を置きたかったからで、そのヴィジョンとは、一度は確かに明瞭に見届けられながら、今では失われ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.98」岩波文庫)
「船出」でも「ダロウェイ夫人」でもそうだった。「うつろ」になること。朦朧とした恍惚になること。恍惚の中で恍惚そのものと化すこと。官能と共歓と豊饒としてディオニュソスを生きること。そのとき人は揺れ動く転変のうちにあるほかない。リリーのいうことはもっともな話だ。「あのヴィジョンの力」は「一度は確かに明瞭に見届けられながら、今では失われ」たものでしかない。確かだったものはすべて失われたのであり、それは個人の力で取り戻すことはもはやできないものでもある。かつては実在したであろうオリジナルなものはすべて失われ去っており、代わってシミュラクル(模倣)とシミュレーション(複製)ばかりによって再生産される世界が茫漠として打ち広がっている。そこで人間は現在と記憶の《あいだ》を行ったり来たりするばかりだ。常に揺曳する。「揺らぎ」としてしか考えられないし表象されもしない。そして人間は実にしばしば自分自身が「揺らぎそのもの」である。「あのヴィジョン」=「特定の不連続な点のように凝縮された一瞬の光景」は常に始まりもなければ終わりもない持続の中へ溶け去っていくばかりだ。
「不連続性は、それらが現れるとき背景となっているものの連続性から浮かび上がってくる。また、それらを引き離している間隔はその連続性のおかげで存在する。それらは、交響曲のところどころで鳴り響くティンパニのようなものである。われわれの注意がそれらに固定されるのは、それらが他の出来事よりも注意を惹くからである。しかしそれらの出来事はそれぞれ、われわれの心理学的存在全体の流動的な固まりによって運ばれている。それらは、われわれが感じ、考え、意志しているものを、つまりある一定の瞬間のわれわれのすべてを含む、動く帯の最も明るく照らし出された点でしかない。事実、この帯全体がわれわれの状態を構成するのである。さて、このように定義される状態ははっきり区別される要素ではないと言うことができる。それらは互いに連続し合い、終わりなき流れとなるのだ」(ベルクソン「創造的進化・P.19~20」ちくま学芸文庫)
「われわれの状態はそれぞれ、われわれがみずからにちょうど与えたばかりの新しい形式であって、われわれから生じると同時に、われわれの人格を変える。それゆえ、われわれがすることは、われわれが何であるのかに依存している、と言うのは正しい。しかし、われわれとはある程度われわれが為していることなのであって、われわれは連続的にみずからを創造しているのだ、と付け加えなければならない」(ベルクソン「創造的進化・P.24~25」ちくま学芸文庫)
ラムジー夫人はまた言語へ疑いの目を向けざるをえない。
「言葉は井戸の中に落ちていくようで、その井戸の水はたとえ澄んでいても物の形をひどく歪めてしまうため、水底にたどり着く頃にはどのような姿になり果てているか、想像もつかない」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.101」岩波文庫)
言語についてニーチェはいう。
「《音楽と比較》すれば《言葉》によるすべての伝達は破廉恥(はれんち)なやり方である。言葉は稀薄ならしめ愚昧(ぐまい)ならしめる。言葉は没人格的ならしめる。言葉は凡俗ならざるものを凡俗ならしめる」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八一〇・P.325」ちくま学芸文庫)
ウルフは言語に絶望しながらも言語のみを武器として書き続ける。ウルフはますます深くなる絶望を生きる近代的知識人のプロトタイプの一つとして自分の生をさらに延長させていく。
BGM
「その話を聞いた途端、ちょうど陽光の中を飛んできた鳥の翼が静かに閉じる時、羽根の青さが明るい鋼(はがね)色から柔らかな紫に変わることがあるように、夫人の周囲のすべてが静まりかえり、柔らかく折りたたまれていくような気配がした」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.51~52」岩波文庫)
このときラムジー夫人はスイスの山々が織りなす様々な光景と合体し融合し分かちがたく一緒に《なる》。しかしそれはなぜ可能なのか。スピノザはいう。
