夢幻の会津神指城・・・
新緑の高瀬の大ケヤキを見に・・・ついでに神指城を散策・・・
慶長三年、豊臣秀吉より越後の上杉景勝、会津移封を命じられる…百二十万石の大大名に…同年、豊臣秀吉死去・・・
慶長四年三月、前田利家死去・・・いよいよ徳川家康が…風雲急を告げる…
慶長五年二月、景勝、直江兼続に新城(神指城)の築城を命じる…
三月、神指城本丸の築城が開始される…これが徳川に対し戦いの準備をしていると疑われる…この時、家康より景勝あてに上洛の書状が届く…家康に対しての書状を兼続が…あの有名な直江状…家康激怒、会津上杉討伐を決意…
五月、神指城二の丸、十二万人により工事始める…六月、本丸と二の丸の土塁水堀が完成…しかし、家康の会津上杉攻めの為…神指城の工事中止…臨戦態勢に入る…
九月、関ヶ原の戦い…
慶長六年上杉景勝は徳川の家臣に降り、米沢三十万石に・・・景勝は神指城を破城して米沢に去って行った・・・会津には三年くらいしかいなかった・・・
会津でも神指城といってもピーンとこない・・・高瀬の大木(ケヤキ)のほうが知られている・・・マイナーなのだ・・・あまりにも鶴ヶ城がメジャーなのでしょうがない・・・
はたして、四か月で本当に造ったのか ? ましてや三月頃はまだ会津には残雪があり、正味二か月間で本当なのか?…城址があるのだから…大したもんだよ昔の人は…

神指城完成予想図

縄張り・・・平面図

① 高瀬の大木(ケヤキ)・・・兼続はこの欅と北極星で基点を決め提灯測量で縄張りを決める・・・
築城前すでに大木であったことが知られている・・・当時は会津のどこからでも見えた・・・ 北東隅の土塁上にある・・・もともと高いところにあったのでは・・・大木を土塁の上に移動できるのか?・・ 北東の方角は鬼門になっている・・・
蒲生氏郷が会津の城下町の基礎を、これも北東に備えている戦闘的な街並みになっている・・・北東の鬼門、伊達政宗を牽制・・・後日アップ



高瀬の大木(ケヤキ)・・・国指定天然記念物

② 二の丸南東の土塁・・・奥に北東の土塁が・・・

二の丸南東の土塁がら東山を望む・・・緑の屋根の先の山麓から石を切り出す・・・東山山頂(テレビ塔があるところ)に豊臣秀吉が休んだ関白平がある・・・当時はこの山を超え会津に入ってきた・・・

若松城(鶴ヶ城)が軽トラックの上のほうに見える・・・敵軍勢が山側からいっきに攻めてきたら・・・そんな思いもあって、平地に築城を考えたのでは・・・
ちなみに、戊辰の役では佐賀藩のアームストロング砲がお城の真上の山(小田山)から毎日3000発の砲弾を撃ってきた・・・一か月後白旗を揚げる・・・日本で最初の白旗・・・最後の白旗は沖縄戦で・・・

左側に南東の土塁、その右側のこんもりしたのが本丸・・・右側一番端が北東の土塁・・・

神指城跡案内板

神指城本丸西門入口の想像図

本丸跡・・

本丸跡・・・高校の野球グランドだったこともあった

本丸の石・・・上杉景勝後の会津の領主、加藤明成が本丸すべての石垣を鶴ヶ城へ運び北出丸、西出丸を拡張した・・・おやじの嘉明は松山城を築城完成前に伊予松山から会津へ・・・賤ヶ岳七本槍の一人でもある・・・
のちに明成は、石見一万石へ左遷・・・原因は家老と喧嘩して、家老がお城めがけて、鉄砲乱射し一家で出奔・・・

全国の城の石垣は穴太衆が・・・現在も穴太積みの伝統は受け継がれている・・・とにかく石垣が頑丈なのだ・・・




荒れ果てた本丸址・・・兵どもの夢のあと・・・神指城を守る会の人たちが作った手作りの説明版もだんだん朽ち果ててきている・・・案内パンフレットも置かれている・・・ご苦労様・感謝感謝・・・

本丸址反対側から神指城天守閣予定地を望む・・・右側に見える集落は如来堂・・・し ん せ ん ぐ み いっとうさい

天守閣予定地の案内柱

天守閣予定地…個人所有の土地なので入るべからず・・・

南西の土塁(如来堂集落)から西側を望む・・・大川(阿賀川)の土手・・・ちなみに新潟県に入ると阿賀野川・・・盆地なので野原がないからか野がつかないのか・・・

③ 南西の土塁、如来堂・・・戊辰の役の新選組が陣を築いたところ・・・斎藤一・・・新選組ファンはけっこう来ているところ・・・後日アップ

④ 北西の土塁・・・

北西の土塁から高瀬の大欅を望む・・・

本丸址全貌・・・

高瀬の大欅の隣側のお寺は・・・会津三十三観音十五番札所高瀬の観音様・曹洞宗 吉高山・福昌寺・・・
ぐるーと見渡しても田んぼばかりの田舎の風景・・・訪れたら破城された神指城本丸、また土塁が残る二の丸(今は田植えの真っ最中)など遠い昔に思いに懐いてみてください・・・