ぶらりのんびりと散策したのをアップします・・・
新選組・・・會津 壱
會津と新選組の接点は浪士組として、幾多の分裂を重ね、京都守護職會津藩「御預かり」となって壬生村に本拠を構え、「京都壬生浪士組」と称したことに始まる
文久の政変(會津と薩摩両藩が、長州力でなく長州藩を京都から追放)で、會津藩の一員として出動し、その功により「新選組」の名を与えられた・・・
その後、近藤勇派と芹沢鴨派が対立…芹沢派が粛清され、近藤勇を局長として、「誠」の下に一瞬に駆け抜け、華と咲き、華と散っていった・・・
天寧寺入口・・・奴郎ヶ前(地名)
この辺は、むかーしから田楽の茶店がある・・・また、この辺に刑場があり、罪を犯しても死んだらかわいそうとおもい ?
温情ある殿様が…最後に水でなく…田楽を食べさせた…ほんと・・・?
…東山温泉があるから…昔は殿様の湯として、民衆は入れなかった・・・のちに入れるようになった…ほんと・・・?
小原庄助さんもここだょ・・・朝寝朝酒では破滅・・・戒めの歌・・・今もいるんじゃないの・・・こういう人が・・・
奴郎ヶ前・・・昔、會津藩の刑場があったところ…刑場には矢来(竹や丸太で編んだ囲い)があり、テレビや映画になんかよく出てくる、この紋所が見えないかー・・・
刑執行と見物している境目の囲い・・・そういうことから、地名が、やらがまえから、やろうがまえと言うようになった・・・ふだんはやろがまえ・・・
奴郎ヶ前を上っていくと天寧寺入口・・・右側に急坂の車道がある…冬は雪で上れない…こともある・・・
曹洞宗 萬松山・天寧寺
天寧寺の裏の山側に近藤勇の墓の案内板が出ている・・・迷うことない・・・
新選組・・・なぜ人気があるのか・・・わからない・・・今日も天寧寺の山道を歩いていく若い女の子が、スマホを持って・・・
近藤勇の墓に行くこと間違いない・・・そんな顔をしていた・・・近藤勇の顔はなぜかアントキの猪木に似ている・・・
山道から会津の城下を望むが…木立が生い茂り、お城が見えない…見えるようにすればいいのに…ここからすぐ・・・
いよいよ、近藤勇の墓が見えてきた・・・入口・・・天寧寺からのんびりゆっくり歩いて10分くらい・・・
新緑に揺れる・・・慶応四年四月二十五日、板橋にて近藤勇処刑・・・享年三十五歳
新選組副長、土方歳三が近藤の斬首を知り、戒名の書写を会津の殿様松平容保に依頼、この地に墓碑を建立・・・墓の中には何が入っているのかはわからない・・・
貫天院殿純義誠忠大居士
純忠誠義ともいう・・・
土方歳三の供養塔も一緒に・・・仲良く・・・
「歳さん…でもな…拙者の、いやおいらの人生は勝ち越しだと思うよ…楽しかったなー…面白い夢だったなあ」・・・黒鉄ヒロシ・新選組より・・・
暑いからお秀茶屋でところてんでも食っていくべ・・・次回一刀斎・・・