メイエン先生の読みと感覚の話が面白い。
尤も先生の話はプロとか高いレベルでの話で、ザルレベルでは微妙にずれるところもある。
「プロはそうなんだ」と部分と「ザルは少し違うぞ」という部分を器用に聞き分けて行きます。
スタートが「読み」と「感覚」が相反するものだという感じ方・・・これはプロもアマも同じだと思いますが・・・実は両者は相反するような部分はあるにせよ、表裏一体のように密接な関係があるという方向へ話が行きます。
それなりに”なるほど”です。
マア、「それが分かったからといって棋力にどれほどの影響があるのだろうか?」などとイヤらしいことを考えてしまう自分が情けないですが。
昔、昼休碁の仲間だったFさん・彼は向こう3子か4子です。
彼は時に「これは感覚の一手」などと言いながら石を置いたものです。
同じ棋力の人たちの中では感覚が優れているのかどうかは別として、さっきの言葉を普通の日本語に翻訳すると「ろくに考えないで打った手」と訳しても概ね間違いないと感じていた。
少しひいき目に考えても「読みの裏づけがないのだけれどやってみた」かもしれないけれど・・・3,4子置かせている立場からすると、「読みの裏付けを取る努力をしてよ」というかんじなんですけれど。
「読みきれなくても」「読む努力を惜しまないで・・・」口に出したら「人のことでは厳しいことを言うものですね」と反撃が来そうで、口には出せない。
「感覚の一手」という言葉には「読んでいない事へのテレ」はあるかもしれない
但し、「読み切れていないけれど、カッコ良いでしょう」は困る。
さてメイエン先生によると、「読みを打ち切るのは”感覚”」とある。
「これ以上考えても結論が出そうにないから読むのを停止」とか「ここから先はやってみなくてはわからない」とかの決断を下すのはそれぞれが持っている「感覚」なんですね。
そこに個人差が現れてくる。
更に個人差で言うと、ある形でソレを考えるかどうかという感覚
囲碁にはアマが開発した物をプロが発達させた定石があります。
プロでは考えないアマの感覚の中に、プロの盲点があったりするのですね
変な例ですけれど、鉱山の古河市兵衛と言う人が居ましたね・・・「人が諦めたところをもう少し掘ってみた」という事が成功に秘訣何だそうですけれど、冷静に考えてみると半分は結果論かなとも思うのです。
行き止まりの向こうにお宝が埋まっているかどうか、、、人が諦めた先が問題ではなく、そこを掘り進むかどうかの問題でしょうね。
そういう意味では、囲碁で「普通考えないようなことを考える」のと少し似ているのかも。
但し、もしかしたらソレまでに99人失敗した後の100人目だったかも。
でも、何でもかんでも人が放棄したところで試したわけではないでしょう。
囲碁のプロの所謂「感覚の手」だって、全くのその場の思いつきというものは少ないでしょう。
少なからず読みが入っていたり、密かに研究していたもので、試したのが初めてだったりするわけです。
何時だったか趙治勳さんに関するエピソードで、他の観戦棋士がインタビューで「凄いですね挑戦手合いの番碁で新手を試すのですか」「私など対局中に思いつくなんて・・・」のような問いかけをしたところ、趙さんの返事は「普段から早碁で試して、勉強しておけば良いのですよ」と答えたという。
マア相手の”不勉強”という日本人特有の表現に反発したのかも知れませんが、ともかく、全くその場で思いついたものではないこと、読みに基づいていることは分かった。
プロだといって皆同じレベルとは思えないけれど、少なくとも「思いつき」=「感覚」と言う短絡したものでは無さそう。
また思いつきであっても、ソレを選択するかどうかと言う「感覚」があるかどうか、、、
まあザルの世界とは大違い
私らの世界では常識派の対局に存在するのが感覚派・・・言い換えれば非常識派です
中には勝敗と同等に、相手を驚かすことに生きがいを感じている人だっている。
勿論そういう人は自称「感覚派」です。
そういう意味では彼らに言わせると私などは「常識派」を通り越して「退屈派」かもしれません。
もっともあまりに「普通の手で勝つ」に拘ると、それもまた異端児なのかも
