福島章恭HP http://www.akiyasuf.com
大晦日に立川談志「談志 最後の落語論」を読んでいたことは書いた。
「談志 最後の三部作」の第1弾とのことで、まだ、あとの2冊は読んでいない。
当初、3作とも梧桐書院から上梓されるはずが、どうして、三作目「談志 最後の狂気」が「立川談志 自伝 狂気ありて」と書名を変え、さらに亜紀書房に鞍替えとなったかは知らない。
とまれ、2013年最後の日の昼下がりに、書店でこの本を手に取った、ということは、何か心に引っ掛かるところがあったからであろう。
談志が芸や落語家の生を語るのを聞いて、某かのヒントや刺激を受けたかったからに違いない。
そこで、標記の「芸は、客のために演るものなのか」である。
5章からなる本書の最終章のタイトルだ。
「芸」を「芝居」「舞踊」と置き換えたってよいだろうし、もっと枠を広げて、「絵画」「書」といっても良いかも知れないが、もちろん私は自分の土俵である「音楽」で考える。
談志は言い切る。
「談志が”いい”と称(い)うものを”いい”と言う客だけが談志を聞きにくればいい」
クナッパーツブッシュなら同じことを考えていたような気もする。
しかし、カラヤンはそうは言わなかっただろう。結果として、大衆がカラヤンの音楽に平伏したとしても。
さて、私のような売れない音楽家が、談志のように「庶民は相手にしない」と宣言したところで、逆に誰からも相手にされないであろうが、その気骨だけは持っていたい。客が喜びそうだから本意ではない選曲をするとか、団員のご機嫌を窺って自分の主義を曲げるだとか、それはしたくない。
最近の多くのテレビ番組や流行の歌のように「こうしたら受ける」「こうしたら売れる」「こうしたら儲かる」という思想に染まったら、音楽は死ぬ、と考えている。そして、現に命のない音楽が氾濫している。
「福島章恭が”いい”と称(い)うものを”いい”と言う客(団員)だけが福島章恭を聞きに(歌いに)くればいい」
基軸はこれで良いのだ。
もちろん、私の”いい”というものが、独り善がりであってはならない。
それが絶対的な前提条件であろう。
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大晦日に立川談志「談志 最後の落語論」を読んでいたことは書いた。
「談志 最後の三部作」の第1弾とのことで、まだ、あとの2冊は読んでいない。
当初、3作とも梧桐書院から上梓されるはずが、どうして、三作目「談志 最後の狂気」が「立川談志 自伝 狂気ありて」と書名を変え、さらに亜紀書房に鞍替えとなったかは知らない。
とまれ、2013年最後の日の昼下がりに、書店でこの本を手に取った、ということは、何か心に引っ掛かるところがあったからであろう。
談志が芸や落語家の生を語るのを聞いて、某かのヒントや刺激を受けたかったからに違いない。
そこで、標記の「芸は、客のために演るものなのか」である。
5章からなる本書の最終章のタイトルだ。
「芸」を「芝居」「舞踊」と置き換えたってよいだろうし、もっと枠を広げて、「絵画」「書」といっても良いかも知れないが、もちろん私は自分の土俵である「音楽」で考える。
談志は言い切る。
「談志が”いい”と称(い)うものを”いい”と言う客だけが談志を聞きにくればいい」
クナッパーツブッシュなら同じことを考えていたような気もする。
しかし、カラヤンはそうは言わなかっただろう。結果として、大衆がカラヤンの音楽に平伏したとしても。
さて、私のような売れない音楽家が、談志のように「庶民は相手にしない」と宣言したところで、逆に誰からも相手にされないであろうが、その気骨だけは持っていたい。客が喜びそうだから本意ではない選曲をするとか、団員のご機嫌を窺って自分の主義を曲げるだとか、それはしたくない。
最近の多くのテレビ番組や流行の歌のように「こうしたら受ける」「こうしたら売れる」「こうしたら儲かる」という思想に染まったら、音楽は死ぬ、と考えている。そして、現に命のない音楽が氾濫している。
「福島章恭が”いい”と称(い)うものを”いい”と言う客(団員)だけが福島章恭を聞きに(歌いに)くればいい」
基軸はこれで良いのだ。
もちろん、私の”いい”というものが、独り善がりであってはならない。
それが絶対的な前提条件であろう。
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