白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/月下氷人としての直江兼続

2020年10月06日 | 日記・エッセイ・コラム
「月下氷人」には熊野に伝わる小唄が紹介されている。前回引用した。しかしこの論文のほとんどすべては古今東西に渡って記録に残されている夥しい数の近親婚あるいは同族婚、並びに人間の性の幅広さに関する実話や伝説が、時代を越えて、さらには場所移動しながら、何度も繰り返し引用・圧縮・転移・反復されている点に特徴がある。とりわけ反復性については前回述べた通りだ。そうした論文の中に、古代中国で活躍した中行説(ちゅうこうせつ)の伝記について触れている箇所がある。その主旨は、史記列伝に載っているので手に入りやすいだろうと考えてか、中央官庁の高級官僚は一度じっくり熟読すべし、というもの。

「何(いか)なる恨みあるにせよ、自国を背いて他国を弁護し、自国の使いを説破(やりつ)けたはろくな奴ではないが、その言い分は一理ある。ーーー政府に糊口する官吏(やくにん)輩は、熟(とく)と読んで置きなはれ」(南方熊楠「月下氷人」『浄のセクソロジー・P.87』河出文庫)

なぜだろうか。中行説はただ単に論戦に長けているから、というわけではない。頭の固い官僚ではもちろんない。漢の王が相手であっても言うべきことは言うわけだが、直言あるいは諫言といっても、処刑を免れるためにあらかじめわざと的を外して口にするような今のマスコミの質問態度とはまったく違っていた。

「燕出身の宦官中行説(ちゅうこうせつ)を公主のおもり役に任じたが中行説は匈奴に行くことを望まなかった。漢ではむりにかれを行かせたが、中行説は、『あくまでわたしに生かせるのならば、漢の災難となりますぞ』といった。中行説は匈奴に到着したのち、そのまま単于に降伏した。単于はかれをたいそう気に入りめをかけた。それより以前、匈奴では漢から送られる絹や綿、食物の類を愛好した。中行説は、『匈奴の人口は漢の一群にも相当しません。しかも強国であります理由は、衣食が相違していて、漢に頼らないですむからです。いま、単于さまは風習を変えられて漢の物資を好まれております。漢ではその物資のうち十分の二を使えば、匈奴は心を動かしてみな漢に帰属することになりましょう。だいたい、漢からの絹や綿が手に入りましても、それを身につけ、草むらやいばらの中を駆けまわり、上着とズボンをすべてぼろぼろに破れさせまして、丈夫でぐあいのよい匈奴の毛皮の衣服に劣りますことをお示しなさいませ。漢の食物を手に入れられましても、それらをすべて捨ててしまい、便利で美味な乳やチーズの類に劣りますことをお示しなさいませ。』といった。それから中行説は側近に、個条ごとに記録することを教え、その人民と畜産を計算して課税させた」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.40~41』岩波文庫)

この辺りはどの国でも重用される宦官ならまず言えるレベルのことだ。しかし漢からの使者はどんどんやって来る。しつこい。遊牧騎馬民族特有の生活様式である天幕(テント)で、父親が死ぬとその息子が後家を娶るとか兄弟が死ぬとその後家を妻にするとか、さらに官位もはっきりしていないなどというのはまったく変なのでは、と漢の使者は馬鹿にして議論をふっかける。

「漢の使者でいうものがあった、『匈奴の風習では老人を大事にしないとのことだが』。中行説は漢の使者を問いつめた、『きみたち、漢の風習では国境守備隊員として出征するものに対して、その年老いた親は自分の暖かい着物をぬぎ、うまい食物を出し、従軍兵に送って食べさせるというじゃないか』。漢の使者『そのとおりだ』。中行説『匈奴では、明白に戦闘をもって仕事としている。老人や病弱者は戦うことができない。だから栄養のあるおいしいものを、若くて健康なものに食べさせるのだ。つまり、こんなふうにして自衛するから、親子いずれも生きのびられるのだ。どうして匈奴が老人を粗末にすると言うのだ』。漢の使者『匈奴では、父と子が同じ天幕(テント)で寝る。父が死ぬと、そののちぞえの母(生母を除く)を妻とし、兄弟が死ぬと、その妻を全部わが妻とする。朝廷での冠や帯の飾(官位を示す)もなく、朝廷における儀礼もない』」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.41~42』岩波文庫)

しかし中行説は何ら慌てない。遊牧騎馬民族の生活様式の利点を一つ一つ列挙していく。なかでも漢の使者が指摘した同族婚について、むしろそれゆえに漢にはない独特の団結力が生じる点、また姓の押し付けあいが回避されることによる内戦抑止力について語る。さらに漢は今、世界の中心を気取り「中国」と名乗っているけれども、実際は内乱続きで、勝利した氏族が敗北した氏族に対して有無を言わせず勝利者側の姓を押し付けているではないかと指摘する。そしてまた中央の高級官僚は、何かにつけて礼儀礼儀と口やかましく雄叫びを上げてあちこち動き回り、ただ単なる冠位を争い、そもそもの礼儀はもはや弊害へと転化しているのが実情ではないかとずばずば言ってのける。

「中行説『匈奴の習俗では、人は家畜の肉を食べ、その汁(乳)を飲み、その皮を着る。家畜は草を食べ水を飲むから時節に応じて移動するのだ。だから緊急の場合には、人々は騎馬射術をやる。平和の場合には、人々は無事を楽しむのだ。そのとりきめは簡略で実行しやすい。君主と臣下の関係は簡便であって、一国の政治は、一身を修めるようなものだ。父子兄弟が死ぬと、その妻をとってわが妻とするのは、子孫が絶えることを心配するからだ。だから、匈奴は混乱があっても、必ず本家の一族を立てる。ところが、中国ではおもて向きは自分の父や兄の妻をとらないけれども、親戚の間はますます疎遠となり、殺しあいさえし、異姓にくらがえするまでになる。みなこういったたぐいさ。そのうえ礼儀も道徳もすたれてしまい、上と下は互いに恨みあう。住宅を豪奢にしたはては、生活のかては必ずつきてしまう。だいたい農耕養蚕につとめて衣食を手に入れ、城郭を築いて自衛する。だから、その人民は緊急な場合には戦闘に習熟しておらず、平和なときには仕事に疲れきっているのだ。やれやれ、土の家に住む民はだな、口先多くべらべらがやがやしゃべるべきでない。冠などいったい何の役に立つのだ』」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.42』岩波文庫)

それを思えば、性に関する硬直した考え方、姓の覇権をめぐる無意味な内部闘争、生活様式の融通性、どれを取ってみても遊牧騎馬民族は、なるほど漢から見れば匈奴と呼ばれていながらも、少なくとも今の漢とは比較にならないほど自由闊達悠々賢明だ。中行説は滔々とそう述べ立てた。そしていう。

「これ以後、漢の使者が言いまかそうとしても、中行説はそのたびに言った、『漢の使者よ、おしゃべりはもうたくさんだ』」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.42~43』岩波文庫)

同族婚とその反復。もう一人の自分が出現して見える現象(ドッペルゲンガー)についてフロイトはこう述べている。

「すなわち、外見が同じであるために同一視されざるをえない人物が登場すること、これらの人物の一人から他の一人へと心の中の出来事がとび移ってーーーいわゆる精神感応であるーーーその一人が他の一人の知識・感覚・体験を共有することにより、この関係が強化されること、自己を自己以外の他の人物と同一化し、その結果自己の自我を見誤ったり、あるいは他の自我を自己自身のかわりに置き換えてしまったりすること、つまり自我倍加、自我分裂、自我交感ーーーこうして終りには、絶えざる同一事の反復、相似した顔付、性格、運命、犯罪行為を繰り返し、いや相継起する幾世代ものあいだ名前さえも繰り返されるというあの現象である」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.341』人文書院)

面白いのは「他の自我を自己自身のかわりに置き換えてしまったりする」という部分。自分が他人に転移して現われて見えるということが起こる。だがフロイトの場合、それを否定的に捉え過ぎている。むしろフロイト理論を転倒させたドゥルーズ=ガタリに言わせれば、このような転移こそ生成であり変身の条件として立ち現れる。

「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)

日本でも同性愛がタブーでなかった時代、特に戦国時代などは世継ぎの問題が重要になってくるにもかかわらず主君が女性を遠ざけるため、子どもが生まれないので臣下は四苦八苦して珍妙なアイデアを出し合っている。次の上杉景勝の例などは側近の直江兼続自身が同性愛者であり、景勝に寵愛された身だったがゆえに出てきた妙案だといえよう。

「本邦にも、上杉景勝、女色を好まず、直江兼続(かねつぐ)、京都にて十六歳の美妓を購い、小姓に作り立てて景勝に薦め、一会して妊む。景勝その女なりしを知り、まことの男ならねば詮なしとてこれを卻(しりぞ)く。女これを悲しみ、定勝を生んで、すなわち自殺せりという(『奥羽永慶軍記』巻三九)。その前後武功を励むのあまり、女を断ちし人多く、松永方、中村新九郎は武名を立てんため一代男と称し、妻女を具せず、童子(わらわ)をわれと均(ひと)しく仕立て、陣中に連れ行きともに討死にし(『南海通記』巻九)、景勝の養父謙信も、武功に熱して、一生婦女を遠ざけしが、小姓を愛せる由、『松隣夜話』等に見ゆ。されば、熊沢了介の『集義外書』巻三、大名などの美女に自由なるが、男色を好きて子孫なき者あり、と言えり。内藤恥叟の『徳川十五代史』によれば、浅野幸長はこの一例なり。塩谷宕陰の『昭代記』に、元和六年、三条の城主市橋長勝、愛童三四郎を女婿としたるを、おのれ臨終に世嗣ぎとせしを遺臣ら従わず、長勝の甥長正を立てんと請う。よって長正に二万石、三四郎に三千石を分かち賜うとあるもこの類で、三四郎に妻(めあわ)せしは養女らしい。したがって忠臣が主君の嗣(よつ)ぎあらんことを冀(こいねが)い、男装の女子を薦(すす)めし者、兼続の外にも多かるべし」(南方熊楠「婦女(おんな)を姣童(わかしゅ)に代用せしこと」『浄のセクソロジー・P.124』河出文庫)

