そういうところは同じだなと思う。
「洗面所で歯を磨いていると、猫が迎えにやってくる」
そこまでは同じだ。
「洗面所で歯を磨いていると、猫が迎えにやってくる。早く一緒に寝ようと催促するので行って布団をめくってやると、いそいそと腕枕で丸くなった」(武塙麻衣子「それがどれほどの孤独であろうとも」『群像・3・P.84』講談社 二〇二五年)
後半、「寝ようと催促するので行って布団をめくってやると、いそいそと腕枕で丸くなった」。連載中の「西高東低マンション」に登場する猫たちもたいへんお利口で毎月「和めるなあ」と思ってみている。
一方我が家でふだん最も自由な権力を与えられている飼い猫「二代目タマ」はどう見ても「お利口」とは言えない。最も自由な権力を与えられているのが「ふだん」に限られているのは猫にとっても飼い主にとっても危険ないたずらに手を出そうとした時、自動的に飼い主へ最高権力が移るように設定されているというほどの意味だが。
二代目タマもなるほど「洗面所で歯を磨いていると、猫が迎えにやってくる」タイプだ。「早く一緒に」が間に入るのも言語化すればこれまたそうではある。ところが後半はまるで違ってしまう。「早く一緒に寝るまで遊ぼう」へ接続される。
「寝るまで」の「寝る」は動詞、しかしその主語は飼い主ではなく「猫」である。飼い猫より先に寝てはいけないと、ある種の「関白宣言」が我が家ではまかり通っている。
差し当たり居間から廊下、廊下から居間へ何度か往復しなくては気が済まない。とはいえそれだけのことなら当たり前のうちに入るだろう。ところが廊下の突き当たりを目指して走っている途中でひょいと向きを変えて階段を駆け上がっていってしまうときがある。この動きがいつ出るか、飼い主にはいつも予想がつかない。あらかじめ予想されたストーリーを予想外のシーンでひょいと裏切る。そのあまりにも見事な身軽さ。うつ病をかかえる飼い主の気が一瞬晴れて世間の過剰接続的な鬱陶しい騒々しさから解放され逆説的な孤独に身を委ねられるのはそういう時だ。
ゴダール作品「勝手に逃げろ/人生」で娼婦役のイザベル・ユベールが娼婦として出向いた仕事先で「一度廊下に出て三十秒したら戻ってくれ」と指示を受ける。指示どおり一度廊下へ出てまた部屋へ戻るわけだが廊下に出て三十秒が過ぎるのを待つあいだにイザベルは旧友と再会する。あってもなくても全然構わないシーン。むしろストーリーというものをすっきり進行させるためには不必要ではと思わせるシーン。想定外というものによる不意打ちは社会構造の過剰接続を崩壊させる力を持つ。
飼い猫の遊びが飼い主の予想をふいに裏切る瞬間の動きに、飼い主はそれと似たものを垣間見る。とともに世間の過剰接続的な鬱陶しい騒々しさから解放され逆説的な孤独に身を委ねられる。
作品「勝手にしやがれ」に出てきた有名な言葉はブレヒトからの引用だったがさらに引用したいと思う。
「猫は猫する」。
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