「月下氷人」には熊野に伝わる小唄が紹介されている。前回引用した。しかしこの論文のほとんどすべては古今東西に渡って記録に残されている夥しい数の近親婚あるいは同族婚、並びに人間の性の幅広さに関する実話や伝説が、時代を越えて、さらには場所移動しながら、何度も繰り返し引用・圧縮・転移・反復されている点に特徴がある。とりわけ反復性については前回述べた通りだ。そうした論文の中に、古代中国で活躍した中行説(ちゅうこうせつ)の伝記について触れている箇所がある。その主旨は、史記列伝に載っているので手に入りやすいだろうと考えてか、中央官庁の高級官僚は一度じっくり熟読すべし、というもの。
「何(いか)なる恨みあるにせよ、自国を背いて他国を弁護し、自国の使いを説破(やりつ)けたはろくな奴ではないが、その言い分は一理ある。ーーー政府に糊口する官吏(やくにん)輩は、熟(とく)と読んで置きなはれ」(南方熊楠「月下氷人」『浄のセクソロジー・P.87』河出文庫)
なぜだろうか。中行説はただ単に論戦に長けているから、というわけではない。頭の固い官僚ではもちろんない。漢の王が相手であっても言うべきことは言うわけだが、直言あるいは諫言といっても、処刑を免れるためにあらかじめわざと的を外して口にするような今のマスコミの質問態度とはまったく違っていた。
「燕出身の宦官中行説(ちゅうこうせつ)を公主のおもり役に任じたが中行説は匈奴に行くことを望まなかった。漢ではむりにかれを行かせたが、中行説は、『あくまでわたしに生かせるのならば、漢の災難となりますぞ』といった。中行説は匈奴に到着したのち、そのまま単于に降伏した。単于はかれをたいそう気に入りめをかけた。それより以前、匈奴では漢から送られる絹や綿、食物の類を愛好した。中行説は、『匈奴の人口は漢の一群にも相当しません。しかも強国であります理由は、衣食が相違していて、漢に頼らないですむからです。いま、単于さまは風習を変えられて漢の物資を好まれております。漢ではその物資のうち十分の二を使えば、匈奴は心を動かしてみな漢に帰属することになりましょう。だいたい、漢からの絹や綿が手に入りましても、それを身につけ、草むらやいばらの中を駆けまわり、上着とズボンをすべてぼろぼろに破れさせまして、丈夫でぐあいのよい匈奴の毛皮の衣服に劣りますことをお示しなさいませ。漢の食物を手に入れられましても、それらをすべて捨ててしまい、便利で美味な乳やチーズの類に劣りますことをお示しなさいませ。』といった。それから中行説は側近に、個条ごとに記録することを教え、その人民と畜産を計算して課税させた」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.40~41』岩波文庫)
この辺りはどの国でも重用される宦官ならまず言えるレベルのことだ。しかし漢からの使者はどんどんやって来る。しつこい。遊牧騎馬民族特有の生活様式である天幕(テント)で、父親が死ぬとその息子が後家を娶るとか兄弟が死ぬとその後家を妻にするとか、さらに官位もはっきりしていないなどというのはまったく変なのでは、と漢の使者は馬鹿にして議論をふっかける。
「漢の使者でいうものがあった、『匈奴の風習では老人を大事にしないとのことだが』。中行説は漢の使者を問いつめた、『きみたち、漢の風習では国境守備隊員として出征するものに対して、その年老いた親は自分の暖かい着物をぬぎ、うまい食物を出し、従軍兵に送って食べさせるというじゃないか』。漢の使者『そのとおりだ』。中行説『匈奴では、明白に戦闘をもって仕事としている。老人や病弱者は戦うことができない。だから栄養のあるおいしいものを、若くて健康なものに食べさせるのだ。つまり、こんなふうにして自衛するから、親子いずれも生きのびられるのだ。どうして匈奴が老人を粗末にすると言うのだ』。漢の使者『匈奴では、父と子が同じ天幕(テント)で寝る。父が死ぬと、そののちぞえの母(生母を除く)を妻とし、兄弟が死ぬと、その妻を全部わが妻とする。朝廷での冠や帯の飾(官位を示す)もなく、朝廷における儀礼もない』」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.41~42』岩波文庫)
