白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/儒艮(じゅごん)、海鹿(あしか)、セイレーン

2020年10月02日 | 日記・エッセイ・コラム
神社合祀推進派を批判していた時期に書かれたもの。一九一〇年(明治四十三年)八月二十二日に勾引され九月七日に釈放された。「人魚の話」は同じ九月二十四日、二十七日、「牟婁新報」に分載された。紀州の「海鹿(あしか)」、琉球の「儒艮(じゅごん)」、などの逸話が出てくる。海と接する地域へ行くと人魚伝説は幾らでも聞かれる。熊楠は古代ギリシア「オデュッセウス」に出てくるセイレーンのエピソードに言及している。

「琉球ではまた、儒艮(じゅごん)をサンノイオとも言い、むかしは紀州の海鹿(あしか)同様、御留(おと)め魚(いお)にて、王の外これを捕え食うことを能わざりし由。魚(いお)というものの、形が似たばかりで、実は乳で子を育て、陰門、陰茎歴然たれば、獣類に相違ない。以前は鯨類と一視されたが、解剖学が進むに従い、鯨類とは何の縁もなく、目今のところ何等の獣類に近縁あるか一向知れぬから、特にシレン類とて一群を設立されおる。シレンは知れんという訳でなく、シレンスという怪獣は、儒艮(じゅごん)の類に基づいてできたんだととて採用した名じゃ。ギリシアの古話に、シレンスは海神ポルシスの女で、二人とも三人ともいう。海島の花畠に住み、死人の朽骨の間におり、ことのほかの美声で、一度は気休め二度は嘘などと唄うを、助兵衛な舟人ら聴いて、どんな別嬪だろうと、そこへ牽かれ行くと最後、二度と妻子を見ることがならず、オージッセウス、その島辺を航せし時、伴侶(つれ)一同の耳を蠟で塞ぎ、自身のみは耳を塞がずに帆柱に緊(きび)しく括り付けさせ、美声を聞きながら魅(ばか)され行かなんだは、何と豪(えら)い勇士じゃ」(南方熊楠「人魚の話」『浄のセクソロジー・P.240~241』河出文庫)

熊楠の言っている「海鹿(あしか)」はおそらくニホンアシカのこと。一九三五年(昭和十年)頃には九州からオホーツク海にかけて広く見られ猟も行われていたがもはや絶滅した。過去五十年に渡って明確な確認情報がない場合という条件を入れると絶滅種ではなく絶滅危惧種ということにはなるのだが。後者の計算方法は今の環境省が採用している。だからジュゴンの場合、今日は絶滅危惧種だが、もし明日に実際絶滅したとしても、それから五十年経ってなお明確な確認情報が得られない場合、ようやく絶滅種とされる。

オデュッセウス一行が通過したことで有名なセイレーンの出自に関しては一定しないが、複数なのは確かである。

「ポルターオーンとヒッポダマースの娘エウリュテーとの間には、オイネウス、アグリオス、アルカトオス、メラース、レウコーペウスの息子たちと、娘のステロペーが生れた。彼女とアケローオスとからセイレーンたちが生れた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.44」岩波文庫)

ホメロスではこうある。

「二人のセイレンの住む島に着いた。ところがこの時俄に風がやみ、風のない海は凪ぎかえって、神は波浪を眠らせてしまわれた。部下たちは立ち上がって帆を捲き上げ、これを船艙に納めると櫂の前に坐って、滑らかに削った櫂を動かし、海に白波を立て始めた。わたしは大きな輪型の蠟を、鋭利の剣で細かう切り刻み、逞しい手で圧して捏(こ)ねると、圧す手の強い力と、陽の神ヒュペリオニデスの光に温められて、蠟は忽ち熱く(柔らかに)なった。そこでわたしは順々に、部下たち全員の耳に蠟を貼りつけると、彼らは船中で帆柱の根元に立ったわたしを手足ともに縛り、縄の両端を帆柱に括りつけた。部下たちは漕座に坐って、櫂で灰色の海を打っていたが、速やかに船を進めて、呼べば声の届くほどの距離まで近寄った時、船脚速き船が近くに迫ったのを、セイレンたちが気付かぬはずもなく、朗々たる声を張り上げて歌い始めた」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.318~319」岩波文庫)

