今朝、女声合唱団KIBI(岡山県倉敷市)の稽古があるために一度は諦めていた昨夜のシモーネ・ヤング指揮東京交響楽団のブラームス4番の演奏会。
「おやっ、開演が18時なら終演はどんなに遅く見積もっても20時半。これなら終演後に大阪までは辿り着ける」と気付いたのがつい先日のこと。チケットは完売だったが、某サイトにてチケットを入手(定価)することができ、めでたく拝聴することとなった。
前半は話題のワイラースタインを迎えてのドヴォルザーク:チェロ協奏曲。我が座席がRAのかなりP席寄り、舞台上手奥のチューバの隣辺りだったため、独奏チェロの音がこちらへ届かずもどかしい。協奏曲ばかりは、オケの背後から聴くものではない、と改めて実感。
が、シモーネ・ヤングの指揮姿を正面から見ることのできたのは大きな収穫。恐らく斎藤式指揮法の価値観から言えば、無駄な動きも多々あるのだろうけど、しかしそのことで、サウンドに独特の野趣のようなものが生まれる。ノットの洗練された演奏に慣れていたところに、それがとても新鮮で魅力的だった。
ワイラースタインのチェロの真価は無伴奏によるアンコールでようやく判明。背後からでも、オケが鳴っていないとある程度聴こえたのだ。瞑想的で美しいバッハだった。次の機会には彼女のリサイタルを聴きたい。
後半は、期待のブラームス。
第1楽章の出だしこそ、オケが鳴っていない感もあったが、それも束の間、あとは全編が本物のブラームスであり、本物のドイツ音楽。少なくとも、わたしにとっては、クナッパーツブッシュやワルターと同列に語れる名演であった。
たとえば、ロマンの灯の点るルバートひとつとっても、ほの暗いピツィカートひとつとっても、少年時代よりレコードで聴いてきた巨匠たちの音楽と同じ香りがするのである。
第1楽章コーダでみせたアッチェレランドは猛烈で、オーケストラは綱渡りにも近い緊張感溢れるアンサンブルに追い込まれるのだが、そこにウケや効果を狙うあざとさは皆無。まさにギリギリの芸術的衝動に貫かれているゆえに、その魂の感動は尋常ではない。
第2楽章における寂寥の空気感。ああ何年、こうした音楽を待っていただろうか? ブラームスが抱いていたであろう孤独と諦念が滲む。しかし、そこに至福がないとは誰にいえよう。人生の無常に胸が熱くなった。
一転、第3楽章の輝かしさ。意味深いテンポの設定や変化の妙に唸る。特に後半の高揚は、これまでの我がベストであった1981年頃の朝比奈&新日本フィルを凌駕するほどの衝撃であった。もはやこの生涯であの日の朝比奈を越すものに出会えるとは思っていなかっただけに、その感動は並大抵ではない。
フィナーレの大波のうねるような歌は、あのクナッパーツブッシュ&ケルン放送響のライヴすら想起させ、ただの進軍に終わらない含蓄に溢れたラストも見事。何とも我がツボにははまりっぱなしの極上のパフォーマンスとなった。
シモーネ・ヤングの演奏は、最近のスッキリした個性の薄い演奏に馴染んでいる耳には、テンポ変化の多いずいぶんユニークなものに聴こえるかも知れない。しかし、ヤングの演奏こそが、ドイツ音楽の王道であることは、我が同志であるヒストリカル愛好家の皆さんには肯いて頂けるであろう。
来週の大阪フィル定期が俄然楽しみになってきた。上手く嵌まれば、朝比奈時代の再現となる熱きロマン溢れるブラームスがフェスティバルホールに響きわたることだろう。
大阪フィルハーモニー合唱団の諸君。
マエストラの激情の棒に応えるため、いま一度スコアを開き、テキストを読み給え。毎日の発声体操を欠かすことなく、万全の準備をして稽古に臨むべし!