神社合祀推進派を批判していた時期に書かれたもの。一九一〇年(明治四十三年)八月二十二日に勾引され九月七日に釈放された。「人魚の話」は同じ九月二十四日、二十七日、「牟婁新報」に分載された。紀州の「海鹿(あしか)」、琉球の「儒艮(じゅごん)」、などの逸話が出てくる。海と接する地域へ行くと人魚伝説は幾らでも聞かれる。熊楠は古代ギリシア「オデュッセウス」に出てくるセイレーンのエピソードに言及している。
「琉球ではまた、儒艮(じゅごん)をサンノイオとも言い、むかしは紀州の海鹿(あしか)同様、御留(おと)め魚(いお)にて、王の外これを捕え食うことを能わざりし由。魚(いお)というものの、形が似たばかりで、実は乳で子を育て、陰門、陰茎歴然たれば、獣類に相違ない。以前は鯨類と一視されたが、解剖学が進むに従い、鯨類とは何の縁もなく、目今のところ何等の獣類に近縁あるか一向知れぬから、特にシレン類とて一群を設立されおる。シレンは知れんという訳でなく、シレンスという怪獣は、儒艮(じゅごん)の類に基づいてできたんだととて採用した名じゃ。ギリシアの古話に、シレンスは海神ポルシスの女で、二人とも三人ともいう。海島の花畠に住み、死人の朽骨の間におり、ことのほかの美声で、一度は気休め二度は嘘などと唄うを、助兵衛な舟人ら聴いて、どんな別嬪だろうと、そこへ牽かれ行くと最後、二度と妻子を見ることがならず、オージッセウス、その島辺を航せし時、伴侶(つれ)一同の耳を蠟で塞ぎ、自身のみは耳を塞がずに帆柱に緊(きび)しく括り付けさせ、美声を聞きながら魅(ばか)され行かなんだは、何と豪(えら)い勇士じゃ」(南方熊楠「人魚の話」『浄のセクソロジー・P.240~241』河出文庫)
熊楠の言っている「海鹿(あしか)」はおそらくニホンアシカのこと。一九三五年(昭和十年)頃には九州からオホーツク海にかけて広く見られ猟も行われていたがもはや絶滅した。過去五十年に渡って明確な確認情報がない場合という条件を入れると絶滅種ではなく絶滅危惧種ということにはなるのだが。後者の計算方法は今の環境省が採用している。だからジュゴンの場合、今日は絶滅危惧種だが、もし明日に実際絶滅したとしても、それから五十年経ってなお明確な確認情報が得られない場合、ようやく絶滅種とされる。
オデュッセウス一行が通過したことで有名なセイレーンの出自に関しては一定しないが、複数なのは確かである。
「ポルターオーンとヒッポダマースの娘エウリュテーとの間には、オイネウス、アグリオス、アルカトオス、メラース、レウコーペウスの息子たちと、娘のステロペーが生れた。彼女とアケローオスとからセイレーンたちが生れた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.44」岩波文庫)
ホメロスではこうある。
「二人のセイレンの住む島に着いた。ところがこの時俄に風がやみ、風のない海は凪ぎかえって、神は波浪を眠らせてしまわれた。部下たちは立ち上がって帆を捲き上げ、これを船艙に納めると櫂の前に坐って、滑らかに削った櫂を動かし、海に白波を立て始めた。わたしは大きな輪型の蠟を、鋭利の剣で細かう切り刻み、逞しい手で圧して捏(こ)ねると、圧す手の強い力と、陽の神ヒュペリオニデスの光に温められて、蠟は忽ち熱く(柔らかに)なった。そこでわたしは順々に、部下たち全員の耳に蠟を貼りつけると、彼らは船中で帆柱の根元に立ったわたしを手足ともに縛り、縄の両端を帆柱に括りつけた。部下たちは漕座に坐って、櫂で灰色の海を打っていたが、速やかに船を進めて、呼べば声の届くほどの距離まで近寄った時、船脚速き船が近くに迫ったのを、セイレンたちが気付かぬはずもなく、朗々たる声を張り上げて歌い始めた」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.318~319」岩波文庫)
聞こえないようにオデュッセウスの部下の耳は蠟で作った耳栓で塞いだ。セイレーンはその名高い美声を響かせて次のように誘う。