「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)
ラムジー夫人について人々はいろいろと考える。
「彼女の単純素朴さは、知的で賢明な人々が捉えそこなうものを、正確につかんでいた。持ち前の純粋な精神で、小石のようにまっすぐ、小鳥のように的確に目指した所に向かうや、彼女の魂は、またたく間に舞い降りて獲物を捕らえる手際のよさで、一直線に真実をつかみ取ってみせるかのようだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.53」岩波文庫)
その「単純素朴さ」。何より「自然児」であること。そしてそれは人間にあらかじめ備わっており、子どもから大人になるにつれて急速に失われていく宿命にあるが、或る程度の知性と或る程度の感受性さえ大切にして生きていればそれほどの苦労などなくても手に入れられるものだ。ウルフはしばしばそのような自然児性を「鳥」という隠喩を用いて表現する。「またたく間に舞い降りて獲物を捕らえる手際のよさで、一直線に真実をつかみ取ってみせるかのよう」な迷いのない態度。それは「かのように」見えるのではなく、夫人が実際にそうである態度の持ち主だから「美しく」見え、その態度を実践しているときにこそ彼女は「美しい」。
バンクスはおもう。
「いや、あるいは彼女には、気品ある容姿などかなぐり捨ててしまいたいという、隠れた願望があるのかもしれない。美しさや男たちが美について語ることなどにはうんざりし、他の多くの人のように目立たぬ存在になりたいのかも。わからない、私にはわからない。そろそろ仕事に戻らねば」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.55」岩波文庫)
バンクスを通してウルフが顔を覗かせている。「容姿などかなぐり捨ててしまいたい」。同性愛支持者だったウルフは常日頃から女性という身体に束縛されて生きていかねばならないことに途方もない苦痛を感じていた。生を喜びとして、ではなく、むしろ苦痛の塊として受け取り苦悩し続けていた。ウルフは自分自身の身体を捨て去って身体という有機体から脱出し、身体に束縛されない「自由さ」を獲得することを願っていた。ウルフ作品の多くで重要人物が統合失調症か自殺かといった形を取りながら死んでしまう。女性の身体という有機体としての死〔女性という身体からの解放〕を迎える。そのわけは、登場してくる重要人物がほかでもないウルフの分身として描かれていることに起因する。
哲学者ラムジー氏はどんなことで理論化せずにはいられないタイプの学者である。非合理的におもえる発言を最も嫌う。だが夫人はごく当たり前の返事で答える。夫人の発言はもっともで、合理的な思考の中にいつも紛れ込んでくる非合理的世界のことを一生活者の立場から示唆しているに過ぎない。しかしラムジー氏にはそれが学問的な見地から見た非合理的発言に聞こえてしまう。
「明日灯台へなど行けるわけがないじゃないか、とラムジー氏は癇癪(かんしゃく)を起こして、吐き捨てるように言う。そうかしら、と夫人は答える。風向きなんて、よく変わるものですよ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.58」岩波文庫)
ここから一連の夫婦喧嘩が展開される。ラムジー氏は地団駄を踏んで怒りを露わにする。一方の夫人はあくまで冷静沈着で編物をしながら自分の場を動かずに対応する。社会的地位では氏のほうが圧倒的に上位だが、限定されてはいるものの、この場での態度という見地から見れば夫人のほうが圧倒的に上位に立つ。そして夫人はこうおもう。
「子どもはどんどん大きくなるのに、自分はただ皆の感情を吸いこむだけのスポンジのような気がしてきてーーー」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.59」岩波文庫)
家庭の中に収まった専業主婦はいわば「スポンジ」に等しい。それはウルフの考えだ。そして、おそらくだが、当時のイギリス女性というものはほとんどが「専業主婦としてのスポンジ」にほかならなかった。やがてはぼろ雑巾のようになり、実際にもほとんどぼろ雑巾として死んでいくほかなかったことをおもわせるに十分な箇所だろう。
次のセンテンスはラムジー氏が家に帰ってくるところだ。夫人は夫人なりの対応を取らなければならないと考える。するとその態度は子どものジェイムズから見た場合、この上ないエネルギーが傲然と立ち上がり光彩陸離たる生の輝きに満ちたもののように見える。しかし実際の夫人は編物を続けており、何ら立ち上がってなどいないわけだが。
