フリージャスについて延々述べ続ける保坂和志。時おり無性にフリージャズに浸っていたくなる読者としては特に脈略が失われているとは決して思わないが、ともかくベルクソンに触れてこう書く。
「可能性の渦」(保坂和志「鉄の胡蝶は夢に記憶は歳月は彫るか(69)」『群像・2024・5・P.415』講談社 二〇二四年)
なるほど。そうかもしれない。
さらにベルクソンの作品からかつて書き出した箇所が紹介されている。
「『多量の潜在的なエネルギーが物質の中に蓄積されていて、いつでも運動に変わろうとしている。このエネルギーは植物が時間をかけてゆっくり太陽から取り込んだ』」(保坂和志「鉄の胡蝶は夢に記憶は歳月は彫るか(69)」『群像・2024・5・P.414』講談社 二〇二四年)
いかにもベルクソンな文章。主著のひとつ「創造的進化」を開いてみるとおそらく次の二箇所が近いようにおもわれる。
(1)「実際、われわれの惑星で利用できるエネルギーの主要な源は太陽である。したがって問題は以下のようになった。太陽は、地球の表面のあちこちで、利用可能なエネルギーを絶えず消費するのを、部分的、暫定的に見合わせてもらうことで、そして太陽に、ある量のエネルギーをまだ利用されていないエネルギーの形で、適切な貯蔵所に蓄えてもらって、好きなときに、好きな場所で、好きな方向に、そのエネルギーを注げるようにしてもらうことである。動物が摂取する物質は、まさにこの種の貯蔵所である。これらの物質は、潜在的な状態で、なかりの量の化学エネルギーを内に持つきわめて複雑な分子によって形成されており、蓄積された力を解き放つ火花を持つだけになっている、ある種の爆発物を構成する。さて、おそらく最初生命は、爆発物の製造と、それを利用する爆発を一度に行おうとしていたのだろう。この場合、太陽の放射エネルギーを蓄積したのと同じ有機体が、そのエネルギーを空間での自由な運動に消費しただろう。だからわれわれは、最初の生体は、一方で太陽から受け取ったエネルギーを絶え間なく貯え、他方でそのエネルギーを移動運動によって不連続で爆発的な仕方で消費しようとしていた、と推測しなければならない。ミドリムシのようにクロロフィルを持つ繊毛虫類は、生命のこの原初的な傾向を充分には展開できなかったしもう進化することもできないが、それでもおそらく今日でもなおこの傾向を象徴しているだろう」(ベルクソン「創造的進化・P.152」ちくま学芸文庫 二〇一〇年)
(2)「最初になされねばならなかった大きな分裂は、植物と動物という二つの世界への分裂であった。こうして植物と動物は互いに補い合うことになるが、それらの間に調和がもたらされたことはなかった。植物がエネルギーを蓄えるのは、動物のためではない。自分自身が使うためだ。とはいえ、植物の消費は、本質的に自由な行為へ向けられたものたる生の最初の弾みが要求していたほど、不連続なものでもまとまったものでもなく、したがって効果的なものでもない。同じ有機体が、同じ力で一度に二つの役割ーーー次第に蓄積することと突然利用することーーーを果たすことはできなかったのである。こういうわけで、外から何の介入もなく、ただ、始原の弾みが二重の傾向を含んでおり、物質がこの弾みに抵抗した結果、有機体はおのずから、あるものは第一の方向へ進み、その他のものは第二の方向へ進んだ。この二分化に引き続いて、他の多くの二分化が起こった。この結果、進化の諸々の線は、少なくともその本質的な面では分岐することになった。ここでとりわけ思い出さなければならないのは、あたかも生命の一般的な運動が、各々の種を横切る代わりに、そこで立ち止まっているかのように、それぞれの種は振舞うことである。各々の種は自分のことしか考えていないし、自分のためだけに生きている。こうして、自然がその劇場であるような闘いが数知れず生じる。また、こうして、顕著で衝撃的な不調和が生じる。ーーー進化において偶然の占める部分は大きい。採用される、いやむしろ発明される形態は、たいてい偶然的である。原初にある傾向は、これこれの互いに補い合う傾向に分離し、それらは進化の分岐する線を創造する。この分離は、ある場所、ある瞬間に出会った傷害に相対的で、偶然的である。停止や後退は偶然的で、適応も、大部分が偶然的である。二つのことだけが必然的である。1、エネルギーを徐々に蓄積すること。2、可変的で決定しえない方向へエネルギーを放つ柔軟な水路を開くこと。これらの方向の果てに、自由な行為がある」(ベルクソン「創造的進化・P.323~325」ちくま学芸文庫 二〇一〇年)
とはいえ引用ばかりではつまらないだろう。フリージャズあるいはフリー・インプロヴィゼイションについて上げられている名前の中で三人の演奏を見つけた。
(1)セシル・テイラー
(2)デレク・ベイリー
(3)阿部薫
とりわけ阿部薫は個人的に最も好みなので「おまけ」的に加えた。
だからといってフリージャズあるいはフリー・インプロヴィゼイションがなぜベルクソンと関係あるのか。まだほとんど何も語ったことにはならない。そしておそらく第二の主著とされる「物質と記憶」へ戻ってみる必要があるだろう。続く。