保坂和志は今月号で繰り返し引用している。
「この社会の核には『悲しみ、懊悩、神経症、無力感』などを伝染させ、人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法がある」(酒井隆史「通天閣・第四章・P.541」青土社 二〇一一年)
慢性うつ病者としてはかなり身に染みる極めてもっともな思想だと感じる。
無力感を伝染させる、神経症を蔓延させる、同じところばかりをぐるぐる回転させ、結果的に「人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法」。いわゆる明治維新から第二次世界大戦敗戦にいたる近代化の途中で、とりわけ鬱病気質と指摘されがちな日本人が、自身の身体に沁み込ませ内在化させた暗黙の制度である。
しょせん「世の中そういうものだ、デモなんかやったって何ひとつ変りゃしねえよ?」
そういう空気で蔓延している今日の日本が俄かにというべきか、ますますというべきか、ともかくそういう傾向へ深く沈潜していくのはなぜか。というより、さほど不可解におもわれない感触がある。むしろ種も仕掛けもある単なる「手品」に過ぎないと感じる。フーコーから引いておこう。
「権力の合理性とは、権力の局地的破廉恥といってもよいような、それが書き込まれる特定のレベルで縷々極めてあからさまなものとなる戦術の合理性であり、その戦術とは、互いに連鎖をなし、呼びあい、増大しあい、おのれの支えと条件とを他所に見出しつつ、最終的には全体的装置を描き出すところのものだ」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.122~123」新潮社 一九八六年)
おそらくその箇所を受けて保坂和志はいう。
「権力はわかりやすく一箇所に集中しているわけではなく力の流れの結節点が権力としての機能を果たすとかそんなような言い方をフーコーがしていたその権力のひとつのあらわれがダイアモンドとかハラリとかなわけだ、これらの本は人に行動を促さない、というかやる気をなくさせる、
『世の中そういうものだ』と、
ありもしないイデアの人類史をベストセラーにする、グレーバーはダイアモンドやハラリの本を批判し、あれらの本がベストセラーになるのはみんながすでに知っている神話の焼き直しだからだと言う、さっきも一回書いたがグレーバーは《神話》だと切り捨てる、人々はすでに知っていることをもう一度言ってくれることに迎合するのだ、もう一度言う、人々はすでに知っていることを言ってくれることに迎合する、ベストセラーを買って読む人たちは好奇心や興味で読むのでなく、それの一員となるために読む、これもまた権力の小さな発生で、ベストセラーを読む人はそうすることで権力の一角をなす、そんな本を読むのは好奇心とは呼ばない、自発的隷従だ、大勢につく人は自分は隷従しているとは思わず権力の行使者になっていると思っている、フーコーの言った権力とは実際それのことである」(保坂和志「鉄の胡蝶は夢に記憶の歳月に彫るか(70)」『群像・6・P.299~300』講談社 二〇二四年)
こうある。二点。
(1)「ありもしないイデアの人類史をベストセラーにする、グレーバーはダイアモンドやハラリの本を批判し、あれらの本がベストセラーになるのはみんながすでに知っている神話の焼き直しだからだと言う、さっきも一回書いたがグレーバーは《神話》だと切り捨てる、人々はすでに知っていることをもう一度言ってくれることに迎合するのだ」
(2)「人々はすでに知っていることを言ってくれることに迎合する」
(1)はベルクソンが「過去の無限な細部を記憶のうちに留めておく人物」とは逆にただ単なる「習慣」に従うだけに過ぎない「自動人形」と呼んでいる全体主義化した没人格的傾向を差す。次の箇所。
「みずからの生活を生きるかわりに《夢みる》ような人間は、おそらくはそのようにしてありとあらゆる瞬間に、過ぎ去ったじぶんの物語にぞくする無限な細部のひとつひとつをその視界のうちに留めておくことだろう。たほうその反対にこうした記憶を、そこから生まれてくるいっさいのものとともに撥(は)ねつけようとするひとであれば、じぶんの生活をたえず《演じて》、それを真に表象することはないはずである。そのひとは意識をもつ自動人形のように、有用な習慣の坂をくだるのであって、その習慣とは刺戟を適切な反応へと繰りのべる〔だけの〕ものなのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.307~308」岩波文庫 二〇一五年)