尤も先生の話はプロとか高いレベルでの話で、ザルレベルでは微妙にずれるところもある。
「プロはそうなんだ」と部分と「ザルは少し違うぞ」という部分を器用に聞き分けて行きます。
スタートが「読み」と「感覚」が相反するものだという感じ方・・・これはプロもアマも同じだと思いますが・・・実は両者は相反するような部分はあるにせよ、表裏一体のように密接な関係があるという方向へ話が行きます。
それなりに”なるほど”です。
マア、「それが分かったからといって棋力にどれほどの影響があるのだろうか?」などとイヤらしいことを考えてしまう自分が情けないですが。
昔、昼休碁の仲間だったFさん・彼は向こう3子か4子です。
彼は時に「これは感覚の一手」などと言いながら石を置いたものです。
同じ棋力の人たちの中では感覚が優れているのかどうかは別として、さっきの言葉を普通の日本語に翻訳すると「ろくに考えないで打った手」と訳しても概ね間違いないと感じていた。
少しひいき目に考えても「読みの裏づけがないのだけれどやってみた」かもしれないけれど・・・3,4子置かせている立場からすると、「読みの裏付けを取る努力をしてよ」というかんじなんですけれど。
「読みきれなくても」「読む努力を惜しまないで・・・」口に出したら「人のことでは厳しいことを言うものですね」と反撃が来そうで、口には出せない。
「感覚の一手」という言葉には「読んでいない事へのテレ」はあるかもしれない
但し、「読み切れていないけれど、カッコ良いでしょう」は困る。
さてメイエン先生によると、「読みを打ち切るのは”感覚”」とある。
「これ以上考えても結論が出そうにないから読むのを停止」とか「ここから先はやってみなくてはわからない」とかの決断を下すのはそれぞれが持っている「感覚」なんですね。
そこに個人差が現れてくる。
更に個人差で言うと、ある形でソレを考えるかどうかという感覚
囲碁にはアマが開発した物をプロが発達させた定石があります。
プロでは考えないアマの感覚の中に、プロの盲点があったりするのですね
変な例ですけれど、鉱山の古河市兵衛と言う人が居ましたね・・・「人が諦めたところをもう少し掘ってみた」という事が成功に秘訣何だそうですけれど、冷静に考えてみると半分は結果論かなとも思うのです。
行き止まりの向こうにお宝が埋まっているかどうか、、、人が諦めた先が問題ではなく、そこを掘り進むかどうかの問題でしょうね。
そういう意味では、囲碁で「普通考えないようなことを考える」のと少し似ているのかも。
但し、もしかしたらソレまでに99人失敗した後の100人目だったかも。
でも、何でもかんでも人が放棄したところで試したわけではないでしょう。
囲碁のプロの所謂「感覚の手」だって、全くのその場の思いつきというものは少ないでしょう。
少なからず読みが入っていたり、密かに研究していたもので、試したのが初めてだったりするわけです。
何時だったか趙治勳さんに関するエピソードで、他の観戦棋士がインタビューで「凄いですね挑戦手合いの番碁で新手を試すのですか」「私など対局中に思いつくなんて・・・」のような問いかけをしたところ、趙さんの返事は「普段から早碁で試して、勉強しておけば良いのですよ」と答えたという。
マア相手の”不勉強”という日本人特有の表現に反発したのかも知れませんが、ともかく、全くその場で思いついたものではないこと、読みに基づいていることは分かった。
プロだといって皆同じレベルとは思えないけれど、少なくとも「思いつき」=「感覚」と言う短絡したものでは無さそう。
また思いつきであっても、ソレを選択するかどうかと言う「感覚」があるかどうか、、、
まあザルの世界とは大違い
私らの世界では常識派の対局に存在するのが感覚派・・・言い換えれば非常識派です
中には勝敗と同等に、相手を驚かすことに生きがいを感じている人だっている。
勿論そういう人は自称「感覚派」です。
そういう意味では彼らに言わせると私などは「常識派」を通り越して「退屈派」かもしれません。
もっともあまりに「普通の手で勝つ」に拘ると、それもまた異端児なのかも