「アカイア勢の大いなる誇り、広く世に称えられるオデュッセウスよ、さあ、ここへ来て船を停め、わたしらの声をお聞き。これまで黒塗りの船でこの地を訪れた者で、わたしらの口許(くちもと)から流れる、蜜の如く甘い声を聞かずして、行き過ぎた者はないのだよ。聞いた者は心楽しく知識も増して帰ってゆく。わたしらは、アルゴス、トロイエの両軍が、神々の御旨のままに、トロイエの広き野で嘗(な)めた苦難の数々を残らず知っている。また、ものみなを養う大地の上で起ることごとも、みな知っている」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.319」岩波文庫)
オデュッセウスは自分で自分自身の身体を船の帆柱に括り付けさせていたが、セイレーンの声を聞きたくてたまらなくなり、括り付けていた縄を解けと部下に命じる。だが部下を応じない。
「美しい声を発してこういった。わたしは心中、聞きたくて耐らず、眉を動かして合図し、部下に縛(いまし)めを解けと促したが、彼らは前に身をかがめてひたすら漕ぎ進める。ペリメデスとエウリュロコスの二人が、つと立ち上がると縄の数を増してさらに強く締め上げた。しかしセイレンたちを行き過ぎ、もはやその声も歌も聞えぬようになると、わが忠実な部下たちは直ぐに、わたしが耳に貼り付けてやった臘を取り去り、わたしの縄を解いてくれた」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.319~320」岩波文庫)
ようやくセイレーンたちの島を通過する。また、オルペウスが対抗して歌を競い合い無事に通過したエピソードも有名。そのときは部下の一人ブーテースのみがセイレーンたちの住む島に泳ぎ去ったわけだが。
「セイレーンのそばを通った時にはオルペウスが対抗して歌を歌ってアルゴナウタイを船に引き留めた。しかしただ一人ブーテースのみは彼女らのほうに泳ぎ去った」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.63」岩波文庫)
そのあとブーテースはどうなったのか。誰も知らない。もっとも、一人くらいは誘惑されたと考えるのがなるほど真実味は増すわけだが。
紀州の海人(あま)たちの間では竜宮伝説が残る。
「南牟婁郡の潜婦(あま)の話に、海底に『竜宮の御花畑』とて、何とも言えぬ美しい海藻(も)が五色燦爛と密生する所へ行くと、乙姫様(おとひめさま)が顕われ、ぐずぐずすると生命(いのち)を取らると言い伝う。シレンスが花畑におるとは、美しき海藻より出た譚(ものがたり)ならん」(南方熊楠「人魚の話」『浄のセクソロジー・P.241~242』河出文庫)
ニホンアシカにせよジュゴンにせよ海の藻を食して生きる。かつて紀州沿岸の藻類は「五色燦爛」の「花畑」と呼ばれるほど海藻類の宝庫だったのだろう。
熊楠が愛読した「御伽草子」から続き。僧は夢に見た兒(ちご)の面影が忘れ去れず比叡山から石山寺へ戻ろうとする。途中、三井寺辺りまで来るとぽつぽつと雨がぱらつき始めた。ふと見ると金堂の近くの「聖護院(シヤウゴヰン)ノ御房ノ庭ニ」ひとかたまりの山桜の花が垣からはみ出して群れているのに気付く。そこに二十代半ばくらいの兒(ちご)がいるのが目に入る。兒(ちご)はあっさりしたデザインの普段着をまとっており、「腰圍(ヨウイ)ホソヤカニケマハシ深(フカ)クミヤビカナル」姿形である。「腰圍(ヨウイ)」は腰回りのこと。それが極めて細く艶めいて見えるのは、あくまで寺院に所属するなので粗食が基本だからもっともだろう。兒(ちご)は庭の山桜の枝を一房折って歌を詠む。
「金堂(コンダウ)ノ方ヘ下(クダ)リ行ク處ニ聖護院(シヤウゴヰン)ノ御房ノ庭ニ、老木ノ花の色コトナル梢(コズエ)、垣ニ餘リテ雲ヲ凝(コラ)セリ。『遥見人家(ハルカニジンカヲミテ)花アレバ則入(スナハチイル)』ト云フ詩ノ心ニヒカレテ門ノ側ニ立チ寄リリタレバ、齢(ヨハヒ)二八計ノ兒ノ、水魚紗(スイギヨシヤ)ノ水干ニ薄紅(ウスクレナヰ)ノ袙(アコネ)カサネテ、腰圍(ヨウイ)ホソヤカニケマハシ深(フカ)クミヤビカナルガ、見ル人アリトモ知(シ)ラザリケルニヤ、御簾(ミス)ノ内ヨリ庭ニ立チ出デテ、雪重(ヲモ)ゲニ咲キタル下枝ノ花ヲ一態(ヒトフサ)手ニ折リテ、
