女性がこれまでどれほど粗雑に取り扱われてきたか。太田啓子は自身の思春期に感じた違和感を始めとする様々な経験を踏まえて「私の中に内面化されたジェンダー抑圧」があったと認め、それを「アンインストール」する試行錯誤を通して「居心地のよい自分」を獲得してきた(「生きやすくなった」)という。
目にとまったのは「私の中に内面化されたジェンダー抑圧」というフレーズ。この気づきは大変大きいとおもえる。人生を変える強力なエネルギーになり得る。そういう人々をたくさん見てきた立場としては。
しかしジェンダーとは何か。女性差別について考えることは男性の「性」の社会的規範について考える機会をもたらす。
率直にいって、「男性の性的プライバシーが粗雑に扱われている」、という問題。
太田啓子はいう。男性と女性と「どちらも苦しい」という安直な問題では決してない、「男性の性的尊厳は、女性とは違ったやり方で侵害されることがある」と。
「こういうことを講演でもよく話していたところ、何度か『水泳の授業で、男子は上半身裸で海パン1枚というのがとても恥ずかしく感じられて嫌だった』『でも嫌だと言うのもとても嫌だった』という男性の声を聞きました。
誰かの性的プライバシーを粗雑に扱うことは、その人の人格を尊重しないことと同じだと思います。これは私は小学生時代に、身体測定の時に下着のパンツ1枚で並ばされて男性の担任が立ち会っていたことや、下着と同じ分の肌面積が露出するブルマ着用がとても嫌だったことなどで実感していました。女性の性的プライバシーはしばしば暴力的に侵害され、娯楽のように消費され、それに対する怒りが尽きることはないということはもちろんで、『どちらも苦しい』などという安直な対比をしたいわけでは全くありません。『男性の性的尊厳は、女性とは違ったやり方で侵害されることがある』という意味です。
男性が、自分の性的尊厳が尊重されない状況について、『自分は男性だから気にしなくていいのだ』『そんなことによって自分は傷ついたりしない』と無自覚に自分に言い聞かせることが日常で積み重なると、男性のセルフケアの下手さ(その裏返しで、自分のケアを女性にしてもらうことを当前視してしまう言動)につながりやすいのではないか、とも思います」(太田啓子「『男らしさ』の呪縛」『群像・6・P.194~195』講談社 二〇二四年)
少々付け加えたいと思う。マス-コミが何度も繰り返し口にする「男性のセルフケアの下手さ(その裏返しで、自分のケアを女性にしてもらうことを当前視してしまう言動)」。そう口では言ってみせるマス-コミ自身、どこまで性差別に加担してきたか、今なお加担しているか。その検証という点で本気度がほとんどゼロとしか言いようがない。むしろ性差別問題を時折り取り上げることが免罪符と化している点でより一層狡猾に見える。
次に太田啓子が大学生から受けた質問。「<女性性>を売りにして利益を得ている女性の存在」をどう考えるか。
もう何十年も前から取り組まれてきた課題なのだがいまだに残っているのかと驚く。(1)女性個人の行動と(2)女性個人の行動を評価する社会のありよう、それらは別々に考えなければならないという基礎的問題。
「『女性性』で何か利益を得ているポジションというのは、例えば、美しい容貌が評価の重要な要素になり、『女性ならでは』とされるジェンダーロールを担わされて成功しているように見える、いわゆる『女子アナ』などがその典型として念頭に置かれた質問と理解しました。
この質問に対して私は(1)『<女性性>を売りにすることによる成功』は、そもそも本当に『成功』『利益を得ている』といえるのか。(2)当該女性個人の行動の問題と、その個人の行動を評価する社会のありようの問題は分けて考える必要があるのではないか、と回答しました。
まず(1)についてですが、今の日本社会で『女性性』が『売りになる』ためには、女性が若く容貌が美しいことがほぼ例外なく必要になると思います。女性の『若さ』が過剰にもてはやされる社会状況では、単純に、そもそも『女性性を売りにできる』期間は短いと思います。現実に例えば『女子アナ』として、華々しく見えるポジション、人気バラエティ番組の司会や朝の情報番組のキャスターをやっているのは相当若いうちだけで、遅くとも40代以上になったら『女性性を評価された』ためにそのように前面に出る機会は激減しているでしょう。そう考えると、『女性性を売りにして利益を得る』のは、短期的な現象であるという一点のみをとっても、そもそも本当の意味で当該女性にとって『利益』や『成功』になっているのか、それ自体が怪しいように思います。『女性性』を評価するという評価基準そのものが、当然ですが性差別性が強いので、そこでの『評価』に基づいて個人が得られる『利益』にはおのずと限界があります。そのような限界つきの成功は本当に『成功』と評価していいのかをよく考える必要があります。
(2)に関しては、たまたま容姿と才能に恵まれた女性が『女性性』を売りに成功を収めているように見えたとして、その個人の行動と社会構造の問題は分けて考えるべきです。女性の若さや美貌を過剰に評価する社会だからこそ、そこで生きざるを得ないなら、サバイブのためにそれに適応した行動をとる個人も出てくるでしょう。『女性差別は良くないといいながら女性性を前に出して得をするのか』と非難するのではなく、性差別構造があるからこそ、そういう個人の行動が誘発されるのだと捉えるべきだと思います」(太田啓子「『男らしさ』の呪縛」『群像・6・P.195~196』講談社 二〇二四年)
世界ではLGBT理解が大きく進んでいる。日本は太田啓子のいう「区別」ひとつ曖昧にしたまま悪目立ちしてばかりでなにかできているだろうか。どこかに今なお巨大な既得権益の壁があるのだろうか。