聞こえないようにオデュッセウスの部下の耳は蠟で作った耳栓で塞いだ。セイレーンはその名高い美声を響かせて次のように誘う。

「アカイア勢の大いなる誇り、広く世に称えられるオデュッセウスよ、さあ、ここへ来て船を停め、わたしらの声をお聞き。これまで黒塗りの船でこの地を訪れた者で、わたしらの口許(くちもと)から流れる、蜜の如く甘い声を聞かずして、行き過ぎた者はないのだよ。聞いた者は心楽しく知識も増して帰ってゆく。わたしらは、アルゴス、トロイエの両軍が、神々の御旨のままに、トロイエの広き野で嘗(な)めた苦難の数々を残らず知っている。また、ものみなを養う大地の上で起ることごとも、みな知っている」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.319」岩波文庫)

オデュッセウスは自分で自分自身の身体を船の帆柱に括り付けさせていたが、セイレーンの声を聞きたくてたまらなくなり、括り付けていた縄を解けと部下に命じる。だが部下を応じない。

「美しい声を発してこういった。わたしは心中、聞きたくて耐らず、眉を動かして合図し、部下に縛(いまし)めを解けと促したが、彼らは前に身をかがめてひたすら漕ぎ進める。ペリメデスとエウリュロコスの二人が、つと立ち上がると縄の数を増してさらに強く締め上げた。しかしセイレンたちを行き過ぎ、もはやその声も歌も聞えぬようになると、わが忠実な部下たちは直ぐに、わたしが耳に貼り付けてやった臘を取り去り、わたしの縄を解いてくれた」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.319~320」岩波文庫)

ようやくセイレーンたちの島を通過する。また、オルペウスが対抗して歌を競い合い無事に通過したエピソードも有名。そのときは部下の一人ブーテースのみがセイレーンたちの住む島に泳ぎ去ったわけだが。

「セイレーンのそばを通った時にはオルペウスが対抗して歌を歌ってアルゴナウタイを船に引き留めた。しかしただ一人ブーテースのみは彼女らのほうに泳ぎ去った」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.63」岩波文庫)

そのあとブーテースはどうなったのか。誰も知らない。もっとも、一人くらいは誘惑されたと考えるのがなるほど真実味は増すわけだが。

紀州の海人(あま)たちの間では竜宮伝説が残る。

「南牟婁郡の潜婦(あま)の話に、海底に『竜宮の御花畑』とて、何とも言えぬ美しい海藻(も)が五色燦爛と密生する所へ行くと、乙姫様(おとひめさま)が顕われ、ぐずぐずすると生命(いのち)を取らると言い伝う。シレンスが花畑におるとは、美しき海藻より出た譚(ものがたり)ならん」(南方熊楠「人魚の話」『浄のセクソロジー・P.241~242』河出文庫)

ニホンアシカにせよジュゴンにせよ海の藻を食して生きる。かつて紀州沿岸の藻類は「五色燦爛」の「花畑」と呼ばれるほど海藻類の宝庫だったのだろう。

熊楠が愛読した「御伽草子」から続き。僧は夢に見た兒(ちご)の面影が忘れ去れず比叡山から石山寺へ戻ろうとする。途中、三井寺辺りまで来るとぽつぽつと雨がぱらつき始めた。ふと見ると金堂の近くの「聖護院(シヤウゴヰン)ノ御房ノ庭ニ」ひとかたまりの山桜の花が垣からはみ出して群れているのに気付く。そこに二十代半ばくらいの兒(ちご)がいるのが目に入る。兒(ちご)はあっさりしたデザインの普段着をまとっており、「腰圍(ヨウイ)ホソヤカニケマハシ深(フカ)クミヤビカナル」姿形である。「腰圍(ヨウイ)」は腰回りのこと。それが極めて細く艶めいて見えるのは、あくまで寺院に所属するなので粗食が基本だからもっともだろう。兒(ちご)は庭の山桜の枝を一房折って歌を詠む。

