葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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【再掲】1945年8月9日長崎の原爆が投下よりも、ソ連参戦によってポツダム宣言受諾が決まった「1945年2月のヤルタ会談からミズリー号降伏文書調印までのドキュメント」

2024年08月09日 | 憲法・平和・人権・防衛

1945年ヤルタ会談からミズリー号降伏文書調印までのドキュメント

【参考文献】「角川世界史辞典」。ボリス・スラヴィンスキー著「日ソ戦争への道」。半藤一利著「昭和史」。東芝音楽工業(株)発売「天皇陛下の御聖断」並び白川一郎画「終戦御前会議」

1945年2月4日~11日 ヤルタ会談。ヤルタ秘密協定にルーズベルト、チャーチル、スターリンが署名した。日本が本土に400万人の陸軍を有していたので、ドイツの降伏後2、3ヶ月を経てソ連が日本に参戦することを規定していた。
4月5日 モロトフ外相が駐ソ佐藤尚武大使に「日ソ中立条約」の廃棄通告をした。
5月 スターリンは米ハリマン外相との会談で、ソ連が完全に極東戦役の準備を終える日付として8月8日をあげた。
7月12日 天皇は、近衛文麿にロシア側と戦争終結交渉を行うべくモスクワに赴くよう要請した。
7月13日17時 駐ソ佐藤尚武大使はソ連外務人民委員代理ロゾフスキーと面談し、天皇の親書をを手渡した。
7月17日~8月2日 ポツダム会談。
7月17日 ポツダムではスターリンがトルーマン大統領との会談で、ソ連は8月中旬に参戦するつもりだと話している。
7月26日 トルーマン、チャーチル、蒋介石が署名した「ポツダム宣言」が公表された。
8月6日8時15分 広島に原爆が投下される。
8月7日16時30分 最高司令官スターリンはソ連の対日参戦の指令に署名した。この指令は直ちにザバイカル方面軍、第一及び第二極東方面軍本部、太平洋艦隊司令部に送られた。                                                                指令には、1945年8月9日の朝、対日軍事行動を開始するよう命令されていた。
8月8日17時(現地時間)モスクワでモロトフ外相は駐ソ佐藤尚武大使に宣戦布告声明を手渡した。
8月9日0時 ソ連軍が満州に侵攻。
8月9日10時30分 最高戦争指導会議が開会。
8月9日11時02分 長崎に原爆が投下される。
8月9日23時50分 宮中防空壕内で第一回目の御前会議。
8月10日2時30分 「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解のもとにポツダム宣言を受諾する」ことを条件にして終了。
8月10日朝 外務省は、中立国スイスとスウェーデン駐在の日本公使を通じて連合国に打電。
8月12日夜 「日本国天皇および政府の統治権は連合国最高司令官の制限下におかれる。日本国最終の政治形態は日本国民の自由なる意志によって決定せられる。」と回答。
8月13日朝 最高戦争指導会議が開会。
8月14日10時50分 最高戦争指導会議全員と閣僚全員の合同会議。
8月14日23時30分 宮中防空壕内で第二回目の御前会議。ポツダム宣言受諾の「御聖断」下る。
8月14日13時 首相官邸で閣議。
8月14日23時 「終戦の詔書」が公布。
8月14日23時 ポツダム宣言受諾がスイスとスウェーデン駐在の日本公使を通じて連合国に通達。 
8月15日12時 玉音放送。
8月15日 鈴木貫太郎内閣は総辞職。
8月17日 東久邇宮稔彦王内閣が発足。
8月30日 マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着。
9月2日 ミズリー号で降伏文書に調印。
9月2日 一般命令第一号が発布される。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(了)

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