電車に乗っていると無線イヤホンの乗客をよく見かける。もはや日常と化してきた。くどうれいんは有線から無線への乗り換えそのものではなく「その間」のちょっとしたエピソードをしたためることでエッセイとして成立させる。有線か無線かはとりあえず別として、その冒頭箇所に目が行った。
「『無線ってのを信じてないんですよ』というのは有線イヤホンを使い続ける理由を聞かれたときのためのうそなのだ。しかしこれがよく効く。『無線ってのを信じてないんですよ』と言うだけで、大抵の人は『ああー』と言い、それから深くは聞いてこなくなる。その『ああー』の語尾からは(なんか面倒くさそうな信念かもしれないぞこれは)という、深入りしたくなさそうな困惑を感じる。ただでさえわたしは他人から(このひと面倒くさそうだな)と思われていることが多いから、『無線を信じていないから有線イヤホンを使い続ける』というのは、自分が思っている以上にあまりにもわたしらしいのかもしれない」(くどうれいん「日々是目分量(46)」『群像・6・P504〜505』講談社 二〇二四年)
多かれ少なかれ誰にも経験がありそうで面白い。
(1)「その『ああー』の語尾からは(なんか面倒くさそうな信念かもしれないぞこれは)という、深入りしたくなさそうな困惑を感じる」
(2)「ただでさえわたしは他人から(このひと面倒くさそうだな)と思われていることが多い」
いずれにしても「面倒くさそうな信念」がいかにも怪しげなカルト臭を放ってででもいない限り、さほど警戒したり困惑する必要はまずないとおもえる。けれども「大抵の人」は「このひと面倒くさそうだな」とそそくさと逃げていく。どうしてだろう。
このような場合「大抵の人」とは何か。話に繋がりがないではないかと思われるかもしれないが実は大いに繋がりがあるという点でニーチェを引こう。
「《われわれの『認識』概念の起源》。ーーー私は、これについての解明を、巷間から取ってくるとしよう。民衆の誰かれが、『あいつは、俺のことが認識(わか)った』と言うのを、私は耳にした。ーーー。そのとき私は自分に問うてみた、ーーーいったい民衆は認識(わかる)という言葉をどういう意味にとっているのか?民衆が『認識』を求める場合、彼らは何を求めているのか?知られぬものを《熟知のもの》に還元すること、それ以外の何ものでもない。われわれ哲学者ーーーそのわれわれも、いったい、認識という言葉を《それ以上》の意味に解しているだろうか!熟知のものとは、つまり、われわれがそれに馴染(なじ)んでいて、もはや不審に思わないもの、われわれの日常茶飯事、われわれがはまりこんでいる何らかの常例規則、われわれの知り抜いていることがらの一切合切、である。ーーー認識へのわれわれの欲求とは、この熟知のものへの欲求にほかならないのではなかろうか、どうだろう?すべての見知らぬもの、見慣れぬもの、疑わしいもののなかに、われわれを二度と不安にしないような何かを見つけ出そうとする意志ではなかろうか?われわれに認識せよと指令するのは、《恐怖の本能》ではなかろうか?認識者の小躍(こおど)りする喜びは、安心感を取り戻したことの欣喜雀躍(きんきじゃくやく)そのものではなかろうか?」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五五・P.395~396」ちくま学芸文庫 一九九三年)
有線であろうと無線であろうと「認識」へ至る手間のうちで「知られぬものを《熟知のもの》に還元すること」に失敗しそうな不安に駆られ早々にその場から退散しようとした瞬間、退散しようとする「大抵の人」がいきなり出現するという経過をたどる。
「大抵の人」は認識を欲しているように見えて、そのじつ、まるで別のことを欲している。「熟知のもの」へ「還元」されて広く流通していれば「偽物」でも構わないというおぞましいほど短絡的なところを隠そうともしない。
「われわれがそれに馴染(なじ)んでいて、もはや不審に思わないもの、われわれの日常茶飯事、われわれがはまりこんでいる何らかの常例規則、われわれの知り抜いていることがらの一切合切」
どんな虚偽答弁であったとしても常日頃から「それに馴染(なじ)んでいて、もはや不審に思わないもの、われわれの日常茶飯事、われわれがはまりこんでいる何らかの常例規則」の範疇であれば嬉々として騙されたがる珍妙さを頑固なまでに捨て去ろうとしない。「大抵の人」というのは。