しかし中行説は何ら慌てない。遊牧騎馬民族の生活様式の利点を一つ一つ列挙していく。なかでも漢の使者が指摘した同族婚について、むしろそれゆえに漢にはない独特の団結力が生じる点、また姓の押し付けあいが回避されることによる内戦抑止力について語る。さらに漢は今、世界の中心を気取り「中国」と名乗っているけれども、実際は内乱続きで、勝利した氏族が敗北した氏族に対して有無を言わせず勝利者側の姓を押し付けているではないかと指摘する。そしてまた中央の高級官僚は、何かにつけて礼儀礼儀と口やかましく雄叫びを上げてあちこち動き回り、ただ単なる冠位を争い、そもそもの礼儀はもはや弊害へと転化しているのが実情ではないかとずばずば言ってのける。
「中行説『匈奴の習俗では、人は家畜の肉を食べ、その汁(乳)を飲み、その皮を着る。家畜は草を食べ水を飲むから時節に応じて移動するのだ。だから緊急の場合には、人々は騎馬射術をやる。平和の場合には、人々は無事を楽しむのだ。そのとりきめは簡略で実行しやすい。君主と臣下の関係は簡便であって、一国の政治は、一身を修めるようなものだ。父子兄弟が死ぬと、その妻をとってわが妻とするのは、子孫が絶えることを心配するからだ。だから、匈奴は混乱があっても、必ず本家の一族を立てる。ところが、中国ではおもて向きは自分の父や兄の妻をとらないけれども、親戚の間はますます疎遠となり、殺しあいさえし、異姓にくらがえするまでになる。みなこういったたぐいさ。そのうえ礼儀も道徳もすたれてしまい、上と下は互いに恨みあう。住宅を豪奢にしたはては、生活のかては必ずつきてしまう。だいたい農耕養蚕につとめて衣食を手に入れ、城郭を築いて自衛する。だから、その人民は緊急な場合には戦闘に習熟しておらず、平和なときには仕事に疲れきっているのだ。やれやれ、土の家に住む民はだな、口先多くべらべらがやがやしゃべるべきでない。冠などいったい何の役に立つのだ』」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.42』岩波文庫)
それを思えば、性に関する硬直した考え方、姓の覇権をめぐる無意味な内部闘争、生活様式の融通性、どれを取ってみても遊牧騎馬民族は、なるほど漢から見れば匈奴と呼ばれていながらも、少なくとも今の漢とは比較にならないほど自由闊達悠々賢明だ。中行説は滔々とそう述べ立てた。そしていう。
「これ以後、漢の使者が言いまかそうとしても、中行説はそのたびに言った、『漢の使者よ、おしゃべりはもうたくさんだ』」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.42~43』岩波文庫)
同族婚とその反復。もう一人の自分が出現して見える現象(ドッペルゲンガー)についてフロイトはこう述べている。
「すなわち、外見が同じであるために同一視されざるをえない人物が登場すること、これらの人物の一人から他の一人へと心の中の出来事がとび移ってーーーいわゆる精神感応であるーーーその一人が他の一人の知識・感覚・体験を共有することにより、この関係が強化されること、自己を自己以外の他の人物と同一化し、その結果自己の自我を見誤ったり、あるいは他の自我を自己自身のかわりに置き換えてしまったりすること、つまり自我倍加、自我分裂、自我交感ーーーこうして終りには、絶えざる同一事の反復、相似した顔付、性格、運命、犯罪行為を繰り返し、いや相継起する幾世代ものあいだ名前さえも繰り返されるというあの現象である」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.341』人文書院)
面白いのは「他の自我を自己自身のかわりに置き換えてしまったりする」という部分。自分が他人に転移して現われて見えるということが起こる。だがフロイトの場合、それを否定的に捉え過ぎている。むしろフロイト理論を転倒させたドゥルーズ=ガタリに言わせれば、このような転移こそ生成であり変身の条件として立ち現れる。
「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)
日本でも同性愛がタブーでなかった時代、特に戦国時代などは世継ぎの問題が重要になってくるにもかかわらず主君が女性を遠ざけるため、子どもが生まれないので臣下は四苦八苦して珍妙なアイデアを出し合っている。次の上杉景勝の例などは側近の直江兼続自身が同性愛者であり、景勝に寵愛された身だったがゆえに出てきた妙案だといえよう。
