白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「灯台へ」/美の犯罪11

2019年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム
リリーは夫人の幻影を「いつも作り直さなければならないのだった」。

「すぐに間に割って入り、彼女をたしなめて目覚めさせるとともに、最後には強引に注意を引きつけるものだから、夫人の幻影(ヴィジョン)はいつも作り直さなければならないのだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.353」岩波文庫)

とすれば、夫人の幻影は「いつも作り直」すことができるものでもある。何度でも描き直すことができる。修正可能だ。では修正可能なのはなぜなのか。むしろ何度も修正を迫ってくるのはなぜなのか。はっきりしたヴィジョンを得ていないことによる。しかしはっきりしたヴィジョンとはこの場合どういうことをいうのか。ラカン用語から引用したい。夫人の幻影というヴィジョンをリリーが持っているとしても、その幻影(ヴィジョン)が定まらないのは現実的に定まらないというわけではない。対象「a」としての幻影(ヴィジョン)の機能がリリーの内で定まっていないからそういう修正・再修正といった無駄が生じてくる。

「新生児にならんとしている胎児を包む卵の膜が破れるごとに何かがそこから飛び散るとちょっと想像してみてください。卵の場合も人間、つまりオムレット、薄片の場合も、これを想像することはできます。薄片、それは何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにでも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ってしまったものと関係があるなにものかです。それがなぜかは後ですぐにお話ししましょう。それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走りまわります。ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと考えてごらんなさい。こんな性質を持ったものと、我われがどうしたら戦わないですむのかよく解りませんが、もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。この薄片、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーーー、それはリビドーです。これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押え込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルにしたがっているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象『a』について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。対象『a』はこれの代理、これに姿を与えるものにすぎません。乳房はーーー対象か自分かが曖昧なものとして、哺乳動物に特徴的なもの、たとえば胎盤と同じようにーーー個体がその誕生の時点で失った彼自身の一部、もっとも古い失われた対象を象徴することができるものを表しています。そしてその他の対象についても同じことが言えます」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.263~264」岩波書店)

「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.327」岩波書店)

さて、ジェイムズは父親ラムジー氏に殺意を覚える。といっても実際に父親を殺すのではなく、父親を父親たらしめている「専制的で暴君的な態度に他ならず、周囲の人に望みもしないことをさせ、思うようにしゃべる権利さえ奪ってしまう力」へ殺意を向けずにはいられない。ラムジー氏の力は息子ジェイムズに対する余りにも重々しい依存体質でしかなくなっている。それは取り扱い方次第で将来のジェイムズをめちゃくちゃに破壊してしまわないとも限らない。

「むしろそれは、本人にも気づかぬうちに覆いかぶさってくるような何かでーーーたとえば突然現れる黒い翼の凶暴な怪鳥ハルピュイアにも似て、冷たく堅いかぎ爪とくちばしを使って何度も何度も襲い掛かる(ジェイムズは子どもの頃に、そのくちばしがふくらはぎを突いた痛みをいまだに覚えていた)、かと思うとすぐに姿を消して、後には悲しげに本を読む老人の姿ばかりを残すもの。ジェイムズが息の根を止め、心臓を一突きにしたいと思ったのは、まさにそれだった。ーーーそれはすなわち専制的で暴君的な態度に他ならず、周囲の人に望みもしないことをさせ、思うようにしゃべる権利さえ奪ってしまう力なのだから」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.357」岩波文庫)

ジェイムズは注意深く回想する。

「僕の記憶の中にある最初に轢かれた足とは、一体誰の足だったのか?それが起こったのはどこだったのだろう?こうした場面には必ず背景があるものだーーーよく繁った木々や花々、差しこむ光や二、三の人影など。どうやらすべてが穏やかな庭の中での出来事だったようで、そこには憂鬱の影も見当たらなければ、両腕を振り回すような大騒ぎもない」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.359」岩波文庫)

