ジャパンクラシック~チャレンジ富士五湖ウルトラマラソン 世界遺産シリーズ第1戦
心揺さぶる自分だけの冒険へ
フルマラソン42.195kmの先にあるもの。
その扉を開ける資格は、ウルトラのスタートラインに立つ勇気を抱くランナーに等しく訪れる。
エリートだろうとビギナーだろうと違いはない。やるかやらないか、ただそれだけ。
ウルトラマラソンに出る、と言うと大抵の人はおかしいって言う。
そもそも100キロを1日のうちに走り切る人は希少に違いない。
友人や知り合いは「私は無理だ」という。
その通り。無理と初めから決めてかかるあなたは走れないだろう。
もちろん僕も走れないかも知れない。
結局のところ完走できなければ、無理だった、と言わざるを得ないが、
でも決定的に違うのは僕がチャレンジすることだ。
可能性があるならチャレンジする。
晴れ渡る空、富士山がピンクに染まり始めるころの100キロ先の風景を見たいのだ。
走る意味などそんなものはない。運良くフィニッシュできれば自ずと意味はついてくるだろう。
何かを求めて走るのではない。走りたいだけ。それだけだ。
走る意味は、走りながら、走り終えたときに付いてくる。
強いて言えば、壮絶なドラマが自分自身という主人公を中心に、
一生分のストーリーを10時間と数時間に凝縮して展開される。
そのとき思う事々が走る意味なのだ。
まずはスタートラインに立つこと、それが重要だ。
数ヶ月の間準備をしてきた。
勇気を振り絞り、己を鼓舞できないと、スタートラインにすら立てないのだ。
だから僕は思う。
スタートラインに立ったランナーはすでに勝者なのだと。
眼の前に必ず現れる分厚い壁。
それは想像するものではない。
自分の足で確かめに行くのだ。
その壁を超える行為、これがチャレンジの真の意味だ。
壁を乗り越えるとき、とても重要なことに気がつく。
乗り越えられるか否か、それは身体問題ではなく、心の問題ということにあらためて気づく。
心を開く。自分を今までの檻から解き放つのだ。
その扉の鍵は自分自身が持っている。
鍵を刺して扉を開けるか開けないかはランナー次第。
ウルトラランニングとはそういうものだ。
ただのランニングではない。
扉を開けて、壁を乗り越えたとき、おそらく嘘のように身体は軽くなるだろう。
そしてフィニッシュへ吸い込まれる。
新しい自分がそこに立っている。
こうして我慢に我慢を重ねてなんとか走り続けているうちに、75キロあたりで何かがすうっと抜けた。
そういう感覚があった。「抜ける」という以外にうまい表現を思いつけない。
まるで石壁を通り抜けるみたいに、あっちの方に身体が通過してしまったのだ。
~村上春樹著 『走ることについ て語るときに 僕の語ること』