本。オオカミは「ホン」と語っていた。去年の十一月号でのことだ。
(1)「『キマッテルダロウ。ズットマッテイタノダ。ホントイウモノガオシエテクレルマデ。トコロガホントイウモノハナニモオシエテクレナイ。ダカライノッタ。モシカシタラボクガオオカミダカラヨウジンシテイルノカモシレナイカラネ。ソウイウコトハヨクアルノダ。ソレデモホントイウモノハシズカナママダッタ。ヒトガツカウモノノコトハワカラナイコトガオオイノダ。オマエガヤッテイルコトヲマネテモミタヨ。ホントイウモノヲスコシズツカゼニアテテミタノダ。ソレデモナニモオコラナカッタ。ダカラアノカミノウエノモジトイウモノヲナガメルコトシカデキナカッタヨ』。
わたしにはなんと答えればいいのかわかりませんでした。もしかしたら、間違っているのはオオカミではなくわたしの方なのかもしれません」(高橋源一郎「オオカミの(1)」『群像・11・P.19』講談社 二〇二三年)
ひとつは、「あり得た、あり得る、あり得るだろう」と考えられることについて。もうひとつ、「もはや失われた、あるいは加速的に失われつつある」と考えられることについて。そういうことを「ほとんどあり得ない」対話の創設を通して提起していくのだろうと思っていた。今もそう思って目を通しているが、とりあえず傍線を引いた箇所を、順を追って列挙しよう。二箇所目。
(2)「確かに、そのライオンの云うとおりなのかもしれませんでした。どこに行っても、わたしはつい、そこの『規則』はなんだろう、と考えてしまうのです。そして、勝手にそこの『規則』を想像して、その自分が想像した『規則』に従おうとしたりするのです」(高橋源一郎「オオカミの(2)」『群像・2・P.102』講談社 二〇二四年)
フーコーが「監獄の誕生」でしきりに論じていた「規律」の<内在化>(内面化)を思わせる。内在化(内面化)されてしまうと自分で自分の挙措動作を自分自身が常に監視していることさえすっかり忘れてしまう。
次の対話は一見両者のあいだに随分世代的な認識の違いがあるように見えるけれども、そうではなくこの四半世紀ほどであっけなく到達された事情。
(3)「『あんた、<キョウシツ>というものを知っておるかな。<ガッコウ>の中には、そういう名前の部屋があったんだ』。『聞いたことがあります。<ガッコウ>に<キョウシツ>に<セイト>ですね。どれも、読んだり、聞いたりしたことがあります』」(高橋源一郎「オオカミの(3)」『群像・2・P.87』講談社 二〇二四年)
さて、「わたし」は「トショカン」を体験する。ある本を開くとともに「カミサマ」についての記述と出会う。日常生活を送る上でいつも何がしかの困難を伴う「チョウセイ」の必要から解き放たれたフィクショナルなシーン。本に出てくる「カミサマ」は「勤勉な工員のよう」であり「そこいらにいる立派なヒトたちのことを云っているだけなのかもしれ」ない。もっとも聖書というのは人間による神格化なしに聖書たり得ないのは言うまでもない。人為的に神格化された聖書は今やもっぱら戦争の正当化に利用されていてその「チョウセイ」に明け暮れる人々にとって、図書館がまだ「トショカン」だった頃の幼い記憶について書き落とすわけにはいかないだろう。
(4)「どうしたのだろう。イヤな気がしないのです。『カミサマ』などという、禍々しいものを目にしているというのに、それは、おそらく、『チョウセイ』のために読んではいないからだと思います。『チョウセイ』のために読むときには、『カミサマ』などというコトバが目に入ると、どんなふうに『チョウセイ』したらいいのだろう、とまず考えてしまうのです。
いま、慌てずに、じっくり『カミサマ』というコトバを見てみると、そんなに悪いコトバのようには思えません。それにしても、『カミサマ』は、『ヒトビト』を造ったようです。なんということだろう。優れた博士のようではありませんか。それに、その仕事ぶりときたら、勤勉な工員のようです。もしかしたら、『カミサマ』というのは、ありもしないなにかではなく、そこいらにいる立派なヒトたちのことを云っているだけなのかもしれません。そして、そのことを告げ知らせるために、ちょっと大げさに書いてみたのでしょうか。もちろん、そんなことは、『会議』で云うことはできません。なんだか、わたしは愉快になりました」(高橋源一郎「オオカミの(4)」『群像・6・P.184』講談社 二〇二四年)
玄関の呼び鈴が鳴ってドアを開けると黒い犬が立っている。「善いサンポ」について滔々と語る。対話というよりほぼ黒い犬の独壇場。当たり前のことを言っているように思えるがそれは人間が読んだ後に言われてみればその通りかもしれないと思う人間の独善的判断に過ぎない。黒い犬の言う当たり前は人間の意識の前、すでに学ばれている。
(5)「『ハイ。フダンハタダナントナクアルイテイルミチニモ、ジツハオソロシイモノガタクサンヒソンデオリマス。タクサンノジケン、ソレモトリワケヒサンナジケンノカズカズ、ソレガジッサイニハミチバタデオコッテイルコトハゴゾンジデショウカ』。『確かに、イエの外には危険なことがたくさんありますね』。『ハイ。ジッサイ、アラユルミチバタニ、ヒトニハミエナイキケンナカショガゴザイマス。ナント、オオカミデサエワカラナイキケンモ、ワタシタチハサッチスルコトガデキルノデゴザイマス』。『それは、すごいですね』。『オドカスヨウデモウシワケアリマセン。ケレドモ、ジッサイ、サンポスルミチニハ、オソロシイホドニタクサンノキケンガマッテオリマス。マタドウジニ、ソウゾウモデキナイホドスバラシイバショモアルワケナノデゴザイマス』。『そうなんですか』。『ソシテ、タイセツナノハ、コドモトオトナ、ワカモノトロウジン、オトコトオンナ、ソレゾレニ、サンポチュウニフリカカルキケンモ、デアウコトニナルスバラシイモノモ、マッタクチガッテイルコトナノデゴザイマス』」(高橋源一郎「オオカミの(4)」『群像・6・P.187』講談社 二〇二四年)
こうして「あり得た、あり得る、あり得るだろう」対話が創設されていく。まだ先は見えない。