「ラムジー夫人は、今や身を固く引き締めて、半ば振り返りながら無理に身体を起こすような仕草をしたかと思うと、突然大気中にあふれるほどの活力の雨、力強いしぶきの水柱を噴き上げるように見えた。その時彼女は全精力が溶け合って一つの大きな力となり、明るく燃え上がって光彩を放つかのようで、彼女自身の姿がこの上なく正気に満ちたものとなった(実際は夫人は腰を下ろしたまま、靴下を編んでいただけなのだが)」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.67~68」岩波文庫)
夫人は身体と力とへ分裂・分身する。だから、ここで「突然大気中にあふれるほどの活力の雨、力強いしぶきの水柱を噴き上げ」「全精力が溶け合って一つの大きな力となり、明るく燃え上がって光彩を放」っているのはラムジー夫人の身体ではなく、ラムジー夫人という名の「強度」なのだ。ところがこの強力な強度を無方向的に押し放つ夫人にも専業主婦特有の悩みがあった。
「もう一つ気になることがあって、それはむしろ夫には本当のことが話せないということだった。たとえば温室の屋根の修理をすると五十ポンドはかかりそうなことやーーー、さらには些細な日常の厄介事をあの人には隠しても、子どもたちは知っていて、それを少し重荷に感じているらしいことーーー」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.72」岩波文庫)
「温室の屋根の修理をすると五十ポンドはかかりそう」。極めて現実的な案件だ。そしてこの「屋根の修理費五十ポンド」は後になっても夫人が何か話をしていたり一人で空想をめぐらせていたりするとき、不意に何度でもよみがえってくる。彼女が無方向的に押し放つ「突然大気中にあふれるほど」の強力な強度は、それが強力であればあるほど、「温室の屋根の修理をすると五十ポンド」という案件にまで及ぶのであって、「専業主婦だから」という理由が先行しているわけではない。むしろラムジー氏のほうがそれを忘れて大学での職に安住していられるのは夫人の思考の範囲ならびに速度すなわち「力」に依存していられる限りにおいてである。
ラムジー夫人は細かいことにも実によく気が利く女性である。そして周囲の女性と比較すると少しばかり美しい容貌の持ち主でもある。さらにその美貌に溺れることなくごく普通に振る舞おうとする。その態度がさらなる感嘆と賞賛を夫人に与えずにはおかない。だが、夫人自身はそのような感嘆と賞賛に応えることにいささか疲れてきてはいるのだ。
「夫人は、自分でも意識せずにはいられなかったが、いわば美という炬火(たいまつ)を絶えず高く捧げ持っているようなものだった。その炬火を、彼女は自分が赴く所どこへでも持ち運ぶ。時にはヴェールで包み隠そうとも、あるいは美がもたらしがちな振舞いの単調さに戸惑うことはあっても、彼女の美しさは隠せなかった。夫人はどこでも賞賛され、いつでも愛された」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.75~76」岩波文庫)
猫になったカーマイケルがやってきた。さすがというべきか猫だけあって、夫人の心の中の暗い部分をすでに見抜いている。学者としては失格者で猫としても冴えないカーマイケルなのだが、むしろそれゆえに夫人から距離を置いてよく見えてしまうものがあるのかもしれない。夫人は猫と化したカーマイケルに自分の内面を覗き込まれてしまったようで、やや疲弊を感じる。
「黄色いスリッパをはいて手に本を抱えたカーマイケルさんが、わたしの質問にはいい加減にうなずくだけで通り過ぎようとした時、自分がうさん臭い目で見られているのではと感じ、結局いろいろな人に与えたい、助けてあげたいと思う自分の気持ちも、虚栄心にすぎないのではないかと思わさせたのだ。本能的に与えたり、助けたりしたくなるのも、所詮は自己満足のためで、『ああラムジー夫人、もちろんあの人出なきゃ!』と皆に言ってもらったり、必要とされ、頼られ、ほめられたりしたい、というだけのことなのか?自分がひそかに望んでいるのはたったそれだけのことで、だから今みたいにカーマイケルさんがわたしを避けて、どこか隅の方で文字遊びの詩に耽り始めたりすると、単にはねつけられたというよりも、自分の中にも確かにある卑しさを思い知らされたり、順調な場合でも人間関係というものが、いかに卑小で当てにならず、自分勝手なものかについて考えさせられたりするのかもしれない」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.76~77」岩波文庫)
