身体、とりわけフリーインプロヴィゼイションに「入っている」際の身体について考えてみよう。
その前に。
ベルクソンはごく一般的な場合であっても「身体」というものは「未来と過去とのはざまで動きつつある境界であり、可動的な先端部であって、私たちの過去がたえずその先端部をじぶんの未来へとむけて押しすすめてゆく」と語る。ジャズするしないにかかわらず。
(1)「私たちは、身体にかんして、それは未来と過去とのはざまで動きつつある境界であり、可動的な先端部であって、私たちの過去がたえずその先端部をじぶんの未来へとむけて押しすすめてゆくのだ、と語ることができる」(ベルクソン「物質と記憶・P.153」岩波文庫 二〇一五年)
そこで身体、とりわけフリーインプロヴィゼイションに「入っている」際の身体ともなれば、考えるまでもなく、というより考えていては逆にわからないと言うべき適切妥当な規定に思える。当たり前といえばこれほど当たり前のこともない。フリージャズに限らず現代アートしている身体はいずれも現在進行形であるほかない。
ニーチェが指摘しているように「存在する」という表記は固定されている状態を指しており実際とはかけ離れている。ニーチェはすべてが「存在」ではなく「流動」状態にあり、したがって世界は常に「可変的」だと言ったわけだが、これまた当たり前の事情をぶっちゃけたに過ぎないのになぜか世界の側からほとんど無視されたという苦い経験がある。
ベルクソンも「現在」について「《存在するもの》であると定義すれば、それは恣意的な定義」だとする。固定されることなどあるはずがない。その上でこう述べる。「現在の瞬間は、かりにあなたがそれを不可分な境界と考え、それによって過去と未来が分離されるものと理解するならば、これほど存在から遠いものはない。この現在をまさに在るべきものと考えるなら、現在はなお存在していない。たほうそれを存在しているものと考えるとき、現在はすでに過ぎ去っている」。
(2)「現在とは《存在するもの》であると定義すれば、それは恣意的な定義というものである。じつは現在は、たんに《出来しつつあるもの》にすぎない。現在の瞬間は、かりにあなたがそれを不可分な境界と考え、それによって過去と未来が分離されるものと理解するならば、これほど存在から遠いものはない。この現在をまさに在るべきものと考えるなら、現在はなお存在していない。たほうそれを存在しているものと考えるとき、現在はすでに過ぎ去っている」(ベルクソン「物質と記憶・P.297~298」岩波文庫 二〇一五年)
こうも言える。
(3)「あなたの知覚は、だからそれがたとえ瞬間的なものであったとしても、数えきれないほどの数をふくむ、思いおこされる要素からなっているから、ほんとうのところ、あらゆる知覚はすでに記憶なのである。《私たちはじっさいには、過去しか知覚することができない》。いっぽう純粋な現在は、過去が未来へと食いこんでゆくとらえがたい進行なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.298」岩波文庫 二〇一五年)
そのような状態を常に通過中であるほかない「身体」が、「無意識的」な記憶を含め、「現在」から呼びかけられることで「行動」の遂行へ至る次第は次のようになる。
(4)「感覚-運動装置が無力な記憶、いいかえれば無意識的なそれに対して提供するものは、身体を獲得して、みずから物質化する手段、つまりは現在的なものとなる手段である。じじつ、なんらかの記憶が意識に対してふたたびあらわれるためには、純粋記憶の高みから、《行動》が遂行されるほかならぬその地点まで降りてくることが必要である。ことばをかえれば現在こそ、記憶の応答する呼びかけがそこから発するものであり、現在の行動の感覚-運動的な要素こそが、記憶がそこから熱を借りうけて、いのちを与えられるものにほかならない」(ベルクソン「物質と記憶・P.303」岩波文庫 二〇一五年)
有名な逆円錐の図を参照しつつベルクソンはこう語る。
(5)「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321図5~322」岩波文庫 二〇一五年)
人間は点SにいるのでもABにいるのでもなく常にその<あいだ>=無数の境界の平面を移動している。移動しながら、フリーインプロヴィゼイションならフリーインプロヴィゼイションという形態を借りつつ、移動そのものを音へと変換しようと試みる。それがこの意味での「行動」である。
ちなみに「時間と自由」で書かれた言葉を援用するとすればこんな感じかもしれない。
(6)「もし私たちが自我と外的事物との接触面の下を掘り進んで、有機化された生きた知性の奥底まで侵入していけば、私たちはきっと、一度分離されたために、論理的に矛盾する諸項というかたちで相互に排除し合っているように見える多くの観念の重なり合い、あるいはむしろ内的融合を目撃することになるだろう。世にも奇妙な夢ではある。けれども、二つのイメージが重なり合って、異なる二人の人間を同時に示すが、それでも一人でしかないという、この夢は、目覚めた状態における私たちの概念の相互浸透について、わずかながら或る観念を与えてくれるであろう。夢見る人の想像力は、外的世界から隔離されてはいるが、知的生活のいっそう深い領域で絶えず観念の上で続けられている作業を単純なイメージに基づいて再現し、それなりの流儀でつくり変えているのである」(ベルクソン「時間と自由・P.163~164」岩波文庫 二〇〇一年)
また逆円錐の図は点SとABとの<あいだ>はあやふやな部分を含めて意識的な状態を前提している。けれどもベルクソンはそのすぐ後の文章で「夢を見ている状態」として考えることも可能だとしている。夢は単なる妄想に過ぎないかもしれないが夢を見ている身体は現実でありなおかつ夢を見ているという意識は確かだからだというほかない。
点SとABとの<あいだ>について意識的な場合だけでなく夢を見ている場合や無意識的な場合をも含め、それが確かであるのなら、「自動人形のように、有用な習慣の坂をくだる」だけに過ぎないような惰性的演奏から不意に解き放たれた<弾み>が踏み出されたとしても全然不思議はないのである。それが音であれ絵であれ映像であれ動く身体であれ。