「金堂(コンダウ)ノ方ヘ下(クダ)リ行ク處ニ聖護院(シヤウゴヰン)ノ御房ノ庭ニ、老木ノ花の色コトナル梢(コズエ)、垣ニ餘リテ雲ヲ凝(コラ)セリ。『遥見人家(ハルカニジンカヲミテ)花アレバ則入(スナハチイル)』ト云フ詩ノ心ニヒカレテ門ノ側ニ立チ寄リリタレバ、齢(ヨハヒ)二八計ノ兒ノ、水魚紗(スイギヨシヤ)ノ水干ニ薄紅(ウスクレナヰ)ノ袙(アコネ)カサネテ、腰圍(ヨウイ)ホソヤカニケマハシ深(フカ)クミヤビカナルガ、見ル人アリトモ知(シ)ラザリケルニヤ、御簾(ミス)ノ内ヨリ庭ニ立チ出デテ、雪重(ヲモ)ゲニ咲キタル下枝ノ花ヲ一態(ヒトフサ)手ニ折リテ、

降ル雨ニ濡(ヌ)ルトモ折(ヲ)ラン山櫻雲ノカヘシノ風モコソ吹ケ

トウチスサミテ花ノ雫(シヅク)ニ濡(ヌ)レタル躰(テイ)、是モ花カト迷(マヨ)ハレテ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.463』岩波書店)

なお「聖護院(シヤウゴヰン)ノ御房」とある。もともと三井寺には増誉という修験者がいた。帰依する人々は多く、なかには白河天皇・堀川天皇などがいて増誉は両天皇の護持僧となり、一〇八七年(応徳四年)、白河上皇の熊野参詣の際、増誉がその先達を務めている。また熊野三山に検校職が設置されると同時に増誉がそれに任ぜられた。一一五九年(平治一年)には後白河天皇が三井寺に熊野権現社を勧請。今の三井寺境内にある熊野社はそれが発祥。三井寺と熊野三山との深い繋がりはその百年近くを通して強化された。

一五九一年(天正十九年)に聖護院通澄(第百三十代)の名が見える。というのは豊臣秀吉が寺僧の綱紀取締り一任を聖護院通澄に伝えたからである。ところが一五九五年(文禄四年)十一月、突然、秀吉から三井寺闕所の命が出され、ほとんどの堂房は失われる。金堂は一五九六年(慶長一年)比叡山西塔に移築され釈迦堂とした。今の叡山釈迦堂がそれに当たる。

また「御伽草子」全般に言えることだが、もっと古い古典からの引用がいろいろと多い。例えば、「遥見人家(ハルカニジンカヲミテ)花アレバ則入(スナハチイル)」。一〇一三年(長和二年)成立の「和漢朗詠集」に載っている。

「遙(はる)かに人家(じんか)を見て花あれば便(すなは)ち入る 貴賤(くゐせん)と親疎(しんそ)とを論ぜす」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻上・春・花付落下・一一五・白居易・P.51」新潮社)

白居易の詩「尋春題諸家園林」の後半部分。もともとは前半もある。次の通り。

「貌随年老欲何 興遇春索尚有餘 遥見人家花便入 不論貴賤與親疎

(書き下し)貌(かたち)は年(とし)に随(したが)って老(お)ゆ何如(いかん)せんと欲(ほっ)する 興(きょう)は春(はる)に遇(あ)ふて牽(ひ)かれなほ餘(あまり)あり。遥(はるか)に人家(じんけ)を見(み)て花(はな)あればすなはち入(い)り 論(ろん)ぜず貴賤(きせん)と親疎(しんそ)とを。