そんな戦国の世も終わり江戸時代がやってきた。だからといって同性愛の風が消え去ったわけではない。逆に江戸時代になってますます男性同性愛は悽愴味を帯びる。

今の兵庫県神戸市生田の森の辺りに、かつて小輪(こりん)という十二、三歳の美少年がいた。母思いの志を買われて明石の殿様に仕えることになる。次第に主君に可愛がられて夜の友となることが多くなった。だが小輪は主君の愛童として終わるより、行く行くは遊びでなく本当に愛し愛されの関係を持てるような男性と出会って一緒になりたいと常々考えていて、主君にもそう訴えていた。そんなおり小輪は同じ城内で惣八郎と出会う。二人はたちまち意気投合して一刻も早く愛し合いたいと機会を待つことになる。

「母衣(ほろ)大将、神尾(かんお)刑部の二男に、惣八郎(そうはちろう)といった者が、つねづね小輪の気持をみすまして、手紙でなげき、たがいに心をかよわせ、思いをとげる時節を待っていた」(井原西鶴「傘持ってもぬるる身」『男色大鑑・P.61』角川ソフィア文庫)

絶好の機会がやって来た。ところがそこは主君が寝ている隣の間である。耳を澄ますと殿様はもういびきをかいて眠りこけているようだ。今こそ、と思い小輪と惣八郎は我を忘れて抱き合う。感極まった小輪は思わず声を上げてしまう。次に生まれ変わってもまた一緒になりましょう、と。その声が余りに大きかったため殿様は目を覚ましてしまった。

「恋はいまぞと惣八に逢(あ)い、まず何かなしに、かるたむすび〔四角ニカルタノ形ノヨウニナルムスビ方〕の帯もとかず、この上もない情をかけたもうて、なお末々の契りの言葉をかため、『二世までも』という声が、殿の夢をおどろかせた」(井原西鶴「傘持ってもぬるる身」『男色大鑑・P.62』角川ソフィア文庫)

殿様は逃げていく惣八郎の影を見て詮索したが否定するので、さては狸(たぬき)に化かされたかと思う。ところが「かくし横目」といって敵よりも味方の臣下のありとあらゆる言動をスパイしている隠密は、物の怪の仕業でなく確かに人の姿をしていたと密告する。けれども相手が誰なのか、小輪はけっして口を割らない。三日後、小輪は見せしめのために処刑される。長刀(なぎなた)でまず左手を斬り落とされる。小輪は右手を差し出して「自分が愛する男のからだを撫でさすったのはこの手ですよ」という。聞くやいなや殿様は小輪の右手も斬り落とした。さらに小輪は首を刎(は)ねられ死んだ。

「十二月十五日の朝、兵法稽古(けいこ)座敷にお召し出しになって、もろもろの家中の者の見せしめに御長刀(なぎなた)で御自身が『小輪、最期』と御言葉をおかけになれば、にっこと笑って、『年来のよしみですから、御手にかかる事はかたじけなく、此の上何を、世に思い残すことがありましょう』と立ちなおるところを、左の手を打ち落したもうて、『今の思いは』と仰せられた。右の手をさしのべて『これで念者をさすったのだから、御にくしみ深い筈です』という。飛びかかって切り落したまうと、くるりと立ちまわって、『この後姿、またと世に出て来ないだろう若衆。人々見収めに』という声も次第によわるのを、細首落したもうて、そのまま御なみだに、袖は目前の海となって、座中は波の声がしばらく立やむ事ない。死骸(しがい)は妙福寺におくりたもうた」(井原西鶴「傘持ってもぬるる身」『男色大鑑・P.62~63』角川ソフィア文庫)

なお、すぐ後に出てくる「朝顔寺」という寺院は明石の「光明寺」だとされていて「妙福寺」ではない。また「光明寺」が正解だとしても、「月見の池」とともに伝わる光源氏作とされる和歌は「源氏物語」には出てこない。ただ、朝顔と男性同性愛とは関係が深い。夕暮れから咲くのでなく夜明けに咲くということ。さらに同性愛は堂々たる性行為であり太陽を避ける必要は何らないという意味があるため。例えばフランスのジュネ文学で、菊と肛門とがただならぬ関係を持つように。また戦後になるともはやゲイはただ単に男性に限った同性愛を指す言葉ではなくなってきた。コクトーやジュネやフーコーら多くの逸材の尽力により、悦ばしき性愛の多様性の代名詞へと変わっている。

ところで処刑された小輪の愛人・惣八郎はどうしたか。殿様に密告した「かくし横目」の新平の両手を切断して殺す。なぜ両手なのか。小輪もまた両手を斬り落とされたからである。しかしなぜそうでなければならないのか。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

さらにこの恋愛の悽愴さは次の文章に明らかだろう。密告専門の「かくし横目」新平を殺すことなど容易い。だからとっとと殺し去った。しかしそれよりずっと大切な作業が残っている。小輪が葬られた塚の前で小輪の定紋の形に合わせて切腹することだ。

「明くる春(いちがつ)十五日の夜、左義長〔青竹ヲ束ネ、門板、注連縄(しめなわ)ヲ添エテ焼ク行事〕の場で、惣八は新平の両手を打ちおとし、とおどめまでさして、首尾よく立ちのき、小輪の母の落ちつきどころも判らぬところへ連れかくし、自分は朝顔寺にかけこみ、塚のまえに心底を詳しく高札に書きしるし、今年二十を一期(ご)として、夢また夢、眠れるごとく腹かききって死んだ。明くれば十六日の朝、この有様を見るのに、ありありと一重菱(ひとえびし)の内に、三引(みつびき)を切っていた。これこそ小輪の定紋である」(井原西鶴「傘持ってもぬるる身」『男色大鑑・P.63~64』角川ソフィア文庫)

自分の腹を小輪の徴(しるし)通りに切り刻むことで惣八郎は小輪とようやく一つになれたのである。

熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。

涙ながらに叡山へ帰って行った桂海。しかし余りに深い恋情ゆえ思いも寄らぬやつれようで山に籠もり切ってしまった。随分弱っている様子だと三井寺にいる桂壽の耳に入った。桂壽は梅若にそれを伝える。梅若は相当悩むわけだが、とうとう思い切って桂壽と連れ立って比叡山の奥に籠もっているはずの桂海を訪ねることにする。とはいえ梅若はそもそも貴人の出身で十六、七歳と若く、院家に預けられてこのかた、徒歩らしき徒歩で遠出したことはまるでない。桂壽は梅若を助けながら歩くが唐崎の辺りで参ってしまう。いっそ天狗でも出てきて山中のどこへなりとも律師桂海のいるところへ連れて行ってくれまいかと思ったりする。と、そこへ輿を持った山伏の一行が現われた。輿に乗った一人の男が降りてきて事の次第を聞くと、そういうことなら梅若と桂壽はこの輿に乗るがよい、と言って二人を乗せて自分は歩くという。

「我社(コソ)御尋候房ノ隣ヘ登ル物ニテ候ヘ。餘ニ御労敷(イタハシク)見奉リテ候ヘバ、我ハカチニテ歩ミ候ハン。此輿ニ被召(メサレ)候ヘ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.469』岩波書店)

梅若と桂壽との二人が輿に乗るやいなや輿は瞬く間に奈良の山奥の大峯山系の一つ、釋迦嶽まで一気にたどり着く。熊野につづく修験道の聖地だ。そこは昼なお暗い森の中で、牢のような場所がある。気づくと二人はその牢に入っていた。

「片時ノ際(マ)ニ大峯ノ釋迦ガ嶽(ダケ)ヘゾ舁キ以(モ)テ来(キタ)リケル。茲(ココ)ニテ盤石(バンジヤク)ヲタタミタル石ノ樓ノ中ニ押シ篭メラレテ置キタレバ、夜晝ノ境モ知(シ)ラズ、月日ノ光ヲモ見ズ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.469』岩波書店)

何が起こったのか。何が起ころうとしているのか。

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熊楠による熊野案内/反復される死の行事

2020年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
月下氷人というのは「月下氷人」(むすぶのかみ)とも読み、あるいは「月下神」(むすぶのかみ)とも読む。サブタイトルに「系図紛乱の話」とある。この頃、熊楠は、没落していく実家の経営と複雑化する家族関係とにかなり苦悩しながら執筆を続けていた。近親婚についてあれこれ述べ始めている。が、すぐ別の話題へ移っていく。けれども話題の核心は逆に、近親婚が当たり前にあった先史時代の事情に接近しているように見える。