降ル雨ニ濡(ヌ)ルトモ折(ヲ)ラン山櫻雲ノカヘシノ風モコソ吹ケ
トウチスサミテ花ノ雫(シヅク)ニ濡(ヌ)レタル躰(テイ)、是モ花カト迷(マヨ)ハレテ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.463』岩波書店)
なお「聖護院(シヤウゴヰン)ノ御房」とある。もともと三井寺には増誉という修験者がいた。帰依する人々は多く、なかには白河天皇・堀川天皇などがいて増誉は両天皇の護持僧となり、一〇八七年(応徳四年)、白河上皇の熊野参詣の際、増誉がその先達を務めている。また熊野三山に検校職が設置されると同時に増誉がそれに任ぜられた。一一五九年(平治一年)には後白河天皇が三井寺に熊野権現社を勧請。今の三井寺境内にある熊野社はそれが発祥。三井寺と熊野三山との深い繋がりはその百年近くを通して強化された。
一五九一年(天正十九年)に聖護院通澄(第百三十代)の名が見える。というのは豊臣秀吉が寺僧の綱紀取締り一任を聖護院通澄に伝えたからである。ところが一五九五年(文禄四年)十一月、突然、秀吉から三井寺闕所の命が出され、ほとんどの堂房は失われる。金堂は一五九六年(慶長一年)比叡山西塔に移築され釈迦堂とした。今の叡山釈迦堂がそれに当たる。
また「御伽草子」全般に言えることだが、もっと古い古典からの引用がいろいろと多い。例えば、「遥見人家(ハルカニジンカヲミテ)花アレバ則入(スナハチイル)」。一〇一三年(長和二年)成立の「和漢朗詠集」に載っている。
「遙(はる)かに人家(じんか)を見て花あれば便(すなは)ち入る 貴賤(くゐせん)と親疎(しんそ)とを論ぜす」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻上・春・花付落下・一一五・白居易・P.51」新潮社)
白居易の詩「尋春題諸家園林」の後半部分。もともとは前半もある。次の通り。
「貌随年老欲何 興遇春索尚有餘 遥見人家花便入 不論貴賤與親疎
(書き下し)貌(かたち)は年(とし)に随(したが)って老(お)ゆ何如(いかん)せんと欲(ほっ)する 興(きょう)は春(はる)に遇(あ)ふて牽(ひ)かれなほ餘(あまり)あり。遥(はるか)に人家(じんけ)を見(み)て花(はな)あればすなはち入(い)り 論(ろん)ぜず貴賤(きせん)と親疎(しんそ)とを。
(現代語訳)容貌が一年ごとに老いてゆくのはどうしようもないが、春にあうとおもしろさはなお一層ひどく感じる。はるか遠くに人家に花の咲いているのを見ればはいってゆき、その家の貴賤や親疎など問題にしない」(漢詩選10「尋春題諸家園林 春(はる)を尋(たづ)ねて諸家(しょか)の園林(えんりん)に題(だい)す」『白居易・P.336』集英社)
しかし人気は後半部分に集中したようであり「新古今和歌集」には次の類歌がある。山桜の花が梅の花になっている。
「あるじをば誰(たれ)ともわかず春はただ垣根(かきね)の梅(むめ)をたづねてぞみる」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第一・四二・藤原敦家朝臣・P.31」岩波書店)
さて、僧は兒(ちご)に見惚れたまま。凜々たる美男子というにふさわしいその兒(ちご)は、折り取った一房の花を手に持ちながら「聖護院(シヤウゴヰン)ノ御房」の縁側を悠々と歩いていく。その横顔へ風に吹かれた柳の枝がまとわりつく。僧はその姿が忘れられず、これこそ石山寺で夢に見た美童が現実に出現したか、と思う。
「心ナキ風ノ扉(トビラ)ヲキリキリト吹キ鳴(ナラ)シタルニ、見(ミ)ル人アリヤトアヤシゲニ見遣リテ、花ヲ手ニ持(モ)チナガラ、カカリノ本(モト)ヲヘメグリテシヅカニ歩(アヨ)ムニ、海松(ミル)態(フサ)ノ如クニ、イフイフトカカリタル髪ノスソ、柳ノ糸ニ打縛(マトハ)レテ引留メタルヲ、ホレホレト見カヘリタル目ツキ顔(カホ)バセイフ計ナキ様」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.463』岩波書店)