(現代語訳)容貌が一年ごとに老いてゆくのはどうしようもないが、春にあうとおもしろさはなお一層ひどく感じる。はるか遠くに人家に花の咲いているのを見ればはいってゆき、その家の貴賤や親疎など問題にしない」(漢詩選10「尋春題諸家園林 春(はる)を尋(たづ)ねて諸家(しょか)の園林(えんりん)に題(だい)す」『白居易・P.336』集英社)

しかし人気は後半部分に集中したようであり「新古今和歌集」には次の類歌がある。山桜の花が梅の花になっている。

「あるじをば誰(たれ)ともわかず春はただ垣根(かきね)の梅(むめ)をたづねてぞみる」(新日本古典文学体系「新古今和歌集・卷第一・四二・藤原敦家朝臣・P.31」岩波書店)

さて、僧は兒(ちご)に見惚れたまま。凜々たる美男子というにふさわしいその兒(ちご)は、折り取った一房の花を手に持ちながら「聖護院(シヤウゴヰン)ノ御房」の縁側を悠々と歩いていく。その横顔へ風に吹かれた柳の枝がまとわりつく。僧はその姿が忘れられず、これこそ石山寺で夢に見た美童が現実に出現したか、と思う。

「心ナキ風ノ扉(トビラ)ヲキリキリト吹キ鳴(ナラ)シタルニ、見(ミ)ル人アリヤトアヤシゲニ見遣リテ、花ヲ手ニ持(モ)チナガラ、カカリノ本(モト)ヲヘメグリテシヅカニ歩(アヨ)ムニ、海松(ミル)態(フサ)ノ如クニ、イフイフトカカリタル髪ノスソ、柳ノ糸ニ打縛(マトハ)レテ引留メタルヲ、ホレホレト見カヘリタル目ツキ顔(カホ)バセイフ計ナキ様」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.463』岩波書店)

なかなか思い切れないうちに日も暮れて、その夜は三井寺の金堂の縁を勝手に借りて寝ることにした。

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熊楠による熊野案内/男子相愛と性器切断

2020年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠の粘菌研究が突出した充実度を見せ始めるのと同時に人間のセクシャリティの多様性にも言及することが俄然増える。

「『日本紀』にも、神功皇后、紀伊に到りたまいし時、両男子相愛し、死して一穴に葬られしことあり」(南方熊楠「奇異の神罰」『浄のセクソロジー・P.252』河出文庫)

次の箇所。「祝(はふり)」は神職の一つだが、神主、禰宜、ではなく、その下に位置する。神主や禰宜が男性であったように、この場合の「祝(はふり)」も男性。だから男性同士ということになる。

「小竹(しの)の祝(はふり)と天野(あまの)の祝(はふり)と、共(とも)に善(うるは)しき友(とも)たりき。小竹の祝、逢病(やまひ)して死(みまか)りぬ。天野の祝、血泣(いさ)ちて曰はく、『吾(われ)は生(い)けりしときに交友(うるはしきとも)たりき。何(なに)ぞ死(し)にて穴(あな)を同(おな)じくすること無(な)けむや』といひて、則(すなは)ち屍(かばね)の側(ほとり)に伏(ふ)して自(みづか)ら死ぬ。仍(よ)りて合(あは)せ葬(をさ)む」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月~三月・P.162」岩波文庫)

次のエピソードは男性同性愛ではなく異性愛を取り上げている。犯されるのは或る男性の妻。だが仏教説話という仮面を剥がしてみるとわかるのは、或る男性による別の男性に対する底知れぬ嫉妬深さについてである。