「今も熊野等の碇泊地で船頭や船饅頭が唄う、『所は京都の堺の町で、哀れ悲しや兄妹(おととい)心中、兄は二十一、その名は軍平、妹(いもと)は十八、その名はお清、兄の軍平が妹に☓て、それが病の基(もとい)となりて、ある日お清が軍平眼元にもしもし兄上御病気は如何(いかが)、医者を迎うか薬を取ろうか、医者も薬も介抱も入らぬ、一夜頼みよ、これお清さん、これこれ兄様何言わさんす、人が聞いたら畜生と謂わん、親が聞いたら殺すと言わん、私(わたし)に一人の夫がごんす、歳は二十一、虚無僧でござる、虚無僧殺して下されますりゃ、一夜二夜でも三八夜(さんぱちや)でも、妻となります、これ兄上よ、そこでお清はある日のことに、瀬多の唐橋笛吹き通る』。これより先に近処で知った者ないが、虚無僧に化けた妹を殺し気がついて大きに恥じ、兄も自殺するので仕舞いじゃ」(南方熊楠「月下氷人」『浄のセクソロジー・P.75~76』河出文庫)

何が言いたいのだろう。差し当たり、今昔物語から「湛慶阿闍梨還俗(たんけいあじやりぐゑんぞくして)、為高向公輔語(たかむこのきんすけとなること)」を引いている。

忠仁公(藤原良房)に召し出されて修行を続けていた時、給仕に出てきた若い女性を見て思わず性行為に及ぶ。

「湛慶、此ノ女ヲ見ルト、深ク愛欲ヲ発(おこし)テ、窃(ひそか)ニ語(かたらひ)ヲ成シテ互(たがひ)ニ契(ちぎり)テ、遂ニ始メテ落(おち)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.441」岩波書店)

湛慶は僧侶なので自分の行為を堕落と考える。そこで、なぜこんなことになったのか、過去のことを振り返ってみる。すると、思い当たるふしがないではない。かつて夢に出てきた不動尊の言葉だ。いずれ女色に溺れて仕舞いにその相手と夫婦となるに至るに違いないと。

「湛慶、前(さき)ニ懃(ねむごろ)ニ不動尊(ふどうそん)ニ仕(つかへ)テ行(おこなひ)ケルニ、夢ノ中ニ不動尊告(つげ)テ宣(のたま)ハク、『汝ハ専(もはら)ニ我レヲ憑(たの)メリ。我レ、汝ヲ可加護(かごすべ)シ。但シ、汝(なむ)ヂ前生(ぜんしやう)ニ縁(えん)有ルニ依テ、某ノ国、某ノ郡(こほり)ニ住ム某ト云フ者ノ娘ニ落テ、夫妻(めをうと)トシテ有ラムトス』ト告ゲ給フト見テ、夢覚(さめ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442」岩波書店)

湛慶としては納得できない。もし不動尊の言葉が本当だとすれば、その前に万が一を期して、自分を誘惑しにやってくるという女性を殺してしまい、後々の破滅的事態を阻止しておくのが妥当だろうし安心だ。そう考える。

「我レ、何ノ故ニカ女ニ落(おち)ム。但シ、我レ、彼(か)ノ教ヘ給フ女ヲ尋テ殺シテ、心安(こころやす)クテ有ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442」岩波書店)

某国某郡へ赴いた湛慶は人夫姿を装い某女を探す。実際に某家はあった。しかもその近くで「十歳許(ばかり)ナル女子(をむなご)」が遊んでいるのが目に入る。その家の下女に尋ねると返事からして確かに某女に違いない。

「湛慶夫(ぶの)如クシテ伺フニ、十歳許(ばかり)ナル女子(をむなご)ノ端正(たんじやう)ナル、延(えん)ニ走リ出(い)デテ、遊ビ行(あり)ク。湛慶、其ノ家ヨリ下女(しもをむな)ノ出(いで)タルニ、『彼(か)ノ出遊(いであそ)ブ女子ハ誰(た)ソ』ト問ヘバ、『彼(か)レハ此(この)殿ノ独娘(ひとりむすめ)也』ト答フ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442」岩波書店)

翌日、某女が遊んでいる隙を伺って女を捕らえ、その頸部を掻き切って殺し去った。

「次(つぎの)日行テ南面ノ庭ニ居(ゐ)ルニ、昨日(きのふ)ノ如ク女子出テ遊ビ行(あり)ク。其時ニ敢(あへ)テ人無シ。湛慶、喜ビ乍(なが)ラ走リ寄リテ、女子ヲ捕(とらへ)テ頸(くび)ヲ掻斬(かききり)ツ。此レヲ知ル人無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442」岩波書店)

そんなことがあって、もう忘れていたのだが、しかし今、給仕に出てきて性行為に及んでしまった女性の頸部をよく見ると、「大(おほき)ナル疵(きず)有テ、灸(や)キ綴(つづり)タル跡(あと)」が生々しい。

「此(か)ク思ヒ不懸(かけ)ヌ女ニ落ヌレバ、湛慶、『先年ニ不動尊ノ示シ給ヒシ女ヲバ殺テシニ、此ク思ヒ不懸(かけ)ヌ者ニ落ニタルコソ奇異(あさまし)ケレ』ト思テ、此ノ女ト抱(いだき)テ臥(ふ)シタル時ニ、湛慶、女ノ頸ヲ捜(さぐ)ルニ、頸ニ大(おほき)ナル疵(きず)有テ、灸(や)キ綴(つづり)タル跡(あと)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.442~443」岩波書店)

給仕の女性に思い出すことはないかと尋ねてみたところ、誰かはさっぱりわからないが過去に殺されかけたことがあり、九死に一生を得て今は忠仁公(藤原良房)のもとで働いているとのこと。湛慶は隠しておくことができずすべてを女性の前で告白する。すると女性はかえって湛慶のことを哀れにおもったようで、結果的に二人は夫婦になった。

「泣々(なくな)ク女ニ此ノ事ヲ語ケレバ、女モ哀(あはれ)ニ思(おもひ)テケリ。然(さ)テ、永キ夫妻(めをうと)トシテゾ有ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第三・P.443」岩波書店)

なるほど興味深いエピソードではある。しかしこの逸話は古代中国の文献「続幽怪録」にある唐の韋固のエピソードとそっくりなのだ。結婚相手を探しに城内へやってきた韋固は月の光の下で書に目を通している老人と出会う。老人はいう。韋固の望む女性はこれこれの所で出会うことになるだろうと。韋固が行ってみると予想外の醜女である。嫌気がさしてそこらへんにいた男に金をやり殺させてしまう。ところが女は一命を取り止め、眉間に傷を負っただけで済んだ。十四年が過ぎた。いつしか女性はたいそう艶やかな容色無類の美女に育っていた。相州の太守王泰はその女性を韋固に合わせ結婚させた。数年を経て韋固は妻の過去を聞かされる。誰なのかわからないが一度殺されかけたことがあり、しかし一命を取り止め、その後は泰の養女として育てられたのだと。殺されそうになった時に負った眉間の傷はどうなったのか。常に眉間に花鈿(はなぼたん)を貼(ちょう)じていて、かえって美麗に映る。さてそこで熊楠は月下氷人の由来についてこう述べる。

「結縁神(えんむすびのかみ)を月老また月下老と呼ぶはこれによる。また媒人(なこうど)を氷人と言うのは、晋の令狐策という男、氷上に立って氷下の人と語ると夢み、何のことか解らぬところへ友人索紞(さくたん)来たって解いていわく、氷上は陽で男だ、氷下は陰で女だ、君氷上にありて氷下の人と語ったと夢みたは男のために女と語ったんで、君が人に媒を頼まれ相談調うて春氷が泮(と)けて目出度(めでた)く婚姻が済む占(うら)でござる、と。果たして太守田豹その子のために令狐策を媒として張氏の女を求め、仲春氷泮けて婚成った(『淵鑑類函』一七五)。この二つの故事を合わせて媒人を月下氷人と言うんだ。また月老赤縄子(むすぶのかみあかいひも)で夫婦の縁を結ぶとあるゆえ、夫婦の縁を赤縄子と呼び、『えんのいと』など訓(よ)むのじゃ」(南方熊楠「月下氷人」『浄のセクソロジー・P.97』河出文庫)

要するに今昔物語「湛慶」の逸話は「続幽怪録」にある「唐の韋固のエピソード」の反復なのだ。とはいえ、転用とか流用とかいった次元で語られるべきものではけっしてない。問題の根は深い。まだ文化人類学という言葉さえなかった時代に熊楠は何を言いたがっていたのか。それが問題だからである。

今昔物語に次の話題が掲載されている。或る旅人が東の国へ行く途中、宿に泊まった。部屋で横になっていると、何か物の怪のようなものの影が通り過ぎ、今この宿で生まれた子は「八歳で自害する」という言葉を残して去って行った。

「此宿人(このやどりびと)ノ居タル所ノ傍(かたはら)ニ戸有(ある)ヨリ、長(たけ)八尺許(ばかり)ノ者ノ、何トモ無ク怖(おそろ)シ気(げ)ナル、内ヨリ外(と)ヘ出(いで)テ行(ゆく)トテ、極(きはめ)テ怖シ気ナル声(こゑ)シテ、『年ハ八歳、自害(じがい)』ト云テ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十九・P.80~81」岩波書店)

八年後、そのときの旅人が同じ宿に立ち寄って、そういえばあの時に生まれた子どもはと聞いた。すると母親は顔を曇らせて答えた。不憫なことに、木を切っている最中に木から落ちて、そこに置いていた鎌で自分の頭を立ち割われ、結果的に自害したことになったと。

