家族にアルコール・薬物依存症者がいる場合、日常生活のいろんな面でトラブルや世間体や人間関係の調整に奔走してばかりで気づいた時すでに「自分がない」ような感覚のまま三十年くらい生きてきてしまったとぼんやり口にする人々が時々いる。
また摂食障害を患った岩川ありさは「子どもの頃に責任を背負いすぎた」ひとりだと自覚している。今回はとても重要なポイント、「自他の区別」についてこう述べる。
「自他の区別をつけるというのは私にとっては大きな課題で、これは自分が背負うべき問題か、これは自分の責任の範囲かを確かめるようにしているが、今でも見極めが下手だ。この仕事を自分が断ったら世界が滅びるかもしれないみたいに感じてしまう。友だちに相談したら、『それくらいやったら、滅びへんで!』の一言であった。そして、その一言がとても大事なのだ。私がとらわれている鎖をほどいてくれるような言葉だ。『なんで滅びるかどうかの話になるの?』、『おまえごときが?』という感じで、端から見ると傲岸不遜であり、喜劇ですらある。けれども、本人は大真面目で世界と戦っているのである。
誰かに聞いてみる。
これが自他の区別ではすごく大事な気がする。
あるとき、友だちに、『さっきの発言で世界中のみんなに嫌われるかもしれない』と相談したら、『世界中みんなと知りあいじゃないよね?だったら、知らない人も多いから、みんなには嫌われない。大丈夫だよ』という天才的なアドバイスをもらったことがある。確かに世界中のみんなというのは広すぎて、ありえない虚像なのだ」(岩川ありさ「養生する言葉(第10回)」『群像・2024・5・P.542~543』講談社 二〇二四年)
大事なのはここで紹介されている友だちの言葉というより「友だちとの対話」が成立している点だろうとおもう。そしてこの種の対話効果が世界で最初に確立されたのはどこかというと毎日酒ばかり飲んでいるイメージのあるフランスではなく実は世界大恐慌時代のアメリカ。その後さらにカルト脱会の有力な方法として応用され日本のカルト脱会支援が今なお継続中なのは有名。
その意味でいえば、せっかく脱会したカルトに舞い戻ってしまう被害者がしばしば出る光景が、せっかく止まったアルコールや薬物や拒食やギャンブルへ舞い戻ってしまう人々の姿と打ち重なってみえるのはどうしてだろう。