「聖武天皇の御世(みよ)に、紀伊国(きのくに)伊刀郡(いとのこほり)桑原(くはばら)の狭屋寺(さやでら)の尼等(あまたち)発願して、彼(そ)の寺に法事を備(まう)け、奈良の右京の薬師寺の僧題恵禅師(だいゑぜんじ)を請(う)け、十一面観音の悔過(けくわ)を奉仕(つかへまつ)る。ーーー『無用の語を為(な)す。汝(なむぢ)、吾が妻に婚(くながひ)す。頭(かしら)罰(う)ち破(わ)らるべし。斯下(いや)しき法師』といふ。悪口多言(あくくたごん)、具(つぶさ)に述ぶること得ず。妻を喚(よ)びて家に帰り、即(すなは)ち其の妻を犯す。卒爾(にはか)に摩羅(まら)に蟻(あり)著(つ)きて嚼(か)み、痛み死にき」(「日本霊異記・中・僧を罵(さいな)むと蛇婬するとにより、悪病を得て死にし縁 第十一・P.109」講談社学術文庫)

夫妻は紀州に住んでいる。妻は仏教の信者であり、或る時、紀州の女性同志とともに十一面観音を祭り法会を行った。それを知った夫は寺に乗り込み、出てきた僧に向かって「お前は私の妻を犯した」と告発する。なぜ「犯す」という語彙が用いられているのか。諸説ある。だが、ただ単なる仏教説話集の一つとして見ている限り、何が実行されているのか、事態の生々しさは見えてこないだろう。だから少し手を入れてみることにしたい。

例えばの事例で言うとすれば、それまでずっとキリスト教徒だった妻が突然イスラム教へ転向したようなものだ。なので「妻を喚(よ)びて家に帰り」、《改めて》、即座に「其の妻を犯す」ことで妻の再転向を試みたと見るのが妥当だろうと思われる。「犯す」ことは他の領域を侵犯することである。だから可能な限り速いうちに再侵犯することで元へ転向し直すことが可能だと信じたのだろう。ところがこの夫は連れ戻した妻を犯しはしたが今度はさらに自分の男性器を「蟻」(あり)によって噛み尽くされ死んでしまう。男性器丸ごと去勢された。なぜなら、妻はまだ斎戒(物忌み)中の身であり、思想信仰の転向は済んでいないからである。にもかかわらずその間に性行為を強制されたため、強制した夫の側が去勢されることになった。それにしてもなぜ「蟻」(あり)なのか。噛み切ることに主眼が置かれているからだ。鋏(はさみ)でも包丁でも構わない。だがそれでは俗世間の生活必需品を用いたことになる。なので日頃はそのような用途とは無関係なばかりか人間を殺害することなど不可能な蟻という動物を凶器として出現させ、逆に人間の側が殺されるという転倒が人知を超えた事態として描かれることになる。この辺りに、最初期仏教説話の中に残された原始的アニミズムの遺産を見て取ることができるだろうと思われる。

次もまた同性愛ではなく異性愛のケース。場所は紀州でなく南河内。しかし熊楠は同じ論文の中で上げているので続けて見てみよう。

「時に未甲(ひつじさる)の間に、段雲(たなぐも)り雨降る。雨を避けて堂に入るに、堂の裏(うち)狭少(せま)きが故に、経師と女衆と同じ処(ところ)に居り。爰(ここ)に経師婬(たは)れの心熾(さかり)に発(おこ)り、嬢(をみな)の背(せかな)に踞(うずくま)り、裳(も)を挙げて婚(くなが)ふ。マラのクボに入るに随(したが)ひて、手を携へて倶(とも)に死ぬ。唯(ただ)し女は口より漚(あわ)を噛齧(か)み出(いだ)して死にき」(「日本霊異記・下・法花経を写し奉る経師(きやうじ)の、蛇婬を為(な)して、以て現に悪死の報(むくい)を得し縁 第十八・P.132~133」講談社学術文庫)

