欧米で作成されるビデオゲームには人種的マイノリティや性的マイノリティの存在を意識した言語が用意されている。
例えば「単数のthey」。性別二元論には還元できない場合の選択肢のひとつ。
せっかく性別二元論ではない「単数のthey」を選べるようになっているというのに、ところが日本語版で出てくる訳語はなぜか「彼ら」。ではどう訳せばいいかと三木那由他は考えたらしい。
(1)論じるに当たっての基本的了解事項。
(1)「場合によっては、『she/he/they』を『女性/男性/ノンバイナリー』と訳して済ましていることもある。けれど、代名詞の選択とジェンダーアイデンティティは必ずしも一致しているわけではないというのも重要だ。ノンバイナリーでも『she』を好むひとはいるだろうし、バイナリーな女性や男性であっても、言語に組み込まれた性別二元論に抵抗するためなどのさまざまな理由で『they』を用いるひとはいる。『heでもtheyでもいい』というひとだっている。傾向としてノンバイナリーの人々はジェンダーニュートラルな代名詞を好むことが多く、それ以外の人はジェンダー特定的な代名詞を使うことが多いというのは言えるにしても、あくまで代名詞は代名詞であって、そのひと自身のジェンダーアイデンティティとは厳密には別の話なのだ」(三木那由他「言葉の展望台(34)」『群像・6・P493』講談社 二〇二四年)
(2)事態は「性的マイノリティだけ」に限られた問題では決して「ない」という点。また論じるだけではなく「実践」されなくてはまるで無意味に陥ってしまうのはどうしてかについて触れている。
(2)「私たちがいま使っている日本語は、性別二元論をはみ出るような実践を支えるリソースを十分に備えていない。だとすれば、『自然な日本語』を維持するのではなく、むしろ新たな実践、新たな記述を可能にすべく、『これまでの日本語に照らすと不自然な言い回し』を探り、それをあえて使って、日本語を変革していく必要があるのではないだろうか。
このことを強く意識したきっかけは単数の『they』だったが、これは性的マイノリティに関する領域に限られた話でもないだろう。私たちがおこないたい実践、そのありとあらゆる場面にわたって、きっと私たちのこの言語は理想に達していない。そのために、私たちはしばしば自分が経験したことを伝える言葉を見出せず黙り込んだり、自分のうちにある気持ちをまるで存在しないもののように扱われたりといった経験をする。新しい言語実践が常に必要なのだ」(三木那由他「言葉の展望台(34)」『群像・6・P495』講談社 二〇二四年)
(2)の前半で三木那由他は現状に照らして日本語があまりにも不備な点を上げているが、だからといって英語に比べて日本語は無理解が激し過ぎるといっているわけではない。三木那由他が参照したのはジョン・L・オースティン。イギリス人言語哲学者でありその理論。オースティンは英語でこういう。
「私たちが普段使っている言語は理想的ではなく、例外的な状況を前にすると破綻する」
オースティンのいう「理想的言語」というのは英語圏であろうといまだない言語、「まだ見ぬ・未来の」というこれから探究・創出されていくべき言語という意味がある。
「これまでの日本語に照らすと不自然な言い回し」であっても探求し実践していく機会がひとりひとりの現場(三木那由他なら三木那由他)から始まっていることはよくわかる。さしあたりインディー系ゲームから出てきた「彼人」(かのひと)が紹介されているが、ほかにも考えられるかもしれないし考えている個々の場所は星の数ほどもあるだろう。