「糸清気(いときよげ)ナル男子(をのこご)ニテ侍(はべり)シガ、去年(こぞ)ノ其(その)月ノ其日、高キ木ニ登リテ、鎌ヲ以テ木ノ枝ヲ切侍(きりはべり)ケル程ニ、木ヨリ落テ、其(その)鎌ノ頭(かしら)ニ立(たち)テ死侍(しにはべり)ニキ」「今昔物語集5・巻第二十六・第十九・P.81」岩波書店)

そしてこのエピソードは、そっくりそのままといっていいほどの形を取って、西鶴の小説で反復される。大坂の道頓堀の真斎橋(しんさいばし)で人形屋を営む新六という男が丹波で時雨に遭い、家に帰ることができなくなって地蔵堂で一夜を過ごした。そこで文殊菩薩の予言を聞いたというのである。

「夜の暁方に又文殊の声がし給うて『今宵五畿内〔山城(やましろ)、大和(やまと)、河内(かわち)、和泉(いずみ)、摂津(せつつ)〕だけの安産が一万二千百十六人、この内八千七十三人が娘だ。中にも、摂津の国三津寺八幡(みつでらはちまん)の氏子、道頓堀の楊子屋に願いのままの男の子が安産した。母親は喜ぶこと浅くなく、大きな顔して味噌汁(みそしる)の餅(もち)を喰(く)うなどしているが、人間がゆく末の身がどうなって行くか知らぬのは浅ましい。この子は美少年に育ち、のちには芸子になり、諸見物に思いをかけられ、これの盛りの時に至って、十八歳の正月二日の曙(あけぼの)の夢と、かぎりある命を世間の義理ゆえに捨てる若衆ぞ』と先を見とおしての御物語をありありと聞いた」(井原西鶴「袖も通さぬ形見の衣(きぬ)」『男色大鑑・P.155~156』角川ソフィア文庫)

子どもは「はや十三より衆道(男性同性愛)の訳知り」になる。戸川早之丞と名乗り歌舞伎役者として当代一と言われるほどの人気者になる。だが当時の役者の常というべきか、あちこちに借金を作って返せなくなってしまい、挙げ句の果てに刀を持ち出し自分自身に向ける。

「早之丞はうち笑って『浮世ほど思うままにならぬものはない』と二階へあがるのを見たが、筆ばやにその事とはなく書置きして、『惜しいのは命だ、これは、これは』と嘆(なげ)いても帰らぬ若衆、普通では死なれぬ所をすこしの義理につまって、武士でも出来ないだろう最後は末々の世の語り草でこそある。物は争えない事、安産の地蔵の御ことば思いあわすればまことに正月二日の骨仏とはなった〔安産の地蔵ハマチガイ、文殊ガイッタ〕」(井原西鶴「袖も通さぬ形見の衣(きぬ)」『男色大鑑・P.158~159』角川ソフィア文庫)

文殊菩薩の予言通り、早之丞は十八歳になっていた。このタイプの逸話はなぜ何度も繰り返し反復されるのか。ただ単なる仏教説話というだけでは説明不可能である。なぜなら、仏教に関係のない世界各地で見られる、極めてアニミズム的な反復性が顕著だからだ。

熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。

律師桂海は侍童桂壽の手引きでようやく梅若のいる書院に潜り込むことができた。なお「コノヤ」はおそらく「後夜」(ごや)、「小夜」(さよ)、を書き誤ったと考えられる。

「コヤノ枕、川嶋ノ流モ淺(アサ)カラヌ、行末マデノ睦語(ムツゴト)モマダア盡(ツ)キナクニ、閨(ネヤ)寒ク紫蘭ノ夢サメヤスク、漏(ロ)断(タヘ)テ紅涙留メガタケレバ、篠(シノ)ノ小竹(ザサ)ノ一臥ニ、明(ア)ケヌト告(ツ)グル鳥ノ音(ネ)モ恨メシク、己(ヲノ)ガ衣々(キヌギヌ)ヒヤヤカニ成リテ、立チ別レナントスルニ、明方ノ月、窻ノ西ヨリクマナク指シ入リタレバ、寝亂(ネミダ)レ髪ノハラハラト懸リタルハヅレヨリ、眉ノ匂ホヤカニ、ホノカナルカホバセノ思ハ色深(フカ)ク見(ミ)エタル様、別レテ後ノ面影モ、又逢フマデヲ待ツ程ノ命(イノチ)アルベシトモ覚エズ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.469』岩波書店)

また、「川嶋」(かわしま)とある。「川の中の島」の意味だろう。日本の中世すでに「川中島」は無縁の地として考えられていた。男性同士が夜に枕をかわすことはタブーではなく、さらに延々と流れる川の流れから両者の契りが浅からぬものでありなおかつ様々に変容していくことの兆候であるとも見て取れる。また、「かわしま」について業平に次の和歌がある。

「あひみては心ひとつをかは島の水の流れて絶えじとぞ思ふ」(新潮日本古典修正「伊勢物語・二二・在原業平・P.38」新潮社)

それにしても活躍著しいのは梅若の侍童桂壽。両者のあいだを仲介するその素速さはあたかも貨幣のようだ。

「童亦来リテ御文トテ指シ出シタリ。アケテ見レバ、語(コトバ)ハサシモ多(ヲヲ)カラデ、

我袖ニ宿(ヤド)シヤ果(ハ)テン衣々(キヌギヌ)ノ涙ニワケシ在明ノ月

律師書院ニカヘリテ、

共ニ見シ月ヲ餘波(ナゴリ)ノ袖ノ露ハラハデ幾夜嘆キ明(ア)カサン」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.469』岩波書店)

梅若と桂海とのやりとりはなお散文では言い現わせない。けれども和歌という特異な言語形式を介してであれば、なるほど幾らかのもどかしさを残しつつも、なぜか通じ合い、もどかしさゆえ、さらなる愛欲の高まりを感じさせずにはおかない。

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熊楠による熊野案内/蛇と玉と巫女、狂女の資格

2020年10月04日 | 日記・エッセイ・コラム
この書簡の内容は田辺に居を構えてからも長年愛用している顕微鏡の件なのだが、その半分以上は別の質問についての返事や今考えていることで占められている。

「スイス国のチューリッヒ市の中古の伝説にて、シャーレマンがフェリッキスおよびレグラ二尊者殉教の遺跡に鐘楼を立て鐘を懸け、誰でで冤訴あるものはこの鐘をつけば大王みずからその訴えを聞き、判官をして再審せしむる定めとす。しかるところ諫鼓(かんこ)苔蒸して鶏驚かずの例で、誰も冤訴のなきほど太平なりしにや、この鐘の下に蛇が住み子を生む」(南方熊楠「フィラデルフィアの顕微鏡」『森の思想・P.137~138』河出文庫)

熊楠はさらりと書いているのでただ単にやり過ごしているように見えるけれども、ほかならぬ「蛇」について何ら考えていないわけではけっしてないと言える。代表作の一つ「十二支考」を見ても蛇についての記述だけで大量の見聞を披露している。それを思うとまさしく「蛇」をわざわざ出してきている点で見逃せない箇所だと考えていいだろう。蛇についての論考で、例えば、なぜ「邪視」を論じているのか。

「『淵鑑類函』四二五、鶏の条を探ると、<王褒(おうほう)曰く、魚瞰鶏睨、李善以為(おも)えらく魚目暝(つむ)らず、鶏好く邪視す>とある。鶏はよく恐ろしい眼付きで睨むをいうので、この田辺辺で古く天狗が時に白鶏に化けるなどいい忌む人があったは、多少その邪視を怖れたからだろう」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.311~312』岩波文庫)

この場合の「邪視」は、一般的に邪推と言う場合の意味とはまったく異なったものとして考えられていることはわかる。

「魚瞰とは死んでも眼を閉じぬ事、鶏睨とはよく邪視する事を解いたのだ」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.311~312』岩波文庫)

では邪視とはどういうことだろう。「目を殫(つく)し覩窮(みきわ)む、遷延し邪視す」とある文章を取り上げる。

「後漢の張平子の『西京賦』に、<ここにおいて鳥獣、目を殫(つく)し覩窮(みきわ)む、遷延し邪視す、乎長揚の宮に集まる>」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.313』岩波文庫)

古来、蛇に与えられた特権的能力について論じているのである。また蛇は、山の神として祀られることが少なくない。その傾向がまだ色濃く残っていた時期に沿って、日本霊異記にも次のような説話が掲載されたに違いない。或る家の嬢(をみな)が寝ている間に蛇が近づいてきて性交するというエピソード。嬢(をみな)の体内に蛇が入ってしまった。慌てた父母は薬師(くすし)を呼んで煮出した薬を嬢(をみな)の性器の中へ流し込む。

「其(そ)の女(をみな)、桑に登りて葉を揃(こ)きき、時に大きなる蛇有り。登れる女の桑に纏(まつは)りて登る。路を往く人、見て嬢(をみな)に示す。嬢見て驚き落つ。蛇(へみ)も亦(また)副(そ)ひ堕(お)ち、纏(まつは)りて婚(くながひ)し、慌(は)れ迷(まど)ひて臥しつ。父母見て、薬師(くすし)を請(う)け召し、嬢(をみな)と蛇(へみ)と倶(とも)に同じ床に載せて、家に帰り庭に置く。稷(きび)の藁三束を焼き、湯に合(あは)せ、汁を取ること三斗、煮煎(にい)りて二斗と成し、猪(ゐ)の毛十把を剋(きざ)み末(くだ)きて汁に合せ、然して嬢(をみな)の頭足に当てて、橛(ほこたち)を打ちて懸け釣り、開(つび)の口に汁を入る」(「日本霊異記・中・女人(にょにん)の大きなる蛇(へみ)に婚(くながひ)せられ、薬の力に頼りて、命を全くすること得し縁 第四一・P.267」講談社学術文庫)