事態の急変はまず天候の急変から始まる。急に雨が降り出す。狭い堂の中に一人の「経師」(写経・製本職人)と女性らが密集する形になる。経師は矢も盾もたまらず前にいた一人の女性を犯してしまう。だが死ぬのはなぜか男女両者ともにだ。さらに無惨なのは女性の側の死に方である。蛇婬の「婬」が「おんなへん」なのは「道成寺縁起」と同じ。そして「道成寺縁起」の舞台は紀伊国牟婁郡真砂(まさご)である。実在の道成寺は富田川の中流域にほど近い。「平家物語」の熊野参詣の条に出てくる岩田川はこの富田川の中流域のことを指す。

「やうやうさし給ふ程に、日数(ひかず)ふれば岩田(イハダ)河にもかかりたまひけり。『此(この)河の流れを一度もわたる者は、悪業(アクゴウ)・煩悩(ボンナウ)・無始(ムシ)の罪障(ザイシヤウ)消(き)ゆなる物を』とたのもしうぞおぼしける」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・熊野参詣・P.235」岩波書店)

一方、「道成寺縁起」では日高川を渡るシーンがある。岩田川と日高川との間は随分距離がある。さらに道成寺は岩田川に近い。なのになぜ日高川なのか。「道成寺縁起」に出てくる日高川は、日高川全体から見れば中流域の巨石密集地でくねくね曲がっている地域に当たっている。岩田川もまた富田川中流域の巨石密集地に当たる。この地形から考えると、かつて熊野の山中に原始的巨石信仰が存在したことが見えてくるに違いない。

さて、異性愛から再び同性愛に戻ってみよう。熊楠は古代ギリシアのディオティマの言葉に触れているが、ディオティマはソクラテスの前でこう言っている。

「もし人がこれら地上のものから出発して少年愛の正しい道を通って上昇しつつ、あの美を観じ始めたならば、彼はもうほとんど最後の目的に手が届いたといってもよい」(プラトン「饗宴・P.125~126」岩波文庫)

熊楠の愛読書だった「御伽草子」から。今は昔、近江の石山寺で修行していた僧の夢に「容色華麗ナル兒(チゴ)」が現われた。

「礼盤(ライバン)ヲ枕ニシテチトマドロミタル夢ニ、佛殿ノ錦ノ帳ノ内ヨリ容色華麗ナル兒(チゴ)ノ、イフ計ナクアテヤカナルガ立チ出デテ、散リマガヒタル花ノ木陰ニ立チヤスラヒタレバ、青葉勝(ガチ)ニ縫(ヌヒ)シタル水干ノ、遠山櫻ニ花二度咲(サ)キタルカト疑ハレテ、雪ノ如(ゴト)クフリカカリ、是ヲ袖ニツツミナガライヅ方ヘ行クトモ覺エヌニ、暮行クケシキニ消エ、サテ見エズナリヌト見エテ、夢ハスナハチ覺(サ)メニケリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.461~462』岩波書店)

余りに美麗な兒(ちご)の出現に、僧は、所願成就し修行を達成した、と考える。居眠りしていたのも、まだ修行を続けなければならない身なのかと半分嘆いていたところだったので、思いもよらぬ美麗な兒(ちご)の出現はようやく訪れた満願成就の徴(しるし)に思われた。

「是則(コレスナハチ)所願成就ノ夢想ナリトウレシク思ヒテ、マダ東雲(シノオンメ)ノ明(ア)ケ果(ハ)テヌ間(マ)ニ立チ歸リヌ。外ヨリ来ルベキ物ヲ待ツヤウニ、今ヤ道心ノオコルト待チ居(イ)タレバ、猶山深ク住(ス)マバヤト思ヒシ心ハウチ失(ウ)セテ、夢ニ見(ミ)エツル兒ノ面影、時ノ程モ身ヲ離(ハナ)レズ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.462』岩波書店)

けれども今度は、夢に出てきた兒(ちご)の美童ぶりについて、一瞬たりとも忘れられなくなってしまう。僧は元いた比叡山へいったん帰るが、再び石山寺の方角へ歩いていく。どうするのだろうか。

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