「本邦にも、上杉景勝、女色を好まず、直江兼続(かねつぐ)、京都にて十六歳の美妓を購い、小姓に作り立てて景勝に薦め、一会して妊む。景勝その女なりしを知り、まことの男ならねば詮なしとてこれを卻(しりぞ)く。女これを悲しみ、定勝を生んで、すなわち自殺せりという(『奥羽永慶軍記』巻三九)。その前後武功を励むのあまり、女を断ちし人多く、松永方、中村新九郎は武名を立てんため一代男と称し、妻女を具せず、童子(わらわ)をわれと均(ひと)しく仕立て、陣中に連れ行きともに討死にし(『南海通記』巻九)、景勝の養父謙信も、武功に熱して、一生婦女を遠ざけしが、小姓を愛せる由、『松隣夜話』等に見ゆ。されば、熊沢了介の『集義外書』巻三、大名などの美女に自由なるが、男色を好きて子孫なき者あり、と言えり。内藤恥叟の『徳川十五代史』によれば、浅野幸長はこの一例なり。塩谷宕陰の『昭代記』に、元和六年、三条の城主市橋長勝、愛童三四郎を女婿としたるを、おのれ臨終に世嗣ぎとせしを遺臣ら従わず、長勝の甥長正を立てんと請う。よって長正に二万石、三四郎に三千石を分かち賜うとあるもこの類で、三四郎に妻(めあわ)せしは養女らしい。したがって忠臣が主君の嗣(よつ)ぎあらんことを冀(こいねが)い、男装の女子を薦(すす)めし者、兼続の外にも多かるべし」(南方熊楠「婦女(おんな)を姣童(わかしゅ)に代用せしこと」『浄のセクソロジー・P.124』河出文庫)
そんな戦国の世も終わり江戸時代がやってきた。だからといって同性愛の風が消え去ったわけではない。逆に江戸時代になってますます男性同性愛は悽愴味を帯びる。
今の兵庫県神戸市生田の森の辺りに、かつて小輪(こりん)という十二、三歳の美少年がいた。母思いの志を買われて明石の殿様に仕えることになる。次第に主君に可愛がられて夜の友となることが多くなった。だが小輪は主君の愛童として終わるより、行く行くは遊びでなく本当に愛し愛されの関係を持てるような男性と出会って一緒になりたいと常々考えていて、主君にもそう訴えていた。そんなおり小輪は同じ城内で惣八郎と出会う。二人はたちまち意気投合して一刻も早く愛し合いたいと機会を待つことになる。
「母衣(ほろ)大将、神尾(かんお)刑部の二男に、惣八郎(そうはちろう)といった者が、つねづね小輪の気持をみすまして、手紙でなげき、たがいに心をかよわせ、思いをとげる時節を待っていた」(井原西鶴「傘持ってもぬるる身」『男色大鑑・P.61』角川ソフィア文庫)
絶好の機会がやって来た。ところがそこは主君が寝ている隣の間である。耳を澄ますと殿様はもういびきをかいて眠りこけているようだ。今こそ、と思い小輪と惣八郎は我を忘れて抱き合う。感極まった小輪は思わず声を上げてしまう。次に生まれ変わってもまた一緒になりましょう、と。その声が余りに大きかったため殿様は目を覚ましてしまった。
「恋はいまぞと惣八に逢(あ)い、まず何かなしに、かるたむすび〔四角ニカルタノ形ノヨウニナルムスビ方〕の帯もとかず、この上もない情をかけたもうて、なお末々の契りの言葉をかため、『二世までも』という声が、殿の夢をおどろかせた」(井原西鶴「傘持ってもぬるる身」『男色大鑑・P.62』角川ソフィア文庫)
殿様は逃げていく惣八郎の影を見て詮索したが否定するので、さては狸(たぬき)に化かされたかと思う。ところが「かくし横目」といって敵よりも味方の臣下のありとあらゆる言動をスパイしている隠密は、物の怪の仕業でなく確かに人の姿をしていたと密告する。けれども相手が誰なのか、小輪はけっして口を割らない。三日後、小輪は見せしめのために処刑される。長刀(なぎなた)でまず左手を斬り落とされる。小輪は右手を差し出して「自分が愛する男のからだを撫でさすったのはこの手ですよ」という。聞くやいなや殿様は小輪の右手も斬り落とした。さらに小輪は首を刎(は)ねられ死んだ。
「十二月十五日の朝、兵法稽古(けいこ)座敷にお召し出しになって、もろもろの家中の者の見せしめに御長刀(なぎなた)で御自身が『小輪、最期』と御言葉をおかけになれば、にっこと笑って、『年来のよしみですから、御手にかかる事はかたじけなく、此の上何を、世に思い残すことがありましょう』と立ちなおるところを、左の手を打ち落したもうて、『今の思いは』と仰せられた。右の手をさしのべて『これで念者をさすったのだから、御にくしみ深い筈です』という。飛びかかって切り落したまうと、くるりと立ちまわって、『この後姿、またと世に出て来ないだろう若衆。人々見収めに』という声も次第によわるのを、細首落したもうて、そのまま御なみだに、袖は目前の海となって、座中は波の声がしばらく立やむ事ない。死骸(しがい)は妙福寺におくりたもうた」(井原西鶴「傘持ってもぬるる身」『男色大鑑・P.62~63』角川ソフィア文庫)