すると蛇が出てきた。嬢(をみな)は助かった。それから三年が過ぎた。再びこの嬢(をみな)の体内に蛇が侵入し、蛇と嬢(をみな)とは婚姻した形になる。しかしこの時、嬢(をみな)はいう。死んでもいい、次に生まれてくる時もまた是非とも蛇と夫婦になって一緒になりたいと。

「然(しか)して、三年(みとせ)経て、彼(そ)の嬢(をみな)、復(また)蛇に婚(くながひ)せられて死にき。愛心深く入(い)りて、死に別るる時に、夫妻と父母子を恋ひて、是の言を作(な)ししく、『我死にて復(また)の世に必ず復相(あ)はむ』といひき」(「日本霊異記・中・女人(にょにん)の大きなる蛇(へみ)に婚(くながひ)せられ、薬の力に頼りて、命を全くすること得し縁 第四一・P.268」講談社学術文庫)

蛇を神として祀るアフリカの部族について熊楠は述べている。この話には巫女が絡んでくる。

「西アフリカのボイダー市には、近世まで大蛇を祀(まつ)り年々棍(クラブ)を持てる女巫(みこ)隊出て美女を捕え神に妻(めあ)わす。当夜一度に二、三人ずつ女を窖(あな)の中(うち)に下すと、蛇神の名代たる二、三蛇俟(ま)ちおり、女巫(みこ)が廟の周(ぐる)りを歌い踊り廻る間にこれと婚す。さて家に帰って蛇児を産まず人児を産んだから、人が蛇神の名代を務めたのだ(一八七一年版シュルツェの『デル・フェチシスムス』五章)」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.298』岩波文庫)

熊楠の話題は蛇から献上された「玉」についてのエピソードへ繋がっていく。

「ある日天気晴朗に乗じ母子つれて散歩に出る。帰り見れば蟾蜍(ひき)がその巣を押領しおる(御存知通り欧米では古今蟾蜍を大毒物として悪〔にく〕むなり)。蛇如何ともする能わず、その鐘を鳴らし大王みずから訴えを判じ、これは蟾蜍がよっぽど悪いということで兵士を召して蟾蜍を誅戮す。その礼として蛇が玉をもち来たり王に献す。この王の持つものの一身に王の寵愛集めるはずで、大王この玉をその后に与うると、それからちうものは大王后を愛することはなはだしく、他の諸姫妾はことごとく非職となる。後年、后病んで崩ずるに臨み、もしこの玉が他の女に伝わることあらば大王またその女を后に冊立し自分のことは忘失され了るべしと思いて、その玉を舌の下にかくして崩ず。さて、大王后の尸(しかばね)をマンミーに作り一度は埋めたが、何とも思い切れず、またこれを掘り出し自分の室に十八年の長い間安置して朝夕これを抱懐す」(南方熊楠「フィラデルフィアの顕微鏡」『森の思想・P.138』河出文庫)

玉の持つ妖異な力については、すでに日本書紀に公然と記述されている。「豊玉姫」(とよたまびめ)、「玉依姫」(たまよりびめ)、などは好例といえよう。

「已(すで)にして彦火火出見尊、因りて海神の女(むすめ)豊玉姫(とよたまびめ)を娶(ま)きたまふ。仍(よ)りて海宮(わたつみのみや)に留住(とどま)りたまへること、已(すで)に三年(みとせ)に経(な)りぬ。彼処(そこ)に、復(また)安(やす)らかに楽(たの)しと雖(いへど)も、猶(なお)郷(くに)を憶(おも)ふ情(こころ)有(ま)す。故(かれ)、時(とき)に復(また)太(はなは)だ息(なげ)きます。豊玉姫(とよたまびめ)、聞(き)きて、其(そ)の父(かぞ)に謂(かた)りて曰(い)はく、『天孫(あめみま)悽然(いた)みて数(しばしば)嘆(なげ)きたまふ。蓋(けだ)し土(もとつくに)を懐(おも)ひたまふ憂(うれへ)ありてか』といふ。海神(わたつみ)乃(すなは)ち彦火火出見尊を延(ひ)きて、従容(おもぶる)に語(まう)して曰(まう)さく、『天孫若(も)し郷(くに)に還(かへ)らぬと欲(おもほ)さば、吾(われ)当(まさ)に送(おく)り奉(まつ)るべし』とまうす。便(すなは)ち得(え)たる所(ところ)の釣鉤(ちい)を授(たてまつ)りて、因(よ)りて誨(おし)へまつりて曰さく、『此(こ)の鉤(ち)を以(も)て汝(いましみこと)の兄(このかみ)に与(あた)へたまはむ時には、隠(ひそか)に此の鉤を呼(い)ひて、<貧鉤>(まぢち)と曰(のたま)ひて、然(しかう)して後(のち)に与へたまへ』とまうす。復(また)潮満瓊(しほみちのたま)及(およ)び潮涸瓊(しほひのたま)を授(たてまつ)りて、誨(おし)へまつりて曰(まう)さく、『潮満瓊(しほみちのたま)を漬(つ)けば、潮(しほ)忽(たちま)ちに満(み)たむ。此(これ)を以(も)て汝(いましみこと)の兄(このかみ)を没溺(おぼ)せ。若(も)し兄悔(く)いて祈(の)まば、還りて潮涸瓊(しほひのたま)を漬けば、潮自(おの)づから涸(ひ)む。此を以て救(すく)ひたまへ。如此(かく)逼悩(せめなや)まさば、汝(いましみこと)の兄(このかた)自伏(したが)ひなむ』とまうす。将(まさ)に帰去(かへ)りまさむとするに及(いた)りて、豊玉姫(とよたまびめ)、天孫(あめみま)に謂(かた)りて曰(まう)さく、『妾(やつこ)已(すで)に娠(はら)めり。当産(こうまむとき)久(ひさ)にあらじ。妾、必(かなら)ず風濤(かざなみ)急峻(はや)からむ日(ひ)を以て、海浜(うみへた)に出(い)で到(いた)らむ。請(ねが)はくは、我(やつこ)が為(ため)に産室(うぶや)を作(つく)りて相待(あひま)ちたまへ』とまうす。彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、已に宮(もとのみや)に還(かへ)りまして、一(ひとつ)に海神(わたつみ)の教(おしへ)に遵(したが)ふ。時(とき)に兄火闌降命(ほのすそりのみこと)、既(すで)に厄困(なや)まされて、乃ち自伏罪(したが)ひて曰(まう)さく、『今(いま)より以後(ゆくさき)、吾(われ)は汝(いましみこと)の俳優(わざをき)の民(たみ)たらむ。請(こ)ふ、施恩活(いけたま)へ』とまうす。是(ここ)に、其(そ)の所乞(ねがひ)の随(まにま)に遂(つひ)に赦(ゆる)す。其れ火闌降命は、即(すなは)ち吾田君子橋等(あたのきみをばしら)が本祖(もとつおや)なり。後(のち)に豊玉姫、果(はた)して前(さき)の期(ちぎり)の如(ごと)く、其の女弟(いろど)玉依姫(たまよりびめ)を将(ひき)ゐて、直(ただ)に風波(かざなみ)を冒(おか)して、海辺(うみへた)に来到(きた)る。臨産(こう)む時に逮(およ)びて、請(こ)ひて曰(まう)さく、『妾(やつこ)産(こう)まむ時に、幸(ねが)はくはな看(み)ましそ』とまうす。天孫(あめみま)猶(なお)忍(しの)ぶること能(あた)はずして、窃(ひそか)に往(ゆ)きて覘(うかが)ひたまふ。豊玉姫、方(みざかり)に産(こう)むときに竜(たつ)に化為(な)りぬ。而(しこう)して甚(はなは)だ慙(は)ぢて曰(い)はく、『如(も)し我(われ)を辱(はづか)しめざること有(あ)りせば、海陸(うみくが)相通(かよ)はしめて、永(なが)く隔絶(へだてた)つこと無(な)からまし。今既に辱(はぢ)みつ。将に何(ない)を以(も)てか親昵(むつま)しき情(こころ)を結(むす)ばむ』といひて、乃ち草(かや)を以て児(みこ)を裏(つつ)みて、海辺(うみへた)に棄(す)てて、海途(うみのみち)を閉(と)ぢて亻巠(ただ)に去(い)ぬ。故(かれ)、因(よ)りて児(みこ)を名(なづ)けまつりて、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)と曰(まう)す」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第十段・P.142~166」岩波文庫)

さらに。

「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)、其の姨(おば)玉依姫を以て妃(ひめ)としたまふ。彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を生(な)しませり。次(つぎ)に稲飯命(いなひのみこと)。次に三毛入野命(みけいりののみこと)。次に神日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)。凡(すべ)て四(よはしら)の男(ひこみこ)を生(な)す」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第十段・P.194」岩波文庫)

神日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)は神武天皇である。神武の母は玉依姫。天皇との血縁上、豊玉姫と玉依姫とは、切り離して考えることはけっしてできない。天皇が先にあるのではなく、「玉」の持つ力は、そもそも誰に与えられたかが重要なのである。

