ここ数日のマス-コミは自公連立政権に漂う危機感を取り沙汰している。
しかし今の政権がそこそこ痛烈なダメージを受けることになったとしても、一方、野党側が掲げている諸政策の方向性はどうだろうと考えてしまう。
立憲民主、国民民主、維新の会、など。大きな政党はどれも政治政策が近い。今の自公政権と比べて違いはあっても街頭演説で堂々と違いと言えるほどには違っていない。表面的には「左派」を気取っていても実態は保守あるいは右派すぎる。
反面、「大学法改正案」や「共同親権」など今後重大な意味を持ってくる問題についてマス-コミはほとんど触れず、触れないような報道ばかり流している間にそれら重大問題は国会でどんどん成立した。非常識を常識化するのにマス-コミはとても役立ったのであって非常識の阻止にはひとつも役立たなかった。
さらに野党には今以上にもっと重くのしかかってくる逆説がたんまりある。
ジジェクから。
「ポピュリズムは最終的には《絶対に》うまくいかない。右派版の場合、ポピュリズムは定義上まやかしになる。なぜならそれは敵の偽りの像を作り出すからだーーーどのような意味で偽りかといえば、基本的な社会の敵対関係を覆い隠し(『資本』の代わりに『ユダヤ人』と言うなど)、そうすることでポピュリズムのレトリックが、名目上敵対関係にあるはずの金融エリートに奉仕してしまう。左派版の場合、ポピュリズムが偽りなのはより複雑なカント的意味においてである。敵対関係における<敵>の構築は、曖昧ながら妥当な相同関係によって、カントの図式論の役割をはたすということができる。それによってわれわれは理論的な洞察(抽象的な社会の諸矛盾への気づき)を実践政治の取り組みへと変換することができるからだ。バディウの『資本主義とは戦うことができない』という言葉は、このように読むべきである。われわれの戦いを『図式化』し、表立って資本主義の手先のように活動する具体的な行為者との戦いに変換するべきだと。しかし、マルクス主義の基本的な主張はまさに、そうした人格化によって実在の敵を仕立てるのは誤りだということだーーーもし必要だとしても、それは構造上必要な幻想のようなものに過ぎない。だとすれば、マルクス主義政治は永遠に信奉者(と自分自身)を操り、ミスリーディングであることは承知のうえで事を運ぶべきだということになるのだろうか。マルクス主義の闘争はその内在的な矛盾を運命づけられており、それはひとまず<敵>と戦いそのあとでシステム自体のより根本的な改革へ進むと主張することでは解決できない。左派ポピュリズムは政権をとった瞬間に<敵>と戦うことの限界に躓いてしまうのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・4・P.87~88」青土社 二〇二二年)
今の政権に異議を唱えていても、もし万が一自分たちに政権が本当に回ってきたらどうするのか。立憲民主も国民民主も、あるいは極めてポピュリズムの色彩が濃い教育無償化にしても、教育無償化が右派主体であろうと左派主体であろうと降りかかってくる試練は変わらない。
「ポピュリズムは政権をとった瞬間に<敵>と戦うことの限界に躓いてしまう」
日米同盟、中国やグローバルサウスとの外交関係、その他ありとあらゆる困難を引き受けるほかなくなる。
そのときにどうするのか。事実上できることはあるのか。あるとすれば何をどんなふうになのか。有権者としてはその肝心要のことをいつも聞かされないまま次の選挙、また次の選挙と、からかわれてばかりいるのだ。