なかなか思い切れないうちに日も暮れて、その夜は三井寺の金堂の縁を勝手に借りて寝ることにした。
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「琉球ではまた、儒艮(じゅごん)をサンノイオとも言い、むかしは紀州の海鹿(あしか)同様、御留(おと)め魚(いお)にて、王の外これを捕え食うことを能わざりし由。魚(いお)というものの、形が似たばかりで、実は乳で子を育て、陰門、陰茎歴然たれば、獣類に相違ない。以前は鯨類と一視されたが、解剖学が進むに従い、鯨類とは何の縁もなく、目今のところ何等の獣類に近縁あるか一向知れぬから、特にシレン類とて一群を設立されおる。シレンは知れんという訳でなく、シレンスという怪獣は、儒艮(じゅごん)の類に基づいてできたんだととて採用した名じゃ。ギリシアの古話に、シレンスは海神ポルシスの女で、二人とも三人ともいう。海島の花畠に住み、死人の朽骨の間におり、ことのほかの美声で、一度は気休め二度は嘘などと唄うを、助兵衛な舟人ら聴いて、どんな別嬪だろうと、そこへ牽かれ行くと最後、二度と妻子を見ることがならず、オージッセウス、その島辺を航せし時、伴侶(つれ)一同の耳を蠟で塞ぎ、自身のみは耳を塞がずに帆柱に緊(きび)しく括り付けさせ、美声を聞きながら魅(ばか)され行かなんだは、何と豪(えら)い勇士じゃ」(南方熊楠「人魚の話」『浄のセクソロジー・P.240~241』河出文庫)
熊楠の言っている「海鹿(あしか)」はおそらくニホンアシカのこと。一九三五年(昭和十年)頃には九州からオホーツク海にかけて広く見られ猟も行われていたがもはや絶滅した。過去五十年に渡って明確な確認情報がない場合という条件を入れると絶滅種ではなく絶滅危惧種ということにはなるのだが。後者の計算方法は今の環境省が採用している。だからジュゴンの場合、今日は絶滅危惧種だが、もし明日に実際絶滅したとしても、それから五十年経ってなお明確な確認情報が得られない場合、ようやく絶滅種とされる。
オデュッセウス一行が通過したことで有名なセイレーンの出自に関しては一定しないが、複数なのは確かである。
「ポルターオーンとヒッポダマースの娘エウリュテーとの間には、オイネウス、アグリオス、アルカトオス、メラース、レウコーペウスの息子たちと、娘のステロペーが生れた。彼女とアケローオスとからセイレーンたちが生れた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.44」岩波文庫)
ホメロスではこうある。
「二人のセイレンの住む島に着いた。ところがこの時俄に風がやみ、風のない海は凪ぎかえって、神は波浪を眠らせてしまわれた。部下たちは立ち上がって帆を捲き上げ、これを船艙に納めると櫂の前に坐って、滑らかに削った櫂を動かし、海に白波を立て始めた。わたしは大きな輪型の蠟を、鋭利の剣で細かう切り刻み、逞しい手で圧して捏(こ)ねると、圧す手の強い力と、陽の神ヒュペリオニデスの光に温められて、蠟は忽ち熱く(柔らかに)なった。そこでわたしは順々に、部下たち全員の耳に蠟を貼りつけると、彼らは船中で帆柱の根元に立ったわたしを手足ともに縛り、縄の両端を帆柱に括りつけた。部下たちは漕座に坐って、櫂で灰色の海を打っていたが、速やかに船を進めて、呼べば声の届くほどの距離まで近寄った時、船脚速き船が近くに迫ったのを、セイレンたちが気付かぬはずもなく、朗々たる声を張り上げて歌い始めた」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.318~319」岩波文庫)
聞こえないようにオデュッセウスの部下の耳は蠟で作った耳栓で塞いだ。セイレーンはその名高い美声を響かせて次のように誘う。