なお、すぐ後に出てくる「朝顔寺」という寺院は明石の「光明寺」だとされていて「妙福寺」ではない。また「光明寺」が正解だとしても、「月見の池」とともに伝わる光源氏作とされる和歌は「源氏物語」には出てこない。ただ、朝顔と男性同性愛とは関係が深い。夕暮れから咲くのでなく夜明けに咲くということ。さらに同性愛は堂々たる性行為であり太陽を避ける必要は何らないという意味があるため。例えばフランスのジュネ文学で、菊と肛門とがただならぬ関係を持つように。また戦後になるともはやゲイはただ単に男性に限った同性愛を指す言葉ではなくなってきた。コクトーやジュネやフーコーら多くの逸材の尽力により、悦ばしき性愛の多様性の代名詞へと変わっている。
ところで処刑された小輪の愛人・惣八郎はどうしたか。殿様に密告した「かくし横目」の新平の両手を切断して殺す。なぜ両手なのか。小輪もまた両手を斬り落とされたからである。しかしなぜそうでなければならないのか。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
さらにこの恋愛の悽愴さは次の文章に明らかだろう。密告専門の「かくし横目」新平を殺すことなど容易い。だからとっとと殺し去った。しかしそれよりずっと大切な作業が残っている。小輪が葬られた塚の前で小輪の定紋の形に合わせて切腹することだ。
「明くる春(いちがつ)十五日の夜、左義長〔青竹ヲ束ネ、門板、注連縄(しめなわ)ヲ添エテ焼ク行事〕の場で、惣八は新平の両手を打ちおとし、とおどめまでさして、首尾よく立ちのき、小輪の母の落ちつきどころも判らぬところへ連れかくし、自分は朝顔寺にかけこみ、塚のまえに心底を詳しく高札に書きしるし、今年二十を一期(ご)として、夢また夢、眠れるごとく腹かききって死んだ。明くれば十六日の朝、この有様を見るのに、ありありと一重菱(ひとえびし)の内に、三引(みつびき)を切っていた。これこそ小輪の定紋である」(井原西鶴「傘持ってもぬるる身」『男色大鑑・P.63~64』角川ソフィア文庫)
自分の腹を小輪の徴(しるし)通りに切り刻むことで惣八郎は小輪とようやく一つになれたのである。
熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。
涙ながらに叡山へ帰って行った桂海。しかし余りに深い恋情ゆえ思いも寄らぬやつれようで山に籠もり切ってしまった。随分弱っている様子だと三井寺にいる桂壽の耳に入った。桂壽は梅若にそれを伝える。梅若は相当悩むわけだが、とうとう思い切って桂壽と連れ立って比叡山の奥に籠もっているはずの桂海を訪ねることにする。とはいえ梅若はそもそも貴人の出身で十六、七歳と若く、院家に預けられてこのかた、徒歩らしき徒歩で遠出したことはまるでない。桂壽は梅若を助けながら歩くが唐崎の辺りで参ってしまう。いっそ天狗でも出てきて山中のどこへなりとも律師桂海のいるところへ連れて行ってくれまいかと思ったりする。と、そこへ輿を持った山伏の一行が現われた。輿に乗った一人の男が降りてきて事の次第を聞くと、そういうことなら梅若と桂壽はこの輿に乗るがよい、と言って二人を乗せて自分は歩くという。
「我社(コソ)御尋候房ノ隣ヘ登ル物ニテ候ヘ。餘ニ御労敷(イタハシク)見奉リテ候ヘバ、我ハカチニテ歩ミ候ハン。此輿ニ被召(メサレ)候ヘ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.469』岩波書店)
梅若と桂壽との二人が輿に乗るやいなや輿は瞬く間に奈良の山奥の大峯山系の一つ、釋迦嶽まで一気にたどり着く。熊野につづく修験道の聖地だ。そこは昼なお暗い森の中で、牢のような場所がある。気づくと二人はその牢に入っていた。