リリーはラムジー夫人の信奉者であると同時に夫人を愛している。ラムジー夫人に対するリリーの感情は同性愛者のそれである。ここでも夫人は「鳥」に喩えられている。そして「鳥」はその生き方において「自由さ」と「余裕」であり、その「矢のよう」な速度と「まっすぐさ」において「力への意志」である。
「たとえばソファの隅に落ちていた手袋を見て、その指のねじれ具合から間違いなく彼女のものとわかるような、そんな夫人ならではの特質とは何だろう?夫人は鳥のように素早く、矢のようにまっすぐ突き進む」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.90」岩波文庫)
リリーは遂に夫人の美の厳粛さの謎を解いたような気がする。それはラムジー夫人が彼女特有の「人を寄せつけぬ聖域」を維持していることと関係がある。ニーチェのいう「距離の感じ」を夫人は無意識のうちに自分自身の身体の一部分を構成する精神的傾向として保存している。
「夫人が、到底理解できないはずの運命を、自分では平然と支配した気になっているのが、いかにも滑稽に思えたからだ。そんなことがあっても、夫人は相変わらず素朴で大真面目な顔をして、じっとすわったままだった。その時わたしは、夫人のエッセンスをつかんだ気がしたーーーこれこそ手袋のねじれた指ではないか。それにしても、何と厳かで人を寄せつけぬ聖域に踏み込んでしまったことだろう。リリーはやっとの思いで顔をあげたが、夫人はリリーが何を笑っていたのかは全く知らず、それでもその場を支配していた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.92」岩波文庫)
もっとも、ラムジー夫人が「その場を支配」できる理由は夫人が「美しいか美しくないか」という問題とは関係がない。というより、ラムジー夫人は「その場」に限らず「その場」でこれから起こるであろうことだけでなく、起こるかもしれないし起こらないかもしれない様々な事柄についていつも気配りを忘れない気性の持ち主であり、ただそのような思考を実践しているだけなのだ。それが周囲から見れば「美しい」と映る。とすれば周囲はよほどだらしないのだろうか。そうでもない。ラムジー夫人の思考は気配りにおいても速度においても周囲を圧倒している。人間社会ではそれが「美」に変換されて見える。ニーチェのいう遠近法的倒錯が起こっている。だからといって、転倒を再転倒させていわば「正立」させてみたとしても、単純に夫人が実は「不美人」だということにはならない。再転倒させる場合、再転倒させる側も同時に再転倒する必要があるからであって、結局のところ事態は変わらない。さらにこの「美」の印象はラムジー夫人が多少なりともいわゆる美人の類に属して見られている限り、なお一層彼女の「美」は真実味を帯びて強靭化してくる。おそらく事情はそうだ。また、リリーはラムジー夫人に甘えきっている。もちろんそれは夫人の気持ちを傷つけるものではない。リリーは夫人を同性として愛している。リリーはウルフの分身=同性愛者に《なる》。
「床にすわったまま、両腕をラムジー夫人の膝に強く巻きつけ、こんなに強く抱きしめる理由は夫人にはわかるまいと思って微笑みながら、リリーはさらに考え続けた」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.93」岩波文庫)
次のリリーの思考は重要だろう。「自分の憧れの対象と分かちがたく一つに溶け合う」ことを願うが、そのためには互いが身体という有機体の中に束縛されていてはかなわない。「頭の複雑な回路を絡み合わせ」てみてもますます遠のくばかりだろう。
「一つの瓶に二種類の水を注ぎ込むように、自分の憧れの対象と分かちがたく一つに溶け合うには、どうすればよいのか?それができるのは肉体か、あるいは頭の複雑な回路を絡み合わせる精神か、それとも心か?よく言われるように、愛し合いさえすれば、わたしと夫人は一つになれるのか?というのもわたしが望むのは、知識を得ることなどでなく一体になること、碑文であれ何であれ文字で書き表わされうるものではなく、それこそが本当の知識であるはずの、言葉にならない親密感に他ならないのだから」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.93~94」岩波文庫)
