福島章恭HP http://www.akiyasuf.com
馬車道のディスクユニオンにて購入した今回の本命。
岩城宏之のベートーヴェン、ベルリン・フィルの弦楽器奏者によるヴィヴァルディ以上に大きな感銘を受けたのがこのレコード。
J.S.バッハ「マタイ受難曲」
ハインツ・マルクス・ゲッチェ指揮 ハイデルベルク室内管弦楽団
プファルツ青年合唱団 カイザースラウテルン古典語ギムナジウムの生徒たち
マッティ・ユハニ(福音書記者) フェルトナー・ケーニヒ(イエス)
クリスタ・ジルヴィア・グレシュケ(Sop) オルトルーン・ヴェンケル(Alt)
ディヒター・エレンベック(Ten) ブルース・エイブル(Bass)
独DA CAMERA MAGNA SM94029-32(4LP)
録音1970年
全くの先入観なしに店頭で試聴して、たちまち虜になった。
なんという飾りのない、真摯で素朴な演奏なのであろう。
かといって、決してヘタウマではない。独唱陣は実力者揃いだし、オーケストラも充実している。
ただ、それがプロ的な巧さを誇るのではなく、ひたすら音楽に身を捧げている姿に感銘を受けるのである。
そして、ギムナジウムの生徒や若者たちによるコーラスの無垢さ、至純さは比類がない。
このレコードについて、何か分かることはないかとネットで検索したところ、磯山雅の著作「マタイ受難曲」(東京書籍)に採り上げられていることが分かる。
ということで、書棚からその本を引っ張り出して頁を開くと、なんと私とは全く評価の違うことに驚かされた。
「どっしりとして素朴な、ドイツの田舎風《マタイ》」
「バッハに郷土的誇りを感じる人たちの団結から生まれた、共同体的な説得力を持った演奏と言えようか」
と書き出しこそ、私の印象と重なるのだが、後半に大逆転がある。
「この《マタイ》を愛聴するかと問われれば、私は考え込み、そして、ノーと答える。なぜなら、ここまで確信をもって一つの世界を展開されると、もう、他者の入り込む余地がないからである。
価値に対する謙虚、あるいは自己のよりどころへの反省といったソフィスティケートされた要素が、この演奏からはあまりにも感じられなさすぎる。その意味でこの演奏は、普遍性を欠いている」
演奏への評価は、聴き手の数だけあって良いと思うけれど、この批評は如何なものであろうか?
確信をもって一つの世界を展開することの、どこが悪いのであろうか?
決して、ゲッチェ指揮のこの演奏は、排他的でもなんでもない。
篤い信仰心のもと、ただただ、バッハに向き合い、作品の核心に迫ろうとしているだけだ。
そして、それこそが、唯一、天と交信する道に他ならない。
世界のどこにあっても、あるいはどんな小さな屋根の下からだって、天に通じる道は開かれている。
レオンハルトを最上とするのは良いとして、スタイルが古いことでメンゲルベルクを認めず、
シェルヘンを「一里塚」と評する「進化論的」な価値観こそ、他人が入り込めないものだし、普遍性に欠けるものだと思われてならないのである。
まだ第一印象ではあるが、少なくとも私は、このレコードを、リヒター旧録音よりも上位に置きたいと思っている。
それほどに、この「マタイ」は凄い。
因みに、レーベルにはモノーラル録音のような記号(M+33+▽)が記されているけれど、歴としたステレオ録音であることを付記しておく。
馬車道のディスクユニオンにて購入した今回の本命。
岩城宏之のベートーヴェン、ベルリン・フィルの弦楽器奏者によるヴィヴァルディ以上に大きな感銘を受けたのがこのレコード。
J.S.バッハ「マタイ受難曲」
ハインツ・マルクス・ゲッチェ指揮 ハイデルベルク室内管弦楽団
プファルツ青年合唱団 カイザースラウテルン古典語ギムナジウムの生徒たち
マッティ・ユハニ(福音書記者) フェルトナー・ケーニヒ(イエス)
クリスタ・ジルヴィア・グレシュケ(Sop) オルトルーン・ヴェンケル(Alt)
ディヒター・エレンベック(Ten) ブルース・エイブル(Bass)
独DA CAMERA MAGNA SM94029-32(4LP)
録音1970年
全くの先入観なしに店頭で試聴して、たちまち虜になった。
なんという飾りのない、真摯で素朴な演奏なのであろう。
かといって、決してヘタウマではない。独唱陣は実力者揃いだし、オーケストラも充実している。
ただ、それがプロ的な巧さを誇るのではなく、ひたすら音楽に身を捧げている姿に感銘を受けるのである。
そして、ギムナジウムの生徒や若者たちによるコーラスの無垢さ、至純さは比類がない。
このレコードについて、何か分かることはないかとネットで検索したところ、磯山雅の著作「マタイ受難曲」(東京書籍)に採り上げられていることが分かる。
ということで、書棚からその本を引っ張り出して頁を開くと、なんと私とは全く評価の違うことに驚かされた。
「どっしりとして素朴な、ドイツの田舎風《マタイ》」
「バッハに郷土的誇りを感じる人たちの団結から生まれた、共同体的な説得力を持った演奏と言えようか」
と書き出しこそ、私の印象と重なるのだが、後半に大逆転がある。
「この《マタイ》を愛聴するかと問われれば、私は考え込み、そして、ノーと答える。なぜなら、ここまで確信をもって一つの世界を展開されると、もう、他者の入り込む余地がないからである。
価値に対する謙虚、あるいは自己のよりどころへの反省といったソフィスティケートされた要素が、この演奏からはあまりにも感じられなさすぎる。その意味でこの演奏は、普遍性を欠いている」
演奏への評価は、聴き手の数だけあって良いと思うけれど、この批評は如何なものであろうか?
確信をもって一つの世界を展開することの、どこが悪いのであろうか?
決して、ゲッチェ指揮のこの演奏は、排他的でもなんでもない。
篤い信仰心のもと、ただただ、バッハに向き合い、作品の核心に迫ろうとしているだけだ。
そして、それこそが、唯一、天と交信する道に他ならない。
世界のどこにあっても、あるいはどんな小さな屋根の下からだって、天に通じる道は開かれている。
レオンハルトを最上とするのは良いとして、スタイルが古いことでメンゲルベルクを認めず、
シェルヘンを「一里塚」と評する「進化論的」な価値観こそ、他人が入り込めないものだし、普遍性に欠けるものだと思われてならないのである。
まだ第一印象ではあるが、少なくとも私は、このレコードを、リヒター旧録音よりも上位に置きたいと思っている。
それほどに、この「マタイ」は凄い。
因みに、レーベルにはモノーラル録音のような記号(M+33+▽)が記されているけれど、歴としたステレオ録音であることを付記しておく。