「片時ノ際(マ)ニ大峯ノ釋迦ガ嶽(ダケ)ヘゾ舁キ以(モ)テ来(キタ)リケル。茲(ココ)ニテ盤石(バンジヤク)ヲタタミタル石ノ樓ノ中ニ押シ篭メラレテ置キタレバ、夜晝ノ境モ知(シ)ラズ、月日ノ光ヲモ見ズ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.469』岩波書店)
何が起こったのか。何が起ころうとしているのか。
BGM1
BGM2
BGM3
「何(いか)なる恨みあるにせよ、自国を背いて他国を弁護し、自国の使いを説破(やりつ)けたはろくな奴ではないが、その言い分は一理ある。ーーー政府に糊口する官吏(やくにん)輩は、熟(とく)と読んで置きなはれ」(南方熊楠「月下氷人」『浄のセクソロジー・P.87』河出文庫)
なぜだろうか。中行説はただ単に論戦に長けているから、というわけではない。頭の固い官僚ではもちろんない。漢の王が相手であっても言うべきことは言うわけだが、直言あるいは諫言といっても、処刑を免れるためにあらかじめわざと的を外して口にするような今のマスコミの質問態度とはまったく違っていた。
「燕出身の宦官中行説(ちゅうこうせつ)を公主のおもり役に任じたが中行説は匈奴に行くことを望まなかった。漢ではむりにかれを行かせたが、中行説は、『あくまでわたしに生かせるのならば、漢の災難となりますぞ』といった。中行説は匈奴に到着したのち、そのまま単于に降伏した。単于はかれをたいそう気に入りめをかけた。それより以前、匈奴では漢から送られる絹や綿、食物の類を愛好した。中行説は、『匈奴の人口は漢の一群にも相当しません。しかも強国であります理由は、衣食が相違していて、漢に頼らないですむからです。いま、単于さまは風習を変えられて漢の物資を好まれております。漢ではその物資のうち十分の二を使えば、匈奴は心を動かしてみな漢に帰属することになりましょう。だいたい、漢からの絹や綿が手に入りましても、それを身につけ、草むらやいばらの中を駆けまわり、上着とズボンをすべてぼろぼろに破れさせまして、丈夫でぐあいのよい匈奴の毛皮の衣服に劣りますことをお示しなさいませ。漢の食物を手に入れられましても、それらをすべて捨ててしまい、便利で美味な乳やチーズの類に劣りますことをお示しなさいませ。』といった。それから中行説は側近に、個条ごとに記録することを教え、その人民と畜産を計算して課税させた」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.40~41』岩波文庫)
この辺りはどの国でも重用される宦官ならまず言えるレベルのことだ。しかし漢からの使者はどんどんやって来る。しつこい。遊牧騎馬民族特有の生活様式である天幕(テント)で、父親が死ぬとその息子が後家を娶るとか兄弟が死ぬとその後家を妻にするとか、さらに官位もはっきりしていないなどというのはまったく変なのでは、と漢の使者は馬鹿にして議論をふっかける。
「漢の使者でいうものがあった、『匈奴の風習では老人を大事にしないとのことだが』。中行説は漢の使者を問いつめた、『きみたち、漢の風習では国境守備隊員として出征するものに対して、その年老いた親は自分の暖かい着物をぬぎ、うまい食物を出し、従軍兵に送って食べさせるというじゃないか』。漢の使者『そのとおりだ』。中行説『匈奴では、明白に戦闘をもって仕事としている。老人や病弱者は戦うことができない。だから栄養のあるおいしいものを、若くて健康なものに食べさせるのだ。つまり、こんなふうにして自衛するから、親子いずれも生きのびられるのだ。どうして匈奴が老人を粗末にすると言うのだ』。漢の使者『匈奴では、父と子が同じ天幕(テント)で寝る。父が死ぬと、そののちぞえの母(生母を除く)を妻とし、兄弟が死ぬと、その妻を全部わが妻とする。朝廷での冠や帯の飾(官位を示す)もなく、朝廷における儀礼もない』」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.41~42』岩波文庫)
しかし中行説は何ら慌てない。遊牧騎馬民族の生活様式の利点を一つ一つ列挙していく。なかでも漢の使者が指摘した同族婚について、むしろそれゆえに漢にはない独特の団結力が生じる点、また姓の押し付けあいが回避されることによる内戦抑止力について語る。さらに漢は今、世界の中心を気取り「中国」と名乗っているけれども、実際は内乱続きで、勝利した氏族が敗北した氏族に対して有無を言わせず勝利者側の姓を押し付けているではないかと指摘する。そしてまた中央の高級官僚は、何かにつけて礼儀礼儀と口やかましく雄叫びを上げてあちこち動き回り、ただ単なる冠位を争い、そもそもの礼儀はもはや弊害へと転化しているのが実情ではないかとずばずば言ってのける。
