なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

駄洒落講座!?

2008-08-28 18:20:52 | Weblog
 先日ニュースと言うか話題の報道で、駄洒落講座なるものが紹介された。
 途中から見ただけで、一度しか報道に接していないので詳しくは分からないのですが、どこかの女子大で「駄洒落講座」が開設されているらしい。 
 勿論講座ですから、文学教授か助教授がやっている。
 さてさて、私としては多いに喜びたいような、反面「講座」でやらなくてはいけないのか?という疑問も残る。
 マアそれでも、何かのきっかけで駄洒落を学んで、もう少し進化した洒落とか、落とし話などに行くのなら多いに結構なことだと思う。
 主宰なさっている先生によると、駄洒落的なものは万葉集にも見ることが出来るのだそうで・・・民族の財産であるらしい。
 日本語は同音異議の言葉が多いので駄洒落に向いているのだそうです、ここを入り口すれば入り易いのでしょう。
 では、何のために駄洒落を学ぶ?
  先生の話では、場をソフトにするとか、駄洒落を考えることで脳が活性化するとか、駄洒落を考えると物事を見る見方が変るとか・・・でも、一番はそうではないはず。
 何と言っても「ひとを笑わせて、楽しませることが出来る」のが一番。
 例え、例え滑り気味でも、聞いた人の片頬が引きつっていようと・・・

 私の場合は物心ついた時からラジオの落語・漫才・漫談などを聞いていたから、洒落・駄洒落の類は大好き。
 聞いて覚えたものは使いますから・・・祖母に「お前は吸い口みたいだね」と。
 吸い口って分かりますか?
 ストローつきの急須みたいなもので、病人の枕元などに置き、寝転んでいても水が飲める道具=「出口が良い」と言う意味で、”駄洒落などがポンポン出てくる”くらいの意味です。
 すると、祖母に洒落で褒められたわけで・・・こういうことの経験から、もっとひとを喜ばせようと思ったわけです。
 人を楽しませれば褒められるのですから、こんな楽しいことは無い。
 ただ、成長するにつれ、駄洒落と洒落の違いを考えるようになって・・・
 ”駄洒落は洒落より数段レベルが低いのではないか?、それより落語的な落としの方が面白そう”などと・・・
 いずれにせよ、どういう具合に話をして、どういう結末にすれば面白く聞いてもらえるか・・・などと考えるわけです。
 まるで、お笑いのネタを考えるみたいですが、レベルは低くて銭を取れるようなものではないにせよ、人に話をするということ=どこかに駄洒落とか洒落が入れられるかどうか常に考える。
 ですから、人に何か話す時はたいてい前もって頭の中でシュミレーションをしておく・・・これは今でも続いているかも・・・
 マア、とっさの反応には弱いのですが。

 そういえば自分の息子が中学生の時、駄洒落の話をしまして、、、
 「駄洒落は面白いけれど、単なる”発音”の言葉遊びではなく、同じような意味とか正反対の意味とか全く別次元の意味とかを考えるともっと面白い」
 「即その場限りに笑いも、まあ無いより良いけれど、その時”?”でも、家に帰ってから、あるいは翌日になって膝を叩くような笑いもある」どちらかと言うとその方が深いでしょう。
 マア子供には無理な話でした。
 それに、TVなどに溢れる”笑い”が、いかにも底の浅いものが多いように感じる。
 提供する側の責任は当然として、受け取る側にも責任がありますね。
 全く酷いレベルのものを、喜んでいるようなところがあって・・・受けるかどうかも提供側の筋書き通りだったりして。

 碁会所は当然、静かに対局が続く時もあれば・・・賑やかに駄洒落が飛び交う時もあります。
 駄洒落に限らず、調子の良い言葉も出てきます。
 それは、賭場の言葉だったり、寅さん見たいな香具師の言葉だったり。
 他のジャンルの言葉を囲碁に当てはめたり
  例えば「切れる」ということから
 「金の切れ目が縁の切れ目」
 「分かれる切れるは芸者の時に言う言葉」
 「おかみさんへ、ご新造さんへ、いやさ、お富」なんていうフレーズが出てくる・・・だいぶセンスが古いけれど。
 それでも、これらの意味が通じるとなんとなく同じような世代・共感があったりして、、、
 盤上はたいしたことは無いが、口上は高段者だったり。