リリーは思考しつつこう考える。「一体になること、碑文であれ何であれ文字で書き表わされうるものではなく、それこそが本当の知識であるはずの、言葉にならない親密感」。だがしかし、このことは当時のイギリスの資本主義社会では極めて単純な形態で果たされてはいたのだ。いったん分割されたものどうしが再び「一体になる」ために必要なのは貨幣であり、流通貨幣は日々この「それぞれに違った個別的なもの」の「等価化」を実現させながら社会全体を動かしていた。「碑文であれ何であれ文字で書き表わされうるものではな」いものどうしの《あいだ》を媒介する貨幣というもの。女性どうしが女性どうしで「貨幣のように」一体となることは可能か。一個の五百円玉ともう一個の五百円玉とを差し出せばただ一枚の一〇〇〇円札に合体して戻ってくるように。貨幣にせよ言語にせよその機能はそれぞれに違った個別的なものどうしを対面させて交換関係に置き、同時に両者を暴力的に「等価化」してしまう社会的装置である。さしあたりマルクスを参照しておきたい。
「労働生産物は、それらの交換のなかではじめてそれらの感覚的に違った使用対象性から分離された社会的に同等な価値対象性を受け取るのである。このような、有用物と価値物とへの労働生産物の分裂は、交換がすでに十分な広がりと重要さをもつようになり、したがって有用な諸物が交換のために生産され、したがって諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのものにさいして考慮されるようになったときに、はじめて実際に実証されるのである。この瞬間から、生産者たちの私的諸労働は実際に一つの二重な社会的性格を受け取る。それは、一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分の総労働の諸環として、社会的分業の自然発生的体制の諸環として、実証しなければならない。他面では、私的諸労働がそれら自身の生産者たちのさまざまな欲望を満足させるのは、ただ、特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと交換可能であり、したがってこれと同等と認められるかぎりでのことである。互いにまったく違っている諸労働の同等性は、ただ、諸労働の現実の不等性の捨象にしかありえない。すなわち、諸労働が人間の労働力の支出、抽象的人間労働としてもっている共通な性格への還元にしかありえない。私的生産者たちの頭脳は、彼らの私的諸労働のこの二重の社会的性格を、実際の交易、生産物交換で現われる諸形態でのみ反映させ、ーーーしたがって彼らの私的諸労働の社会的に有用な性格を、労働生産物が有用でなければならないという、しかも他人のために有用でなければならないという形態で反映させーーー、異種の諸労働の同等性という社会的性格を、これらの物質的に違った諸物の、諸生産物の、共通な価値性格という形態で反映させるのである。だから、人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行なうのである。それゆえ、価値の額(ひたい)に価値とはなんであるかが書いてあるのではない。価値は、むしろ、それぞれの労働生産物を一つの社会的な象形文字にするのである。あとになって、人間は象形文字の意味を解いて彼ら自身の社会的な産物の秘密を探りだそうとする。なぜならば、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的な産物だからである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.137~138」国民文庫)
次の場面でバンクスはリリーの絵(ラムジー夫人とその息子ジェイムズとが描かれた母子像)が理解できないという。そこでリリーは自分の絵画論を語って聞かせる。
「でもあの絵はあの二人の絵ではないんです、少なくともバンクスさんが考えているような意味では。敬愛の表現の仕方、感じ方にはいろいろあるはずです、とリリーは言う、たとえばここに影をおき反対側に光をおくーーーそれがわたしの賛辞が取る形(フォーム)なんです。わたしだって、ぼんやりとですが、絵画というのはある種の賛辞であるべきだ、とは思っています。母子の姿が影にされても不謹慎にはならない、こちらの光があちらの影を要求するのだから」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.97」岩波文庫)