「中行説『匈奴の習俗では、人は家畜の肉を食べ、その汁(乳)を飲み、その皮を着る。家畜は草を食べ水を飲むから時節に応じて移動するのだ。だから緊急の場合には、人々は騎馬射術をやる。平和の場合には、人々は無事を楽しむのだ。そのとりきめは簡略で実行しやすい。君主と臣下の関係は簡便であって、一国の政治は、一身を修めるようなものだ。父子兄弟が死ぬと、その妻をとってわが妻とするのは、子孫が絶えることを心配するからだ。だから、匈奴は混乱があっても、必ず本家の一族を立てる。ところが、中国ではおもて向きは自分の父や兄の妻をとらないけれども、親戚の間はますます疎遠となり、殺しあいさえし、異姓にくらがえするまでになる。みなこういったたぐいさ。そのうえ礼儀も道徳もすたれてしまい、上と下は互いに恨みあう。住宅を豪奢にしたはては、生活のかては必ずつきてしまう。だいたい農耕養蚕につとめて衣食を手に入れ、城郭を築いて自衛する。だから、その人民は緊急な場合には戦闘に習熟しておらず、平和なときには仕事に疲れきっているのだ。やれやれ、土の家に住む民はだな、口先多くべらべらがやがやしゃべるべきでない。冠などいったい何の役に立つのだ』」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.42』岩波文庫)
それを思えば、性に関する硬直した考え方、姓の覇権をめぐる無意味な内部闘争、生活様式の融通性、どれを取ってみても遊牧騎馬民族は、なるほど漢から見れば匈奴と呼ばれていながらも、少なくとも今の漢とは比較にならないほど自由闊達悠々賢明だ。中行説は滔々とそう述べ立てた。そしていう。
「これ以後、漢の使者が言いまかそうとしても、中行説はそのたびに言った、『漢の使者よ、おしゃべりはもうたくさんだ』」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.42~43』岩波文庫)
同族婚とその反復。もう一人の自分が出現して見える現象(ドッペルゲンガー)についてフロイトはこう述べている。
「すなわち、外見が同じであるために同一視されざるをえない人物が登場すること、これらの人物の一人から他の一人へと心の中の出来事がとび移ってーーーいわゆる精神感応であるーーーその一人が他の一人の知識・感覚・体験を共有することにより、この関係が強化されること、自己を自己以外の他の人物と同一化し、その結果自己の自我を見誤ったり、あるいは他の自我を自己自身のかわりに置き換えてしまったりすること、つまり自我倍加、自我分裂、自我交感ーーーこうして終りには、絶えざる同一事の反復、相似した顔付、性格、運命、犯罪行為を繰り返し、いや相継起する幾世代ものあいだ名前さえも繰り返されるというあの現象である」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.341』人文書院)
面白いのは「他の自我を自己自身のかわりに置き換えてしまったりする」という部分。自分が他人に転移して現われて見えるということが起こる。だがフロイトの場合、それを否定的に捉え過ぎている。むしろフロイト理論を転倒させたドゥルーズ=ガタリに言わせれば、このような転移こそ生成であり変身の条件として立ち現れる。
「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)
日本でも同性愛がタブーでなかった時代、特に戦国時代などは世継ぎの問題が重要になってくるにもかかわらず主君が女性を遠ざけるため、子どもが生まれないので臣下は四苦八苦して珍妙なアイデアを出し合っている。次の上杉景勝の例などは側近の直江兼続自身が同性愛者であり、景勝に寵愛された身だったがゆえに出てきた妙案だといえよう。
