福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

フォーレ「レクイエム」~大フィル合唱団の歴史に残るコンサート

2018-10-27 09:39:22 | コンサート


大フィル定期、フォーレ「レクイエム」の2日間が終わった。素晴らしい体験だった。

大フィル合唱団の指導をはじめてから、エリシュカ先生とのドヴォルザーク「スターバト・マーテル」、道義先生とのバーンスタイン「ミサ曲」、大植先生との「カルミナ・ブラーナ」、シモーネ・ヤング先生とのブラームス「運命の歌」、そして、尾高先生との「第九」など、いくつもの感動的な公演に携わらせて頂いてきたけれど、パスカル・ロフェ先生とのフォーレ「レクイエム」もまた、大フィル合唱団にとって、忘れることの出来ないパフォーマンスとなった。

それは、ピアノからピアニシモ以下で勝負をするという、従来の大フィル合唱団の持ち味とは別の次元での演奏が達成されたからである。

ロフェ先生の選んだラター版は、後に普及した厚化粧の第3稿とは異なり、フォーレのオリジナルに準拠したもの。弦楽セクションはヴィオラ以下の中低音のみ、ヴァイオリンはサンクトゥスに於ける独奏(終曲イン・パラディースムにはオプションあり)だけに登場という特殊な編成。

マエストロのご指示により、合唱団の人数を80余名に絞り込んだのは、フォーレの慎ましやかな作風やオーケストラの室内楽的編成に相応しいものではあるが、事前には一抹の不安もあった。普段より40~50名も少ないメンバーで、あの巨大なフェスティバルホールの空間を満たすことが出来るのだろうか? と。

しかし、人数を絞りこんだことの効能は絶大であった。まず、通常のコーラス・レッスンがいつになく精緻に進められたこと。清純な発声、ピッチの統一、ハーモニーの移ろいへの音色の変革などへのアプローチがなされたこと(まだ課題はあるとはいえ)は、大きな楽しみであり、喜びであった。

というわけで、自信をもって臨んだマエストロ稽古であったが、初日の結果は散々だった。朝比奈先生の伝統を今に受け継ぎ、ドイツ音楽を得意とする我々は、ロフェ先生の生粋のフランス音楽的語法に戸惑ってしまったのである。

ブレスから声の立ち上がりまでの時間、子音の質と量、声のスピード、まるで気化したアルコールが一瞬にして燃え広がるようなクレッシェンド、音の軽やかさ、光に満ちた音色などに、全く対応できなかったのだ。

しかし、合唱団は見事であった。その後、2回のオーケストラ合わせと当日ゲネプロを経て、ロフェ先生の求められる声やハーモニーに肉迫することができた。また、発声がしっかりしていれば、ピアニシモであっても、フェスティバルホールに通用することが分かったのも収穫。

レッスン初日には苦虫を噛み潰したような表情だったマエストロも、本番終了後には歓びに満ちたお顔(このあたり、とっても分かりやすい・笑)。舞台袖で強く手を握られながら、「本当に柔らかな声で素晴らしかった。合唱団の皆さんに、心からの感謝を伝えてください」とのお言葉には胸が熱くなるばかりであった。

一度、底に落ちつつも、立ち直ったどころか、これまでにないレベルまで昇ることの出来たのも、ここ数年大フィル合唱団が行ってきた、地道な鍛錬があったからこそ。そうでなければ、最後の数日であのような変貌を遂げることはできなかった筈である。

以上の理由から、「歴史に残る」と書いたのは、決して大袈裟ではない。これまで、楽しいばかりとは言えないわたしのレッスンについてきてくれた大フィル合唱団のメンバーに感謝あるのみ。そして、祝福したい。これまで仕込んできた様々な種が美しく花開いたことに!

感謝といえば、オーケストラへのそれを忘れてはいけない。ヴァイオリンのトゥッテイを欠くという室内楽的なアンサンブルが実に親密(ときに緊密)で、ヴィオラ・トップの井野邉大輔さんの気迫を筆頭に、音楽やアンサンブルの本質に立ち向かう姿勢の厳しさに感銘を受けた。コーラスが最善を尽くせたのも、まさにそのお蔭であり、「ともにひとつの演奏を作っている」という歓びを分かち合えたのである。

追記
個人的にはバリトンの萩原潤さんと再会できたことも大きな歓びであった。かつて、長岡で「ドイツ・レクイエム」、東京でモーツァルト「ハ短調ミサ」を共演させて頂き感銘を受けたものだが、今回も深みと伸びのある歌唱に魅了された。またの出会いに期待したい。