最初は判然としない。けれども確かに思い出されることがある。「思い出すのは何かが立ち止まり、暗くのしかかってきて決して動こうとしなかったこと」。

「車輪が誰かの足を轢きつぶしたのは、この静かな世界でのことに違いなかった。思い出すのは何かが立ち止まり、暗くのしかかってきて決して動こうとしなかったこと。何かが宙空にひらめいたかと思うと、不毛ながらも鋭利な刃物のような、三日月刀のようなものが振り下ろされて、この幸福な世界の木の葉は花々までも打ちのめし、しぼませて散り果てさせたのだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.360」岩波文庫)

ラムジー氏が「振り下ろ」すと同時に子どもたちに与える社会的文法は、「鋭利な刃物のような、三日月刀のようなものが振り下ろされて、この幸福な世界の木の葉は花々までも打ちのめし、しぼませて散り果てさせ」てしまう。それがなくては人間社会で言語を駆使することはできないからだが、他方、自然界から生き生きとした生の魅力を一挙に奪い去ってしまう。子どもたちは成長段階の早いうちにすでに生の魅力的な多彩さを感じられなくなる。むしろそれを逆に言語の側から受け取るようになる。ジェイムズは身体全体で感じ取り受け止めるタイプの人間であり、だからラムジー氏が与えたような社会的文法に対して感性的に「不毛」だと反発をおぼえる。なるほどだから人々は、実にしばしばピクニックや登山や海洋クルーズに出かけたくなるのだろう。ただしそれが有効だったのは二十世紀前半までだ。ゆえに二十一世紀もすでに二十年近く過ぎて高度なテクノロジーの支配下におかれると、そのような擬似的自然回帰ですら面倒におもえてくる。ニーチェのいうように「絶望的な退屈と変化の多い怠惰」を渇望するようになる。

「ただ母のことを思い出す時には、いつも父の存在も同時に意識にのぼった。そしてその父の姿はジェイムズの後を追いかけてきて、彼の思いに影を落とし、それを震えさせたり揺さぶったりせずにはおかないのだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.363」岩波文庫)

母を思い出すといつも父をも思い出す。この同時性はスピノザ参照。

「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)

海はウルフにとってなくてはならない生の泉である。そこからあらゆる生が発生しそこへと回帰していく海というもの。永遠の象徴。

「〘一点の汚れも見えない海だわ、とリリー・ブリスコウは立ったまま入江を見渡しながら思った。一枚の絹の布地を大きく広げたみたいだ。距離って途方もない力があるものね。だってこれだけ遠ざかると、みんな海に呑み込まれてしまって永久に姿を消し、まるで周囲の自然の一部になってしまったような気がするものーーー〙」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.365」岩波文庫)

次のセンテンスでリリーは「非現実な空気と調和してい」ると感じる。彼女はときどきそのような「雰囲気に染まる」ことがある。そうした感性の持ち主だ。したがって、「或る一刻」をなす非現実な時間とまた別の「或る一刻」をなす非現実な時間との間には「習慣が事物の表面にすっかり網を張ってしまうまでの間」が割り込んでいることを知っている。習慣によって構造化された言語の「網」。その社会的文法にがんじがらめにされる《あいだ》の「ひととき」、彼女は「何か隠れていたものが不意に姿を現わすようで、生命がとてもみずみずしく感じられる」。このような繊細この上ない感受性の持ち主は精神的錯乱状態に陥ることが少なくない。しかしこのような感受性なくして彼女はない。彼女は実にしばしば引き裂かれている。

「今すべては、この早朝の静けさ、空虚さ、非現実的な空気と調和していた。時々風景はこんな雰囲気に染まることがある、と彼女はしばし手を休めて思う。細長い窓は朝日を受けてきらきらと輝き、羽毛のように淡く青い煙がゆっくりと立ちのぼるのが見えた。そう、こんなふうに非現実的な気分になることがあるわ。たとえば長い旅行から帰ってきた時や病気で床に就いていた後など、いつもの習慣が事物の表面にすっかり網を張ってしまうまでの間、これとよく似た息をのむような非現実感に見舞われることがある。何か隠れていたものが不意に姿を現わすようで、生命がとてもみずみずしく感じられるのだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.373」岩波文庫)