「本邦にも、上杉景勝、女色を好まず、直江兼続(かねつぐ)、京都にて十六歳の美妓を購い、小姓に作り立てて景勝に薦め、一会して妊む。景勝その女なりしを知り、まことの男ならねば詮なしとてこれを卻(しりぞ)く。女これを悲しみ、定勝を生んで、すなわち自殺せりという(『奥羽永慶軍記』巻三九)。その前後武功を励むのあまり、女を断ちし人多く、松永方、中村新九郎は武名を立てんため一代男と称し、妻女を具せず、童子(わらわ)をわれと均(ひと)しく仕立て、陣中に連れ行きともに討死にし(『南海通記』巻九)、景勝の養父謙信も、武功に熱して、一生婦女を遠ざけしが、小姓を愛せる由、『松隣夜話』等に見ゆ。されば、熊沢了介の『集義外書』巻三、大名などの美女に自由なるが、男色を好きて子孫なき者あり、と言えり。内藤恥叟の『徳川十五代史』によれば、浅野幸長はこの一例なり。塩谷宕陰の『昭代記』に、元和六年、三条の城主市橋長勝、愛童三四郎を女婿としたるを、おのれ臨終に世嗣ぎとせしを遺臣ら従わず、長勝の甥長正を立てんと請う。よって長正に二万石、三四郎に三千石を分かち賜うとあるもこの類で、三四郎に妻(めあわ)せしは養女らしい。したがって忠臣が主君の嗣(よつ)ぎあらんことを冀(こいねが)い、男装の女子を薦(すす)めし者、兼続の外にも多かるべし」(南方熊楠「婦女(おんな)を姣童(わかしゅ)に代用せしこと」『浄のセクソロジー・P.124』河出文庫)
そんな戦国の世も終わり江戸時代がやってきた。だからといって同性愛の風が消え去ったわけではない。逆に江戸時代になってますます男性同性愛は悽愴味を帯びる。
今の兵庫県神戸市生田の森の辺りに、かつて小輪(こりん)という十二、三歳の美少年がいた。母思いの志を買われて明石の殿様に仕えることになる。次第に主君に可愛がられて夜の友となることが多くなった。だが小輪は主君の愛童として終わるより、行く行くは遊びでなく本当に愛し愛されの関係を持てるような男性と出会って一緒になりたいと常々考えていて、主君にもそう訴えていた。そんなおり小輪は同じ城内で惣八郎と出会う。二人はたちまち意気投合して一刻も早く愛し合いたいと機会を待つことになる。
「母衣(ほろ)大将、神尾(かんお)刑部の二男に、惣八郎(そうはちろう)といった者が、つねづね小輪の気持をみすまして、手紙でなげき、たがいに心をかよわせ、思いをとげる時節を待っていた」(井原西鶴「傘持ってもぬるる身」『男色大鑑・P.61』角川ソフィア文庫)
絶好の機会がやって来た。ところがそこは主君が寝ている隣の間である。耳を澄ますと殿様はもういびきをかいて眠りこけているようだ。今こそ、と思い小輪と惣八郎は我を忘れて抱き合う。感極まった小輪は思わず声を上げてしまう。次に生まれ変わってもまた一緒になりましょう、と。その声が余りに大きかったため殿様は目を覚ましてしまった。
「恋はいまぞと惣八に逢(あ)い、まず何かなしに、かるたむすび〔四角ニカルタノ形ノヨウニナルムスビ方〕の帯もとかず、この上もない情をかけたもうて、なお末々の契りの言葉をかため、『二世までも』という声が、殿の夢をおどろかせた」(井原西鶴「傘持ってもぬるる身」『男色大鑑・P.62』角川ソフィア文庫)
殿様は逃げていく惣八郎の影を見て詮索したが否定するので、さては狸(たぬき)に化かされたかと思う。ところが「かくし横目」といって敵よりも味方の臣下のありとあらゆる言動をスパイしている隠密は、物の怪の仕業でなく確かに人の姿をしていたと密告する。けれども相手が誰なのか、小輪はけっして口を割らない。三日後、小輪は見せしめのために処刑される。長刀(なぎなた)でまず左手を斬り落とされる。小輪は右手を差し出して「自分が愛する男のからだを撫でさすったのはこの手ですよ」という。聞くやいなや殿様は小輪の右手も斬り落とした。さらに小輪は首を刎(は)ねられ死んだ。
「十二月十五日の朝、兵法稽古(けいこ)座敷にお召し出しになって、もろもろの家中の者の見せしめに御長刀(なぎなた)で御自身が『小輪、最期』と御言葉をおかけになれば、にっこと笑って、『年来のよしみですから、御手にかかる事はかたじけなく、此の上何を、世に思い残すことがありましょう』と立ちなおるところを、左の手を打ち落したもうて、『今の思いは』と仰せられた。右の手をさしのべて『これで念者をさすったのだから、御にくしみ深い筈です』という。飛びかかって切り落したまうと、くるりと立ちまわって、『この後姿、またと世に出て来ないだろう若衆。人々見収めに』という声も次第によわるのを、細首落したもうて、そのまま御なみだに、袖は目前の海となって、座中は波の声がしばらく立やむ事ない。死骸(しがい)は妙福寺におくりたもうた」(井原西鶴「傘持ってもぬるる身」『男色大鑑・P.62~63』角川ソフィア文庫)