「高皇産霊尊の児(みむすめ)万幡姫(よろづはたひめ)の児(みこ)玉依姫命(たまよりびめのみこと)といふ」(「日本書紀1・巻第二・神代下・第九段・P.158」岩波文庫)

またこうも。

「父(かぞ)をば大物主大神(おほものぬしのおほかみ)と曰(まう)す。母(いろは)をば活玉依媛(いくたまよりびめ)と曰(まう)す」(「日本書紀1・巻第五・祟神天皇 七年八月・P.282」岩波文庫)

熊楠の話にはまだ続きがある。

「内豎の少年不審に耐えず、いろいろ考えて后の尸を捜すと舌根に件の玉あり。それを盗み持つとそれより大王の寵幸この少年に集まり、后の尸を一向見向かず。不断常住この少年を愛することはなはだしく、少年も追い追い年はとるが元服も許されず、毎夜毎夜後庭を弄ばるるをうるさくなり、ついに温泉のかたわらなる沼沢中に玉を棄てると。それより大王またその沼沢を好むことはなはだしく片時もその辺を去らず、ついにアーヒェンAachen市をその沼に建てて永住した、という話」(南方熊楠「フィラデルフィアの顕微鏡」『森の思想・P.138~139』河出文庫)

玉の脅威。古代神話では世界中で認められるものだ。日本では玉に関し、或る種の氏族が代々受け継いでいくべきだとする考え方があった。「鎮魂(たましずめ)の儀(わざ)」については次のように。

「凡て、鎮魂(たましずめ)の儀(わざ)は、天鈿女命の遺跡(あと)なり。然れば、御巫(みかむなぎ)の職は、旧(もと)の氏(うぢ)を任(め)すべし。而るに、今選(えら)ふ所、他氏(ことうち)を論(あげつら)はず。遺(も)りたる九(ここのつ)なり」(「古語拾遺・P.51」岩波文庫)

天の岩屋戸のエピソードで有名な「天鈿女命」(あめのうづめのみこと)。後の猿女君(さるめのきみ)。巫女的シャーマニズムの系譜に属する。ずっと後代の近代日本になって、柳田國男が面白い資料を紹介している。蛇と女子と熊野に関係する。

「丹後熊野郡川上村大字市場の斎(いつき)大明神は『式』の熊野神社であるらしい。この社に附属して神に仕える家がある。女子が生れると、神の箭(や)飛び来たってかの家の棟に立つ。四五歳の時に宮に送り奉る。山中におれども獣にも害せられず、これを斎女(いつきめ)という。成長して交歓の心生ずるときは大蛇現われて眼を怒らす。その時は家に帰ってしまう。この斎女のおるがゆえに神の名も斎大明神というのである(田辺府志)」(柳田國男「巫女考・神の口寄せを業とする者」『柳田國男全集11・P.323~324』ちくま文庫)

この箇所に出てくる「斎女(いつきめ)」、さらに「口寄せ」という職業。その動きは一見すると「狂女」のそれだ。能の物狂いに「班女」がある。口寄せ、あるいは巫女の資格。それは一時的に狂女になり得る資格である。

「夏もはや杉(すぎ)の窓、秋風(あきかぜ)冷ややかに吹落(ふきおち)て、団雪(たんせつ)の扇(あふぎ)も雪なれば、名を聞(きく)もすさましくて、秋風(しうふう)恨みあり、よしや思(おも)へば是も実(げに)、逢(あ)ふは別(わか)れなるべき、其報(むく)ひなれば今更、世をも人をも恨むまじ、唯(ただ)思はれぬ身の程を、思(おも)ひ続けて独(ひと)り居(い)の、班女が閨ぞさびしき」(新日本古典文学体系「班女」『謡曲百番・P.216』岩波書店)

この一節に「団雪(たんせつ)の扇(あふぎ)」とある。和漢朗詠集から。

「班婕妤(はんせふよ)が団雪(たんせつ)の扇(あふぎ) 岸風(がんふう)に代(か)へて長く忘れたり 燕(えん)の昭王(せうわう)の招涼(せうりやう)の殊(たま) 沙月(さぐゑつ)に当(あて)て自(おのづか)ら得たり」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻上・夏・納涼・一六二・大江匡衡・P.67」新潮社)

ここでは揺れ惑う「扇」(あふぎ)の狂気に対する「殊(たま)」の呪術性が対照的に思える。なお、「逢(あ)ふは別(わか)れなるべき」は、平家物語で有名。

「生者必滅(しやうじやひつめつ)、会者定離(えしやぢやうり)は浮世の習にて候也」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・維盛入水・P.239」岩波書店)

仏典にも出ている。

「愛別離苦 怨憎會苦

(書き下し)愛別離苦・怨憎会苦

(現代語訳)嫌いな人に会い好ましい人とは別離する」(「法華経・上・巻第二・譬喩品・第三・P.172~173」岩波文庫)

だがしかし、神格化された蛇には誰も何も対抗することはできないのか。と言えばそうでもない。蛇と女性器との関連から生じる不気味な威力を無効化してしまう人々がいないわけではないのだ。それは眼に関係がある。柳田はいう。

「第一には全国にひろく分布する琵琶橋・琵琶淵などの言い伝えに、琵琶を抱いて座頭が飛び込んだというものは、往々にして蛇の執念、もしくは誘惑を説くようである。すなわち盲人には何かは知らず、特にいわゆるクラオカミによって、すき好まれる長処のあるものと想像されていたのである。第二には勇士の悪蛇退治に、似合わぬ話だがおりおり目くらが出て参与している。九州で有名なのは肥前黒髪山下の梅野座頭、これは鎮西八郎の短刀を拝借して、谷に下って天堂岩の大蛇を刺殺したと称して、その由緒をもって正式に刀を帯ぶることを認められていた。しかもよほど念の入った隠れた理由のないかぎり、人はとうてい盲人を助太刀に頼む気にはなり得まい。すなわち彼等には一種の神力を具えていたのである」(柳田國男「蛇と盲目」『柳田國男全集6・P.346~347』ちくま文庫)

熊楠の愛読書「御伽草子」から、続けよう。

桂海はいったん比叡山へ戻ることにする。が、振り向き見返りしているあいだに時間が過ぎてしまい、日も暮れてきた。山の入り口に当たる坂本の宿坊まで登ることさえ断念し、琵琶湖岸に接する下阪本の戸津の浜辺の鄙びた小屋を借りて夜露をしのぐことにする。

「程近キ坂本ノ房マデモ行キ付カデ、日暮レケレバ、戸津ノ邊ニアリケルハニフノ小屋ニゾ、トドマリケル」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.466』岩波書店)

寝られないまま夜明けをむかえる。何ということもなく足はふらふらと大津の方角へと彷徨い出す。すると途中で馬に乗った侍童桂壽とばったり出会う。桂壽は桂海を探しにやって来たらしい。三井寺の「院家」(いんげ)のすぐ近くに居候できる坊があるのでそこへ来て梅若と会う機会を窺ってみてはと提案してくれる。桂海はさっそく話に乗る。

「『御所ノ側ニ知リタル衆徒(シユト)ノ坊候ヘバ、夫ニ暫ク御座候ウテ、御簾(レン)ノヒマヲモ御心ニ被懸(カケラレ)候ヘカシ』ト童頻ニイザナヘバ、思フ方ニ心被引(ヒカレ)テ、律師又三井寺ヘ行キヌ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.467』岩波書店)

梅若もまた心待ちにしている。だが実際に会うきっかけはなかなかやってこない。梅若のこまごまとして上品な気遣いは思いやりに満ちて可憐なほど。いたずらに十日が過ぎた。

「若公(ワカギミ)モハヤ心得タルケシキニテ、人目モガナト求ムル様ナレド、叶ハデ出デカネタル心盡(ヅク)シ、見ルモ中々イタハシケレバ、ヨシヤ只ヨソナガラ見ル計ヲ我方ニアル契ニテ、人ノ情ヲ社(コソ)命ニセメト思ヘバ、朝ユク行キテハ歸(カヘ)リ歸(カヘ)リテハ行キ、日数モ十日餘ニナリニケリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.468』岩波書店)

そこへ桂壽がいい知らせを持ってきた。今夜は院家に客人が来るので酒宴が催される。門主はおそらく痛飲するだろう。だから遅くなるまで耐えて待って、その後、こっそり入ってくればよいと梅若は言っているとのこと。

「今夜コソ御所ヘ京ヨリ客(マレ)人ノ御入候ウテ、御酒宴ニテ候程ニ、門主モ痛ク酔ハセ玉ヒテ候ヘバ、フケ過(ス)グル迄(マデ)歸(カヘ)ラデ祇候セヨ、召シ具セラレテ是ヘ忍ビヤカニ御入リ候ベシト仰セ候ヒツル。門(カド)指サデ御待チ候ヘ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.468』岩波書店)

桂海はどきどきして待つ。

なお、室町時代、大人の僧侶による少年愛は、江戸時代と同じく、特に珍しくはない。「狂雲集」の中で一休もまたこう述べている。

「貪(むさぼ)り看(み)る、少年の風流、風流は是れ我が好仇(こうきゆう)なり。

(現代語訳)生命花やぐ少年を、飽くことなしに眺めていると、色好みこそボクの、よきつれあいと知る」(一休「狂雲集・五〇三」『大乗仏典(中国・日本篇)26・P.270』中央公論社)