「アカイア勢の大いなる誇り、広く世に称えられるオデュッセウスよ、さあ、ここへ来て船を停め、わたしらの声をお聞き。これまで黒塗りの船でこの地を訪れた者で、わたしらの口許(くちもと)から流れる、蜜の如く甘い声を聞かずして、行き過ぎた者はないのだよ。聞いた者は心楽しく知識も増して帰ってゆく。わたしらは、アルゴス、トロイエの両軍が、神々の御旨のままに、トロイエの広き野で嘗(な)めた苦難の数々を残らず知っている。また、ものみなを養う大地の上で起ることごとも、みな知っている」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.319」岩波文庫)
オデュッセウスは自分で自分自身の身体を船の帆柱に括り付けさせていたが、セイレーンの声を聞きたくてたまらなくなり、括り付けていた縄を解けと部下に命じる。だが部下を応じない。
「美しい声を発してこういった。わたしは心中、聞きたくて耐らず、眉を動かして合図し、部下に縛(いまし)めを解けと促したが、彼らは前に身をかがめてひたすら漕ぎ進める。ペリメデスとエウリュロコスの二人が、つと立ち上がると縄の数を増してさらに強く締め上げた。しかしセイレンたちを行き過ぎ、もはやその声も歌も聞えぬようになると、わが忠実な部下たちは直ぐに、わたしが耳に貼り付けてやった臘を取り去り、わたしの縄を解いてくれた」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.319~320」岩波文庫)
ようやくセイレーンたちの島を通過する。また、オルペウスが対抗して歌を競い合い無事に通過したエピソードも有名。そのときは部下の一人ブーテースのみがセイレーンたちの住む島に泳ぎ去ったわけだが。
「セイレーンのそばを通った時にはオルペウスが対抗して歌を歌ってアルゴナウタイを船に引き留めた。しかしただ一人ブーテースのみは彼女らのほうに泳ぎ去った」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.63」岩波文庫)
そのあとブーテースはどうなったのか。誰も知らない。もっとも、一人くらいは誘惑されたと考えるのがなるほど真実味は増すわけだが。
紀州の海人(あま)たちの間では竜宮伝説が残る。
「南牟婁郡の潜婦(あま)の話に、海底に『竜宮の御花畑』とて、何とも言えぬ美しい海藻(も)が五色燦爛と密生する所へ行くと、乙姫様(おとひめさま)が顕われ、ぐずぐずすると生命(いのち)を取らると言い伝う。シレンスが花畑におるとは、美しき海藻より出た譚(ものがたり)ならん」(南方熊楠「人魚の話」『浄のセクソロジー・P.241~242』河出文庫)
ニホンアシカにせよジュゴンにせよ海の藻を食して生きる。かつて紀州沿岸の藻類は「五色燦爛」の「花畑」と呼ばれるほど海藻類の宝庫だったのだろう。
熊楠が愛読した「御伽草子」から続き。僧は夢に見た兒(ちご)の面影が忘れ去れず比叡山から石山寺へ戻ろうとする。途中、三井寺辺りまで来るとぽつぽつと雨がぱらつき始めた。ふと見ると金堂の近くの「聖護院(シヤウゴヰン)ノ御房ノ庭ニ」ひとかたまりの山桜の花が垣からはみ出して群れているのに気付く。そこに二十代半ばくらいの兒(ちご)がいるのが目に入る。兒(ちご)はあっさりしたデザインの普段着をまとっており、「腰圍(ヨウイ)ホソヤカニケマハシ深(フカ)クミヤビカナル」姿形である。「腰圍(ヨウイ)」は腰回りのこと。それが極めて細く艶めいて見えるのは、あくまで寺院に所属するなので粗食が基本だからもっともだろう。兒(ちご)は庭の山桜の枝を一房折って歌を詠む。
「金堂(コンダウ)ノ方ヘ下(クダ)リ行ク處ニ聖護院(シヤウゴヰン)ノ御房ノ庭ニ、老木ノ花の色コトナル梢(コズエ)、垣ニ餘リテ雲ヲ凝(コラ)セリ。『遥見人家(ハルカニジンカヲミテ)花アレバ則入(スナハチイル)』ト云フ詩ノ心ニヒカレテ門ノ側ニ立チ寄リリタレバ、齢(ヨハヒ)二八計ノ兒ノ、水魚紗(スイギヨシヤ)ノ水干ニ薄紅(ウスクレナヰ)ノ袙(アコネ)カサネテ、腰圍(ヨウイ)ホソヤカニケマハシ深(フカ)クミヤビカナルガ、見ル人アリトモ知(シ)ラザリケルニヤ、御簾(ミス)ノ内ヨリ庭ニ立チ出デテ、雪重(ヲモ)ゲニ咲キタル下枝ノ花ヲ一態(ヒトフサ)手ニ折リテ、
降ル雨ニ濡(ヌ)ルトモ折(ヲ)ラン山櫻雲ノカヘシノ風モコソ吹ケ
