ポリコレは時としてなぜ安易なのか。俗語、差別語、罵倒語などはすべて世界から排除すべきなのか。また差別語はいつどこで差別語になるのか、あるいは差別語へ変化しない言語というものが実際にあるのか。これらに関心を向けつつ吉岡乾は自身の基本的態度についてこう語る。
「身体的、精神的疲労や苦痛から、細やかに、叮嚀に考えるのを放棄した状態のことを、俗に”脳死(状態)”と呼び、深夜会議の果てにぞんざいな採決をしたのを振り返って”脳死で決めた”などというようなことがある。常日頃から思考を手放して返事したり決定したりすることの多い僕なので、この意味内容の表現をしたい場面というのがしばしば訪れる。だが、その一方でこの脳死というのが、元来は(恐らく不可逆的な)深刻な病理的症状の表現であり、”さっき新鮮な犬の糞踏んじゃってさーぎゃはは”なんて言うのと同じノリで気軽に使うのは倫理的に憚られる言葉でもある。世の中に、身内が脳死状態になって悲しんでいる人がいる限り、この俗語は使われるべきではないと思うのだ」(吉岡乾「ゲは言語学のゲ(11)」『群像・6・P434』講談社 二〇二四年)
基本的といえばこれほど基本的な態度もちょっとないほどごく当たり前におもえる。ところが「言語は常に変化するものである」ことを踏まえて次のように語る。
「それより更に5年くらい前、”精神薄弱”が”知的障害”と言い換えられるようになった時もそうだが、『中央』が言い換えを提案し、強要してくる際には、大概その言い分として『不快語、差別語を避けるため』などと言ってくる。けれども、罵倒語や侮蔑語と呼び示されるような語句もそうだが、それらが本来的に不快的、差別的、罵倒的、侮蔑的でなくても、経年変化でそういった色味が付いてくるのを避けることはできない。言語は常に変化するものである。話者らが指し示しているものに対して悪いイメージを抱いていたら、それを指し示す語句に悪い臭いが付いたり、そういった語句を悪く言うために利用したりするは、一般的なことである。つまり背後の社会の意識を変革しない限りは、この手の言い換え強制はその場凌ぎにしかなっていないだろう」(吉岡乾「ゲは言語学のゲ(11)」『群像・6・P436』講談社 二〇二四年)
「言い換え」はだめだと言っているわけではない。どんな言葉であってもそれが言葉である以上「本来的に不快的、差別的、罵倒的、侮蔑的でなくても、経年変化でそういった色味が付いてくるのを避けることはできない」という認識に重点を置いている。もっともな話だとおもう。
「中央」(例えば政府)にとって海外から見て「見栄えがわるい」からという意味でただ単に言葉だけを「言い換え」体裁ばかり整えて見せるのはしばしば見かける悪質な事例である。それまで長年に渡って差別語を押し付けられてきた人々の存在を尊重するわけではなく、海外からの大きな圧力を受けてようやく「言い換える」というような場合。表面上の言葉だけを別の言葉に「置き換える」ことにしたというだけで、その意味内容にどんな問題があるかないかはほとんど検討されることがないといったケース。
言葉の意味内容というのは個々の場面によりけりで様々な色合いに変化するのであり、いわゆる「俗語」であっても適切でないとは必ずしも限らない。仲間内で用いる「合言葉」などがそうだ。それらもまた常に変化に晒されている。仲間内で用いる「合言葉」であっても経年変化でただ単なる「侮蔑語」へ変化することなど山ほどあるしその逆に「褒め言葉」に変わっていることもある。あるいは数年も経てばもはや使われることさえなくなり死語化するものもある。
吉岡乾はポリコレだけに囚われることなく自分たちで考えてほしいと提案する。
「読者諸氏にも是非、使い勝手は悪くないのに表現自体がちょっと不都合だなぁといった語句の言い換えを、内々だけでも良いので積極的に企図していって貰いたい。自作であれ多作であれ、どれだけ広く使われていようが、ネットスラングのような俗語を無批判にリアルな日常へと持ち込むことにはリスクが伴うのだから」(吉岡乾「ゲは言語学のゲ(11)」『群像・6・P440』講談社 二〇二四年)
おもうのだが、ポリコレ的言語使用にばかり依存することにはまた別の罠が常につきまとっている。ポリコレ的に見ればなるほど同じ言葉を使用しているふたりの人間がいるとしよう。しかし一方の年間所得は三〇〇〇万、もう一方は三〇万といった場合、両者の間に厳然と横たわっている所得格差を覆い隠してしまう。