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熊楠による熊野案内/粘菌・境界なき生物と性の多様性2

2020年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム
前に引いた箇所。

「茶ヲ呑ミ、酒ヲタタヘテ遊ビケル次(ツイデ)ニ、金(コガネ)ノウチ枝ノ橘ニ杓入レテ色々ノ輕(ケイ)衣十重(カサネ)送リタリケレバ、童モハヤ志ノ深キヲ見テヨロヅ心ヲ隔(ヘダ)テヌ様ナリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465』岩波書店)

ここで用いられている「杓」とは何か。柳田國男は「遠野物語」の中で「白望(しろね)の山」へ茸(きのこ)を採りに入って「金の樋(とい)と金の杓(しゃく)」を見たという伝説を拾っている。

「白望(しろね)の山に行きて泊れば、深夜にあたりの薄明るくなることあり。秋の頃茸(きのこ)を採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢う。また谷のあなたにて大木を伐り倒す音、歌の声など聞ゆることあり。この山の大さは測るべからず。五月に萱(かや)を苅(か)りに行くとき、遠く望めば桐の花の咲き満ちたる山あり。あたかも紫の雲のたなびけるがごとし。されどもついにそのあたりに近づくことあたわず。かつて茸を採りに入りし者あり。白望の山奥にて金の樋と(とい)と金の杓(しゃく)とを見たり。持ち帰らんとするにきわめて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなわず。また来んと思いて樹の皮を白くし栞(しおり)としたが、次の日人々ともに行きてこれを求めたけれど、ついにその木のありかをも見出し得ずしてやみたり」(柳田國男「遠野物語・三三」『柳田國男全集4・P.29』ちくま文庫)

次のエピソードは熊野権現と関係がある。「碓氷(うすい)峠の扚子町」、さらに「箱根の扚子町」について。

「中山道碓氷(うすい)峠の熊野権現は、ちょうど上信二州のの境上にあり、今も、一社にして両県の県社である。祭礼は十月の十五日、南北朝より地方の崇敬を受けていた証拠がある。往還の両側に、社家町が立ち続き、ここでまた大小の扚子を売っていた。よって扚子町とも称えていたそうである(上野志上)。これとよく似ているのは、箱根の扚子町で、やはり相模と伊豆の境山に接し、今の箱根宿の一区画、湖水に臨んだ芦川町の辺にあった。海道がまだ北岸を通っていた頃には、山扚子を細工して、これを箱根権現の坊中へ鬻(ひさ)いで活計となし、当時今よりもはるかに盛大であった修験者等は、その扚子を檀家への配礼に添えて贈ったということである(新編相模風土記)」(柳田國男「史料としての伝説・二所の扚子町」「柳田国男全集4・P.332」ちくま文庫)

また「杓子」に違いはないものの熊楠から教わった話を紹介している。それは熊楠が明らかに「山の神」を意識していた証拠だろう。

「これはかつて南方熊楠(みなかたくまぐす)氏の注意によって知ったことである。『黄表紙百種』の中(うち)『浮世操(うきよからくり)九面十面』と題する一篇に、西のみや三郎兵衛えびすの面を被(かぶ)り、番頭の黒兵衛は大黒の面、手代の鬼助は鬼の面とそれぞれの面を被って出る中に、女房は不断山の神の面をかぶり時々あばれまわるとあり、さらにまた『この時山の神扚子を持ちてあばれるゆえ、今の世に十二神楽(かぐら)の山の神を杓子をもちてさわぐ云々』とも見えている。東京などでは十二神楽と言う語は今もあって、しかもこれと山の神との関係はすでに不明になっているが、越後や会津で十二所または十二神と言うのは山の神のことで、あるいは二月十日等の十二日もってこれを祭る村もあれば、また十二本の神木の話など伝わっているようである」(柳田國男「史料としての伝説・二所の扚子町」「柳田国男全集4・P.338」ちくま文庫)

扚子には「招く」力がある。そう信じられてきた。だからといって、地方の山奥にのみ伝わる迷信に過ぎない、と簡単に切り捨てるわけにもいかない。

「扚子によって多くの不可能事をなし遂げんとした俗信がある。これは少くも食物の標識だけでは説明が付かぬのである。たとえば江州愛智(えち)郡西菩提寺(ぼだいじ)村の杓子池で、池に杓子を入れて水を掻き濁すをもって有効なる雨乞(あまごい)方法としていたなどは(近江国輿地誌略)、あるいは扚と扚子と本来一つであった一の証拠で、神池の水を掬(きく)するをもって竜王の力を借るの途とした名残かも知れぬが、少くも近世においてはこれを挑発手段に供したらしいのである。これは仏道その他宗教上の承認を得たものでないことは往々にして無理または不道徳な目的に使われるのでよく分る。紀州田辺で杓子を懐中して行くと頼母子(たのもし)が当るという迷信の現存している(郷土研究四の四四七頁)などもその一例であるが、さらに顕著にしてかつ弘く行われているのは、倡家(しょうか)青楼の客引き手段にこの物を用いる風である。同じ田辺においても、以前は客人の少い夜、人知れず杓子を懐中して四辻に行き、これをもって四方を招けば客が来ると信じていた(同二の四三四頁)。ーーー杓子には、その表向きの商法とはまったく関係のない『招く』と言うことが、常に大なる働きをしている。待人を呼ぶにも三度招き、または四方に向って客を招く。かと思うとこの物で招かれると三年の内に死ぬと言う話もある(俚言集覧)。いずれも自分が前に掲げたところの仮定、すなわち杓子に人の魂を摂取する力があると考えられたものとみることによって、始めて説明が可能である」(柳田國男「史料としての伝説・扚子の魔力」「柳田国男全集4・P.344~345」ちくま文庫)

扚子は飯を盛るための生活必需品でもある。また扚子といっても、例えば近江で有名なものは竹細工である。茶筅や編笠もまた竹細工だ。柳田が取り上げている通り、漆器を作る木地師について近江では君ヶ畑、葛川が今なお有名。さらに柳田は「紀州田辺で杓子を懐中して行くと頼母子(たのもし)が当るという迷信の現存している」という。熊楠は明確に山の神を指している。柳田はそれだけでなくまた違った方面を探求しようとしている。しかし共通項が見出されないわけではない。そこで「秋夜長物語」で桂海が手渡した「扚」(しゃく)だが、人を「招く」願いを込めたという意味では、「匂=薫(たきもの)」と異なるわけではないと思われる。

「御伽草子」から、続けよう。

侍童桂壽は律師桂海から預かった手紙を手にして梅若の前でこう述べる。

「是御覧候ヘ。イツゾヤ雨ノタエマノ花ノ木陰ニ立チ濡(ヌ)レテ御渡リ候ヒケルヲ、アルスキ人ホノカニ見奉リテ、人知(シ)レズ思ヒソメ候ヒケル袖ノ色モハヤ紅(クレナイ)ノフリ出(イ)デテ、泣ク計ニツツミカネタル様ニ見エ候ゾヤ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465~466』岩波書店)

梅若は嬉しくもあり恥ずかしくもあり思わず頬を紅に染める。そこへ或る僧都が通りかかって横槍を入れる。せっかくの手紙はあっという間もなく無に帰するかと思われる。だが既に事情を聞かされている梅若は返事の一つもしないといけないと考え、書院に籠もって文面を練ろうとするが適切な言葉が見あたらない。桂壽は我慢づよく待つ。

「日暮マデ祇候(シコウ)シタルニ、暫クアリテ、書院ノ窓ヨリ御返事書(カ)キテ指シ出シ玉ヒタリ。童取ル手モ輕(カロ)クウレシク思ヒテ、急ギ持チテ行(ユ)キタルニ、律師目モアヤニ悦ビテ、誠ニアラレヌ様ナリ。ヒライデ見レバ、是モコトバハナクテ、

馮(タノ)マズヨ人ノ心ノ花ノ色ニアダナル雲ノ懸ル迷(マヨイ)ハ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.466』岩波書店)

悩んだのだろう、梅若もまた自分の気持ちを和歌にしたためた。類歌があるが、小野小町からの引用であり、その意味は愛慾の変化の激しさと虚しさとを詠んだものだ。

「色みえでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける」(「古今和歌集・巻第十五・七九七・P.185」岩波文庫)

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熊楠による熊野案内/粘菌・境界なき生物と性の多様性1

2020年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム
粘菌とはどういう生物なのか。熊楠はそれを比喩的に説明しようと紀州・牟婁郡の歴史に置き換えてこう述べる。

「紀州の北・南牟婁郡は、古え人間のすむ所とせぬほど化外の地たりし。和歌山、田辺等と全く関係なく、人情風俗何から何まで伊勢に近し。故にこの辺に生えるハマユウという草を伊勢のハマユウと詠ぜし歌などあり(ハマユウは本当の伊勢にはなし)。それゆえ、維新後紀州の内ながら北・南牟婁郡を三重県につけ申し候。この方天理にもあい、地理にも叶い、人情にも合うゆえなり。しかるに中古来、北・南牟婁郡は紀州の首府たる和歌山辺より(名前上だけ)治めたるゆえ、北・南牟婁郡に関する文献や履歴をしらぶるにはやはり和歌山辺の文書によらざるべからず。この因縁によりすでに三重県に入って六十年近くなれる今日も北・南牟婁郡というと(紀伊の内なるゆえ)紀伊の首府たる和歌山を連想し、昨今の『大阪朝日』、『大阪毎日』ごとき大新紙にすら、三重県内たる北・南牟婁郡の出来事を、ややもすればその和歌山号に載せ申し候(実は和歌山辺とは何の関係痛痒なき所なるに)」(南方熊楠「粘菌、動植物いずれともつかぬ奇態の生物」『森の思想・P.155』河出文庫)