なお、すぐ後に出てくる「朝顔寺」という寺院は明石の「光明寺」だとされていて「妙福寺」ではない。また「光明寺」が正解だとしても、「月見の池」とともに伝わる光源氏作とされる和歌は「源氏物語」には出てこない。ただ、朝顔と男性同性愛とは関係が深い。夕暮れから咲くのでなく夜明けに咲くということ。さらに同性愛は堂々たる性行為であり太陽を避ける必要は何らないという意味があるため。例えばフランスのジュネ文学で、菊と肛門とがただならぬ関係を持つように。また戦後になるともはやゲイはただ単に男性に限った同性愛を指す言葉ではなくなってきた。コクトーやジュネやフーコーら多くの逸材の尽力により、悦ばしき性愛の多様性の代名詞へと変わっている。
ところで処刑された小輪の愛人・惣八郎はどうしたか。殿様に密告した「かくし横目」の新平の両手を切断して殺す。なぜ両手なのか。小輪もまた両手を斬り落とされたからである。しかしなぜそうでなければならないのか。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
さらにこの恋愛の悽愴さは次の文章に明らかだろう。密告専門の「かくし横目」新平を殺すことなど容易い。だからとっとと殺し去った。しかしそれよりずっと大切な作業が残っている。小輪が葬られた塚の前で小輪の定紋の形に合わせて切腹することだ。
「明くる春(いちがつ)十五日の夜、左義長〔青竹ヲ束ネ、門板、注連縄(しめなわ)ヲ添エテ焼ク行事〕の場で、惣八は新平の両手を打ちおとし、とおどめまでさして、首尾よく立ちのき、小輪の母の落ちつきどころも判らぬところへ連れかくし、自分は朝顔寺にかけこみ、塚のまえに心底を詳しく高札に書きしるし、今年二十を一期(ご)として、夢また夢、眠れるごとく腹かききって死んだ。明くれば十六日の朝、この有様を見るのに、ありありと一重菱(ひとえびし)の内に、三引(みつびき)を切っていた。これこそ小輪の定紋である」(井原西鶴「傘持ってもぬるる身」『男色大鑑・P.63~64』角川ソフィア文庫)
自分の腹を小輪の徴(しるし)通りに切り刻むことで惣八郎は小輪とようやく一つになれたのである。
熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。
涙ながらに叡山へ帰って行った桂海。しかし余りに深い恋情ゆえ思いも寄らぬやつれようで山に籠もり切ってしまった。随分弱っている様子だと三井寺にいる桂壽の耳に入った。桂壽は梅若にそれを伝える。梅若は相当悩むわけだが、とうとう思い切って桂壽と連れ立って比叡山の奥に籠もっているはずの桂海を訪ねることにする。とはいえ梅若はそもそも貴人の出身で十六、七歳と若く、院家に預けられてこのかた、徒歩らしき徒歩で遠出したことはまるでない。桂壽は梅若を助けながら歩くが唐崎の辺りで参ってしまう。いっそ天狗でも出てきて山中のどこへなりとも律師桂海のいるところへ連れて行ってくれまいかと思ったりする。と、そこへ輿を持った山伏の一行が現われた。輿に乗った一人の男が降りてきて事の次第を聞くと、そういうことなら梅若と桂壽はこの輿に乗るがよい、と言って二人を乗せて自分は歩くという。
「我社(コソ)御尋候房ノ隣ヘ登ル物ニテ候ヘ。餘ニ御労敷(イタハシク)見奉リテ候ヘバ、我ハカチニテ歩ミ候ハン。此輿ニ被召(メサレ)候ヘ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.469』岩波書店)
梅若と桂壽との二人が輿に乗るやいなや輿は瞬く間に奈良の山奥の大峯山系の一つ、釋迦嶽まで一気にたどり着く。熊野につづく修験道の聖地だ。そこは昼なお暗い森の中で、牢のような場所がある。気づくと二人はその牢に入っていた。
「片時ノ際(マ)ニ大峯ノ釋迦ガ嶽(ダケ)ヘゾ舁キ以(モ)テ来(キタ)リケル。茲(ココ)ニテ盤石(バンジヤク)ヲタタミタル石ノ樓ノ中ニ押シ篭メラレテ置キタレバ、夜晝ノ境モ知(シ)ラズ、月日ノ光ヲモ見ズ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.469』岩波書店)
何が起こったのか。何が起ころうとしているのか。
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