トウチスサミテ花ノ雫(シヅク)ニ濡(ヌ)レタル躰(テイ)、是モ花カト迷(マヨ)ハレテ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.463』岩波書店)
なお「聖護院(シヤウゴヰン)ノ御房」とある。もともと三井寺には増誉という修験者がいた。帰依する人々は多く、なかには白河天皇・堀川天皇などがいて増誉は両天皇の護持僧となり、一〇八七年(応徳四年)、白河上皇の熊野参詣の際、増誉がその先達を務めている。また熊野三山に検校職が設置されると同時に増誉がそれに任ぜられた。一一五九年(平治一年)には後白河天皇が三井寺に熊野権現社を勧請。今の三井寺境内にある熊野社はそれが発祥。三井寺と熊野三山との深い繋がりはその百年近くを通して強化された。
一五九一年(天正十九年)に聖護院通澄(第百三十代)の名が見える。というのは豊臣秀吉が寺僧の綱紀取締り一任を聖護院通澄に伝えたからである。ところが一五九五年(文禄四年)十一月、突然、秀吉から三井寺闕所の命が出され、ほとんどの堂房は失われる。金堂は一五九六年(慶長一年)比叡山西塔に移築され釈迦堂とした。今の叡山釈迦堂がそれに当たる。
また「御伽草子」全般に言えることだが、もっと古い古典からの引用がいろいろと多い。例えば、「遥見人家(ハルカニジンカヲミテ)花アレバ則入(スナハチイル)」。一〇一三年(長和二年)成立の「和漢朗詠集」に載っている。
「遙(はる)かに人家(じんか)を見て花あれば便(すなは)ち入る 貴賤(くゐせん)と親疎(しんそ)とを論ぜす」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻上・春・花付落下・一一五・白居易・P.51」新潮社)
白居易の詩「尋春題諸家園林」の後半部分。もともとは前半もある。次の通り。
「貌随年老欲何 興遇春索尚有餘 遥見人家花便入 不論貴賤與親疎
(書き下し)貌(かたち)は年(とし)に随(したが)って老(お)ゆ何如(いかん)せんと欲(ほっ)する 興(きょう)は春(はる)に遇(あ)ふて牽(ひ)かれなほ餘(あまり)あり。遥(はるか)に人家(じんけ)を見(み)て花(はな)あればすなはち入(い)り 論(ろん)ぜず貴賤(きせん)と親疎(しんそ)とを。
(現代語訳)容貌が一年ごとに老いてゆくのはどうしようもないが、春にあうとおもしろさはなお一層ひどく感じる。はるか遠くに人家に花の咲いているのを見ればはいってゆき、その家の貴賤や親疎など問題にしない」(漢詩選10「尋春題諸家園林 春(はる)を尋(たづ)ねて諸家(しょか)の園林(えんりん)に題(だい)す」『白居易・P.336』集英社)
しかし人気は後半部分に集中したようであり「新古今和歌集」には次の類歌がある。山桜の花が梅の花になっている。
「あるじをば誰(たれ)ともわかず春はただ垣根(かきね)の梅(むめ)をたづねてぞみる」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第一・四二・藤原敦家朝臣・P.31」岩波書店)
さて、僧は兒(ちご)に見惚れたまま。凜々たる美男子というにふさわしいその兒(ちご)は、折り取った一房の花を手に持ちながら「聖護院(シヤウゴヰン)ノ御房」の縁側を悠々と歩いていく。その横顔へ風に吹かれた柳の枝がまとわりつく。僧はその姿が忘れられず、これこそ石山寺で夢に見た美童が現実に出現したか、と思う。
「心ナキ風ノ扉(トビラ)ヲキリキリト吹キ鳴(ナラ)シタルニ、見(ミ)ル人アリヤトアヤシゲニ見遣リテ、花ヲ手ニ持(モ)チナガラ、カカリノ本(モト)ヲヘメグリテシヅカニ歩(アヨ)ムニ、海松(ミル)態(フサ)ノ如クニ、イフイフトカカリタル髪ノスソ、柳ノ糸ニ打縛(マトハ)レテ引留メタルヲ、ホレホレト見カヘリタル目ツキ顔(カホ)バセイフ計ナキ様」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.463』岩波書店)
なかなか思い切れないうちに日も暮れて、その夜は三井寺の金堂の縁を勝手に借りて寝ることにした。
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