(2)についてはニーチェの言葉が有名。数多くの人々がよくよく「迎合する」ことへ走り込みがちだというべきか、それは「認識する」ことを求めていながら実をいうと「知られぬものを《熟知のもの》に還元すること、それ以外の何ものでもない」。
「《われわれの『認識』概念の起源》。ーーー私は、これについての解明を、巷間から取ってくるとしよう。民衆の誰かれが、『あいつは、俺のことが認識(わか)った』と言うのを、私は耳にした。ーーー。そのとき私は自分に問うてみた、ーーーいったい民衆は認識(わかる)という言葉をどういう意味にとっているのか?民衆が『認識』を求める場合、彼らは何を求めているのか?知られぬものを《熟知のもの》に還元すること、それ以外の何ものでもない。われわれ哲学者ーーーそのわれわれも、いったい、認識という言葉を《それ以上》の意味に解しているだろうか!熟知のものとは、つまり、われわれがそれに馴染(なじ)んでいて、もはや不審に思わないもの、われわれの日常茶飯事、われわれがはまりこんでいる何らかの常例規則、われわれの知り抜いていることがらの一切合切、である。ーーー認識へのわれわれの欲求とは、この熟知のものへの欲求にほかならないのではなかろうか、どうだろう?すべての見知らぬもの、見慣れぬもの、疑わしいもののなかに、われわれを二度と不安にしないような何かを見つけ出そうとする意志ではなかろうか?われわれに認識せよと指令するのは、《恐怖の本能》ではなかろうか?認識者の小躍(こおど)りする喜びは、安心感を取り戻したことの欣喜雀躍(きんきじゃくやく)そのものではなかろうか?」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五五・P.395~396」ちくま学芸文庫 一九九三年)
さらに気の利いた一節。
「私は最近の日本の高校のダンス選手権みたいなのはダンスも歌もそこにはない、あの一糸乱れぬ感じはひとめ見たときは驚いたがすぐに嫌になった、日本は部活動を通じてというか部活動を生息場所にして軍国主義が生きつづけていいる、部活動という形態を通じて軍国主義は更新されているーーー」(保坂和志「鉄の胡蝶は夢に記憶の歳月に彫るか(70)」『群像・6・P.301』講談社 二〇二四年)
日本の高校生の部活動がまだ今ほど北朝鮮人文字軍団めいていなかった一九八〇年代の吹奏楽部は全然違っていた。吹奏楽部出身だからといって大学に進学してからも超大国の軍事パレードそっくりのパフォーマンスに憧れるなどという事態はちょっとやそっとでは考えられず、むしろ習得した技術をもっと別の分野、例えばジャズ、現代ポップ、創造的アートへどんどん好きな方面へ歩んでいくのが好奇心の面においてもごく当たり前に見かける光景だった。
いつも団体で単純この上ない行進曲ばかりファンファーレのように鳴り渡らせて鼻高々でいるよりも、音楽は習得すればするほど多岐に渡る迷路へさまよい出て内的宇宙にせよ自身の外部にせよいずれにしてももっと外へ深く探求していくほうが断然面白いからだとおもわれる。
ところが今は東西冷戦終結から数十年にもかかわらず、いずれの陣営にしてもやらかすことは逆にますます瓜二つに似てきたのは滑稽というべきかあるいは不気味と言ったほうがより一層妥当かもしれない。
また日本の場合、明治維新から第二次世界大戦終結までの「近代」の問題だけが問われるだけで済まされるわけはどこにもなく、もうひとつ、敗戦とほぼ同時に滑り込んできた「戦後民主主義」というますます狡猾な統治形態の中でそれこそ当たり前の空気のように横行している「人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法」に触れておく必要を感じる。
フリージャズあるいはフリーインプロヴィゼイションに終わりがなくいつもどこかで再構成/再創造し続けていたくなる人々が陸続と続く理由を、そのような極めて微分的で陰湿な不断の圧力を引き裂いてしまいたいという無意識的意志に求めても何一つ不思議はないに違いない。