ここでリリーが語る絵画論はそれほど目新しいものではない。逆説的な言い方になるが、変化と幻惑のうちに進行する確かなものを、ひとかたまりの「ヴィジョン」として捉え絵画形式を採用して定着させようという試みだ。
「彼女は以前からの立ち場所に再び立つと、むしろ目をかすませる気持ちをうつろにさえしながら、一人の女性として受けるさまざまな印象を、もっとはるかに一般的で非個人的な感覚に包みこもうとした。それは、あのヴィジョンの力の元にもう一度身を置きたかったからで、そのヴィジョンとは、一度は確かに明瞭に見届けられながら、今では失われ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.98」岩波文庫)
「船出」でも「ダロウェイ夫人」でもそうだった。「うつろ」になること。朦朧とした恍惚になること。恍惚の中で恍惚そのものと化すこと。官能と共歓と豊饒としてディオニュソスを生きること。そのとき人は揺れ動く転変のうちにあるほかない。リリーのいうことはもっともな話だ。「あのヴィジョンの力」は「一度は確かに明瞭に見届けられながら、今では失われ」たものでしかない。確かだったものはすべて失われたのであり、それは個人の力で取り戻すことはもはやできないものでもある。かつては実在したであろうオリジナルなものはすべて失われ去っており、代わってシミュラクル(模倣)とシミュレーション(複製)ばかりによって再生産される世界が茫漠として打ち広がっている。そこで人間は現在と記憶の《あいだ》を行ったり来たりするばかりだ。常に揺曳する。「揺らぎ」としてしか考えられないし表象されもしない。そして人間は実にしばしば自分自身が「揺らぎそのもの」である。「あのヴィジョン」=「特定の不連続な点のように凝縮された一瞬の光景」は常に始まりもなければ終わりもない持続の中へ溶け去っていくばかりだ。
「不連続性は、それらが現れるとき背景となっているものの連続性から浮かび上がってくる。また、それらを引き離している間隔はその連続性のおかげで存在する。それらは、交響曲のところどころで鳴り響くティンパニのようなものである。われわれの注意がそれらに固定されるのは、それらが他の出来事よりも注意を惹くからである。しかしそれらの出来事はそれぞれ、われわれの心理学的存在全体の流動的な固まりによって運ばれている。それらは、われわれが感じ、考え、意志しているものを、つまりある一定の瞬間のわれわれのすべてを含む、動く帯の最も明るく照らし出された点でしかない。事実、この帯全体がわれわれの状態を構成するのである。さて、このように定義される状態ははっきり区別される要素ではないと言うことができる。それらは互いに連続し合い、終わりなき流れとなるのだ」(ベルクソン「創造的進化・P.19~20」ちくま学芸文庫)
「われわれの状態はそれぞれ、われわれがみずからにちょうど与えたばかりの新しい形式であって、われわれから生じると同時に、われわれの人格を変える。それゆえ、われわれがすることは、われわれが何であるのかに依存している、と言うのは正しい。しかし、われわれとはある程度われわれが為していることなのであって、われわれは連続的にみずからを創造しているのだ、と付け加えなければならない」(ベルクソン「創造的進化・P.24~25」ちくま学芸文庫)
ラムジー夫人はまた言語へ疑いの目を向けざるをえない。
「言葉は井戸の中に落ちていくようで、その井戸の水はたとえ澄んでいても物の形をひどく歪めてしまうため、水底にたどり着く頃にはどのような姿になり果てているか、想像もつかない」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.101」岩波文庫)
言語についてニーチェはいう。
「《音楽と比較》すれば《言葉》によるすべての伝達は破廉恥(はれんち)なやり方である。言葉は稀薄ならしめ愚昧(ぐまい)ならしめる。言葉は没人格的ならしめる。言葉は凡俗ならざるものを凡俗ならしめる」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八一〇・P.325」ちくま学芸文庫)
ウルフは言語に絶望しながらも言語のみを武器として書き続ける。ウルフはますます深くなる絶望を生きる近代的知識人のプロトタイプの一つとして自分の生をさらに延長させていく。
BGM