すっきりしない報道
すっきりしないニュース
見る価値がどれくらいあるのだろうか
もっと早くに海外で暮らそうとおもえばできないことはなかったかも知れない
しかし現状はご覧の通り
ある危機感について
ラカンから
「彼の例証が二つの寓話からなることを思い出してください。最初の寓話は、欲望している婦人と不法に情交を結ぶなら出口で処刑されてしまう男の話です。『不法に』ということを強調しておくことは無駄ではありません。見たところ最も単純な細部がここで罠の役割を果しているからです。第二の寓話は、専制君主の宮廷で生活している男が、ある人が命を落とすことになる偽証をするか、偽証を拒んで自分が処刑されるか、という二者択一の立場におかれるというものです。
これについてカントは、カント先生は、全く無邪気に、彼の無邪気な手管でもって、最初の話には、良識のある人ならば誰でも否と答えると言います。誰も美女と一夜を過すために自分の命を賭けたりはしない、なぜならこれは美女を賭けた決闘ではなく、絞首刑にされるのだから。カントにとって、これはあたりまえのことです。
後のケースでは別です。偽証から得られる快楽とか、偽証の拒絶によって課せられる刑罰の残酷さとはまったく別に、主体がここで立ち止まり、思案することは確実であり、偽証するぐらいなら主体がいわゆる至上命令の名のもとに死を受容することも考えられる、とカントは言います。実際、他人の財産(善)、生命、名誉の侵害が、普遍的な規則になるや、人間の世界すべては混乱と悪のうちに投げ込まれるだろう、と彼は言うのです。
ここで立ち止まってこれを批判することはできないでしょうか。
最初の寓話がハッとされられるのは、女性との一夜がパラドキシカルにも、被るべき罰と天秤にかけられ、この刑罰と釣り合う快楽として提示されているからです。快楽にはプラスの快楽とマイナスの快楽があります。最悪の例は挙げませんが、カントは『負量の概念』において、名誉の戦死をとげた息子の死を伝えられたスパルタ人の母親の感情について語っていて、そこで一門の栄誉という快楽から息子の死という苦痛を差し引くという算術計算を行っています。なかなか可愛いものです。しかしながら、見方を変えれば、女性との一夜を、快楽という項目から享楽という項目へと、つまり死の受容を含意する享楽へとーーーしかもこのため昇華は必要ありませんーーー移行させれば、この寓話は成立しなくなります。
言いかえますと、享楽が悪であるというだけで事態の局面は全く変り、道徳的法則の意味が完全に変えられるのです。お解りでしょう。道徳的法則がここで何らかの役割を果たしているとしたら、道徳的法則がこの享楽の支えとなり、罪が、聖パウロが並外れた罪人と呼ぶものになることの支えとなるからです。これをカントはここで見落としているのです。
もう一つ見落としがあります。その論理には、ここだけの話ですが、微細な誤謬があり、これを誤認してはなりません。後者の話は前者とは少し異なった条件で提示されています。第一の場合は、快楽『と』刑罰をひとまとめにして、やるか、やらぬか、が問題です。だから人は危険には身をさらさず享楽を断念するわけです。第二の場合は快楽か『それとも』刑罰かどちらかです。これを強調しておくのは重要です。というのは、この選択は『ましてや』という効果を宿命的に付加し、問題の真の射程という点で皆さんを罠にかけるからです。
問題は何でしょう。普遍的規則の言表に則れば私が、私の同胞という限りでの他者の権利を侵害することなのでしょうか。それとも、偽証それ自体がいけないことなのでしょうか。
ちょっと例を変えて見るとどうなるでしょう。次のような場合の証言について考えてみましょう。国家の安全保障を侵害するという活動のかどで、私の隣人、私の兄弟を告発するよう命令されたとすると、私の良心はどうなるでしょう。これだけで普遍的規則に置かれたアクセントをずらすことになるでしょう。
さて、善の法則は悪においてのみ悪によってのみあるとさしあたり主張している私は、この証言をすべきでしょうか。
この<法>によって、隣人の享楽が、こういう証言において私の義務の意味が動揺し揺れ動く要の点となります。私は真理という私の義務へ向かうべきでしょうか。義務は私の享楽の本来的な場を、たとえその場が空であれ、保護します。それとも私は嘘に甘んじるべきでしょうか。嘘は、私の享楽という原則を善と入れ代えさせ、私に時によって相手によって言を左右にすることを命じます。つまり、私はたじろいで隣人を裏切り同胞を生かすか、それとも私は、私の同胞を守るという口実で自分の享楽を諦めるか、いずれかということになります」(ラカン「精神分析の倫理・下・14・P.36~38」岩波書店 二〇〇二年)
さしあたり日本で問題になっているのは第二の場合。ラカンによるソ連批判。「安全保障と偽証」というテーマなら昔からごく一般的にあったわけだがラカンが言おうとしているのは<法>の文脈において「ずれ」はしばしば生じるということと、微妙な言語操作ひとつで<法>の文脈を意図的に「ずらすことができてしまえる」という点。
その意味でなんだか日本は冷戦時代のソ連に大変似てきたように見える。もっとも表向きは戦後民主主義の衣装をまとっているのでなかなか見えにくいわけだが。