この「生」の「みずみずし」さ。それが感じられないところで彼女は生きていくことはできない。そしてそこにあるのはいつも「振動」であり「運動」であり「変化」である。それは宇宙総体の形態変化からけっして切り離せないものだ。

「要するに、あなたの日常的な経験にぞくする非連続的な対象をたがいにむすびつけ、ついでそれらの対象の質が有する不動な連続性を、それが占める場にあって振動へと分解してみよう。この運動のみに注目し、そのさいこの運動の背後にひろがる分割可能な空間をはなれて、その運動性だけを、すなわち、あなたの意識がじぶんじしん遂行する当の運動にあってとらえる、その分割されていない行為のみを考え、それ以上のなにものも考えないようにしてみればよい。そのばあい物質にかんして獲得されるのは一箇のヴィジョンである。そのヴィジョンは、おそらくあなたの想像力にとって厄介なものかもしれないが、しかし純粋なものである。そのヴィジョンから払拭されて胃いるのは、生の要求にもとづいてあなたが、外的知覚のただなかで物質に付けくわえたものなのである。ーーーこんどは私の意識を回復し、それとともに生の要求を回復してみよう。そのときには、遥かにとおい間隔をおいて、事物の内的歴史にぞくする莫大な時期のおのおのをそのつど飛びこえながら、ほとんど瞬間的なものといってよい眺望がとらえられてくる。その眺望はこのたびは彩色されて、そのいっそう際だった色彩のなかで凝縮されているのは、要素的なものが無限に反復され、また変化しているさまである。それはたとえば、ひとりの走者が継起的にしめす無数の姿勢が、ただひとつの象徴的な態勢へと縮約されて、それを私たちの目が近くし、芸術が再生して、その態勢がだれにとっても、疾走する人間の映像(イマージュ)となるようなものなのだ。私たちがそのときどきにじぶんの周囲に投げかける視線がとらえるものは、かくして、無数の内的な反復と進化から生まれた結果にほかならない。それらの結果は、まさにそれゆえに非連続的なものであり、だから私たちがその結果から、連続性をふたたび樹立するとすれば、それは、じぶんが空間中の『対象』に帰属させる相対運動をつうじてのことである。変化はいたるところに存在し、しかも深部に存在する。私たちは変化をそこかしこに局在化するけれども、それは表面にあってのことである。かくて私たちは物体を、質については安定していながら、同時にその位置にかんしては動いているものとして構成する。いっぽう場所のたんなる変化であっても、それがみずからのうちに凝縮しているものは、私たちの目からみれば宇宙総体の形態変化なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.409~410」岩波文庫)

「言葉(フレーズ)なら思いつくし、ヴィジョンも浮かんでくる。それなりに美しい光景だし、美しい言葉だとも思う。だが本当につかみたいのは、神経の受ける衝動そのもの、何かになる以前のものそれ自体なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.376」岩波文庫)

リリーは自分が「本当につかみたいのは、神経の受ける衝動そのもの、何かになる以前のものそれ自体」だと強くおもう。「それ自体」というもの。ほとんど不可能なもの。にもかかわらず或るときゴッホは、おそらく「不可能なもの」を捕らえるに当たって、非常に的確な言葉を残している。

「いつも糸杉に心をひかれる。ひまわりを扱ったように描いてみたいのだ。まだ僕が感じているように描いたものを見たことがないのだ。線が美事で、ちょうどエジプトのオベリスクのような均衡を備えている。それにその緑の質が非常に上品なのだ。陽の照った景色のなかでは黒い斑点になるが、その黒い調子は最も興味のあるもので、正確に捕えるのがとてもむつかしいと思う。しかし、ここでは『青に対して』、もっと具体的に言えば『青の中』において見なければならない」(「ゴッホの手紙・下・P.188」岩波文庫)