どちらでもなく、どちらでもある、かのようだ。ちなみに牟婁(むろ)郡は行政区画でいえば今の和歌山県田辺市とほぼ同一地域に当たる。とはいえ熊楠の頭の中にあるのはおそらく山の神の領域としての熊野なのだ。としてもなお、それらの境界線はどのようにして決定されるのか。柳田國男は「塚」(つか)に注目している。長いあいだ、諸共同体の境界を画していたのは「塚」だったからである。

「諸国の平野または群山の中に屹立(きつりつ)する飯山(いいやま)、飯盛山は日本においては塚の先型であろうとおもう。かかる地点を霊地と考えた思想は、やがて見通しに何の特殊の地物の存ぜざる地方に人為的境界を定むるに当って、これに似た物を工作する風習と化したのかも知れぬ。これは山に人を葬る代りに人を葬った場所に山を作るのとよく似ている。単純に諍訟(そうしょう)の用意ならばむしろ近頃の人のするように土中に炭などを埋めて、常は眼に附かず従って毀損(きそん)せらるるおそれのないようにした方がよいかも知れぬ。この点からいえば塚神は最初から境神であって、今日の境塚にはかえってこの信仰を脱却して純然たる経済行為となったものができたと見てよろしい。従って名は境塚にしてその由来等に不思議な伝説を伴っていても格別驚くには当らぬ」(柳田國男「境に塚を築く風習」『柳田國男全集15・P.537~538』ちくま文庫)

また塚の特徴として、「邑境(むらさかい)に塚を築くのは単純なる目標用だけではなく、これに伴う一種の信仰があったこと、ことにその信仰の奥には殺された人の霊という思想が久しく存留していたらしい」、とも述べる。

「自分は前に境の塚に訴論人を斬(き)って埋めたという口碑を伴う一例として、会津縄沢村の首塚・胴塚・足塚の事を述べておいた(郷土研究一巻一五八頁)。境の地において人を虐殺しその悪霊の力を守護に利用するは、数多(あまた)の未開民族の中に存する風習であるが、もちろん日本の近昔にかかる惨酷(ざんこく)な行為があったとは思われぬ。ただ邑境(むらさかい)に塚を築くのは単純なる目標用だけではなく、これに伴う一種の信仰があったこと、ことにその信仰の奥には殺された人の霊という思想が久しく存留していたらしいことを、この伝説から推測することはできる」(柳田國男「七塚考」『柳田國男全集15・P.543』ちくま文庫)

またさらに「境の地において人を虐殺しその悪霊の力を守護に利用するは、数多(あまた)の未開民族の中に存する風習であるが、もちろん日本の近昔にかかる惨酷(ざんこく)な行為があったとは思われぬ」という。しかし柳田の知る地域のみならず長く「未開民族」とされていた世界中の諸部族の生活様式は、実際のところ、柳田の考えとは大いに異なっていた。もちろん「虐殺」はあり「生贄」もあり、古代ギリシアのディオニュソス祭のように性的放縦や生肉食や自分で自分自身の男性器を切り落としたり動物の皮で身体を包み込んで踊り狂うということも大々的に行われていた。と同時に、「未開部族」と思われていた種々の集団が実は極めて規則的で構造的な「差異の体系」に基づいた生活環境を維持していたことも明らかにされた。

「私はいわゆるトーテム制度を取り扱い、私がその基本的性格と考える点を強調しておいた。トーテム制度が援用するのは、社会集団と自然種〔動植物の種〕の間の相同性ではなくて、一方で社会集団のレベルに現われる差異と、他方で自然種のレベルに現われる差異との間にある相同性なのである。それゆえこれらの制度は、一方は自然の中に、他方は文化の中に位置する《二つの差異体系の間の》相同性という公準の上にのっている」(レヴィ=ストロース「野生の思考・第四章・トーテムとカースト・P.136」みすず書房)

だからといって、彼ら「未開部族」が欧米の人々と同じほど知性的であるとして、欧米文化の側から承認するという態度では相変わらず欧米中心主義的な思想のままであって、むしろ逆に「未開部族」のあいだには彼らなりによく考えられた生活様式が今なお根付いているということをそのまま認めることが大切だろう。

熊楠の愛読書「御伽草子」から続き。

律師桂海(けいかい)は夜明けとともに昨日見かけた聖護院の御坊のそばまで来て再び佇んでしまう。見ていると中から寺の侍童が出てきた。桂海はいい機会だと思い声を掛け、この御坊に十六、七歳くらいの男子が住んでいらっしゃるようだがと、尋ねてみる。

「昨日此院家ニ、水魚紗ノ水干メサレテ、御年ノ程十六七ニ見(ミ)エサセ玉ヒ候ヒツル少人ノ御事ヤ知リ参(マイ)ラセ玉フ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.464』岩波書店)

文章で「院家」(いんげ)とあるのは、貴族の子弟で出家して預けられている門跡寺院のこと。侍童は気さくなタイプらしく屈託なく返事して説明してくれた。

「此御名ヲバ梅若公(ギミ)と申シテ、御里ハ花薗ノ左大臣殿ニテ候」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.464』岩波書店)

美青年の名は梅若(うめわか)というらしい。ただ、三井寺聖護院の御坊の方針は厳しく、管弦音曲の席がある時を除いて外出することはなかなかできない。なので梅若は深窓の中で詩作し歌を詠みつつ、のどかとも見えるほどいたずらに日々を過ごしているばかりだ。

「此御所ノ後様、餘リニユルス方ナク御渡リ候程ニ、管絃数寄ノ席(セキ)ナラデハ御出デモ候ハズ。イツトナク深窓(マド)ノ内ニ向ヒテ、詩ヲ作リ、歌ヲ讀ミテ、等閑ニ月日ヲ渡ラセ玉フナリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.464』岩波書店)

そこで桂海は侍童を介して手紙のやりとりくらいはできないものかと考える。しかしその内容が露骨な愛欲吐露になってしまわないか心配でもある。そう思ってこの日もまた比叡山まで引き返した。とはいえ、一度動き出してしまった情念がそう簡単に消え去るわけはなく、心の中はまるで夢(ゆめ)現(うつつ)である。

「律師ハ夢ト現(ウツツ)トノ面影、起(ヲ)キモセズ寝(ネ)モセデ夜ヲ明(アカ)シ日ヲ暮(クラ)シケル」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465』岩波書店)

この「起(ヲ)キモセズ寝(ネ)モセデ夜ヲ明(アカ)シ日ヲ暮(クラ)シ」。伊勢物語に類歌がある。

「起きもせず寝もせで夜(よる)をあかしては春のものとてながめ暮しつ」(新潮日本古典修正「伊勢物語・二・在原業平・P.15」新潮社)

三井寺へ出かけていくことが次第に多くなった。その近くに知人が住んでいたからだが、特に学問上のやりとりを必要としているわけではない。或る日、聖護院の御坊の前で知り合った侍童に近づいて、茶を呑み、酒を酌んでやり、さらに金製の枝を細工した橘や雅やかだが軽快に動きやすい衣服などを与え、その侍童との隔たりをぐっと埋めることに成功する。侍童も桂海の心情の本気さに気付いたようだ。

「茶ヲ呑ミ、酒ヲタタヘテ遊ビケル次(ツイデ)ニ、金(コガネ)ノウチ枝ノ橘ニ杓入レテ色々ノ輕(ケイ)衣十重(カサネ)送リタリケレバ、童モハヤ志ノ深キヲ見テヨロヅ心ヲ隔(ヘダ)テヌ様ナリ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465』岩波書店)

この時の「杓」は諸本によって様々。主として「芳」、「杓」、「匂=薫(たきもの)」、など。群書類従に「たきもの」とあり、その場合は、「芳」、「匂=薫(たきもの)」を取ったと考えられる。しかし「御伽草子」の性格上、「杓」もまた捨てがたい。後で述べよう。

侍童の名は桂壽といった。律師桂海はどのようにすれば梅若に自分の思いを上手く伝えることができるだろうかと考えていると、桂壽は「まず手紙のやりとりから始めてみては」と提案してくれた。

「梅若公ニ思ヒ迷(マヨ)ヘル心ノ闇(ヤミ)イツ晴(ハ)ルベシトモ覚エヌヨシヲ語リケレバ、桂壽、『先ズ御文ヲ給ハリ候ヘ。申シ入レテ見候ハン』トゾ申シケル」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465』岩波書店)

桂海もそれはいい方法だと同意する。しかし何を書こうかと考え始めると、手紙というのは案外むずかしい。紙が真っ黒になるほど細々と書いたとしても、それで思いの丈がすんなり伝わるとは限らない。そこで和歌をしたためてみることにした。

「思フ心ヲ盡(ツク)ス程ノ言(コト)ノ葉、イカニ黒(クロ)ミツクストモ、ツキシガタケレバ、中々歌計(バカリ)ニテ、

知(シ)ラセバヤホノ見(ミ)シ花ノ面影ニ立チソフ雲ノ迷フ心ヲ」(日本古典文学体系「秋夜長物語」『御伽草子・P.465』岩波書店)

この歌にもまた類歌が見られる。

「しらせばやほのみしま江に袖ひぢて七瀬の淀に思ふ心を」(「金葉和歌集・付録・巻第七・四〇九・神祗伯顕仲・P.135」岩波文庫)

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