ハイデガー「存在と時間」から二箇所。
(1)「死に臨んでいることは、本質上、代理不可能な私の存在であるのに、それが本来の意味に反して、公開的に出現して世間に出会う事件へ錯倒される」(ハイデッガー「存在と時間・下・第二篇・第一章・第五十一節・P.66」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「公開的にみれば、『死のことを考える』だけでも、すでに臆病な恐怖心、生活の自信のなさ、陰気な現実逃避とみなされる。《世間は、『死へ臨む不安』への勇気が湧くのを抑える》」(ハイデッガー「存在と時間・下・第二篇・第一章・第五十一節・P.67」ちくま学芸文庫 一九九四年)
と岩内章太郎は重点を二つ取り出す。ややわかりやすい文章で次のように補足している。
「死は日常生活の中でどういう形をとっているだろうか。端的に言えば、それは一つの『事件』として識別されている。たとえば、テレビやネットでは、毎日、ひっきりなしに、誰かの死が報道される。あるいは、近所の誰かが亡くなると、その噂話はいつの間にか広まるだろう。これらは一つの『事件』であり、世界で生じる『出来事』である。
一見すると、こうした報道や噂話は、死の隠蔽とは対極にある、と思われるかもしれない。しかし、ハイデガーからすれば、死を公共的な出来事の一つとして日夜処理し、それをーーー<私>ではなくーーー<私たち>という匿名の複数形がさしたる困難もなく受け止めているという事実が、むしろ人間が深くかかえる死の不安を巧妙に隠蔽していることを証示するのである。
出来事としての死を耳にしたとき、私たちは大抵こう考えてしまう。すなわち、いつか人は必ず死ななければならない、しかしさしあたり、いまは自分の番ではない、と。このことのうちには、本来、他者に代わってもらうことはできないはずの<私>の死を先延ばしにして、その不安から逃避しようとする世人の願望が見え隠れする、というわけだ。
死を完全に隠蔽してしまえば、それが見えないがゆえに、その不安はかえって強まる。だから、逆に、<私>には関係のない出来事として、また、《数えられる》出来事として、死を大いに語ることで、その不安を隠すのだ。つまり、さして深刻でない死についての公共的な語りが、死の不安を抑え込んでいるのである」(岩内章太郎「星になっても(10)」『群像・6・P431~432』講談社 二〇二四年)
代理不可能な「私の死」とその「不安」も、ともに世間的レベルではなぜか「数えられる出来事」として、そのうちの「一つの事件」へと「転倒」される。死は「公共空間にとって疎ましいもの」として忌避される。死は今や「抑圧される」ものへと「倒錯」している。
しかし岩内章太郎はノルベルト・エリアス「死にゆく者の孤独」を引用しつつこう述べる。
「ここで言われている『ひとりの人間の終局』は、死が抑圧された社会で『閉ざされた人』が経験する孤独な死とは、似て非なるものである。それは、神話の時代が終わった後に訪れる、いわば厳とした冷たい事実であると同時に、このことを隠さずに受け止めようとする『開かれた人びと』に囲まれた、ひとりの人間の温かい終わり方なのだから」(岩内章太郎「星になっても(10)」『群像・6・P433』講談社 二〇二四年)
その通りだろう。ただ現状では介護や看取りをめぐる国の制度があまりにも疎かというほかなく、それに携わる専門技能職の賃金となると驚くほど低い。低すぎる。
さらに「文明化すればするほど、死を出来させるものや死を想起させるものが忌避される」として、その一例に新型コロナに伴うパンデミックとアガンベンの告発について述べてもいる。
「新型コロナウイルスによるパンデミックが生じた際、イタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンが、イタリア政府の感染対策に公然と反対して話題になったことがある(『私たちはどこにいるのか?』)。コロナ禍では健康を守るための『バイオセキュリティ』が至上命題となり、人びとの自由が大幅に制限されたのは、記憶に新しい。外出や営業の自粛、ソーシャル・ディスタンスの確保、死者の隔離ーーー。これらすべてが健康に生きていくための我慢であるとして、多くの人びとは説得された。
ところが、生き長らえることだけにとらわれた人間は、自分の健康のためならすべてを犠牲にする用意がある、と、アガンベンは告発する。だから、政府による有無を言わせない規制と健康権の義務化に、そして何よりも、いとも簡単にこの全体性に従属する人間の姿(=全体主義)に反対したのである」(岩内章太郎「星になっても(10)」『群像・6・P430』講談社 二〇二四年)
コロナ禍は悲惨である。当たり前だ。しかし「近代」は常に政治を忘れない。パンデミックだからこそ政治・軍事は学習することを止めないし今なお止めない。地域紛争でもし仮に生物化学兵器が使用されたらどうなるか。コロナ禍に関する日本のテレビ報道を見ていると、途中から、人の動き方(あるいはむしろ「動かし方」)と数値ばかりが幅を効かせるようになり、世界各地で「この全体性に従属する人間の姿(=全体主義)」が軍事目的・戦時動員を含む計測にかけられている様相を呈してきたことはどう考えればいいのだろう。