五嶋みどりのショスタコーヴィチ。良い音の座席で聴けた人たち(または、FM放送を聴いた)からの絶賛の声が絶えない。なんとももどかしい・・。いずれ、別のホールで彼女の演奏に触れなければなるまい。
ところで、スウェーデン放送合唱団への評価を放置したままだったので、記憶の薄れないうちに都響とのモツレク初日を振り返ってみたい。
ダイクストラ指揮のオーケストラは、所謂、古楽器奏法によるもので、テンポも総じて速く、弦の音をすぐに減衰させるというやり方。例えば、「みいつの大王(Rex tremendae)」に於ける付点音符を複付点音符に扱うのも徹底している。
なんだか、それが古びて聴こえるのだなぁ。アーノンクール、ノリントンらの台頭により古楽器奏法が世に認知され始めた頃、聴く側にも、演奏する側にも、そこに新鮮な息吹を感じたものだが、いまの都響はもう慣れっこ。「指示されたからこう弾いてます」といった体で、バス声部の進行なども退屈極まった。
ここで、わたしは古楽器奏法が悪い、と言っているのではない。ダイクストラの指揮が古楽器的な奏法をさせることだけに集中し、そこにモーツァルトが居なかったことを問題にしているのだ。
テンポがいかに速かろうと、どんな語り口であらうと、そこに「こうでなければならぬ」という切実さがあれば感動に繋がっただろう。しかし、中身の空虚なただの形だけがあったのである。たとえば、キリエ・フーガのクライマックスへの道程で何も起こらず、その頂点も素通りするばかりではモーツァルトも浮かばれない。
また、コーラスのハーモニーやアンサンブルも、かつてのスウェーデン放送合唱団を知る耳には物足りないものがあった。
たとえば、Ⅴの和音からⅠの和音に解決する場面の処理が雑だったり、ハーモニーの推移に鈍感な歌い方だったり、と明らかに荒れているのだ。
もっとも、ソプラノの透明な歌声そのものには日本のコーラスには望めない魅惑の質感があることは認めよう。しかし、綺麗な声を並べただけで音楽となるほど演奏芸術は簡単ではない。しかるべき美意識に基づいた音楽づくりがなされていなかったことについて、指揮者のダイクストラに大きな責任があると思うのである。
因みに4人のソリスト陣も、わざわざスウェーデンから呼ぶことはなかったのではないか。あまりにも声がなく貧相なテノールに、無駄に声が大きくデリカシーのないバスの対比は滑稽ですらあった。
なにしろ、モツレクのあの静謐な感じとか、激しさとかに、プレーヤーの魂がこもっていない、まさに空虚な演奏だったと思います。というか、指揮者がそれを望んでいないか、あるいはそれを引き出す術をもっていないか、そんな、オケにとって極めて不親切なリードだった気がしてならなかった。
そんな指揮者を相手に、都響は矢部コンマスを先頭に頑張っていたとは思いますが。。
期待が大きかっただけに、残念な演奏会でした。
ありがとうございました。