リリーは半ば諦めとともにいる。

「もしインスピレーションが訪れることがあるのならその時を待つしかないのだろう。どうあがいてみても、考えることも感じることもできないような時もある。そして考えることも感じることもできないとしたら、そんな時の自分の居場所はどこにあるというのか?結局はここ、この芝生の上、この地面の上しかないだろう、とリリーは思う」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.377」岩波文庫)

ところがその姿勢には「待つこと」の大切さがある。むろんただ単に人を待つとか夏休みを待つとかいう意味ではまったくない。ニーチェは意識を鋭くするのではなくむしろ優雅に構え「筋肉を遊ばせ、意志の馬具をはずす」ことを「美」と呼んだ。

「筋肉を遊ばせ、意志の馬具をはずして立つこと、これが、崇高な者たちよ、君たちすべてにとって最も困難なことである。威力がものやわらかになって、可視の世界へ降りてくるとき、そういう下降をわたしは美と呼ぶ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第二部・崇高な者たち・P.187」中公文庫)

猫になったカーマイケル。人間世界で彼は詩人として有名になっている。だがリリーにとってはいまもずっと猫のまんまであり、おそらくカーマイケル自身も猫であり続けたいとおもっている。

「カーマイケルという名の有名人になられたわけね、と思って微笑みつつも、たとえ新聞の中ではそんな人でも、ここにいらっしゃる氏はまったく昔のまんま、人間というのは実にいろいろな姿を身にまとえるものなのだ、とつくづく思う」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.378」岩波文庫)

リリーは人間が変身するということ、生成変化を遂げていくということについて、猫のカーマイケルから学んだのだ。そんなことを考えていると、不意に「蝶番(ちょうつがい)のきしむ音」が聞こえる。

「ふいに物音がしたので客間の窓に目を向けたーーー蝶番(ちょうつがい)のきしむ音だった。穏やかな風が窓辺で遊んでいるようだった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.380」岩波文庫)

蝶番(ちょうつがい)のきしみ。その場を支配している文法が脱線したりあるいは溶けて流れ去るときに必ず発生しないわけにはいかない兆候であり記号だ。リリーはラムジー夫人の回想にふける。夫人はいつも自分の美を意識することなく、むしろ周囲の注目を忘れて花や鳥に《なる》ことで美しかった。さらにリリーはこう考える。

「何かをきちんと見るには、五十対くらいの目が必要なんだろう、と彼女は考えた。いや、あの一人の女性を理解するには、五十対でも足りないくらいだ。その中には、夫人の美にまったく無反応な目も混じっていた方がいい。何より大事なのは、空気のように微細にして微妙な、ある種のひそやかな感覚だろう」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.385」岩波文庫)

ここまでくればもうリリーは夫人に囚われることはない。夫人に囚われることなく、さらには絵画手法に囚われることなく、リリー自身の夫人を描くことができる。それは多様体としての夫人を描くことにほかならない。そのための手法はすでに手に入れたも同然だ。主観をたった一つだけ設定する必要性など本当はなかったのだ。夫人自身がさまざまに生成変化する多様体だった。無数の主観に生成することができた。それは同時に主観を持たないということでもある。夫人の死によって世界に一つの《穴》が空いた。リリーに課せられた問いはそれをどのようにして《埋める》のか。あるいは《埋めずに》放置するのかというダブルバインドだった。リリーは《埋める》ほうを選んだ。夫人は唐突に死ぬことで夫人の幻影がそれをリリーに教えた。

「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?」(ニーチェ「権力への意志・四九〇・P.34」ちくま学芸文庫)

「《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?ーーー私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する。主観が主観に《関して》直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、《偽って》解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである」(ニーチェ「権力への意志・四九二・P.35~36」ちくま学芸文庫)

リリーのもとにディオニュソス的生の感覚が戻ってくる。

「今はすべての感覚が夢うつつの境にあって、表面は凍っていても、奥の方でとても激しく動いている感じがした」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.391」岩波文庫)

BGM